2月21、22、23日連続して病院通い。
21日は整形外科で首と腰の牽引、22日は妻癌検診とお袋の見舞い、23日は私の前立腺癌定期検診。全て加齢が要因。
妻の癌発症から16ヶ月経過、再発兆候は見られない。
だが、放射線治療の後遺症で下痢状態が続いている。
妻の診察が昼前に終わり、五階の病室にいるお袋を尋ねる。
ちょうど、食事中?だった・食事という表現が適切なのだろうか・先月胃ろうの手術した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%83%E7%98%BB
手術しなければ喉に痰がつまり肺炎を起こす。
口、喉通さず直接胃に栄養流す。
お袋はますます痩せて体が又小さくなった。虚ろな目が私を見て悲しい目に変わる。
私はそっとお袋の手を握る。
骨と皮膚だけで脂分が無い、体温が感じられない。
握り続ける、少しだが目に輝き落ち着いた眼差しになる。
43年前、厳冬の北アルプス立山、堅氷の急斜面をアイゼンで下った。
滑落と死への恐怖で半狂乱だった。
安全地帯に下りた時、上級生が凍傷寸前だった私の手を握った。
半狂乱の精神状態が、左手を上級生の右手で包み込と温かみを感じだした。
同時に精神状態も落ち着き始めた。
11年前 脳腫瘍で亡くなった山岳部同期も余命僅かの時
私は昏睡する同期の手を握り続けた。
すると一瞬目を開けた。直ぐに目は閉じられたが
目蓋は震えていた。
一昨年6月、食道癌で亡くなった大学同期も
命の力が尽きかける時私は同期の手を握った。
電流が私の手に伝わった。
お袋は78歳 終末期医療の現実がある。
本来であればとっくに死んでいた。
医療センターに強力な身内がいるので延命できているのだ。
そして妻の癌治療も素早い治療のお陰で放射線のみで済ませたのだ。
お袋の「寂しいよ!辛いよ」「トイレ!頭痛い!」
既に自宅に帰ることはできない。
いずれ病院からは出なければならない。
このような状態で生きているのは息子には忍びない。
27年前 旅に出た親父が翌朝、残雪残る越後湯沢の旅館で客死。
あっけない死だった。
これからの老後の楽しみも衰えもなく
家族に看取られず、しかし周囲に面倒かけず三途の川を渡った。
早く親父の元へ行かせてあげるのよいのだろうか?
「もう帰るのか」のお袋の嘆き声に黙って病室を出た。
これ以上の延命措置はしないでくださいと同意した。
回復も元気にもならない母親を生き長らえさせることが
良いのか良くないのか自問しても結論は出せない。
厳冬の冬山で手を握ってくれた上級生は私が1年で初めての氷壁登攀
その方は3年生だった。
現在 老人介護の専門家として活躍
某有名大学の学部長をしている。
2月19日(日)朝ウオーキングに出かける。
マンション エントランスに雛壇飾りがディスプレイされている。
まもなく、女の子の祭りなのだ。
推測するに、ここで育った娘が残していったものだろうか?
昨夜、リビングに生花があった。
息子夫婦から妻へのプレゼント。
2月14日 バレンタインが妻の誕生日なのだ。
娘はディズニーのチケットをプレゼント。
私は生きて仕事して家にいないことが妻への贈り物であり、気遣い。
私の誕生日は1月22日だが、妻がショートケーキをくれた。
男ははそれでいいのだ。
宇宙は女の営みで成り立っている。
生命誕生してから雄は何処ともなく何処かへ流離って消滅。
もしかして宇宙も雄と雌の星か銀河があって互いに
相互依存でもしているのか?
まあ!そんな突拍子もない空想に耽ったりして!
幕張海岸は朝陽が海面を射し海鳥が波間に揺らいでいる。
帰途、ららぽーとの中庭、レストラン街に人だかり。
10時20分なのでまだレストランオープン時間ではない。
近づくと スイーツ、パスタ食べ放題の看板
11時オープンなのだが行列待ち。
不況だが、たまには少し贅沢な食事したいの人々が寒空で待っている。
店側も必死の客寄せ作戦。
11時、自宅に戻ると娘が起き出した。
私は昨日作業を終えたフィギア付きボールペンの出荷作業。
明日、午前柳橋事務所に着けてまとめて午後チャーター便で
納品する。
娘は昼飯を食べると早々に外出。
間に合わない仕事を誰もいない霞ヶ関オフィスで片付けて
その後、新宿までアイリッシュダンスの練習へ。
そうやって懸命に働き、ダンスに燃焼して友人と付き合い
恋愛、失恋、人間関係の解決出来ないことに悩み
日々生き方を習得するのだ。
でもね~!
親としては普通の家庭持って欲しいと願っている。