蒲田耕二の発言

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アマリア・ロドリゲスの掘り出し物

2017-03-21 | 音楽
"Self-titled" Ducretet-Thomson DLP-1003
短命だったレコード会社デュクレテ・トムソンのライセンスで、超短命だった日本ディスクが発売した10インチLP。デュクレテ(と日本では呼ばれてるが、正確にはデュクルテだろう)は、フランスのラジオメーカーがやっていたレーベルだが、60年代初めに廃業した(倒産?)。日本では、ズート・シムズのLPでジャズファンに知られるレーベルだ。

デュクレテは店じまいしたとき手持ちの原盤をフランス・コロンビアに譲渡したのだが、コロンビアはそれらをさっぱり復刻しようとしない。やっと今世紀になって下記のパリ・ライブをCD化したほかは、スタジオ録音をいくつかコンピレーションに混ぜ込んだだけ。おかげでデュクレテ原盤のアマリアは、大半がレア盤になっている。このレコード(1958年、アマリアのデュクレテ初録音)も、その一つ。

日本盤はビクターのカッティングとプレスだが、当時の日本のレコード製造技術は低水準だったから低音に力がなく、フォルテが歪みっぽい。オリジナルのフランス盤が欲しいところだが、いまとなっては鳥取砂丘で一粒のダイヤを探すようなもんだろうなあ。

先日eBayに出品されていたので、すわ、と色めきたったが、よく見たらベネズエラ盤だった。

もっとも、昔の日本盤には珍ライナーという余録があります。「ファドは楽しい音楽です。酒を飲み、太鼓をたたいて踊りながら歌います」。よくまあ、これだけ口から出任せ並べられたもんだよ。

"Paris 1960" Ducretet-Thomson 310V026
何年か前にポルトガルでCD化されたから、デュクレテ原盤のアマリアでは比較的にレア度が低いが、LPである点がミソ。なんせポルトガルEMI(コロンビア)のCDって、どれもこれも技師の耳が狂ってるんじゃないかと言いたくなるような音質だもんね。ごく短期間だけ販売されたオリジナル・フランス盤LP。

アマリアの回想録『このおかしな人生』の巻末ディスコグラフィで、1957年のオランピア・ライブとされているアルバムである。正しくは、モンパルナスにあったミュージックホール、ボビノでのライブ。あのディスコグラフィは、データがなくて弱ったとか言い訳してるが、それにしてもミスが多すぎるよね。年代も間違ってるし。

会場の違いか(セーヌ左岸のボビノは、右岸のオランピアと違って気さくな下町のホールだった)パリの空気に慣れたのか、アマリアはよりリラックスして伸びのび歌っている。ホール・コンサートというより、クラブかカフェでのライブみたい。

"Amália of Portugal" Columbia 33CS5
アマリアの日本デビュー・アルバム。世界的にはセカンド・アルバム。当時、ポルトガルではまだアマリアのLPは出てなかったんじゃないかな。

50年代、巧みな音作りで定評のあったイギリス・コロンビアのカッティングとプレスである。栄光の緑金レーベル盤。「暗いはしけ」が異次元の高音質で入っている。"Son loucas !" の叫びが豊かな身体的共鳴を伴って、全然やかましくならない。息遣いと体温まで感じられる。いままでのアマリアのレコードって、なんだったんだ。

アマリアは若いころからマリアテレーザ・デ・ノローニャのような甘く優しい声を持っていたわけじゃないが、70年代以降のリイシューLPやCDの硬く険しい声は、リマスタリングやノイズ・フィルタリングによって作り替えられたニセの声だってことが、これを聴くとよく分かる。

ただし、ジャケット・デザインだけは映画『過去を持つ愛情』のスチル写真を使った日本コロムビア盤の方が雰囲気があって断然いい。その日本盤がいまeBayに出ているが、VGグレードで120ドルじゃ、ちょっとね。

ちなみに、eBayに出ている日本盤て、なんであんなに高いのかね。ヤフオクなら1000円でも買い手がつかないようなレコードが、50ドル、70ドルの値付けで出品されている。もちろん全部、日本から。先だっては、アマリアの日本ライブに500ドル、『コン・ケ・ヴォス』の白レーベル盤に400ドルなんて法外なぼったくり値段が付けられていた。

