蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

『俺と女たち』

2023-01-21 | 音楽

ミュージシャン・ガンズブールをオレは評価しない。彼が独創的な才能を見せたのは映画の方で、音楽はオリジナリティに乏しく、やっつけ仕事が多い。フランスでも初期の彼がヴィアンやグレコに認められたのは作詞によってで、音楽で、ではなかった。ま、フランスには音楽の良し悪しを見分けられる目利きが少ないという事情もあるが。

しかしどんなヘボでもボンクラでも、レコード会社が録音しようかってぐらいのタレントなら一つや二つは聞かせる作品があるものだ。ガンズブールの場合は、1964年の『コンフィデンシャル』(より厳密に言うと、その中の1曲「雨の季節」) がそれに当たる。やたらコケ脅しをカマしたりスキャンダラスな振る舞いをしたりの後年と違い、清潔な気品に貫かれたクール・ジャズ・アルバムだ。大半は、アレンジとギターを担当したエレク・バクシク (ハンガリー人だから正確にはバチックだろう) の功績だが。

海外では彼のアルバム中とりわけ人気が高いらしく、日本プレスの初期盤にDiscogsで23万の値がついていた (どういうわけか、フランス盤より日本盤の方が高い)。いまでは手に入らなくなっているから、そんな高値でも買った人がいるのだろう。この初期日本盤、オレは引っ越しのとき二束三文で叩き売っちまったんだよね。チクショー。

『コンフィデンシャル』は、ヤフオクでも90年代発売のリイシュー盤しか見かけたことがない。たとえ初期盤が出ても手の届かない高嶺の花になるだろう。リイシュー盤は音の劣化がひどくて聴けたもんじゃない。

しかし、『コンフィデンシャル』のナンバーを何曲か再録したコンピレーションなら比較的に容易に安価で手に入る。それが69年発売の『俺と女たち』だ。「雨の季節」も含まれる。同じころフランスでもコンピレーションが制作されたが、選曲は日本盤の方が断然すぐれている。フランス盤は例によって音楽そっちのけで歌詞を選曲の目安にしており、結果的につまらない曲の目白押しである。

日本盤の選曲を担当したのは、当時日本フォノグラムのディレクターでのちにMCAの社長になったI氏とシャンソン評論家の永田文夫氏だった。永田氏は生前、ゴマスリ批評やデータのパクリが多かったために世間の評判は芳しくなかったが、本気を出すと筋の通った仕事をした。本を1冊翻訳しただけでフレンチの家元でございなどとほざいているハッタリ野郎より、よほど高い見識をお持ちだった。

上掲の写真はジャケット違いのリイシュー盤。70年代半ばの発売だが、さいわいデジタル・ノイズフィルターの適用を免れたらしく、ふっくらと温かな音質が耳に快い。CDや90年代のリイシュー盤『コンフィデンシャル』とは情報量がケタ違いである。

ヤフオクでついでに買った『You're under arrest』は、ガンズブールのラスト・アルバム。けたたましいサウンドやビートや念仏みたいな単調で陰気なヴォーカルが全編でさっぱり変わり映えせず、聴いているうちに退屈で死にたくなる。これだからガンズブールというミュージシャンをオレは評価しないのだ。

なお、セルジュ・ガンズブールのカナ表記に文句のある向きは、発音サイトForvoでネイティヴの発音をどうぞ。
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Vladimir Vissotsky: Le Vol Arrêté

2022-12-11 | 音楽

ロシアの反骨詩人がパリで録音したレコード。1981年の発売だが、ヴィソツキー自身は80年に亡くなっているから70年代末ごろの録音だと思う。日本でもかつてオーマガトキ・レーベルから『大地の歌』のタイトルで発売された。

そのオーマガトキ盤をオレは持っていたのだが、CDバージョンを手に入れたからもういいやとLPは二束三文で叩き売ってしまった。CDはいまも手許にあるが、情けない音質で聴く気がしない。ヴィソツキーの声がまるで死んでしまっている。CDはレコードより音がいいと、当時くり広げられたレコード会社/オーディオ・メーカーの真っ赤な偽りのキャンペーンを真に受けたオレがバカだった。

で、LPを買い戻さなきゃとずっと思っていたのだが、これが思うように行かない。たまにオーマガトキ盤がヤフオクに出ると、終値はたいてい万単位。オリジナルのフランス盤も、eBayで万単位。ヘタすると、2〜3万になったりする。いくら欲しくてもマリア・カラスじゃないんだから、そんなに財布をはたく気がしない。

ところがDiscogsを丹念に調べたら、ありましたよ安いのが。NM盤を約5000円で売っていた。さっそくクリックして手に入れたのが、上の写真のシャン・デュ・モンド盤。マスターのオーナー・レーベルである。

仏盤には2種類あり、オレが手に入れたのはシルバー・レーベル盤。厳密にいうと、初版はもう一方のオレンジ・レーベル盤らしいが、そっちは希少らしくて価格がシルバーの2倍する。だいいちVGやせいぜいVG+ばかりで、コンディションのいいのがない。どっちも発売は1981年だから、音質に大差はあるまいと購入。

