馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

前立腺癌放射線治療7年目の検査診断。

2024-10-30 09:11:52 | 日記
10月29日(火)
朝8時自宅を出て、京成電鉄に乗り
押上で半蔵門線に乗車。
11時駒沢大学駅着。
熱中症後遺症の左脚を引き摺りながら
急ぎ足で国立東京医療センターに向かう。
半年ぶりの前立腺癌放射線治療の経過診察



半年来ないと受付操作が新しくなって戸惑う。
排尿カップと採血をする。
地下階段を下りて放射線科へ
萬医師と面談。
13年以上の付き合い
妻の子宮頸癌治療後、私の前立腺癌治療
妻が元気ですと報告。
世間話をして終わり。
10年の経過観察があり
後2年半。
当初は一か月単位、三か月単位、半年単位最後は1年後
10年間観察。
萬医師は日本で最初の放射線治療をされた方。
第一人者。
他の病院の医師が言った。
日本一の放射線治療医師で
全国から放射線治療を求めて入院する。
世間話を終えて、3階の泌尿器科受診
ここでもPSA数値は問題無し。



世間話を5分程する。
以前、有名俳優の氏名が呼ばれ診察室へ入るのを見た。
大阪から、来るのだ。
12時半、玄関を出ると雨だ。
駒沢の邸宅街を通り東急東横線都立大学駅に向かう。
途中、初恋の幼馴染の学園を通る。


その近くの公園の壁に貼り紙



僕は、知っている。
当事者であるから
40年以上の歳月だ。
当日の雪道を歩いたのは鮮明に記憶している。

続く

おさななじみ



政治家 の「死灰復燃」燃える野田 焼け石に水の石破

2024-10-29 07:08:27 | 日記

10月27日のブログで記した。

 本日 衆院選投票日
自滅党は、コップの中の嵐
澱んだコップ内はかき混ぜて浄化させましょう。
与野党が、均衡の緊張状況が望ましいと思っています。
混沌とした世界情勢
極右 極左 どちらにも偏向させない政治体制構築を熱望
あえて対岸国を刺激しない。
責任感欠如の政党を燃え上がらせてはいけない。
「死灰復燃」しかいふくねん という言葉。
燃え尽きて灰になったものは、本来なら燃え出すことはない。
しかし、底のほうにはまだ火種が残っている。
再び燃え出す可能性がある。
捲土重来けんど-ちょうらいと似ている。
一心も労組書記長として、思想的問題と破壊者として会社を追われた。
底辺で這いずり回った。
書記長への妬み、嫉妬で周囲は「ザア~マアミロ」と蔑んだ。
耐え忍んだ。
侮辱した連中は、既にこの世にいない。
何処かで燃え尽きかけている。
自滅党、公迷党も一時、隠忍自重のしてやり直す。
勇ましいことを、高らかに言って鼓舞するが
実行実現できなければ、被害者は庶民

戴愛玲 Ailing Tai - 死灰復燃 (官方完整版MV)

総理を得る為に は、部下を用うること土芥の如し。

2024-10-28 08:05:28 | 日記


あらゆる政治運動というものは、近寄って見れば
人間的なものから見れば、常に陰惨で暗澹とした色彩を有する。
どのように高尚な理想であっても、現実の地上に具体化された場合には,つねにその理念の姿はゆがめられているものである。
ツワイタ 【マリーアントワネット】



世間には、惑わされるネット情報
衆院選も評論家諸氏が憶測記事を書かれてます。
内密のスポンサーがいるのかな?
自滅党は、
噴火口を密閉したのみで安泰だと思ってるのは馬鹿の骨頂だ。
何時か、一時に憤然として爆裂するのは当然過ぎるほど当然である。



現総理は、面倒見が欠如していると言われる。
周囲を信奉させ、心の琴線を揺さぶる器量が無い。



用うること土芥の如し
前漢の時代にあって
将軍は部下の兵士が毒血で死にかけていた。
将軍は、兵士の毒血を自らの口で吸い出して生き返らせた。
その行為を知った兵士の母は嘆き悲しんだ。
「息子は、将軍の為に、命を棄てて戦いの死地に赴こうとする」
土や芥のように部下を使えというのだ。
戦争は残忍なものであるから、勝利しようとするなら
ふだんから部下を敬愛せよ。
プーチン、習近平、金正恩は?
その精神があるだろうか>
日本では、実践した元総理がいた。
高等小学校卒の田中角栄。