出品者はおそらく日本の工業製品に対する世界的な信用に便乗してるんだろうけど、日本カッティングの洋楽ポピュラー、特にモノラル盤は概して音質がよくない(理由はこちら)。あんまりアコギな真似してると、自分で自分の首を絞めることになるんじゃないかねえ。

"At the Paris Olympia" Columbia KL-5019
アマリアを語るとき必ず引き合いに出される有名なアルバム。LP、CD時代を通じて何度リイシューされたか分からない。

しかし、名演であると同時に音質が酷いことでも有名だ。現行のライス盤CDは特に酷い。ノイズ・フィルタリングで細かい響きを削りまくった上にコンプレッサーでピークを潰して見かけ上の音量を底上げするリマスタリングで、アマリアの声がキンキンギスギス。10分と聴いてられない。

その酷い録音が、この日本初回発売盤(日本コロムビアが60年前に発売した)だとウソのように快適に聞こえる。アマリアの声が少しも尖らず、温かくなめらかに響く。奥行きの深いホールの空気感が生き生き伝わってくる。このレコードで聴くかぎり、上記60年ライブよりも音がいい。

日本盤で? 上で言ってることと矛盾するんじゃね? イーエしないんです。だってこれ、プレスは日本でもカッティングはイギリスだもん。50年代の日本コロムビアは、洋楽のレコードを大体において提携先から輸入した金属原盤でプレスしていた。だから音質は英コロンビアの緑金レーベル盤と変わらない。

これ、捨て値でヤフオクに出ました。待てば海路の日和あり。

"No Café Luso" Columbia 8E174-40319/20
CDを手に入れたからもうエエわと手放してまい、あとで死ぬほど後悔したレコードの一つ。いつか買い戻さなと虎視眈々狙っていたら、ついに出てくれましたよeBayに。

イエ日本盤ならちょくちょくヤフオクで見かけましたよ。でもさあ、どうせ買い戻すならやっぱりオリジナルでしょ。

味気ないダブルジャケットの日本盤と違ってボックス入り。珍しい写真満載の解説書つきという、持ってうれしい見て楽しいセットである。レコードはこうじゃないとね。実用一点張りのCDじゃないんだからさ。アマリアのシルエットを描いたピクチャー・レーベルもうれしい。

ところで、アマリアってマリア・カラスと似てるんだよなあ。どこが似てるって、オリジナルのレコードとCDではまるで別人になってしまうところ。CDが悪いんじゃなく、レコード会社が古いアナログ録音をCDにトランスファーするとき関所のように通過させるデジタル・ノイズフィルタリング・プロセスがその元凶だ。

レコード史上最悪のこの凶暴なプロセスは、大なり小なり声の響きを破壊してしまうが、アマリアとカラスの声は特にダメージを受けやすい。それだけ微妙で豊かなニュアンスを含んだ声なんでしょうね。

CDに入ってる二人の声は、いわばカルシウム分が溶け出してスカスカになった骨粗鬆症の骨。

そういうわけで、カラスの初版LPはあらかた買い尽くしたから、いまはせっせとアマリアを漁ってます。
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10 ans de Brassens

2016-10-24 | 音楽
マリア・カラスの初版LPはひととおり手に入れたから次はブラッサンスを、と(どういう耳じゃ)eBayを漁ってみて、参ったね。10インチLPが円換算で1万近くする。

いや、価格は仕方ないが、それより困ったことに、どれもこれも盤の状態がひどいらしい。ほとんどVG、よくてEX。つまり軒並み5段階評価の上から3番目以下。

レコードを粗末に扱うことにかけてフランス人はアメリカ人といい勝負だから、EX以下のレコードなんか危なくて、とても手を出せない。使ってるプレーヤーは7インチ・ターンテーブルと圧電カートリッジ(針圧がめちゃ重)のポータブルで、壊れるまで針は取り替えない、なんてのが彼らの常態だったもんね。

あ、新品同様で1000円以下てのも結構ありますよ。でもそういうのは、初版じゃなくて70年代か80年代に出た復刻盤なんだよな。レコード番号で分かる。ジャケットもレーベル・デザインも初版と同じだが、中身はリマスタリングしまくりのギスギス痩せた音。これならノイズがないだけ、CDの方がマシだ。