予想的中。すごいリアルな音質である。ヴィソツキーの荒々しいダミ声が、野獣のような迫力で襲いかかってくる。カッティング・レベルが高いのに、やかましい歪みがほとんどない。オリジナル・マスターの威力。日本盤より3曲、収録数が少なく、カッティングに余裕があるためかもしれない。

なお、レーベルにStereoの表記がないからモノラル専用カートリッジで聴いていたのだが、ジャケットをよく見るとステレオ/モノラル兼用の gravure universelle (ユニバーサル・カッティング) というフランス独特の仕様だった。音がよく聞こえたのは、モノラル・カートリッジのおかげでもある。

オレが使っているモノ・カートリッジはデノンとオーディオテクニカのエントリー・モデルだが、それでも声の再生に関してはオルトフォンの高価なステレオ・カートリッジよりもよく聞こえる。ステレオだと、ノイズも歪みも倍加する。

このレコードを売っていたフランスのレコード店の親父に、ヴィソツキーがいまも生きていたらプーチンの戦争をどんなふうに歌うだろうねと言ってやったら、グーラグに放り込まれるか暗殺されてるよ、と返してきた。だよね。
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『リゴレット』

2022-03-24 | 音楽

写真のおっさんはホームレスでも変質者でもジャンキーのなれの果てでもなく、オペラの主人公の道化である。扮するエットレ・バスティアニーニはイケメン・バリトンとして有名だった歌手。ここでは思い切ったメイクだ。

これ、ステレオ・レコードが実用化された最初期、1960年録音の旧東芝EMI盤です(STEREOのロゴも古式ゆかしいね)。あのころの日本プレスのレコードは音が硬く、聴きづらいのが多くて閉口したものだが、このレコードは不思議なぐらい耳当たりがいい。ホールトーンなど微細な音がよく聞こえ、リアルな空気感がみなぎる。

なんで当時の日本盤が聴きづらかったかというと、海外のレコード会社からマスターのコピーテープを輸入して日本国内でカッティングとプレスをしていたからだ。誤解なきように断っておくが、日本のカッティング技術が低かったわけではない。マスターに忠実、という意味ではむしろ海外よりも高水準だったかも知れない。

しかし、日本の技術者は音楽を聴かない。音しか聴かず、なんとかメーターだのなんとかスコープだの、物理的測定器とにらめっこばかりしている。計器をにらみながら、もっぱらマスターに入っている音の音盤への忠実なトランスファーを心がける。

オーディオがブームだった1980年代のあるとき、さるオーディオ・メーカーの社長が、たまには生(なま)音を聴いてこいと自社のエンジニアにN響の演奏会か何かの切符を渡したそうだ。で、ナマのオーケストラを聴いてきたエンジニアが翌朝、会社で、社長、生音ってハイファイなんですね、と言ったとか。なんか、作り話っぽいけどね。

マスターに入っている音は、必ずしも常に最上の美音というわけではない。特に60年代までの録音は、録音機器がまだ発展途上だっためもあって歪みやノイズが多かった。当時、世界最高の音質と言われたイギリスの2大レコード会社(Decca、EMI)の技師はそこのところをよく心得ていて、職人技のカッティングで耳障りな音を抑え、心地よい響きを創り出していた。

一方、日本の技師の心得では、自分の主観や好みで音をいじるなど飛んでもない。聴きやすくするなんて、原音に対する冒涜だ。なので、常にマスター命、だったわけです。

この『リゴレット』は日本カッティングではなく、例外的にイギリス・カッティングのメタル原盤を取り寄せてプレスしたのではなかろうか。ややエコー過剰だが、雰囲気豊かな音質がイギリス盤の音調を思わせる。オリジナル・マスターはイタリアのリコルディだが、東芝EMIには契約先の英HMV経由でライセンスが下りた。

リコルディを吸収したイタリアBMGが、前世紀最後の年にこれをCD化したのが上掲の2。LPバージョンとよく似た好ましい音質だ。声は幾分細身だけどね。現在流行のノイズ・フィルタリング乱用や音量の底上げリマスタリングといったバカな小細工を採用していないからだろう。

この全曲を今月のレコード芸術が採り上げているのだが、演奏自体は褒めているものの、「音が悪い」「失敗録音」などと書いている。バカ言ってんじゃねーよ。

評者が試聴に用いたのは、LPでもBMG盤でもなくイタリアのウラニア盤CD。海賊盤メーカー紛いのマイナー・レーベルである。かつてカラスのライブCDで、オレはこのレーベルに散々煮え湯を飲まされた。こんな粗悪盤を基に批評を書かれちゃ、オリジナルの録音技師もたまったもんじゃあるまい。

この『リゴレット』、演奏自体は飛びきり優秀というわけではない。演奏の出来よりも、バスティアニーニ、レナータ・スコット、アルフレード・クラウスといった往年の名歌手の輝かしい声の饗宴を楽しむ録音である。

