妖怪大魔王・コバ法王日記

オートバイを分解して磨き、正確に組み立て独自理論でラインを探り、ストップウォッチと頭脳で感性を磨き、日々の想い語ります

コロッセオの観客のように

2022-05-20 01:04:01 | 人として生きたい

    
古代のローマ帝政期、剣闘士たちを戦わせる様子を市民達に見せる場として作られた円形の闘技場がコロッセオ(イタリア語)。庶民に娯楽を与えて安定した治政を行なう為、有名なローマ市内のコロッセオ以外に、支配していた地中海地方を始めとする各地に建設させた事が知られている。

 


時が過ぎ、インターネットや情報端末の発達と普及によって、現代は世界中の多くの人々が一つのコロッセオに集っている様に感じる。 ライブ配信で、世界各地の何億もの人々が闘技場で繰り広げられる様子に一喜一憂していると言えるだろう。2020年のパンデミック宣言以降の混乱しかり、2022年のロシア軍のウクライナ侵攻でも、世界中の人々が右往左往しつつ固唾を飲んで見守っている。そして、各国政府も、ローマ帝と同様に、コロッセオで繰り広げられている様子や情報を、国民の意識と行動を導く為に利用していると言える。

 


ここで、今、観客が行なうべき事を考えてみた。
日常生活からかけ離れた状況で人の生命に大きく関わる事が起きている限り、眼を背ける事は人として難しい。更に、闘技場に降りていくのはもっと難しいのは確かだ。が、同時に、闘技場に立つ人々からは観客席の人々がどう見えているかという視点が足りないのも確かだろう。

少なくとも僕個人は、闘技場の結果がどうなっても、明日からの生活が大きく変わらないと言えるし、健康や命の危険性が増す事もない。闘技場を出て、外の居酒屋で談笑しながらビールを飲む事も出来るし、二度と闘技場へ入らない様にする事も不可能ではないだろう。


だが、僕は闘技場の様子は正確に把握しておきたい。単に、傷付き命を落とす人々の事だけでなく、それを見ている観客達の振舞いや、世界の権力者達がコロッセオをどう利用しているかを正確に把握しておきたいからだ。
それが、コロッセオが人々に与える一番大きな “教訓” になると信じているからだ。



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真の難民・人命支援を求めます

2022-04-01 15:06:01 | 人として生きたい

  
2022年 2月24日、ウクライナへのロシア軍の侵攻によって、民間の多くの方々の地域が攻撃を受け、住居が破壊されて命の危機に見舞われました。
その様子は、一部の情報統制が厳しい国々を除いて、全世界の人々がほぼ同時に目の当たりしたでしょう。そして、10年前、アラブ系の人々が住むシリアの国民に対するロシア軍の無差別攻撃とは異なり、西欧諸国と米国、そして同盟の国々は一斉に制裁決議とウクライナ軍への支援を決定しました。
 
ただ、3月末時点で、ウクライナ国内で住居を追われた人々が 1,000万人を超え、国外へ脱出した人々が 400万人を超えており、難民となった方々の健康や生活への支援が急務となっています。そして、10年以上続いたシリアからの 660万人と言われる難民の方々の時とは異なり、西欧やEU圏内の東欧諸国は直ぐに難民受け入れを表明し、それに呼応するかの様に、日本政府も “難民受け入れ” 姿勢を表明しました。
しかし、「暴挙による人道上の危機」と言い、各国と同調して速やかに表明したまでは良いのですが、国レベルで対応せず、4月1日、民間の公益財団法人への委託を公表するのに一か月以上も要しました。
   
今回、この重い責任を受ける事になった「公益財団法人」とは、私が主宰する「NPO法人」と同様に政府・行政から金銭等の支援を受ける事は無い民間の団体です。ただ、公益性の高い事業を行なう意志のある人が、その事業を円滑に進めていくにあたり、行政が定めた一定の認定資格を経て使用する事が認められた「法人名称」に過ぎません。 つまり、政府が正面から “難民” の方々への支援を行なう訳ではなく、国家公務員が対応しない “丸投げ” という形です。
   
