学生時代、世の中の「オートバイは不良の乗り物」的な見方に影響されていた事もあって、もっぱらの関心の中心は車で、オートバイはその1/10 も無かった程だった。
けれど、1969年発売の国産初の 750㏄空冷4気筒車:CB750には強烈な印象は受けていたので、26歳になって初めて買ったオートバイが4気筒車だったのは当然の事だし、単気筒や2気筒車は買うべきオートバイではない!とさえ思ってさえいた。
しかし、4気筒車(Z750GP)でジムカーナ競技に熱中していた頃、そんな考えを大きく変えた出会いがあったのです。
【 2台合わせたオートバイが!? 】
その頃、一緒に練習をしていた数少ない仲間は二人、150㎝ほどの小柄な女性と210㎝超と背の高い男性でした。
彼らのオートバイは、女性はオンロード車・スパーダ(250㏄)で、男性のは当時最大級のオフロード車、アフリカツイン(750㏄)と、共にホンダの水冷V型2気筒エンジン車だったのですが、試乗させてもらうと、この2台共にとても乗りやすかったのです。
当時、僕が乗っていたZ750GPは、ジムカーナ競技で実績を残していた車両のマイナーチェンジ版とは云え、基本設計は古い車両でした。
それに比べると、ホンダスパーダは非力な250㏄とは云え軽快なバンクと旋回性、車体の剛性感に感心させられ、一方のアフリカツインでは足付き性こそ最悪だったものの、そのエンジンのトラクションとグリップ感(路面を掴んで力強く前に進む感覚)に感激さえ覚えていたものです。
「どちらのオートバイに乗っても、 Z750GPよりも楽しくて仕方無い 」
「2台を合わせたオートバイが作れないか?」
スパーダの小柄で軽快な車体にトラクション感に優れたアフリカツインのV型2気筒エンジンを載せられないか?と考えていたら、それを実現させた様な車両があったのです。
それは、ホンダ ブロス、水冷V型2気筒エンジンのオートバイでした。
【 全くの不人気車 】
当時はレーサーレプリカ全盛時代で、国内の各オートバイメーカーからは次から次へと魅力的な新型車が発売されていた中で、ブロスは2輪雑誌の広告で時々見るだけで、路上では殆ど見かけない程に不人気車でした。
車体のデザインも色もぱっとせず、たったの2気筒のエンジンのオートバイは、中高年向きのツーリングバイク程度にしか思えず、それまでは全く興味の対象外だったのです。
「 でも、検討する価値はあるかも? 」
1991年の年末、主要な全国レベルの大会で総合優勝まで何度も付き添ってくれたZ750GPとの別れを決め、そのブロスを実車の試乗も観る事もせず、懇意にしていたカワサキ販売店に新車発注したのでした。
【 実際に乗った感想は 】
新車で納入されてから最初の 1000㎞は慣らし期間に決め、平日の夜は近所を、休日は遠距離を走った印象は 「 中高年用ツーリングバイク 」そのものでした。
特に、信号の無い海岸線沿いの緩やかなワインディングロードを、回転数を抑えて走った時の感覚は 「気持ちイイ!」ものでした。
しかし、購入動機はツーリングではない。距離が 1000㎞ に近づいた頃、深夜走り慣れていた六甲山のワインディングへと連れ出し、ブロスのコーナリング能力や特性を確かめてみる事に。
登り始めて幾つかコーナーを過ぎ、車体と体調の感触を確かめ、他の通行車両の状態も把握して、さあ! 次の左のブラインドコーナーの立ち上がりでアクセルを大き目に開けてみると 、ブロスは予想に反してセンターラインは無いかの様なラインを描いてくれたのでした。
困った ・ ・ ・ !
下りではそこそこ安定はしているけど、フロント荷重が抜ける上りでは嫌な癖が出てしまう!