そんな状況の中で、どうにか行けそうだったのが、写真の6枚組ボックスセット。デビュー10周年記念だから1963年の発売である。つまり初版ではない。

しかし、コンピューターもまだアナログだった時代のレコードだ。リマスタリングはされているとしても、当然、諸悪の根源のデジタル・ノイズフィルターは適用されていない。さらに、当時のフランスはステレオ再生装置が普及していなかったから、疑似ステレオという、レコード史上もっとも愚劣な細工も施されていないはず。で、音質劣化は比較的に少なかろうと見当つけて落札したワケです。

正解。50年代のプレス(のブラッサンスも、1枚だけ手許に残ってるんです)に比べると、わずかにギターの切れ味が鈍り、ヴォーカルの輪郭が甘くなってる感はある。マスターのSN比が劣化した分、高音を丸めたのだろう。

だが、ブラッサンスの太いバリトン・ヴォイスがあたたかな感触でぐんぐん前に迫り出してくる点は同じ。CDの冷たく刺々しい音とは全然違う。満足。

もっとも、収録曲の配列が年代順ではなく、"La geste héroïque et gaillarde"(大胆かつエッチな行い)だの "Le printemps du poète" (詩人の春)だの、テキトーなコンセプトで組み合わせてある。しかもフランス人の常で、選曲の基準が音楽無視の歌詞一辺倒だから、似たような曲調がダラダラ続く結果になって音楽的なメリハリが乏しい。

こういうところがコンピレーションの嫌なとこなんだよな。ブラッサンスの了解のもとに構成してはいるんだろうけど、他人の主観が紛れ込んでしまう。作者の初心が濁る。

以前、森進一が「おふくろさん」に無断でセリフを入れたってんで川内康範が激怒したことがあったが、あれ分かるよ。オレだって、自分の文章に他人が勝手に手を入れたらアタマ来るもん。

ところで、ディランへのノーベル賞授与、オレも基本的にイキな計らいだと思うよ。ディランがちっともありがたがらないので、選考委員は権威主義モロ出しで怒ってるけどね。

たださあ、詩人ディランがやってることって、ブラッサンスがその10年前にやってたことなんだよね。ずっと繊細なマナーで、ずっと美しい声で。その事実は、知っといてほしいです。
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パイオニア PL70

2016-05-31 | 音楽
昔、評判のよかったレコードプレーヤーで、状態のよさそうなのがヤフオクに出ていたので、つい買ってしまった。これまで使っていたプレーヤーが壊れたわけじゃないんだけどね。カネの遣い道に困ってるもんで(笑)。


1970年代末、オーディオ・ブーム真っ盛りのころの製品である。当時は作れば片っ端から売れたものだから、メーカーも高価な部品をふんだんに注ぎ込んで、技師に心ゆくまでぜいたくした製品を作らせていた。だから、あのころのオーディオ機器は、アウトソーシングがトレンドになりだした80年代後半以降の製品より丈夫で長持ちする。

これまで使っていたのも同じころのプレーヤーで、パイオニアのターンテーブルにSMEのアームを組み合わせたものだ。細部まで外科用メスで容赦なく切開するような、高解像度のモニター・サウンドだった。

PL70は対照的に低音たっぷり高音控えめの、おっとり穏やかな音がする。ヴォーカル帯域が荒れて喧しいレコードも、おとなしく聞こえる。木製ボディの箱鳴りを、うまく活用しているらしい。

昔はこういう、アバタを化粧で隠すようなサウンドが嫌いだった(だからモニター調のを買った)。しかし、スペック信仰の縛りが解けたのか批評家根性が抜けたのか、いまはリラックスして音楽を楽しめる方がいい。

それにしても、中古のプレーヤーも高くなったもんですね。5~6年前までは二束三文だったのに。LPの人気再燃を反映してるのかね。

で、ワタクシも引き続きLPをせっせと買い込んでるが、最近つり上げた収穫が、これ。

『メデーア』全曲(英コロンビア SAX2290/92)

ヤフオクなら、まず8万以下では落とせないマニア垂涎盤である。それがeBayで、400ポンド弱の即決で出ていたから即クリックした。ボックスにダメージがあるが、盤は文字どおりのNM。クリーニングなしでも、ほとんどノイズが出ない。イギリスの競売業者は概してアメリカの業者ほど神経粗雑ではない。

もっとも、このレコードのプレミアム人気は、多分にコレクターが英コロンビアに寄せるカルト的崇拝に由来すると思う。録音自体は米マーキュリーが担当し、原盤オーナーは伊リコルディだから、英コロンビア盤は孫テープをマスターに使ったサブライセンス盤だ。音質が格別いいわけではない。

