馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

エピローグ 8月4日は同期の北アルプス滑落死命日。晩夏 夢はつまり想い出のあとさき

2020-08-06 06:44:00 | 日記

エピローグ

84日は同期の北アルプス滑落死命日。

 

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/402a72c32b40a8484c080356a7498fb8

 

 

同期の滑落死

その後書かなければ?

 

滑落の連絡を受け、当時 私が1年生部員であった時

4年生であった先輩(滑落死した同期の高校先輩でもある)と

他に一人で北アルプスに向かった。

上高地は梓川濁流と豪雨の雨音と風が緑の樹林を揺らし

登山する人々も山荘テントに籠っていた。

連絡を受けた山荘に着いた。

既に両親は待っていた。

父親は放心呆然と佇んでいた。

母親は、すがりつくように私達を見詰め

声も出せず体を鎮めた。

私達は豪雨の梓川沿いを登り

涸沢の幕営地に向かった。

翌日、夜行列車で現役部員が到着。

そうして、私達3人はザイルを繋ぎ200m滑落した遺骸を見つけた。

 

既に3千メートルの高山にもかかわらず

遺骸にハエが纏わりついていた。

合掌した。

ズタズタに打ち砕かれた遺骸を寝袋に包み込む作業は

目をつぶり辛い作業であった。

高校山岳部のOB3人は一緒に北尾根を登ったにも

関わらず、遺骸を私に任せて下山した。

葬儀場でも、私から目を背け

感謝の言葉もなかった。

滑落の状況は遺稿集に書かれているが

危険な遺骸収容については記載がない。

この軟弱な精神では、クライマーの矜持はない。

アルピニストの心

 

月日、歳月は流れた。

両親も亡くなり

青山墓地にあった墓は群馬に移籍したと聞いた。

 

24歳で早逝した同期。

22年後、富山在住の同期の夫人から

旅に出発する早朝、電話が入った。

同期が脳腫瘍で「余命旦夕迫る」の知らせだ。

1998年8月12日、51歳で旅立った。

1年部員として入部した8人がいたが

退部退学等もあり、同期はいない。

独りぼっちになった。

立山連峰を仰ぎ見る富山平野

稲穂みのる田んぼの畦道に立つ墓石に

31歳で亡くなった父親と同期の墓碑銘が刻まれていた。

 

墓石に酒豪であった同期に地酒立山を注いだ。

厳冬の立山連峰が雪煙舞い上がる。

夏の残雪と岩のハーモニーが織りなす

山々を墓石の下から仰ぎ見ているのだ。

小林恵「十六夜-IZAYOI-」


 

下記はその後のエピローグブログです。

再掲

晩夏 夢はつまり想い出のあとさき。

2019年9月7日

晩夏 夢はつまり想い出のあとさき。

井上陽水歌

少年時代 - 井上陽水(フル)

 

 

小学生の頃、夏休み 遊園地にお化け屋敷があって

近所の餓鬼大将について行、見たものだ。

幽霊と、化け物の違い何だと

餓鬼大将に尋ねたら

「馬鹿にするな」怒られた。

「人は死ぬと人魂になって現れる」と聞かされた。

ずっと信じてはいなかったが

中学2年の夏 蒸し暑い 夜8時過ぎ庭先にいた。

近くには、雑木林があり、カブト虫やクワガタムシが

家々の明かり誘われて網戸にへばり付くのだ。

虫かごに入れて翌日学校へ持って行き

教室内の壁にとまらせる。

虫がやって来るのを待っていた。

新月で空は闇。

 

道路を挟んだ右斜め向かいの屋根がオレンジ色の炎が見えた。

一瞬 火事かと慌てた。

近づいた。違う。

オレンジ色の風船のように屋根瓦の上をゆっくりなぞるように室内に入る。

じっと見入り身体が固まった。

これが人魂なのだ。

急いで親父を呼んで向かいの屋根に人魂がいると叫んだ。

その時消えていた。

翌日 学校で話すと誰も信じない。

 

高校生の夏 夜遅く帰宅、横隣の300坪の邸宅の屋根瓦に

又も人魂が室内に入ろうと隙間を探していた。

新月の空にスッと消え失せた。

肉眼で見たので正しく夢ではない。

 

一昨日、下記ブログを検索された方がいる。

 

体育会山岳部同期の黄泉の国への旅立ちの記録。

 

