「北の山・じろう」日記

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アウデイーイウカ陥落前後のウクライナ軍の状況とゼレンスキーの立場②<ウクライナ紛争2024.3.10

2024-03-11 06:29:09 | 中立の視点で見るウクライナ紛争

アウデイーイウカ陥落前後のウクライナ軍の状況を伝えているのは、個人ブログの「航空万能論GF」だけです。以前の日記を、これを元に書きました。
ウクライナの広報は❓
「兵士の生命と安全を守るために準備された防衛ラインに撤退した」
と言うものでした。
その時の状況を(多分ロシア側の情報を元に)Stephen Bryen氏が投稿文を書いています。アジア・タイムズの記事は、その投稿を転載したものです。
Stephen Bryen氏が投稿文から「アウデイーイウカ陥落前後のウクライナ軍の状況とゼレンスキーの立場」の部分を抜粋引用します。

Asia Times Online
(アジア・タイムズ・オンライン)
Regime change is coming – to Kiev
(政権交代がやってくる – キエフに)
by Stephen Bryen February 20, 2024
https://asiatimes.com/2024/02/regime-change-is-coming-to-kiev/

※「Google Chrome」で読むとポップ・アップ・ウインドウが右上に出て「日本語」をクリックすると全文翻訳してくれます。
結構、詳しくアウデイーイウカ陥落前後のウクライナ軍の状況とシルスキー最高司令官の指揮、そしてゼレンスキー氏の命令や本人の混乱ぶりが書かれています。
実際に自分で読んでください。

<以下引用・・・・・>
(アウデイーイウカ陥落の原因)
最終的には武器と食糧の補給が枯渇し、部隊のローテーションが困難になった。
戦闘の最後の週までに、市内と市外の道路はロシアの火器管制下に置かれた。

(ゼレンスキー氏の考え)
アヴディウカ市の評判を賭け、どんな犠牲を払ってでもそれを維持したいと考えた。
⇒シルスキーに徹底防衛を指示した。
ミュンヘン安全保障会議に向かうゼレンスキーは、シルスキーにアウデイーイウカ防衛を厳命した。

(ザルジニーの考え)
ウクライナ軍を既存の連絡線(防衛線)から引き戻し、キエフやその他の重要都市を守ることができる防御可能な要塞に移動させることを望んでいた。
⇒アウデイーウカを放棄し、後方の拠点に撤退させる

(司令官がシルスキー氏に交代、シルスキーの命令)
シルスキーはアヴディウカを崩壊から救うためにすぐに3、4個の旅団を招集した。しかし、彼が計画していた救出活動はすぐに深刻な問題に陥った。

シルスキーの旅団の一部は、アヴディウカから約15キロ離れたセリドヴと呼ばれる小さな町に集められ、組織されていた。ロシア軍はセリダブでのウクライナ軍の作戦を発見し、イスカンダルミサイルとクラスター兵器で攻撃した。
さまざまなメディアネットワーク(テレグラムやXなど)でブログを書いているロシア情報筋によると、ロシアの攻撃でウクライナ側に多大な死傷者が出て旅団全体がほぼ全滅したという。
ウクライナは約1,000人から1,500人の兵士を失った。

シルスキーは第3旅団を都市のための戦いに投入した。
その部隊が北からアヴディウカに到着したとき、彼らは状況が悲惨であることに気づきました。
その時までに市の北部には約4,500人のウクライナ兵がおり、そのほとんどがコークス工場に立てこもっていた。さらに3,500人は、南部の町の地区と古い放棄された飛行場に接する市の中心部にいた。

第3旅団は命令に従わず、シルスキーとゼレンスキーの明確な命令に反抗して町から飛び出した。
第3旅団の一部はロシア軍に降伏した。これがシルスキーに撤退の合図(決断させ)をし、アヴディウカを放棄するきっかけとなった。

