2021年令和3年も後数日後で過去の年月だ。
年末も慌ただしい。
来年初頭に提出書面の資料を探すが
生来の乱雑、整理べたで見つからない。
ファイルの中に擦れ不鮮明な切り抜きを見つけた。
新聞か雑誌か定かではない。
日付もわからない。
写真撮影も鮮明には掲載できないので
書き移した。
以下文面
「過去は保存されているか」。
過去はどこへ行ったのか?
この問いのうちにすでに錯覚が潜んでいる。
「どこ」とは場所への問であり、われわれが
知っているのは空間的場所だからである。
過去という場所がどのようなか、じつは誰も知らないのだ。
この錯覚の根は深い。
われわれは、時間を空間的なイメージでとらえる。
その上でそれに「長い」「距離」「遠い」等の
空間に付ける言葉と同じ言葉を付ける。
こうして、戦後の55年を、生命誕生以来の40億年を、
はるかに歩いてきた道のりのようなイメージで
とらえてしまうのだ。
だが、時間的長さは空間的長さではない。
10秒間周囲を見回してほしい。
その10秒は長いであろうか?
1分はその6倍であろうか?
1時間はその360倍であろうか?
「長い」という言葉を使用しても
それがどのような長さなのか、皆目わからないのだ。
タイムトラベルも,過去が保存されているという
前提に基づいている。
保存されていなければ「行く」ことができないからである。
だが、過去は全く保存されていないかもしれないじゃないか。
それにもかかわらず、われわれが過去に「行く」夢を断ち切れないのは。、
多分、想起という作用を知っているからである。
想起するのは現在である。
しかし、その対象は過去なのだ。
これは不思議なことである。
記憶物質が認められるとしても、現在存在する物質の
「中に」過去が潜んでいるわけではなく、その物質と過去とを
つなぐ「糸」も発見できないのだから。
われわれは、ここでまたもや錯覚に陥る。
過去を想起できるからには、知覚もできるに違いないと。
想起と知覚はとはまるで異なったものなのに、
想起とは淡い知覚のようなものだと錯覚してしまうのである。
こうして、幾重もの錯覚にもたれかかって、
われわれはシミジミ問うのだ。
死んだ人々はどこへ行ってしまったのだろう?
あの幸福な日々は「どこへ」行ってしまったのだろう?
だが、「どこへ」行ったものではないのである。
中島義道(哲学者)
そんなこと、想像していたら、
イタリア人作家が最近刊行した、
「帰れない山」に記された父と息子の会話に魅せられた。
ヨーロッパアルプス山麓での
山岳と人間模様の織り成す人生紀行を反芻した。
登山をこよなく愛する父と、はにかみ屋の一人息子との確執、反抗
慈しむ母親との愛、山に住む少年との友情を
美しくも残酷なアルプスで幼年 子供、青年、中年に至る
孤独な男の人生模様が、私の気持ちを揺さぶる。
父と息子の登山での会話。
父「おまえは、過去がもう一度やって来ると思うか」?
「あそこに川が流れているのが見えるだろう」
「あの川の流れが時間だと仮定しよう」
「今いる場所が現在だとしたら、未来はどっちだと思う」?
息子は考えた。
「水が流れていくほうが未来だよ」
「あっちのほう」
そうじゃないと父は断言した。
歳月は、父と息子の心を遠ざけた。
少年になった。
父が言ったことを考えた。
流れのない殆ど淵、小さな滝、
尾びれだけを動かして同じ位置にとどまる鱒。
先へ先へと流れていく枯葉や枝。
それから、鱒がすっと動いて獲物に向かっていくところを思い浮かべた。
すると、一つの事実が浮かび上がった。
川に棲む魚の視点で見ると
全てのものが山から流れてくるということだ。
昆虫も小枝も、木の葉も、なにもかも。
だから、魚はいつも川上を見ているのだ。
流されてくるものを待ちながら。
川の今いる地点が現在としたら
と僕は考えた。
過去は、既に僕のところを流れ去った水。
そこにはもう、僕のためのものは何ひとつないのだ。
それに対して未来は、上から流れてくる水だ。
思いがけない喜びや危険をもたらす。
ということは、過去は谷で未来は山だ。
逝ってしまった父があの時期待していた答えはこれだったのだ。
運命は、それがどんなものだろうと、僕たち頭上の山に潜んでいる。
過去の忌まわしい事件だが
私の脳内保管箱には、屈辱として刻まれている。
悪徳悪質芝信用金庫横領事件である。
脳はトラウマとして残存しているが
具体的詳細は彼方になった。
なので具体的資料として
悪徳悪質芝信用金庫横領事件をブログに160回以上掲載している。
本年 年末から改めて改正してその悪質を掲載している。
来年も引き続き掲載
再掲
芝信用金庫詐欺横領事件の発端は融資書類偽造から(60)女子プロレス自殺。
2020-05-27 06:52:36 | 日記
女子プロレスの方が22歳で自死。
投げかける言葉がない。
鍛え上げた肉体は頑健であったが
世の中のバッシングには
心は疑いもせずに操られる彼女は無防備だったのだろう。
誰もが苦境に陥り自殺願望が生じただろう。
負けまいとする心と激しい葛藤を繰り返し
遂に疲れてしまう。
私も波乱の人生だったので、何度も自殺への欲求への誘に負けそうになった。
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30年以上前であれば、苦しみを伝える、吐き出す手立ても無かった。
今でも悪徳悪質芝信用金庫からは嫌がらせ行為を受けている。
若い頃であれば、対抗できなかったが
今では平然と犯罪の実態を公開している。
匿名背後からの切りつけには恐れなくなった。
決して怯まない
ミレニアム
『私はこれまで、数えきれないほどの敵に対処してきた。そこから学んだのは、負ける闘いに応じてはならんということだ。そのかわり、自分を侮辱した人間をけっして許してはならん。辛抱強く機会を待ち、自分が優位に立ったときに反撃するんだ-もう反撃する必要がなくなったとしても』
迷える女の子 現在を断ち切れ
長い時を経て
そうして、立ち直る。
渡辺 真知子・迷い道