8月4日の北アルプス転落死した同期遺体収容記録。

その年の9月晩夏の夜半。

日誌にも書いてあるが、隙間風が雨戸を揺らす古家屋の6畳間。

寝入っていた。

突然 大風の吹き付けで雨戸を響かせ揺れた。

部屋の中が黄金色に輝いた。

起き上がると、目の前に、煌びやかな羽織姿人形のような小さな同期が

座布団の上で膝を折り、私ににこやかな表情で頭を下げた。

何度も下げた。

私は言った。

「おお!来たのか」

直ぐに輝きは失せ暗闇に変わった。

そのまま、寝入った。

 

 

 

37年前 夏昭和48年8月

 

39年前の北アルプス遭難

 

 

21年前 夏 お盆前、富山在住の山岳部同期の夫人が

朝7時電話が入った。

「主人が余命幾ばくも無い」知らせ。

その日、那須の山に登山で出発する。

朝 同行する友人は上野駅で待っている。

 

1日だけ宿泊して帰京。

直ぐに特急 白鷹に乗り

同期の生まれ故郷富山に向かった。

意識が戻らない同期を何時間も手を握り続けた。

4時間後、同期は目を開けた.

私を認め右手を上げたが力なく下りた。

瞼が塞がれぴくぴく震えた。

お盆の当日、51才で息を引き取った。

翌年、9月 富山風の盆 越中小原節 出かけた。

 

 

立山連邦を仰ぎ見る富山平野の田んぼの畦道のポツンと

墓がある。

小川の渡り板を越えて墓石に酒豪であった同期に

地酒立山を注いだ。

仰ぎ見る立山連邦を見詰めた。

 

山岳部1年生だった冬

富山駅早朝着いた。

雪煙舞う立山連邦を恐怖で見上げた。

生きて帰れるのか。

21年後 同期は墓の下だ。

 

夫人は涙を流し「、ね! わざわざ来てくれたのよ」

 

 

昭和42年12月 

立山から槍ヶ岳縦走を回想。

 

想い馳せた。

 

帰京後 自宅で就寝 夜半

やはり 同期は静かにやって来た。

一升瓶を持ちニコヤカニ現れた。

 

私も 「おう来たか」と応じた。

 

二人共 にこやかだが声はない。

 

これらの出来事は夢なのだが

彼らが私の脳に忍び込んだのか

はたまた、私の強い願望であったのか?

72才になった今。

三途の川を渡ると、迎えてくれるか。

 

変わらぬ富士 人は変わる

 

 

当時 年に一度 体育会所属の各運動部 部員が

全員集合して体育会総会が開催。

 

各部リーダーの挨拶後

陸上部の新任部長が紹介された。

ドイツ語助教授 柏原兵三先生。

小柄でかなり太っていた。

挨拶の中で「、私も走りたい。

元気な身体になり痩せたい」

大らかな人柄と感じた。

 

まもなく、芥川賞受賞を新聞で知る。

 

しかし2年後 38才で夭折。

 

井上陽水の歌

少年時代は名曲です。

先生が疎開先富山での暮らしと虐めが描かれています。

小説名は 「長い道」

https://bookmeter.com/books/142352

ラストシーンは、感動です。

井上陽水の柔らかい歌声と

東京へ戻る汽車の窓を開け、仲良しになった友達が

汽車を追いかけ さようならの手をふる。

 

柏原少年は、後に教員となり、

作家として 走るのを、凛々しく描きました。

 

長生きであれば、大江健三郎並みの作家なれたでしょう。

 

少年時代映画

 

作家柏原兵三

 

 

 

 

 

.

 

 

 

 

 


8月4日は同期の北アルプス滑落死命日。

2020-08-04 12:34:19 | 日記


昭和43年3月 今から52年前

北アルプス前穂高北尾根

雪稜を登攀した。

https://kgfreeguide.com/mountaineering/maehodakadake1.html

4年生一人3年生一人2年生一人

私を含めて1年生二人。

下山中、疲労でアイゼンを引っ掛けて滑落。

上の先輩は後に6大学の学部長になった。

重いテントを担いでいたため、手足が動かず

制御不可能、頭が下になり雪稜を落下する。

下にいた上級生は滑落を止めるかと思ったが

横に飛んで避けた。

ぐんぐん、谷底へ向かうのがスライド写真の如く

雪、岩の姿が変化するのを冷静に見た。

このまま、岩壁に突撃するのだろう。

突然、頭が落ちた。

落とし穴のようにハマった感じだ。

偶然にも風穴があり突っ込んだのだ。

リュックがクッションと支えになった。

上級生は上から見ているだけ。

戻ると先輩は言った。

「あの勢いでの滑落では止めることは出来ない」。

「二人共滑落する」。

何とも冷たい言葉を平然と口にした。

夏場シーズンであっても、一般登山客には難しい登頂。

岩稜でピッケル、アイゼン、ザイル技術が必要。

 