2020年1月、WHOによるパンデミック宣言後、3月になってようやく厳しい入国制限などの対処を発表した時よりは早く、批判逃れは上手になったと言えますが、人命の危機への対応の遅さに変わりはないようです。
日本人では初めて、UNHCR・国連難民弁務官 として活躍された 緒方貞子 さんを 輩出した国として、今回の様な対処は決して誇らしく感じられるものではありません。 

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ウクライナ への ロシア軍の侵攻以来

2022-03-21 23:19:43 | 人として生きたい

  
2月24日、米国が昨年末から可能性を指摘し続けてきた、ロシア軍がウクライナへ侵攻を始めてから、報道を観る度に胸が痛くなり、仕事に手が付き難くなっている。
1991年、現大統領自身が偉大だと考えていたソビエト連邦が崩壊して、直後に大統領に就任して以来、過去の栄光を取り戻す好機だと捉えているのだろう。

日本に居て確認出来る報道の多くはウクライナが被害者で、ロシアが加害者的な捉え方や制裁行動が溢れている。それは誤った捉え方ではないだろう。どんな狙いや大願があるにしても、他国へ軍事侵攻する事はするべきではなく、まして一般の民間人の命は奪う様な無差別攻撃は決して許される事ではない。だから、ロシアは直ちに軍を撤収して、攻撃によって亡くなった一般国民への謝罪を行ない、民間施設に及ぼした被害の弁償を行なうべきだと考えている。

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ただ、こんな時に限ってメディアの表舞台に現れる “専門家” の見解には納得できない場合もある。ウクライナ大統領が元コメディアンだったという経歴からか、「彼の政策の失敗で起きた侵攻だ!」として指導者の力量に疑問を投げかけた者も一人や二人ではなかった。仮にも、一国の国民が選挙で選んだ人を、実際に直接会談して意見交換を行なわず、安易に高額の “出演料” を得ているだけの者にしか見えない。
    
僕は、ウクライナ・ゼレンスキー大統領の事はロシア軍侵攻後に知ったに過ぎないが、居住場所や通信環境が徐々に制限を受けながらも、様々なメディアを通じて、精力的に国民や他国の指導者達に直接話しかける姿を見る限り、他国と較べられない程に立派に指導者としての責任をこなしている事は充分に理解できる。
   
しかし、疑問に感じている点も少なくない。 それは、ロシアが行なった行為だから批難されてはいないか? シリアでアラブ系の人々が同様に虐殺されていた時は欧米メディアは今とは少し異なるスタンスではなかったか?  欧米など制裁を発動している諸国は、過去に於いて、他国へ軍事侵攻して領土を奪った過去は無かったか?  攻撃を受けたという「自作自演」の被害をでっち挙げて開戦へと踏み切った国は数多くあるのを忘れていないか?
こんな機会こそ、悲惨な紛争状態を制御する国際連合が機能しない様で価値があるのか? などだ。

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先にも書いた通り、現在の無差別で人々の命を奪い、多くの人々の生活や健康を奪い続けている軍事侵攻は直ぐに止めて、武器を放棄して自国へ撤収するべきだと思う。ただ、今回の侵攻がどういう形で収まるにせよ、人類が犯してきた数多くの武力侵攻や制裁などの経験の全てを反省して、同様の侵攻や虐殺の無い世界へと進む事を切に願う。



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ライダーの隣にある “冤罪” (えんざい)

2022-03-20 04:30:07 | 人として生きたい


今日、TVで、免田 栄 さんが巻き込まれた事件の報道を改めて観ました。

1948年に発生した殺人事件の犯人だとして警察に逮捕され、1審の時から アリバイが証明されていたにも関わらず、強引な取り調べによる自白書によって、死刑判決を受けた人が 免田 さんです。

ご自身も粘り強く裁判記録を書き写すなどを行ない、捜査や検察の矛盾点を一つひとつ挙げて、死刑確定になった後にも何度も再審請求を嵩ねて、1983年、当初からのアリバイの証明が認められて無罪判決を受けています。

無実の人を、誤った認識や偏見に基づいて罰する冤罪(えんざい)は、権力を与えられた公務員達が恣意的に権力を運用する態度を諦めるか、或いは、権力を付与された公務員と同等の権力を持つ組織が検証を行わない限り、冤罪の大小はあるにせよ、永遠に無くなる事のない社会の “暗部” であり “汚点” です。


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実は、ライダーの隣にも、そんな冤罪は待ち受けているのです。