そうして、慣らしが終わると同時に車両の特性を大幅に変更するセットアップ作業が始まったのです。
【 時代に恵まれて 】
ジムカーナ競技での戦績で言えば、Z750GPの時にはほぼ全国トップの成績でしたが、ブロスに替えてからは負ける気がしない程に圧倒的なタイム差を残し続けていたのです。
その要因は、充分なトルクとトラクション感の優れたエンジン特性、バンク角の大きな車体など、車両として優れた特性があった事は間違いありませんが、それ以外に時代に恵まれていたとも言える要因もあったのです。
一つは、交換した前後のサスペンション、特にフロントサスペンションのスプリングが大変に良い製品だったのです。
メーカーはオランダのホワイトパワー社(現在は WP)ですが、80年代末、同社が最も活気があった時期で、大変に優れたエンジニアが ブロス用に作り上げたスプリングは、現代では全く見かける事が出来ない程に太い線径(スプリング鋼材)でダンピングが効いた緻密な特性を持っていたのです。
そのお蔭で、通常ではセットが出し難いフロントサスペンションのセットアップが短期間で完了したのです。
二つ目は、タイヤの変革時期だった事です。
中年ツーリング用として販売された当初は バイアスタイヤ(旧来の形式のタイヤ)で発売されたブロスでしたが、販売不振を挽回する為のマイナーチェンジ後の購入した同車は、普及が始まっていた ラジアルタイヤ仕様の設定に変更されていたのです。
そのため、スポーツ走行用タイヤとして一気に開発競争が始まったラジアルタイヤの先端モデルを装着し続ける事が出来たのが、当初は 圧倒的な成績を残し続け、その結果、ジムカーナと言えばブロス!? と、全国でブロスが一気に競技車として増殖していった程です。
しかし、そのタイヤが要因となって、ブロスの輝きが失われていったのです。
それは、サーキット用として熾烈な開発競争が繰り広げられた スポーツ走行用ラジアルタイヤですが、レーサーレプリカ車に最適設計がなされる様になったタイヤは、中年ツーリング車には特性がフィットせず、競技の場ではポテンシャルを発揮できなくなったのです。
そういうタイヤの状況もあって、本番車と練習・スペア車の合わせて2台、8年間使い続けたブロスをやめ、新しい車両へと変更したのでした。
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けれど、1969年発売の国産初の 750㏄空冷4気筒車:CB750には強烈な印象は受けていたので、26歳になって初めて買ったオートバイが4気筒車だったのは当然の事だし、単気筒や2気筒車は買うべきオートバイではない!とさえ思ってさえいた。
しかし、4気筒車(Z750GP)でジムカーナ競技に熱中していた頃、そんな考えを大きく変えた出会いがあったのです。
【 2台合わせたオートバイが!? 】
その頃、一緒に練習をしていた数少ない仲間は二人、150㎝ほどの小柄な女性と210㎝超と背の高い男性でした。
彼らのオートバイは、女性はオンロード車・スパーダ(250㏄)で、男性のは当時最大級のオフロード車、アフリカツイン(750㏄)と、共にホンダの水冷V型2気筒エンジン車だったのですが、試乗させてもらうと、この2台共にとても乗りやすかったのです。
当時、僕が乗っていたZ750GPは、ジムカーナ競技で実績を残していた車両のマイナーチェンジ版とは云え、基本設計は古い車両でした。
それに比べると、ホンダスパーダは非力な250㏄とは云え軽快なバンクと旋回性、車体の剛性感に感心させられ、一方のアフリカツインでは足付き性こそ最悪だったものの、そのエンジンのトラクションとグリップ感(路面を掴んで力強く前に進む感覚)に感激さえ覚えていたものです。
「どちらのオートバイに乗っても、 Z750GPよりも楽しくて仕方無い 」
「2台を合わせたオートバイが作れないか?」
スパーダの小柄で軽快な車体にトラクション感に優れたアフリカツインのV型2気筒エンジンを載せられないか?と考えていたら、それを実現させた様な車両があったのです。
それは、ホンダ ブロス、水冷V型2気筒エンジンのオートバイでした。