シルスキーには公然と降伏する以外に選択肢はほとんどなかった。代わりに、彼はまさにザルジニーが以前に推奨した「新しい」戦略を発表した。

<・・・・・引用終わり>

主にロシア側の発表では(一部ウクライナ兵への取材もあると思います)、以上のような経緯でアウデイーイウカが陥落したようです。
一旦は、北側のコークス工場でロシア軍との交戦をしていた第3旅団が命令を放棄して、指揮官の判断で撤退していますから、残りの防衛部隊(4500人程度)も部隊の指揮官の判断で勝手に撤退(または逃げ出した)したと思われます。

援軍に行った第3旅団の一部の部隊すら降伏していますから撤退する他に方法がないほど、ロシア軍に圧倒されたのだろうと思います。
ここにいた部隊は市街西の郊外に撤退路があります。
多くは、撤退したと思います。

問題は、市街南側にいた部隊約3500人です。
ここにいた部隊は、ほぼ包囲されていて撤退路がありません。降伏命令が出た部隊(移動できない負傷兵など)と撤退命令が出た部隊に分かれると思います。
市外に逃れる農道のような脇道には、ウクライナ兵の遺体が散乱していたと遅れて1人で撤退したウクライナ兵のコメントがありました。
この部隊は、どれだけが撤退できどれだけが戦死または捕虜になったのかは、不明です。

つまり、アウデイーイウカ陥落時のウクライナ軍はロシア軍の攻撃に耐えきれず三々五々退却したというのが実情のようです。
コークス工場の第3旅団の一部すら捕虜になっていますから、捕虜の数はかなり多いと思います。

※関連日記
『アウデイーイウカ撤退に関するニューヨークタイムスの報道とウクライナ軍の批判<ウクライナ紛争2024.2.23』
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/0cb68e60984c64e6ffacf1298ebcc7f3
『参謀本部がウクライナ軍のアウディーイウカ市街からの撤退を決定<ウクライナ紛争2024.2.17』
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/dcb91440bd5533ab00db12ddc6c518d3

このような状況をウクライナ軍の広報では・・・
「兵士の生命と安全を守るために準備された防衛ラインに撤退した」(撤退作戦は成功した)
と言うことになっています。
西側のメデイアが報道したのは、これだけです。

※しかしこのウクライナ軍の大惨事と言うべき退却は、ウクライナ軍内部では広く知られていると思います。ゼレンスキーの絶対死守命令がこの惨事を引き起こしました。
バフムトに次いで2回目です。
クリンキーでの特攻攻撃命令もあります。

<再び引用・・・・・>
(ゼレンスキーへの影響)
この撤退はゼレンスキーの威信に重大な打撃となり、ミュンヘンからシルスキーに怒りの電話がかかってきたようだ。
彼は陸軍の最も熱烈な支持者をほぼ失い、元指揮官ザルジニーに屈辱を与え、敗者としての評判のあるシルスキーを後任に据えた。
彼はヨーロッパ人に対して面目を失っており、確かなことは言えないが、おそらく米国に対しても面目を失っている。
肝心なのは、ゼレンスキー政権がぐらつきつつあるということだ。
ゼレンスキー大統領の戒厳令に基づく政権のため、選挙や公開の政治プロセスは存在しない。しかし軍内の怒りは増大しており、遅かれ早かれ軍は(新しい)指導者、おそらくザルジニを選ぶだろう。

<引用全部終わり・・・・・・・・・>
以上が記事の伝える「アウデイーイウカ陥落前後のウクライナ軍の状況とゼレンスキーの立場」です。

西側のメデイアの報道では、「ウクライナ軍はアウデイーイウカから撤退し撤退作戦は成功した」としか分かりません。
またアウデイーイウカ陥落がゼレンスキーに与える負の影響の大きさは、まるで分かりません。


※関連記事目次
「中立の視点で見るウクライナ紛争」の目次③
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/e2c67e9b59ec09731a1b86a632f91b27



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