11月11日(木)節約の為、ツインルームにエキストラベッドを入れた。
7時起床、海辺を散策 既にプールには白河馬のごとき外国人老夫婦が
ビーチマットに横たわっている。
シュノーケルを着けたオバサンが珊瑚礁の波間に頭を潜り込ませていた。
このような朝を迎えられるのは久しくなかった。
日本の世相は変転、流転が毎日繰り返され
毎朝の新聞は読むのはストレスが溜るだけだ。
しかし 部屋に戻ると
朝 エキストラベッドで寝た娘が
「お父さんのイビキが凄くて眠れなかった」
非常に不機嫌である。
一階のカフェテリアでサンドイッチ、ロールパン、ジュースを買った。
オーシャンビューのベランダで朝食。
妻は私のスーツにアイロン架けをしている。
11時半 妻、娘もドレスアップしてロビーに降りる。
私も一張らいのVANベージュスーツに白ワイシャツ、ケントのネクタイ
茶の靴という七五三スタイルになった。
17日(木)正午ホテルロビーで待っていると
小柄だが脂肪がたっぷり付いた体で上下の服が
歩く度にハチ切れそうな典型的サモア人女性の案内で式場へ向かう。
小さな白いチャペル玄関に黒の上下装いの女性が二人立っている。
ここでも緑の芝生の道、白、黒の端整な配合
ゆっくりと扉を開かれると白大理石の礼拝堂の奥正面はガラス張りで
エメラルドの海原広がる。
私達はホワイトのソファに座る。
長身 浅黒い宣教師が入ってきた。
壁際にサモア女性とカメラマンが立っている。
サモア女性が聖歌をアカペラで声量豊かなソプラノで歌う。
扉が開かれ、息子がウエディングドレスの彼女に寄り添い
少し緊張して祭壇に上がる。
式が始まったのだ。
列席者は 私 妻 娘 嫁さんのお母さんの5名
説教の最中 ガラス越しにスコールの水しぶきが叩きつけ滝のような流れだ。
花嫁のお母さんは大粒の涙が止まらない。
女手一つで子供3人を育てた 兄弟がいて
真ん中の娘として母親の手助けをずっとしてきたのだった。
私も 男なのに恥ずかしくも涙が出た。
息子2歳、娘0歳の時失業。
育てるために あらゆる屈辱に耐えた。
耐え切れず、寒風の深夜、酒を胃袋一杯に詰め込んで
彷徨った。酒は排尿で出ていくが 屈辱は吐き出せなかった。
赤ん坊の寝顔を見て毎晩 「辛抱だ」!と唱え続けた。
指輪を花嫁にはめてキスして式は終わった。
隣の白い建物で披露宴が始まる。
スコールは去って
白大理石の建物、ガラスの向うにホワイトブルーの海原と
白い波頭が絵画のように見えた。
陽光が小さなゲストルームの大理石床に
白い雲と紺青の空を映し出している。
7人のフレンチ宴が始まった。
和やかにゆっくり、にこやかに会話が弾む。
常夏島の陽射しがスーパーホワイトルームを輝かせ
まるで、サイレントカラームービーのようだ。
宴の最後に新郎新婦からプレゼントがあった。
私達の結婚記念日のために
妻にアイスブーケ、私に冬用の帽子がプレゼントされた。
私達夫婦が結婚した頃は、いい夫婦の日とは呼ばれていなかった
11月22日に結婚式を挙げたのを知っていたのだ。
当時は次の日が勤労感謝の休日なので地方からの列席者には
都合が良いだろうと考えただけだった。
私達夫婦も結婚式は貧しかった。
上司の不正を糾した結果の報復人事異動だった。
レストラン事業部で失意の皿洗いをしていた時だった。
大手町にある会社の小さなレストランで披露宴をした。
レストラン事業部のコックさんや店長さんが無償で調理してくれ
会社の会議ホールを使用 会費制とした。
音楽は大学のマンドリンクラブが演奏してくれた。
当時としては画期的な披露宴だったが、貧しく
お金が無かったからだった。
イケメン息子にとって挫折挫折の青春であった。
名門私学の中高に入りながらも登校拒否を繰り返し
職員室の清掃を単位として認定を受けて卒業。
大学進学を拒否、コンビニ」で深夜バイト
台湾の筆記具工場で働かせた。
予備校講師である私の兄の勧めで
冬にサテライト講義を受講させて大学に無理やり入学させた。
卒業後、台湾留学、現地日系メーカー勤務後
私の仕事を引き継いだが不況に悪戦苦闘している。
女性関係も妹が「今度は何人」と聞くほど目まぐるしかった。
最終的に選んだのは、見てくれ、学歴、資産、家柄ではなかった。
夫婦とは、偉そうには言えないが、互いの我慢と気遣いで築きあげることだ。
15時 披露宴終了。
身内だけのパーティー いいもんだ。
ホテルに戻り珊瑚礁の海原を眺めていると寝入った。