そんな録音がなんで海賊盤CDになったりするかというと、初期盤LPも正規盤CDも入手難だからだろう。Discogsを覗いてみたら、質の悪いアメリカ・プレスのマーキュリー盤に2万超の値付けがされていた。ま、海賊盤メーカーとしてはおいしいネタだろうな。

ちなみに、70年代になるとイギリス盤と日本盤の音質差は急激に縮まった。イギリスのレコード会社が経営環境の悪化で腕のいいベテラン技師を次々リストラしたのに対し、日本の技術がこのころ爛熟と言っていいぐらい成熟したからである。録音機器の向上でマスターのクオリティが改善されたことも、日本式のマスター命カッティングに幸いした。

さらに、ドルビー・ノイズ・リダクション(詳細はウィキで)の導入も大きい。あのシステムは、コピーで失われやすい微小信号を強めて録音する。おかげで、オリジナル・マスターとコピー・マスターの音質差が極小になった。70年代のレコードを聴くと、原盤オーナー社のイギリス盤よりも日本盤の方が高音質、なんて逆転現象が稀ではない。
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名ドラマー逝く

2021-03-16 | 音楽
東京新聞「筆洗」の受け売りだが、9日に亡くなった村上秀一さんは50年前、アメリカで出会ったギタリストをこう励ましたそうだ。「お前は精進すれば、いいギタリストになれる」

励まされた相手は、泣く子も黙るエリック・クラプトン。当時すでにギターの神様扱いされていた。どんな顔で、どんな返事をしたんだろうね。

外国人相手にピント外れの会話をした例では、もう一つ、森喜朗の逸話が有名だ。90年代に当時の米大統領クリントンと面会した森が、"How are you?" というべきところを "Who are you?" とやってしまい、クリントンが "I'm Hillary Clinton's husband." と答えたって話。

もっとも、いまウィキペディアで調べたら、このエピソード、捏造なんだと。実は韓国の金泳三がやった失敗で、それをネタに困った毎日の記者が森の話にすり替えたんだそうだ。ウィキもあんまり信用できるメディアじゃないから、どこまで本当か知らないが。

だって、首相経験があるほどの大物政治家を作り話で侮辱すれば、タダじゃ済まないんじゃないの?

ともあれ、ミュージシャンがトンチンカンなことをやると、なんか微笑ましく、かえって親しみを増す。政治家が同じことをやると、腹立たしく軽蔑したくなる。この差、どこから生まれるんだろうね。

税金で食ってる人間と、払ってる人間の違い?
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バーチャルひばり

2019-12-08 | 音楽
世間では秋口から話題になっていたというAIひばりを、遅まきながら昨日、観た。奇妙な体験だった。

なるほど評判どおり、ひばりが生き返ったかのような迫真の歌である。ちょっと鼻に掛かった声、ギシッときしむような歪みの載った高音、深い陰影をおびた胸声、フレーズ間の粘っこいポルタメント……すべて生前のひばりそのままだ。

しかしそのひばりは、生きて呼吸している人ではない。コンピューター上のデータを消去すれば消えてしまう幻影でしかない。

一昔前なら奇蹟と呼ばれたはずのこの幻影を創り出して見せた技術の進歩を、頭は無論、驚嘆し称賛している。しかし、気持ちがついて行かない。

歌が歌われるとき、その歌にはナマであれ録音であれ、歌手が歌ったそのときの彼女ないし彼の気持ちの高揚、脳裡をよぎる思い、テンポやリズムや音程の一瞬の揺らぎ、等々が含まれる。そのごくごく微細な変数が、歌それぞれを独自のものにする。

ヴォーカルの魅力は声の美しさや表情の深みのほかに、こうした微妙な変数による部分が大きい。それがあるからこそ、歌を録音で聴いても我々は歌手と1対1で親しく対峙した気分になる。

言うまでもなく、AIヴォーカルにこうした変数はない。その歌は完璧に正しく、絶対に過たず、絶対に予測を裏切らない。AIひばりに頭で感心しながら心で違和感を覚えたのは、おそらくそのせいだ。

さらに、もっと大きな問題として、AIで創造された歌には歌い手本人の意思が投影されていない。それは他人の意思で歌わされた歌だ。

AIの技術を使えば、たとえばメトロポリタン歌劇場がマリア・カラスに歌わせようとして拒否された『魔笛』の夜の女王をカラスが歌うという、オペラ・ファンにとっての見果てぬ夢も実現されるかも知れない。

いや、それこそ「川の流れのように」をカラスに歌わせることだって不可能じゃない。だが、生前のカラスが「川の流れ~」の譜面を見て、歌いたいと言っただろうか。

実現したところで、それはカラスの歌であってカラスの歌ではない。「あれから」がひばりの歌であってひばりの歌ではないように。

AIひばりで得られたものは好奇心の満足であり、音楽的感動とは違っていた。感心しつつ、虚しかった。
もしも生前のひばりがこの歌を聴いたら、こんな心のこもってない歌、あたしの歌じゃないよと激怒したかも知れない。

エジソンが蓄音機を発明するまで、ナマの音楽しか聴いたことのなかった人々がレコードに対して抱いたのも、こういう感想だったかもしれないが。
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