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ジョウビタキの生命



満開の梅にジョウビタキ。
ヒヨドリやメジロも梅の樹にやってきますが
彼らは警戒心が強くて近寄ると
すぐに飛び立ってしまいます。

「Manifesto for a Post-Materialist Science」の起草者に
ラリー・ドッシー博士が入っていたことを知ってから
彼の著作『時間・空間・医療 プロセスとしての身体』を
ときどき飛ばし読みしています。
書店での”立ち読み”ではなく
生活のなかでの”立ち読み”。
ふっと開いたページにこうありました。

新しい展望のもとで見る生命は
もはや単独の身体の所有者ではない。
生命は宇宙全体の資産となり
あらゆる生命体と同様
万物と結びついている。

われわれは自らをひとつの例外として
つまり敵意にあふれた宇宙のなかの
ちっぽけな銀河にとり残された
生命としてしてではなく
まばゆく輝く宇宙的な特質の
現れとして見るようになる。
すなわち生命そのものの表出だ。


つまりこの小さなジョウビタキや梅の樹の生命は
ジョウビタキや梅のものではない。
万物はすべてつながっており、生命は
まばゆく輝く宇宙全体の資質であり
その表現だという。

本当はみんなひとつ。
生命は一羽・一匹・一人を超えた
宇宙の活動であるという。

それは本来日本人の生命観、自然観であったと思います。
神道はすべての生き物、自然現象をカミとして畏敬します。
カミは宇宙であり万物であり米の一粒一粒でありました。