特に一番危険な場面は、四輪車との交通事故にあります。一般道でも高速道路でも、四輪車と事故を起こせば、殆どの場合はオートバイ側に非がある様に扱われます。一般的な四輪車ドライバーであれば「オートバイが悪い」と言っても不思議ではないでしょうが、取り調べを行なう警察官もオートバイ側に過失があるという先入観を払拭できないものです。

これは、公道上で四輪車を起こせば多くの人が体験する事で、実際、僕自身も数度体験していますが、相手側のドライバーや検証にあたる警察官だけでなく、救急車で運ばれた先の医療従事者にも同様の偏見や思い込みはあります。 だから、意識不明の期間が長かったり、不幸にして亡くなったりすれば、例えオートバイ側に殆ど過失が無かったとしても、過失の殆どがオートバイ側にあるかの様に現場調書(公式文書)が作成されたり、四輪車は全く無関係な自損事故として調べが完了してしまうのです。

「そんな時の為に ドライブレコーダーだ!」と、多くのライダーが装着しているのもそんな社会の “暗部” を避ける為ですが、決して万全な策だとは言えないでしょう。知恵が効く四輪車ドライバーであれば、何らかの事故を起こしてしまった後は、わざとレコーダーのメモリーを消去しますし、重体になって搬送されて、現場に残された破損したオートバイもどんな扱いを受けるか誰も保証してくれないからです。
一番大切な事は、オートバイに乗る事によって様々な偏見が生まれない社会へと変えていく事です。その為に、他車と事故を起こさない事は当然として、四輪車を含めて社会全般に対してオートバイを迷惑な存在に貶めない事です。それには、ライダー一人ひとりの自覚や他者への愛が求められます。

2020年、免田さんは 95歳で亡くなりました。
無罪が確定するまでの 34年余り、冤罪によって刑に服したのですが、解放された後も街を歩けば指をさされ、批難の電話が絶えない日々が続いた事がご家族の口から語られています。 自白強要を行なって死刑求刑を行なったのは 警察や検察など公務員ですが。彼らの行動を支持して、無罪確定後にも批難を行なったのは 社会の “暗部” である私達一般市民です。
僕は、常に公務員の公僕としての自覚や知識欠損には疑問を持っていますが、それ以上に、そんな彼らを支持し続ける社会全般への働きかけが常に必要だと考えています。

いつまでも、楽しく、安全なオートバイライフを過ごす為に、社会環境への働きかけを一人でも多く行なうライダーが誕生する事を強く願っています。



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「 対等な支援 」と NPO・GRA

2022-03-15 21:58:16 | 人として生きたい

社会とは人々が対等に支援を行なって成り立つものです。
GRAの目標は、この”対等な支援”の考えで、オートバイの社会環境を整えて、オートバイの楽しさを深める人々を増やす事です。


Society is formed by people providing "equal support."
GRA's goal is to create a social environment for motorcycles and increase the number of people who enjoy motorcycles with this idea of "equal support."




 ■ 「してあげる」の言葉


教育系TV番組を観ていた時、「してあげる」という言葉への違和感を改めて強く感じさせられたのです。それは、参加している高校生達に対して、「白杖(はくじょう)を持った視覚障害の人が、横断歩道で立ち止まっていたらどうしますか?」と質問した後、答えた高校生と司会者の双方が「してあげる」の言葉を当たり前の様に使っていたからです。

人は誰でも、出来る事と出来ない事があり、一人だけでは出来ない事も多くあるのが当たり前です。だから、他の人が出来ない事があったり困っている事があれば、それを支援するのが当然の事で、全員が平等で対等であるからこそ社会が成り立っているのです。だから、他の人を支援する場合は、支援を「する」や「しない」、「できない」の言葉はあっても、対等な人間関係を壊す力のある「してあげる」の言葉は使うべきではないのです。


 


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■  “対等” が社会の基本


仮に、支援を行なった時に「してあげた」という言葉を、例え口に出さなかったとしても、頭の中で使ってしまうと、相手に対して優越的な立場に立った意識と行動に繋がります。そして、行なった支援を常に良い行動として肯定してしまう事にも繋がります。
本来、支援の評価は支援を行なう側が行なうものではありませんし、自己満足の為でも道徳的教えの実践の場に留まっていても良くありません。支援に対する評価は、支援を受けた人が評価すべきものです。その評価を確認する事もなく、ただ「してあげた」という意識に留まれば、相手側の人は迷惑であったり、優越的意識に対して劣位的意識を持たされる危険性があるのです。人は全て対等ですから、自身の意識だけを先行させてはいけないのです。
    
