蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

私事で恐縮。

2012-04-02 | 音楽
東京から電車で小一時間の郊外に移り住んで1か月。最後の段ボール箱も消えて、ようやく人間の住まいらしくなったが、一人暮らしのトシ寄りは引っ越す資格がないんじゃないか、とか一時は思ったね。この難事業を、とうようさんは70過ぎて2度敢行したんだから、やっぱり大した気力の持ち主だったよなあ。

東京の住まいでは、ワイドレンジ、ハイレゾリューションのモニター・タイプのスピーカーを使っていた。音質のいいCDの美点を堪能させてくれたが、その分、音質の悪いCDのアラを容赦なく暴き出して、耳が疲れることが多かった。引っ越しを機に、これを処分。

代わりに買ったのが、ウーファーの口径わずか11cmというミニサイズのスピーカーである。バスドラがズドーン、なんて凄い低音はもちろん出ない。高音も低音に合わせて適当に丸めてある感じ。聞こえなくなった音が随分ある。

その代わり、よりくっきり聞こえるようになった音があって、それは人間の声である。その声の響きの美しさといったら、ない。以前の大型3ウェイは、CDよりLPの方が音がいいこと、SP→テープ→ディジタルの順に人声が弱く虚ろになってくることを示していたが、今度のミニSPはSP録音でもテープ録音でも声をたっぷり、キレイに聞かせる。

つまり、全然ハイファイではない。音源に入っている耳障りな音を、全部消してしまう。それでいいのである。なぜなら、オレが聴くのはマリア・カラスにマリアテレーザ・デ・ノローニャ、古い録音ばかりだから。

このミニSPで聴くノローニャなんて、ホント蜂蜜のような甘く優しい声である。EMI系のあのギスギス突っ張った音質のリマスタリングCDが、やっと落ち着いて聴けるようになった。

ところで、スピーカーって残響の少ない和室だと固く緊張した音になりがちだが、フローリングの洋室だと朗々と鳴るね。再生音楽が西洋人の発明したものであることを、改めて認識。
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とうようさん

2011-10-02 | 音楽

去年の梅雨時、とうようさんに頂いた手紙の冒頭に次のようにあった。

「自分の死後の処理として、新宿区の……寺に永代供養の契約をしました。後見を……、……の両氏にお願いし、併せて遺言書も作成し終わり、ほっとしています」

それに対してオレは、さすが、ご自分の人生設計をきちんと完成しておられるのですね、などと能天気な返事を書いて出した。1年と1か月後に何が起きるか、知る由もなかった。

とうようさんとオレとの接点は、多くはなかった。もともと守備範囲が違ったし、書くメディアも別だった。大体、オレはミュージック・マガジン誌とあまり付き合いがなかった。

だがモノ書きのオレは、批評の姿勢から言葉遣いまで、いつもとうようさんをマネしてきた。このブログ自体が「とうようズ・トーク」のマネだ。だからオレは、あの人のことを師匠と呼んでいた。ある日、先生呼ばわりは辞めてくれと苦情を言われたけど。

何を書くにせよ、いずれどこかでとうようさんの目に触れるんじゃないか、という意識が常に頭の隅にあった。それが怖れでもあれば励みでもあった。とうようさんはパソコンを使ってなかったから、オレのブログが読まれるわけはないのに、更新する時にはやはりあの人のことが脳裡にちらついた。

とうようさんが逝ってしまったあと、オレは書けなくなった。書く張り合いがなくなった。

とうようさんはギックリ腰をやって起居が不自由になり、何事も自分でやらなければ気が済まない人としては思い通りに動けない自分が許せなくて死を選んだ、とも言われる。

それもあったかもしれないが、上の手紙からは、それ以前から覚悟しておられたのではないか、という気がする。本当の動機は、体力よりも知力の衰えを自覚したことにあったのではなかろうか。

晩年の「トーク」は失礼ながら、読んでいてツラかった。『地球が回る音』や『アンソロジー』に収録された文章に比べるまでもなく、読みの深さと分析の鋭さと視点のユニークさが薄れ、新聞記事の引用でマス目を埋めてるケースも多かった。

筆力の低下を敏感に感じていたのは、だれよりもまず、とうようさん自身だったに違いない。とうようさんは多分、批評家としての自分に限界が来たと悟った。ペンで生きてきた人間がペンの力を失ったら生き続ける意味はない。そう考えて、あの人らしい潔癖な幕の引き方をした。オレごときがあの人の胸中を忖度するなど、思い上がりも甚だしいが。

『アンソロジー』の最後に入ってる未発表の原稿によると、とうようさんが初体験したアメリカン・ポップはダイナ・ショアの「青いカナリヤ」だったという。オレが生まれて初めて買ったレコードも、この歌だった。同じように、故・帆足まり子さん司会のS盤アワーにかじりついていた。

その辺りのことを、もっともっと語り合いたかった。実際には無理だったろうけどね。人間の器が違ったから。
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福島で

2011-08-09 | 音楽
「大きくなっても、ガンになりませんように」

七夕の短冊に、このように書いたお子さんがいたそうですね。泣きました。いたいけな子供に、こんな不安な思いをさせる社会って……


去る7月21日に急逝された中村とうよう氏をしのび、追悼のレコード・コンサートを行います。

送り盆の八月です。

8月27日(土)3:30pm open 4:00pm start
国境の南
〒150-0043東京都渋谷区道玄坂2-25-5 島田ビル3F-D
TEL/FAX: 03-3463-5381
Charge: ¥1,000 (w. 1 drink)
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ファドは女だけのものじゃない?

