妖怪大魔王・コバ法王日記

オートバイを分解して磨き、正確に組み立て独自理論でラインを探り、ストップウォッチと頭脳で感性を磨き、日々の想い語ります

「 対等な支援 」と NPO・GRA

2022-03-15 21:58:16 | 人として生きたい

社会とは人々が対等に支援を行なって成り立つものです。
GRAの目標は、この”対等な支援”の考えで、オートバイの社会環境を整えて、オートバイの楽しさを深める人々を増やす事です。


Society is formed by people providing "equal support."
GRA's goal is to create a social environment for motorcycles and increase the number of people who enjoy motorcycles with this idea of "equal support."




 ■ 「してあげる」の言葉


教育系TV番組を観ていた時、「してあげる」という言葉への違和感を改めて強く感じさせられたのです。それは、参加している高校生達に対して、「白杖(はくじょう)を持った視覚障害の人が、横断歩道で立ち止まっていたらどうしますか?」と質問した後、答えた高校生と司会者の双方が「してあげる」の言葉を当たり前の様に使っていたからです。

人は誰でも、出来る事と出来ない事があり、一人だけでは出来ない事も多くあるのが当たり前です。だから、他の人が出来ない事があったり困っている事があれば、それを支援するのが当然の事で、全員が平等で対等であるからこそ社会が成り立っているのです。だから、他の人を支援する場合は、支援を「する」や「しない」、「できない」の言葉はあっても、対等な人間関係を壊す力のある「してあげる」の言葉は使うべきではないのです。


 


f:id:youkaidaimaou:20220315213841j:plain






■  “対等” が社会の基本


仮に、支援を行なった時に「してあげた」という言葉を、例え口に出さなかったとしても、頭の中で使ってしまうと、相手に対して優越的な立場に立った意識と行動に繋がります。そして、行なった支援を常に良い行動として肯定してしまう事にも繋がります。
本来、支援の評価は支援を行なう側が行なうものではありませんし、自己満足の為でも道徳的教えの実践の場に留まっていても良くありません。支援に対する評価は、支援を受けた人が評価すべきものです。その評価を確認する事もなく、ただ「してあげた」という意識に留まれば、相手側の人は迷惑であったり、優越的意識に対して劣位的意識を持たされる危険性があるのです。人は全て対等ですから、自身の意識だけを先行させてはいけないのです。
    
ただ、大変に残念な事ですが、“対等” な意識の欠如は社会に浸透していて、それが様々な場面で “優位的対応” と “劣位的従属” を生み出し、個人の人格や尊厳、生命を脅かしているのです。その一例が、正式判決前の容疑者への対応であったり、生活保護申請の窓口での対応、それに信号機の無い横断歩道などで、個人の権利を守っている法律が無視されている事などです。
    
一方、時には支援を受ける側にも問題がある場合があります。それは、支援を受けるのは当然の権利だと誤解してしまう事です。行政や一定の収益が得られる団体が行なう支援であれば、支援を受ける権利を主張したとしても大きな問題にはなりません。しかし、収益を目的としない個人や団体が行なう支援に対しでも、支援を受けるのは当然の権利と考えるのは完全に誤りですが、そういう意識を持つ人は決して少なくないのも現実です。これも、人はお互いに対等だという理解が欠けているのが原因です。
   
そんな対等意識が欠如した場面は社会の中で多くあります。一例を挙げれば、生活に困窮した人に対して支援を行なう仕事をしている役所があります。生活保護の申請窓口では、役所側の担当者は「してあげる」的な意識で対応を行ない、支援を受ける側は「してもらう」的な意識で申請を行なう為、対等な位置関係は崩れ、公務員は本来の責任を忘れた対応や態度に陥り易いのです。例え、どんな人であっても対等であるという意識が共有すれば、この社会はもっと良くなるでしょう。




■  NPO法人と GRA


ここで、私が主宰する NPO法人GRAも、そんな社会の悪癖の影響に直面してきた事を紹介します。 GRAは、オートバイに乗るライダーを対象に、長年の活動で蓄積した知識や楽しさを広く社会へ伝える活動を、30年以上前から行なっています。そして、現在は、社会的な貢献活動が認められて NPO法人として認定され、収益を目的としない活動であるだけでなく、運営を担っている全員が無報酬で活動をしています。ただし、オートバイを所有している人が対象ですから、当然、生活が困窮している人を対象にした活動ではありませんが、オートバイを操作する技術を高める事だけでなく、オートバイやライダーを取り巻く社会環境を良くする事を最終的な目標にしていて、ライダーと社会への「支援」を行なっている組織です。 
    
ところが、そんな収益を目的としない NPO活動であるにも関わらず、開催したイベントに参加する人の中には、GRAの目標や活動内容の案内は読まず、“お客様” 意識を持ったまま参加する人が少なくないのです。 更に、活動の主旨や目的を重ねて説明しても、自身の楽しみの追及だけに興味を持ち、企画運営側の意図を見て見ないふりをする人も少なくないのです。