今から47年前、山岳部同期は夏の北尾根で滑落死。

8月4日は命日。

24歳で黄泉の谷を渡った。

私は同期の3倍の年を重ねた。

かなりのスピードで同期が迎える三途の川に近づく。

 

下記は記録です。

 


39年前 同期の北アルプス滑落死

2014年8月31日

6月22日(金)夕方 5時 学生時代友人が藤沢からやってきた。

2010年7月末に柳橋事務所で、その年6月25日に食道癌で亡くなった同期を

偲んで飲んで以来だった。

又 五反田ユーポートでの偲ぶ会に出席できなかったことを悔やんでいた。

昨年来、スカイツリーを見ながら青春無頼の昭和42年入学、46年卒業

その後41年の歳月の人生を語り合いたいと思っていた。

昭和43年2月 当時1年生 4年生を送る。

彼は体育会サッカー部に所属、夫人も大学同期だ。

定年後も日々忙しく動いている。

元気で羨ましい限りだ。

居酒屋で飲み歓談するより事務所でゆったりと

酒酌み交わすのが楽しく気楽だ。

胃袋に酒が注ぎ込まれるに連れ、青春は走馬灯のごとく廻る。

しかし彼から古井戸の底に溜まった水のように

淀んでいた記憶が、今宵の宴で湧き上がった。

彼の口から語られる思い出に当惑した。

 

昭和48年8月4日北アルプス前穂高北尾根で滑落死した

体育会山岳部同期がいた。

大手重機メーカーに勤めて2年目の夏だった。

 

その同期の思い出を語りだした。

今宵飲む彼はサッカー部に所属ではあったが体育会執行部に出向していた

転落死した山岳部同期も同じく体育会執行部に出向した。

体育会執行部にテニス部から小柄なチャーミングな女性が入ってきた。

私は大学2年生で山登りに熱中していた。

年間160日間も山での合宿だったので

授業も出ず、他クラブの学生は顔が分かる程度しかなかった。

昭和46年卒業 皆社会で出て無頼の青春にお別れした。

2年後の8月4日 同期が転落行方不明と言う突然の電話だった。

山岳部時代も彼は肩を脱臼する致命的な状態があり

現役部員としての活動は少なかった。

その同期は高校山岳部も在籍していたので 高校OB隊員として登山したのだ。

 

私の思いは意外だった「なんであいつが北アルプスに行ったんだ」

大学山岳部員だった頃は 冬山、ロッククライミングは避けていた。

昭和48年8月6日、私は前穂高北尾根を辿り、4峰と5峰のコル(鞍部)から

奥又白谷を30メートルザイル4本繋げて下りた。

残雪と岩に挟まった同期を見つけ、寝袋に入れて

大学山岳部現役部員がザイルでコル(鞍部)に引き上げた。

私はザイル無しで登り出した。

上から怒鳴り声がした。

遺骸を鞍部に置き、ザイルが再び私に向けて下ろされた。

自分では大丈夫だとの思いもあるが、二重遭難になりかねなかった。

私はザイルを巻き付けた。数人の部員がザイルをたぐり寄せている。

私はゆっくり残雪を踏みしめ、ガレ場でのスリップに注意した。

「絆」と言う字がある。

糸が半分と書く。

上では山岳部員が私の安全確保のためザイルを握り締めている。

私も反対のザイルを体に巻きつけている。

互いに紐を半分づつ持って見えないが、私の動きに合わせ

ザイルを引く、止める、緩める等を繰り返す。

そうやって命を繋ぐのだ。

  

 

遺骸を二つ折りにしてリュックで背負い、涸沢のテントで満天の星空の下、二人過ごした。

翌朝、上高地に軽自動車がやって来て遺骸を松本まで運んだ。

私は徒歩で島々まで下り、松本駅に着いた。

遺体は検死後、焼かれ父親が骨壷として持っていた。

一緒に夕方の急行アルプスで新宿駅に着いた。

その新宿駅には関係者が出迎えていた。

私は2日間睡眠を殆どしていなかった。

今 微かな記憶には、今宵飲んでいるサッカー部の同期と夫人がいた。

 

遭難死から39年が過ぎた。

24歳で旅立った。

若葉の頃

 

 

生きていれば63歳だ。

なぜ、あいつが北アルプスに登ったのかは私も疑問だった。

昭和44年頃 丹沢の何処か?