[NHKスペシャル] 敵兵との距離80メートル…塹壕で繰り広げられる戦争のリアル | 戦場のジーニャ 〜ウクライナ 兵士が見た“地獄”〜 | NHK

《虞兮嘆》🔥古曲風 項羽四面楚歌 無退路 ❄️虞姬訣別血落凝寒霜 🎤聞人聽書

父の戦地武漢での写真

2024-10-27 09:20:16 | 日記

 本日 衆院選投票日
自滅党は、コップの中の嵐
澱んだコップ内はかき混ぜて浄化させましょう。
与野党が、均衡の緊張状況が望ましいと思っています。
混沌とした世界情勢
政治にとって決定的な手段は暴力である。
ヴェーバー【職業としての政治】

百姓たちは頑張った。
「わしらは兵隊には行きましねえ~」と彼らは言った。
「おんなじ死ぬのもんなら、うちで死ぬほうがいいです。
どのみち
死ななきゃならねなら
トルストイ【民話集イワンの馬鹿】

専制国家の独裁者は自国若者を死地に向かわせる

続きです。
息子から先日、おじいちゃんの戦地での写真があるはずだ
「「スキャンして保存したいから送って」
実家の弟に連絡。
かなり探し回った、
とりあえず、ラインで一部部分を送られた。
推定すると80年前の写真
日中戦争 戦地 武漢での写真


1938年(昭和13年)
父が20前後と推測。
大正3年1月1日生まれ
新潟越後湯沢で客死享年72歳

生きていれば110歳
武漢作戦に招集された。

父は7歳の時母親が死んだ。
死に際、3歳で亡くなった男の子の
名前を呼び タケオが来るタケオが来る
叫んだ。
父は、布団の前で正座して見詰めた。

当時としては長身で現代風に言えばイケメン
鼻高く、息子の一心、孫息子も鼻高。
一心が、中学生の時、押し入れに有った箱から見つけ出した。
父に聞いた。
「武漢での戦争」
何も言いたがらない。
一緒に写っている子供は?
曖昧な記憶では、「怪我してたので看病」
恐らく、推測では孤児。
語ったのは


マラリヤで死にかけた事

「行軍では、歩きながら寝た」
二つだけ、
毎晩、父が夜半に寝床でうなされ、叫ぶのだ。
戦争の後遺症なのかと思った。
全共闘世代は、反戦運動のうねりがあった。
現代の日本の若者は、どのように感じているのだろうか>
追記 
戦地に向かう時、那須での見送りには、肉親はいなかった。
帰還後も「おかえりなさい」の肉親はいなかった。



【武漢作戦】日中戦争の大きな転換点となった武漢の戦い 《日本の火力》




リビウで戦死した兵士の合同葬儀 娘か・・・少女が棺を前に涙(2022年5月7日)

専制国家の独裁者は自国若者を死地に向かわせる。

2024-10-26 08:56:19 | 日記
ウクライナ情報機関「北朝鮮軍がロシア西部に到着」と発表|TBS NEWS DIG

戦争を十分に嫌悪しない人間のみが、戦争になるのを信じているのです。
トーマス・マン
【魔の山】
専制国家は独裁者の権力維持のみで自国の若者を死地に向かわせる


北朝鮮兵士は
北朝鮮兵士(奴隷は彼らの鎖のなかで全てを失ってしまう。
そこから、逃れたという欲望までも。
ルソー【社会契約論】
10月27日(日)衆院選投票日
偏向政治思想のみでは、普通の庶民は食べて暮らしてはいけない。





万葉集に採取された東国の若者が
九州大宰府に死出の旅路を母が歌った。
ネットよりの引用です。
防人
防人とは、古代、九州北部防備のために置かれた兵士で、大宰府に防人司が置かれた。大化前代以来の舎人制を引き継いだ制度で、663年(天智天皇)の白村江の敗戦以降に整備された。東国出身のものが大半を占めている。防人は難波に集結して、海路で大宰府に送られたが、負担が重く、逃亡・忌避する者も多かった。

防人の歌
 『万葉集』の時代、社会は律令制を基礎に動いていました。
そして律令制において民衆に課せられた数々の税のなかでもとりわけ厳しいものだったのが防人(さきもり)の役でした。防人に指名された農民は、道中の費用を自己負担して太宰府まで出向き、そこで3年にわたって軍役につかなければなりません。また、任期を無事遂げたとしても、労役で弱った体が故郷への帰路に耐え切れず、家族と再会できずに斃れることもありました。つまり、防人はまさに命がけの労役だったのです。当時の人々にとって、自分の家族が防人に出向く姿を見ることは、あたかも赤紙で戦地に送られる家族を見送るような気持ちであったことでしょう。『万葉集』には、防人に出向く夫を見送る妻の惜別の情を歌った短歌がいくつか収められています。そのうちの一首を紹介が次の歌です。