収益目的で活動を行なっている団体やイベントであれば、参加者が “お客様” 意識に陥ってしまっても当然かも知れません。 しかし、社会には収益目的では運営されていない団体が数多くあるのが常識です。お金を払って参加すれば客様であり、講習を受ける場合であれば、教えてもらうのが当然の権利だという意識は常に正しいとは限りません。 人が “対等” に支え合うのが社会の原則を理解するならば、参加費というお金が介在しただけで、一方的に相手の考えを無視して優位的に振る舞う事は完全に誤りだと言えます。 
    
この様に、参加した人に「人は対等」という意識が欠けたままでは、「支援」活動を壊す原因に繋がるだけでなく、講習・支援の成果で仮にオートバイの運転が上達したとしても、社会の中で誇れるライダーとは言えず、ライダーを含めた社会環境を良くする人にはならないと私達は信じているので、長年に亘り試行錯誤を繰り返して、現在の様に『心』『技』『体』『バイク』の4つの要素全てをバランス良く整える大切さを強くアピールする活動をしています。 
      
そして、GRAやNPO法人に限らず、人は誰もが対等に社会を「支援」する役割を担っている事を自覚し、一人ひとりが自ら NPO的活動を行なえば、社会は更に良くなると信じています。 





f:id:youkaidaimaou:20200509003314j:plain 















ウクライナ と 日本 の国土を比較すれば、

2022-03-13 20:11:54 | 人として生きたい


ウクライナへのロシア軍侵攻に伴って、ウクライナの多くの方々が国外への避難を強いられています。特に、侵攻が厳しい東部・ドンバス地方から西の隣国・ポーランドなどへ移動している様子が連日報道されています。

そのウクライナの国土面積と日本の国土面積とを比較する図を作成しました。( 出典 : The True Size Of .. )

f:id:youkaidaimaou:20220313200843j:plain


こうして直接比較すると、その移動距離の大きさが実感できますし、誰もが容易に避難できる訳でもなく、しかも戦時状況下となれば困難さが増している筈です。
  
そして、3月12日現在、250万人を超える人々が国外へ避難と UNHCR が発表していますが、国内には 4100万人を超える人々が留まっている事を理解する必要がありそうです。



f:id:youkaidaimaou:20200509003314j:plain 

















ウクライナ、人々の現状 (2022年3月8日)

2022-03-08 22:21:58 | 人として生きたい

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)発、

ウクライナ、難民の状況、日本時間 3月8日午後 8時現在、201万人が報告されています。国内には 4200万人を超える人々が戦況を恐怖と苦難の中で耐え続けている事になります。


f:id:youkaidaimaou:20220308221232p:plainhttps://data2.unhcr.org/en/situations/ukraine

例えば、170万人の人が国外から脱出と聞くと、何となく「多くの人は無事に脱出した」と思いがちですが、その人達は 脱出方法があり、脱出が可能だった一部の人だという事は忘れてはいけないでしょうお。

ロシア軍が侵攻していない地域であっても、仮に 侵攻は絶対しない地域があったとしても、既に 電力や通信環境は影響を受け、国の機能は残った人々で命を守る側へ振り分けられているでしょうから、役所仕事、ビジネス、公共サービスの多くは停止していると考えるべきでしょう。
これが 更に続き、政府機能をロシア側が掌握すると、国民の全情報を握る事になり、その影響は更に大きくなるのは間違い無いでしょう。

各メディアは それぞれに悲惨さや凄惨さに焦点を絞り、象徴的な事象だけを報道しますが、その報道に表われない面にも目を向ける必要があるでしょう。


f:id:youkaidaimaou:20200509003314j:plain 













軍人達の責任は

2022-02-26 17:04:30 | 人として生きたい

カタール・ALJAZEERA 伝、

有り得ない事です。 ロシア軍の戦車が、まるで人殺しを楽しむかの様に、一般の乗用車を踏み潰しています !!



例え、崇高な精神と世界万民の平和と秩序を願う大統領だとしても、末端の軍人、しかも エリート級の軍人を正しく導けない様では、彼らに命令を下す事は無責任以外なにものでもありません。

同様に、他国でも、非武装の民間人を見境なく惨殺する軍人を指揮する指導者は多く居ますが、それは決して許されざる事として、私達は記憶と歴史に刻みつける責任があります。


f:id:youkaidaimaou:20200509003314j:plain 















「してあげる」と NPO・GRA / "SHTEAGERU" and NPO-GRA

2022-02-23 22:14:14 | 人として生きたい


「してあげる」という言葉は、英語では「I'll do it for you」となって意志そのものだけを示すけど、日本語では支援を行なう側の優越的偽善を僕は感じてしまう。そして、それに呼応するのか、支援を受ける側に受ける事を当然の権利とする様な対応を感じてしまう。それは、きっと、社会の中で “支援” や “貢献” が充分に共有できていない事の表われの様に思う。

The word "SHITEAGERU" in Japanese is "I'll do it for you" in English, indicating only the will itself, but in Japanese I feel the superior hypocrisy of those who provide support to others. At the same time, I sometimes feel a little uncomfortable with the reaction of the support recipient. There are times when I feel that receiving support is a natural right.
I think it is a sign that the meanings of "support" and "contribution" are not fully shared in society. 