左享年24歳 右享年51歳

 

彼は語る。あいつは「○○に惚れていた」

しかし思いは叶わなかった。

体育会執行部で3人は共に活動したのだ。

その惚れた女性が今の妻だ。

「俺達の結婚式に列席して写真を一杯撮り、祝福してくれた。

新宿駅で会って披露宴の写真を渡された」。

「これから北アルプスに行く」と告げられて別れた。

次に会ったのが新宿駅で骨壷に入った彼だった。

 

そうだったのか、あいつは悲恋の思いを断ち切ろうと

北アルプスに出かけたのだ。

神経質で、それこそ石橋を叩いて渡るほど慎重だったあいつが

油断もあったのだろうがザイル確保せずに

命まで断ち切ってしまったのだ。

転落した場所は井上靖の小説「氷壁

の舞台となったナイロンザイル切断転落事故現場だった。

 

2年前、食道癌で亡くなった友人の墓を見守ってくれる

大学同期の女性も体育会執行部にいて、当時の事を話してくれた。

転落死した同期が体育会執行部にいた彼女が大好きだったが

振り向いてくれなかったと教えてくれたのだ。

 

今、手元にある当時の遭難報告書を読み返した。

日時、員数、登山ルートが記録され

滑落時の状況が記録されている。

しかし遺体収容の記録は殆ど書かれず

私は人夫扱いでその他協力者1名になっている。

涸沢のテント場で警察救助隊から

一人残って遺体と一晩過ごして欲しいとの要望。

誰もが押し黙ってしまった。

同期の友達がいるでしょう?

警察官は言った。

高校生時代同期は俯いていた。

私が名乗りでた。

その夜、救助隊の方から、非難された。

「あんた達は、周囲に多大な危険と迷惑をかけたのに

お礼も謝罪もせずに下山した」。

「社会常識が欠けているのじやないか」!

「誰も差し入れをくれと言ってる訳じゃない」。

私は非礼を詫びた。

翌朝、遺骸は車で運ばれたが

私は乗車拒否されて上高地まで歩いた。

島々から長野電鉄に乗り、松本駅に着いた。

皆 駅に集まっていた。

誰とも話したくなかった。

何もか考えたくなかった。

やりきれない虚脱感が新宿駅まで続いた。

高校山岳部の技量ではザイル確保無しで登る力はなかった。

大学山岳部に救助依頼する以外何ら手立てはなかった。

しかし対外的にはズサンと未熟を露呈させるため

極力抑えたかったのだろう。

その後、一周忌の連絡、墓の場所さえ教えてくれなかった。

 

私も又、心に歯石のようにこびりついたワダカマリがあった。

大学同期の夫婦にもずっと吐き出せない心の重荷を背負っていたのだった。

遭難報告書には記録されない行間の空白には埋めることの出来ない

悲しみが潜んでいたのだ。

 

彼の語りを聞き続けた、私も他の関係者も知らない事だ。

井上靖の小説「氷壁」も事実を元にしたが本当に似たことが起きたのだ。

 

仕事と叶わぬ恋に揺れる苦悩を山で癒そうとして

糸を束ねた絆も持たず、結ぶこともせずに

逝ってしまった。

だが、悲恋の痛手に耐えて新しい恋の始まりもあったのだ。

葬儀の席で泣き続ける若き女性がいた。

遺稿集に彼女は綴っている。

昭和45年3月

北アルプス蝶が岳

左 本人         韓国遠征

  

私と彼との交際はたった七ヶ月という短い期間でした。

悲しい結果に終わりましたが、私は彼とのめぐり逢うことができて心から

良かったと思っています。

彼は、生前私をとても大事にしてくれました。

とてもしあわせでした。

正直言って、ケンカをしたこともありませんでした。

すべて良い想い出ばかりです。

彼はいまも私の心に生きています。

私は夏の夕暮れ時の雲が大好きです。

じっとながめていると、雲が山のように見えることがあるからです。

雲をながめていると、いまでも彼が元気に山に登る姿が目に浮かびます。

そして、これからも毎年夏がおとずれるたびに、

彼のことを想い浮かべるでしょう。

何時までも良い想い出として。

 