【 全くの不人気車 】
当時はレーサーレプリカ全盛時代で、国内の各オートバイメーカーからは次から次へと魅力的な新型車が発売されていた中で、ブロスは2輪雑誌の広告で時々見るだけで、路上では殆ど見かけない程に不人気車でした。
車体のデザインも色もぱっとせず、たったの2気筒のエンジンのオートバイは、中高年向きのツーリングバイク程度にしか思えず、それまでは全く興味の対象外だったのです。
「 でも、検討する価値はあるかも? 」
1991年の年末、主要な全国レベルの大会で総合優勝まで何度も付き添ってくれたZ750GPとの別れを決め、そのブロスを実車の試乗も観る事もせず、懇意にしていたカワサキ販売店に新車発注したのでした。
【 実際に乗った感想は 】
新車で納入されてから最初の 1000㎞は慣らし期間に決め、平日の夜は近所を、休日は遠距離を走った印象は 「 中高年用ツーリングバイク 」そのものでした。
特に、信号の無い海岸線沿いの緩やかなワインディングロードを、回転数を抑えて走った時の感覚は 「気持ちイイ!」ものでした。
しかし、購入動機はツーリングではない。距離が 1000㎞ に近づいた頃、深夜走り慣れていた六甲山のワインディングへと連れ出し、ブロスのコーナリング能力や特性を確かめてみる事に。
登り始めて幾つかコーナーを過ぎ、車体と体調の感触を確かめ、他の通行車両の状態も把握して、さあ! 次の左のブラインドコーナーの立ち上がりでアクセルを大き目に開けてみると 、ブロスは予想に反してセンターラインは無いかの様なラインを描いてくれたのでした。
困った ・ ・ ・ !
下りではそこそこ安定はしているけど、フロント荷重が抜ける上りでは嫌な癖が出てしまう!
そうして、慣らしが終わると同時に車両の特性を大幅に変更するセットアップ作業が始まったのです。
【 時代に恵まれて 】
ジムカーナ競技での戦績で言えば、Z750GPの時にはほぼ全国トップの成績でしたが、ブロスに替えてからは負ける気がしない程に圧倒的なタイム差を残し続けていたのです。
その要因は、充分なトルクとトラクション感の優れたエンジン特性、バンク角の大きな車体など、車両として優れた特性があった事は間違いありませんが、それ以外に時代に恵まれていたとも言える要因もあったのです。
一つは、交換した前後のサスペンション、特にフロントサスペンションのスプリングが大変に良い製品だったのです。
メーカーはオランダのホワイトパワー社(現在は WP)ですが、80年代末、同社が最も活気があった時期で、大変に優れたエンジニアが ブロス用に作り上げたスプリングは、現代では全く見かける事が出来ない程に太い線径(スプリング鋼材)でダンピングが効いた緻密な特性を持っていたのです。
そのお蔭で、通常ではセットが出し難いフロントサスペンションのセットアップが短期間で完了したのです。
二つ目は、タイヤの変革時期だった事です。
中年ツーリング用として販売された当初は バイアスタイヤ(旧来の形式のタイヤ)で発売されたブロスでしたが、販売不振を挽回する為のマイナーチェンジ後の購入した同車は、普及が始まっていた ラジアルタイヤ仕様の設定に変更されていたのです。
そのため、スポーツ走行用タイヤとして一気に開発競争が始まったラジアルタイヤの先端モデルを装着し続ける事が出来たのが、当初は 圧倒的な成績を残し続け、その結果、ジムカーナと言えばブロス!? と、全国でブロスが一気に競技車として増殖していった程です。
しかし、そのタイヤが要因となって、ブロスの輝きが失われていったのです。
それは、サーキット用として熾烈な開発競争が繰り広げられた スポーツ走行用ラジアルタイヤですが、レーサーレプリカ車に最適設計がなされる様になったタイヤは、中年ツーリング車には特性がフィットせず、競技の場ではポテンシャルを発揮できなくなったのです。
そういうタイヤの状況もあって、本番車と練習・スペア車の合わせて2台、8年間使い続けたブロスをやめ、新しい車両へと変更したのでした。
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