 

『 してあげる 』

「してあげる」という言葉への違和感を、教育系TV番組を視聴している時、改めて感じさせられてしまいました。
それは、高校生の参加者に「白杖(はくじょう)を持った視覚障害の人が、横断歩道で立ち止まっていたらどうしますか?」と問い掛けて、答えた高校生と司会者の双方で「してあげる」の言葉を当たり前の様に使っていたからです。それは、僕にとって、“支援” の意味を誤って理解している表われと思えるのです。
     
本来、人は誰にも出来る事と出来ない事があり、一人では出来ない事もあります。だから、お互いに対等な立場に立ち、他の人が出来ない事や困っている事に支援を行なうのが当然で、それで社会が成り立っているもの。 だから、支援を「行なう」とか「しない」「できない」という判断や意識はあっても、「してあげる」という意識は有り得ないと僕は考えます。
 
そんな「してあげる」意識が蔓延すると、当然の行為が “恩着せがましい” 存在になり、支援を受ける側にある “選択の権利” の無視に繋がり、 支援を受けた事で必要以上に “迷惑をかけた” という意識を抱いてしまうのです。
   
ただ、現実には、高校生の回答の例に限らず、個人を外観上識別が容易な障害の有無や性差・ジェンダー、年齢や肌の色、職業の有無や給与額の多寡、歩き方や喋り方で安易に識別・区別して、お互いに対等な立場として捉えていない場面は数多くあります。そして、識別が可能な障害だけで識別し、何か良い事をしなければという道徳的な教義の実践の場を探すのは決して悪い事ではないでしょうが、時として支援の “押し売り” になる危険性がある事は認識すべきでしょう。
    
更に、支援を受ける側に対応についてですが、支援を受ける事を当然の権利だと考える人がいる危険性も見逃せません。支援を行なうのが行政や一定の収益が確保された団体で、仕事として行なっているのであれば別ですが、仕事でもなく収益が全く無い個人の支援でも受けるのが当然の権利と考えるのは誤りです。
社会の中では人は基本的に誰でも対等であり、ただ能力に応じた責任があるという認識が共有されれば、「してあげる」という過ちを招く言葉は使われないでしょうし、支援を受ける事を引け目に感じさせる風潮も無くなるでしょう。

 

f:id:youkaidaimaou:20220223220636j:plain

 



『 NPO・GRA 』

この「してあげる」という言葉に刺激されて、僕が主宰しているGRAという NPO組織で感じてきた事を思い出すはめになりました。長年、感じて考え続けた事は二つあります。
    
一つは、非営利で収益目的ではない活動を通じて、僕は「してあげる」という意識は無かったかという自己反省で、二つ目は 開催イベントに参加した人々の対応はどうだったのだろうかという事です。
  
とは言え、GRAは オートバイで走る楽しさを広めつつ、社会の中で果たすべき事について考える人を増やし、それを通じて社会貢献を果たすのが目的に活動しているNPOだから、生活に困窮している人々の支援をしているNPOとは大きく異なります。言い換えると「楽しく走りたいなら、社会の中での役割も考えて行動する人」を増やすのが目的で、参加者は運転免許を持ちオートバイを所有して、社会的にも自立した人々ばかりなので、「してあげる」という殆ど無かったと思います。
    
しかし、走る楽しさを覚えた人の中には、社会の中での役割を考えず、楽しむ事をもっと貪欲に追及するが増えた事は事実でした。そして、その様な人に限って参加回数が多いベテランで、知識や技術も高く、参加回数の少ない人達から一目を置かれる人達であった事は困った事態を多く招きました。 イベント運営や法人運営などに必要な業務を対等に負担し合う事を避け、時には個人の利益だけを主張する様になり、そういう行為を目にしても誰も注意をしない雰囲気が熟成されていったからです。
    
このGRAという小さな社会の中でさえ負うべき責任を対等に果たさない行為は、単にGRAが掲げる活動目標に反していただけでなく、実社会の中でライダーとオートバイに対する評価を高める事に繋がらないと僕は考えています。
今だからこそ、「社会の中で対等に果たすべき責任」を視点に見つめる余裕はありますが、年間で 30イベント以上の開催を続けていた頃は、運営そのものに力を注ぐので一杯で、意図しない形に熟成された雰囲気を修正するには充分な能力が無かった事が大きな反省点となりました。
   
以上、高校生が回答した「してあげる」という視点とは異なっている様に見えるかも知れませんが、どちらも人間が主役の社会の中での事で、対等な一人ひとりが果たすべき役割という視点が欠けている点が共通しています。




f:id:youkaidaimaou:20200509003314j:plain