防人に行くは誰が背と問ふ人を 見るがともしさ物思ひもせず
訳:「防人に行くのはどなた?」と尋ねている人を見ると、うらやましい。物思いもしないで。
防人の歌は出征する防人が妻・子ども・恋人・父母などを歌ったものです。
   立ち鴨の 立ちの騒きに 相見てし 妹が心は 忘れせぬかも (4354)
    あわただしく出征させられて、急いで別れた彼女の心が忘れられない。

   ひな曇り 碓日の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも (4407)
    まだ碓氷峠を越えたばかりなのに、彼女が恋しい。
   韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして (4401)
    母親もいない子なのに、取り付いて泣く子を置いてきてしまった。

   家にして 恋ひつつあらずは 汝が佩ける 大刀になりても 斎ひてしかも (4347)
    父親が出征する息子の刀になって守ってやりたいと願っている。
    見送る父が歌ったもの。

   海原に 霞たなびき 鶴が音の 悲しき宵は 国辺し思ほゆ (4399)
    大伴家持も防人の気持ちになって歌いました。
    鶴の鳴き声が悲しく聞こえる夜は、とりわけ故郷が思い出されることだ。

④ モンゴルの襲来を撃退できた理由
  「なぜ蒙古襲来を日本軍が撃退できたのか」については、さまざまな理由を挙げることができるでしょう。たとえば、文永の役における苦戦の教訓を生かして、防塁構築などモンゴル再来に備えて入念な準備をしていたとか、大風雨という偶発的な自然現象に助けられたとか。しかし、もっとも大きな要因として、次の二つのことは挙げられるでしょう。
 一つには、日本軍の戦意の高かったこと。
 日本側の徹底抗戦の意志は固く、1276(建治元)年と1281(弘安4)年には、日本側から敵国へ攻め入る計画まで立てられました。この時幕府は、九州地方の武士たちに「異国征伐」への従軍可能兵員の調査を命じました。その報告書が何通か現存しています(「北山室(きたやまむろ。熊本県)地頭尼真阿請文(あましんあうけぶみ)」建治2年閏3月3日付け。石清水八幡宮蔵)。しかし、「異国征伐」は結局は実行に移されず、北九州から中国地方にかけて防戦体制の徹底がはかられたのでした。
 幕府の指揮のもと、おもに九州地方の武士たちが命がけで奮戦したのが、蒙古襲来を撃退できた大きな要因の一つでした。
 二つには、元に征服された高麗や旧南宋の人びとの抵抗があったこと。
 元に投降した南宋の人々から成る江南軍は、戦意があまり高くありませんでした。高麗の人々は30年余りモンゴル軍に抵抗したのちに服属しましたが、服属後も三別抄(さんべっしょう)の乱(高麗王朝のもとで、3隊に編成されていた特別編成の選抜部隊(別抄)を三別抄といいます。元の侵入に頑強に抵抗しましたが、1273年に平定されました)などさまざまな抵抗を続けました。また大越(ベトナム)の人びとの間にも元への抵抗の動きがおこりました。
 こうした中、元の日本遠征はその後も計画されたものの、結局はフビライの死によって断念させられることになったのです。
防人に出かける夫を、お隣さんの奥さんでしょうか、誰か近所の人が「どちらのお宅の方かしら」と興味本位で見ていたのでしょう。
しかし一方で、この歌の詠み手である防人の妻にしてみれば、一家の大黒柱との別離は痛切な感情を伴うことは想像に難くはありません。そしてこの妻は、他人事のように無邪気に問いかける人に対して「ともし」(うらやましい)という気持ちを吐露します。句末にポツンと添えられた「物思ひもせず」が、妻が不条理をかこつような余情を醸し出しています。
いつの時代も若者は 邪悪な権力を持った無知の踏み台にされる。

“戦場から無言で帰宅”ウクライナ兵の妻「傷だらけでもあなたの愛で生きる」

「私のこと忘れて」特攻隊員が恋人に綴った最後の手紙 消えゆく戦争の記憶どう残すか【サンデーステーション】(2024年8月14日)