序曲を米マーキュリーの初期プレス盤と比べただけで一目瞭然、コロンビア盤は解像度が劣る。2幕のバスとの二重唱でカラスの声が妙に疲れて聞こえるのは、高音を無理に持ち上げた弊害だろう。英コロンビアは、しばしばドンシャリ型の音作りをする。

マーキュリー盤はアメリカ・プレスの通弊でノイズが多くて閉口するが、音自体は響きが多く、迫力ときめ細かさを兼ね備えた高音質だ。カラスの声も悪くない(リコルディ盤は高音過剰の薄っぺらな音質で、論外)。

英コロンビア盤も鮮度の高い自社録音のレコードだと、派手めの音作りが効果的なんだけどね。

『ラ・ジョコンダ』全曲(東芝EMI AA-9213C)

こっちはヤフオクで、たったの360円。ダメ元で買ってみたら、あんまり音がいいので腰を抜かしてしまった。これまで聴いていた独エレクトローラ盤も英EMIのリカッティング盤も大きく上回る。同じ録音の英コロンビア初期盤がいま74800円でヤフオクに出ているが、200倍の差は絶対ないと思うよ。

東芝EMI盤はステレオ録音のレコードに関するかぎり、温かく円やかな音質でイギリス盤に充分対抗できる。盤質のよさ、プレス技術の精度では上回る。それなのに、オークションではまったく不人気(イギリスからメタル・マザーを取り寄せていた日本コロムビア・プレスに比べても不人気)。転売業者やコレクターは、ハナも引っかけない。ライセンス盤であることに加えて、東芝のモノラル盤の酷い音質が祟っているのではないか。

じっさい60年代に発売された東芝EMIのモノラルABシリーズは、どれもこれも聴くに堪えない音質だ。いま手許に『清教徒』と『カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師』の全曲盤が残っているが、どっちもカラスの声がギスギス、オーケストラは低音スカスカ。響きが痩せまくって音楽が枯れている。布張りボックスの豪華さが虚しい。

当時、別のレコード会社のスタッフに聞いたことがある。モノラルのマスターは、何種類もの録音をマルチトラック・テープ1本に入れて取り寄せていたそうだ。もちろん、輸送コストを浮かすために。

当然、カッティングに回すときは改めて4分の1インチ・テープに再ダビングすることになる。もともと数倍のスピードでダビングしたテープをさらにコピーするのだから、この間に情報がどんどん失われて音は痩せ細る。

しかし、音質はモノラル・レコードの売り上げに影響しない。音楽雑誌はステレオ盤の録音評は載せたが、モノラルは無視していたからね。

大体、ステレオの開発以来モノラルは音が悪いというイメージが定着して、どれだけ手抜きしても音に文句をつけられる怖れがなくなった。実はモノラルにはシュタルケルのチェロ・ソロとか、ステレオではありえないほど凄い音質のレコードもあったのだが。

そういや、ポピュラー・レコードの録音評、なんてものもなかったな。ビートルズの日本盤LPはイギリス盤より音が悪いそうだが、モノラル・クラシックと同じように手抜き製造やってたんじゃないかね。

もっとも、東芝EMIのステレオも音がいいのは60年代のAAシリーズまでで、70年代に出たEACシリーズのリカッティング盤は全然ダメ。音質劣化の元凶のデジタル・ノイズフィルターを導入したからだろう。

上記2点のほか、『椿姫』のチェトラ初版、『清教徒』の英コロンビア初版、『ルチーア』の日本コロムビア盤と独コロンビア盤なんかも手に入れたが、ダラダラ長くなったから打ち止め。
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ピエール・ブーレーズ没

2016-02-07 | 音楽
一昨日の朝日デジタルに載っていた藤倉大氏の追悼記事は面白かった。ナマの姿を知っている人の証言は具体性に富んで、観念的な評論家の文章よりやっぱり説得力が大きい。

でも中で、ちょっと気になったのが次の一節。引っかかるってほどじゃないが、ちょっと違うんじゃないかなあ。

「ブーレーズのインタビューを読むと、インタビューをする人が、質問の最後まで言えているものが少ないことに気づく。それは、信じられないほど頭の 回転が速く……質問や文章の冒頭の時点で即座に答えてしまうから」