ただ、大変に残念な事ですが、“対等” な意識の欠如は社会に浸透していて、それが様々な場面で “優位的対応” と “劣位的従属” を生み出し、個人の人格や尊厳、生命を脅かしているのです。その一例が、正式判決前の容疑者への対応であったり、生活保護申請の窓口での対応、それに信号機の無い横断歩道などで、個人の権利を守っている法律が無視されている事などです。
    
一方、時には支援を受ける側にも問題がある場合があります。それは、支援を受けるのは当然の権利だと誤解してしまう事です。行政や一定の収益が得られる団体が行なう支援であれば、支援を受ける権利を主張したとしても大きな問題にはなりません。しかし、収益を目的としない個人や団体が行なう支援に対しでも、支援を受けるのは当然の権利と考えるのは完全に誤りですが、そういう意識を持つ人は決して少なくないのも現実です。これも、人はお互いに対等だという理解が欠けているのが原因です。
   
そんな対等意識が欠如した場面は社会の中で多くあります。一例を挙げれば、生活に困窮した人に対して支援を行なう仕事をしている役所があります。生活保護の申請窓口では、役所側の担当者は「してあげる」的な意識で対応を行ない、支援を受ける側は「してもらう」的な意識で申請を行なう為、対等な位置関係は崩れ、公務員は本来の責任を忘れた対応や態度に陥り易いのです。例え、どんな人であっても対等であるという意識が共有すれば、この社会はもっと良くなるでしょう。




■  NPO法人と GRA


ここで、私が主宰する NPO法人GRAも、そんな社会の悪癖の影響に直面してきた事を紹介します。 GRAは、オートバイに乗るライダーを対象に、長年の活動で蓄積した知識や楽しさを広く社会へ伝える活動を、30年以上前から行なっています。そして、現在は、社会的な貢献活動が認められて NPO法人として認定され、収益を目的としない活動であるだけでなく、運営を担っている全員が無報酬で活動をしています。ただし、オートバイを所有している人が対象ですから、当然、生活が困窮している人を対象にした活動ではありませんが、オートバイを操作する技術を高める事だけでなく、オートバイやライダーを取り巻く社会環境を良くする事を最終的な目標にしていて、ライダーと社会への「支援」を行なっている組織です。 
    
ところが、そんな収益を目的としない NPO活動であるにも関わらず、開催したイベントに参加する人の中には、GRAの目標や活動内容の案内は読まず、“お客様” 意識を持ったまま参加する人が少なくないのです。 更に、活動の主旨や目的を重ねて説明しても、自身の楽しみの追及だけに興味を持ち、企画運営側の意図を見て見ないふりをする人も少なくないのです。

収益目的で活動を行なっている団体やイベントであれば、参加者が “お客様” 意識に陥ってしまっても当然かも知れません。 しかし、社会には収益目的では運営されていない団体が数多くあるのが常識です。お金を払って参加すれば客様であり、講習を受ける場合であれば、教えてもらうのが当然の権利だという意識は常に正しいとは限りません。 人が “対等” に支え合うのが社会の原則を理解するならば、参加費というお金が介在しただけで、一方的に相手の考えを無視して優位的に振る舞う事は完全に誤りだと言えます。 
    
この様に、参加した人に「人は対等」という意識が欠けたままでは、「支援」活動を壊す原因に繋がるだけでなく、講習・支援の成果で仮にオートバイの運転が上達したとしても、社会の中で誇れるライダーとは言えず、ライダーを含めた社会環境を良くする人にはならないと私達は信じているので、長年に亘り試行錯誤を繰り返して、現在の様に『心』『技』『体』『バイク』の4つの要素全てをバランス良く整える大切さを強くアピールする活動をしています。 
      
そして、GRAやNPO法人に限らず、人は誰もが対等に社会を「支援」する役割を担っている事を自覚し、一人ひとりが自ら NPO的活動を行なえば、社会は更に良くなると信じています。 





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