これを書いた女性のその後は知らないが

心にしまい込んで結婚したでだろう。

 

同期のご夫妻が転落死した男を忘れることなく

祈り続けてきたのだ。

ありがとうございます。

 

私も彼の山行に隠された純な心を知り

穂高の峰を遺骸を背負った虚しさは消え

稜線を覆う霧は寝袋に包まれた彼を乾燥から守り

流れる雲は遺体収容の隊列の汗を吹き飛ばした。

昭和43年3月 北アルプス前穂高北尾根

下から2番目 私

同期は昭和48年8月4日 左ピークから滑落

 

今は旅立ってしまった二人。

もう一人はは51歳の時脳腫瘍で死去。

生まれ故郷の

立山連峰を仰ぎ見る富山平野の

田の畦道に立つ墓から雪煙巻き上がる

峰峰を見ているのだ。

昭和45年3月北アルプス蝶が岳

 私は真ん中にいて何を見ているのか?

奥の同期は地図を眺め思案!51歳で死去 

立山連邦を仰ぎ見る富山平野の墓に眠る。

手前はのんびり食べているが、2年後正面の穂高で滑落死。

両端の友へ 合掌!

参考記録

クリック↓

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/94a5f2815feb21f6ef483f283e3e0f8d

 


李登輝先生を悼む。悪徳悪質芝信用金庫ブログ更新が時間がない。(121)

2020-08-03 06:22:26 | 日記

 

7月30日、台湾元総統李登輝先生が逝去されました。

 

謹んでお悔やみ申し上げます。

私にとっては、最も崇拝敬愛します政治家です。

この日が来るのは近いと感じていました。

 

私と台湾との関係は30年以上。

起業して、助けてくれたのは、台湾人でした

バブルの頃、1年に13回も渡台して

ビジネスをした。

忘れ難き恩人が多数います。

因みに、台湾人は、朝鮮民族が大嫌いです。

相性が合わないようで、日本人と韓国人を瞬時に見分けができる。

 

1988年 李登輝先生が台湾総統就任の新聞記事を読み

驚いたのです。

当時は、台湾にはそれほど関心興味がなかった。

 

名前の登輝が大きく新聞に載ったからです。

中国語は文法で動詞が前です。

当時4歳の息子の名前は輝登です。

中国の古典文学 

菜根譚の一説にあった文字を引用しました

 

偶然の一致です。

解釈としては、自ら這い上がり名誉を得ると解せます。

李登輝先生は、本当に困苦勉励をして

台湾の民主化を成し遂げました。

日清戦争で敗北した清は、文化果てる島として捨てたのです。

屈辱の島を李登輝先生は大陸の反撃を抗いながら

独力で民主化を成し遂げました。

李登輝先生は、一兵卒として日本にやってきました。

最初に軍事訓練を受けたのが千葉県習志野の練兵場。

戦後、跡地は医学系大学付属の中高が設立されました。

息子は中高に進学。

私も息子もその頃から、李登輝先生の思想に傾倒。

幾冊もの李登輝先生関係の本を購読。

     

来日講演がありましたが、ビザを下りず中止となった。

息子が大学で中国学科に進み

卒業後、台湾に留学後現地日系メーカーに勤めた。

  

 

留学生には、中央アジア諸国が多くいたことです。

隣国中国を避けて留学。

 

この時、公安筋の紹介と保証でスムーズな長期滞在ができた。

大使館に相当する協会の緑豊かな庭園で

お茶を飲みながら会話した担当者の熱き想いに感動した。

余談ですが、国交断絶した台湾ですが、

出入国管理では、最も友好的関係は台湾です。

 

戦後の日本復興を見て強烈な民主化を台湾に導入を期しました。

大陸中国共産党国家より、人々の暮らしは豊かになりました。

 

葬儀には、蜃気楼(元総理)が参列するそうですが

蜃気楼は度々台湾にはお隠密渡航していました。

ずっと前ですが、石原慎太郎が台湾東部を旅した時

台風により鉄道がズタズタになったが

石原閣下の為、軍隊まで派遣協力して

徹夜での懸命な復旧作業により旅をさせました。

 