あのうフランス人て、特にパリの住民て、みんなそんな風なんだよね。ブーレーズみたいな有名人に限らず、タクシーの運ちゃんもホテルのコンシエルジュもレストランのおばはんも。それは、頭の回転が速いからというより、彼らの自己主張癖が強いからだとワタシは思うんですけど。

彼らは早い者勝ち主義だから、とにかく一方的にしゃべりまくる。いきおい相手の方も、黙って聞いていると言いなりになってしまうから、失地回復のために大急ぎで、より大声で、より早口で自分の考えをしゃべりまくる。

そういう習慣を子供の時から続けているから、相手の言い分を聞かないことが当たり前になっていて、礼儀に反するとも思わない。

サルトルは親切だ。私のフランス語があまり上手ではないのに配慮して、質問を最後まで言わせず答えてくれる……みたいなことを昔、掘田善衛がどこかに書いていたが、これも親切とは違うんじゃないかと思うよ。

フィリップ・トゥルシエが日本代表の監督をやっていたころ、遠慮ない多弁でサッカー協会の役員を閉口させた故事が思い出されますなあ。

ところで、ブーレーズは60年代の末だったか、「オペラは死んだ」と宣言して物議をかもした人である。しかし藤倉さんの記事によれば、その後もオペラの指揮をしていたらしい。言うこととすることが違うのもフランス人ではしょっちゅうだ。

あと、彼がIRCAMの教壇に立つときは、まず教室内に美少年がいないかジロジロ見渡してから授業を始めると現地在住の知人が言っていたが、ホントかね。
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ムーヌ・ド・リヴェル

2015-11-11 | 音楽
ワタシかつてはシャンソン評論家の看板出してたんですけど、論語読みのナントカなんだよね。シャンソン・クレオールは、ほとんど聴いてなかった。自慢にはならないけど。

そのシャンソン・クレオールにムーヌ・ド・リヴェルという、すばらしく心地よく聴ける歌手がいると知ったのは、つい最近のことだ。ひとえに原田尊志さんのおかげである。原田さんのお店、エル・スールのウェブサイトで歌の断片を聴いて魅了された。グァドループ系の移民二世だそう。

中村とうようさんが亡くなったあと、自分の耳で隠れた名演、名歌手を発掘しているのは事実上、原田さんぐらいじゃないかな。人の後追いで知ったかぶりをかますヤツは、ほかにいるけど。

この人の肝煎りで復刻されたのが、『島々や海岸線』というアルバムだ。半音進行を多用した曲調はちょっとバルバラを連想させるが、もちろんあんな貧血症みたいな頼りない歌ではなく、あたたかく滑らかなアルトが芳醇なメロディをのびのび歌う。

全盛期のマラヴォワがそうだったように、豊かな生命力を漲らせながら、隅々まで神経のかよった繊細な歌だ。

LPからのトランスファーらしいが、音質も目覚ましい。レコードよりもマスター・テープからトランスファーしたメーカー製CDの方がプロセスが一段階少ないから音がいいと、いまだに多くの人が信じているが、そういうのを観念論という。

アナログ録音は磁気テープの宿命で、時間の経過とともに劣化する。磁力の減衰に連れて微小信号が徐々に失われるのだ。高音は特に減衰が早く、鈍化した高音を補正するとノイズが増加する。

レコード会社は60年代以前の古い録音をCD化するとき、CDは開発当初ノイズが少ないことを売り文句にしていた手前、マスターに入っているノイズを目のカタキにして削除しまくる。これが曲者で、ノイズの道連れに音楽信号も大量に抹消してしまう。

だから大手のレコード会社が発売する復刻CDは、たいていストリングスやヴォーカルがギスギスに痩せて耳をつんざくような音質に変わっている。

録音直後にプレスされたLPは、もっとも鮮度の高い音を凍結保存している。大体、レコード製造はカンと経験がモノを言う工芸品に近い世界だから、ベテラン技師ともなると録音のアラを上手に抑えてマスターより美しい音に仕上げる、なんて手品みたいな芸当ができたのだ。

そのため、録音後何十年も経ったマスターよりも、初期プレスのLPから制作されたCDの方が音がいい。

この『島々や海岸線』は、そういうCDの典型だ。たっぷり響きの乗った声が目の前にぐんぐん迫り出してくる。まるで、レコードを直接聴いているみたい。

LPの泣きどころのスクラッチ・ノイズも、ごく目立たないのが1か所で聞こえただけだった。

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