2011-07-17 | 音楽
男性歌手が歌ったファドってYouTubeにたくさんアップされてるし、CDもけっこう出てるが、大体において詰まらない。どうもあの半音階を多用したメランコリックなメロディに男の野太い声は合わないんじゃないかって気がする。その辺、レンベーティカと似てるね。

だから、これまで印象に残ったファド歌手はアマリア・ロドリゲスを筆頭に、マリアテレーザ・デ・ノローニャ、ルシーリア・ド・カルモ、フェルナンダ・マリーア等々、女性歌手ばっかだもんね。まあ男性優位の“コインブラのファド”ってのもあるが、あれは音楽自体が詰まらない。
というふうに思い込んでいたから、ゴンサーロ・サルゲイロの新作には不意を衝かれたねえ。めちゃくちゃ胸にしみ込んで来るじゃありませんか。喉にストレスを掛けない柔らかな発声とコブシ回しが絶品。デビュー・アルバムから格段の成長である。「許しのゴブレット」なんてトラックは3回リピートしてしまった。惚れぼれしますよ。

ファドは女だけのものじゃない。レンベーティカにヨルゴス・ダラーラスがいるように、ファドにはゴンサーロが……と言いかけて、ハタと困った。だってこの歌手、心はオンナなんだもの。声は男でも。

付属のDVDを観ると、それがよく分かる。唇を誘惑的に突き出す仕種がハンパじゃない。普通の男にあんなマネできないよ。

やっぱファドは女のもの?

ファドと言えば、4枚組ブックレット仕立ての物すごいアルバムも出た。ポルトガルって国は財政破綻寸前だってのに、なんでこんな贅沢できるの?

順を追って聴くと、ファドは古い曲ほど面白く、かつ女性歌手の方がはるかに魅力的なことがよく分かる。4枚の中で聴き応えが一番あるのは、やはり1枚目の不朽編。ないのは3枚目の今日編。

意外だったのは、4枚目の明日編でも正統的なスタイルのファドが多数を占めてることだ。ファドという古いジャンルはシンセを入れたりビートを強調したり、下手にサウンドをいじっても意味ないのかもしれない。事実、ヘンな細工をした「暗いはしけ」は聴くに堪えない。

不朽編にも昨日編にもエルシーリア・コスタが収められていないのだけが残念。
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久しぶりに、フレンチ

2011-06-28 | 音楽
中国が高速鉄道の特許をアメリカで申請するそうだ。日本とドイツの技術を基にしといてだよ。で、昨日の報道ステーションで古舘伊知郎が言っていた。中国は怪しい、厚かましい(もう一つ、なんか言ってたけど忘れた)。

確かにそうかもね。でもさあ、なんで日本は特許を申請しないわけ?

さてと本題は、そんなことじゃなかった。フランス音楽に興味を失ってから、20年以上になる。仕方ないよね。70年代以降、出てくる新顔出てくる新顔、これでもかってぐらい詰まんなかったから。

このあいだ、ザーズとかいうのをテレビで見たが、フランスってやっぱりこの程度か、と思っただけだった。日本でも近ごろ評判なんだそうだが。

ここで採り上げるブラッチも、実はかつて面白いと思ったためしが一度もないバンドである。イディッシュ~東欧ジプシー系の音楽をパリでやってる連中だが、いつもプレイに芯がなくて退屈だった。デラシネの悲しさ。

だから新譜『たくさんの世界』も、全然期待しないで聴きだした。ところがこれが、意外にも……となると、お約束の展開だが、正直、彼らの演奏はやっぱりあんまり面白くない。ま、東欧ジプシーをやってもタラフ・ド・ハイドゥークスみたいにエゲツなくならないとこが、フランス的洗練と言って言えなくはないけどね。

しかし、ゲストの顔ぶれがすごい。しょっぱなからハレドが声の大乱舞、ホスト・バンドの顔色なしである。シャアビっぽい「あなたのいない千夜一夜物語」ともなれば、もはや完全独走態勢。この1トラックだけでも買う価値がある。音程外れっぱなしのシャルル・アズナヴール翁のアルメニア歌謡も奥深い。

6月はボーナス狙いで大手レーベルがどっと新譜を出すので、こういう小粋なアルバムは影が薄くなってしまいがち。で、特にご紹介した次第です。

しかし、菅直人ってしたたかだね。
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