河野洋平元自民党総裁は、乗った飛行機が台湾台北飛行場に緊急着陸。

機内から一歩も出ず

当時の中国国家主席江沢民に忠誠を示し

諸外国から、江の傭兵と馬鹿にされた。

シンゾウ閣下の祖父は親密な台湾関係であったので

シンゾウ閣下は親台湾です。

誤解しないで頂きたいが2階は媚中派です。

台湾人のケニー君は、中国との戦争になれば

自ら参戦すると宣言。

 

困難な道筋だが大陸で内乱が生じて

共産党政権が崩壊する以外民主化はあり得ない。

唯、今後を俯瞰すれば、中国興亡の歴史を振り返れば

今後100年は続かない共産党王朝だろう。

 


再掲

悪徳悪質芝信用金庫ブログ更新が時間がない。(121)

 2019年9月6日

5時半 トランス導線にハンダ付けを始める。

昨夜 通電検査すると、不良もあり

金曜日には、横浜作業場に土曜午前着で送られねばならない。

ハンダ付け後、妻がテープ巻き付け 又通電検査。

朝食も食べずに作業。

9時半 数量30個完成。

直ちに自宅を出て桜上水事務所に向かう。

12時 桜上水事務所着。

直ちにコイル銅線巻を始める。

本日 コイル銅線巻288個を

船橋自宅へ土曜午前着で出荷。

 

ブログ更新も出来ない。

特にお待ちかねの悪徳悪質芝信用金庫ブログを書けない。

まあ 一休み!

 

トランス製作 タカセ産業

 

 


人生の片隅で生きる老人の店。悪徳悪質芝信用金庫石原哲夫前理事長虚偽報告 閲覧数急上昇。(120)

2020-08-01 10:02:25 | 日記

 

昨日、地元不動産会社と9人家族居住条件書類を受け取る

 

不動産会社は地元飲食街でカプセルホテルを経営。

担当者が嘆いた。

飲み過ぎて最終電車に間に合わず自宅にタクシーで帰宅するより

カプセルホテルに宿泊するサラリーマンが必ずいたが

コロナ禍で、カプセルホテル宿泊は殆どなくなった。

成る程 こんなところにもコロナ不況。

 

7月31日(金)

桜上水事務所に12時着。

早速 トランス通電検査を始める。

昨日、通電検査で感電したので慎重に検査。

 

 

デザイナー兼トランス製作女性に、2種類の名刺を作成してもらった。

昨年2月に亡くなったお父さんは広告デザイン会社社長であった。

会社創業45年記念の焼酎を頂いた。

彼女は大学生で工芸文化学科4年生の頃から知り合い。

そのまま、卒業後、弊社でデザイン版下、サンプル制作に携わった。

20年以上過ぎた。

美人で穏やかな人柄。

誰にも好感を持たれる。

40歳半ばだが独身。

結婚願望が薄いと当人は言っているのだが?

彼女の家庭環境は良き両親と兄がいて

居心地が良い。

結婚になかなか踏み切れない女性は、現在の生活に満足して

あえて結婚という冒険に踏み出せないと本で読んだことがある。

結婚させるには、両親が故意に悪い家庭環境を演出して

「こんな両親の下で暮らせないと思わせる」ことだ。

う~ん!

そうかもしれない?

私の娘も父親である私に喧嘩を売るが

家出しない。

ダンスと仕事の毎日。

心中は訊ねたいが怖くてできない。

 

デザイナー女性に

お礼も兼ねて、鳥料理の店で飲食。

人生を片隅で飲む店

 

 

冷酒神鷹、ハイボール、生ビールを飲む。

外呑みは控えていた。

彼女は

鳥料理の美味しいのに驚いた。

高くも安くもない店。

彼女は閑静な住宅街にポツンと灯る店が気に入った。

 

人生73年 片隅で生きてきたので

小料理屋のカウンターの端っこで飲むのは

正に私にとっての最適条件なのだ。

 

 

20時、店を出る。

私は千葉方向へ

彼女は八王子方向へ。

 

22時帰宅

入浴後、頂いた45度焼酎をロックで飲む。

ベッドで雲間から私の寝酒を垣間見る月が笑ってる。


再掲

悪徳悪質芝信用金庫石原哲夫前理事長虚偽報告 閲覧数急上昇。(120)

2019年9月21日

悪徳悪質芝信用金庫石原哲夫前理事長の虚偽報告

 

 

ブログ公開した途端、閲覧順位が

629位に上昇した。

関心の高さがあるのですね。