図書館の書架の奥に山口瞳氏の『忘れえぬ人』がありました。
彼の死後、エッセイを再編したもののようです。
閲覧席でパラパラと読みだすと、梶山季之氏について書いた章を見つけましたので慌ててカウンターで借り出しました。
山口氏と梶山氏は大親友でありました。
親友・梶山季之
梶山季之に最初に会ったのは、新橋の烏森のトントンという酒場でだった。カウンターの奥のほうに坐っている色白の眼鏡をかけた青年を見て「ああ、これが梶山季之か」と思ったのを 鮮明に記憶している。才能がある、美男子である、女性にモテル、金ばなれがいい、書いたものが売れる、ということであると、性来僻みっぽい私はまず悪意を抱いてしまうのであるが、 梶山の場合は違っていた。いきなり「こいつはいい。ナイス・ガイだ」と思ってしまった。
梶山のほうもそうであったらしくて初めから大変に好意的だった。すぐにお互いに親友同士の交際になった。梶山は山口は俺の親友だと書くときに、必ず「心友」と書いた。 梶山は私を誤解しているんじゃないかと思ったものだ。梶山は私のためなら何でもすると言っていた。私 は、わけがわからなくてフワフワしたような気分になったが、悪い気持ではなかった。かえりみて、私は梶山のために何が出来ただろうか。 その頃のある時、梶山と私と女房と三人で夕刻の西銀座を歩いていた。女房は梶山とは初対面だった。 並木通りの洋品店のウインドに水色のワンピースが出ていた。妻が「あれ、いいわね」と言ったか、あるいは一瞬見蕩れるような目つきをしたのか、よくわからないのだが、すぐさま梶山は店に入っていって、それを買ってしまって女房にプレゼントした。値段は一万円ぐらいだった。昭和三十年代半ばの一万円という額はちょっとしたものである。女房はボーッ となってしまった。こんなふうに梶山は、まず人の心をギュッと摑んでしまうようなところがあった。気合がいい。これは彼の文章にも通ずるものだ。
あるとき、梶山に心酔していて、一番弟子といってもいいと思われる高橋呉郎さんがこんなことを言った。
「梶山さんの文章を読んでいて、この一行を書くために、カジさん、三年はかかっているなっ てわかるときがあるんです。それが梶山さんのいいところじゃないですか」
私も全く同感である。いいときの梶山の文章は、そういう一行一行の連発だった。だから、文章が緊密であり緊迫感があった。大宅壮一先生は、梶山のネタは常に新鮮だと言っていた。 その梶山がエロ小説を書くようになった。私は怒ったり叱ったりしていたが、そのうちに何も言えないようになった。梶山は所帯が大きくなり、色々な意味での扶養家族が増えすぎた。気のいい彼は、雑誌の穴うめのために一晩に百五十枚も書かされたりしていた。そうやって、私からするならば爆死するようにして死んでしまった。
梶山が、いまでも生きていたらどうだろうか、と考えることがある。いつでも、そんなら私が先きに死んでいたという結論に達する。 それくらい二人でよく飲んだ。彼が生きていたら禁酒なんか出来っこない。
引用元『忘れえぬ人』(山口瞳著)
改めて梶山季之先生の人生・仕事をウィキペティアで読み返すと、すごいとしか言いようがありません。
1975年5月、取材先の香港で食道静脈瘤破裂で急死。享年45歳。
まさに爆死でありました。
見出し画像の出所: amzon
彼の死後、エッセイを再編したもののようです。
閲覧席でパラパラと読みだすと、梶山季之氏について書いた章を見つけましたので慌ててカウンターで借り出しました。
山口氏と梶山氏は大親友でありました。
親友・梶山季之
梶山季之に最初に会ったのは、新橋の烏森のトントンという酒場でだった。カウンターの奥のほうに坐っている色白の眼鏡をかけた青年を見て「ああ、これが梶山季之か」と思ったのを 鮮明に記憶している。才能がある、美男子である、女性にモテル、金ばなれがいい、書いたものが売れる、ということであると、性来僻みっぽい私はまず悪意を抱いてしまうのであるが、 梶山の場合は違っていた。いきなり「こいつはいい。ナイス・ガイだ」と思ってしまった。
梶山のほうもそうであったらしくて初めから大変に好意的だった。すぐにお互いに親友同士の交際になった。梶山は山口は俺の親友だと書くときに、必ず「心友」と書いた。 梶山は私を誤解しているんじゃないかと思ったものだ。梶山は私のためなら何でもすると言っていた。私 は、わけがわからなくてフワフワしたような気分になったが、悪い気持ではなかった。かえりみて、私は梶山のために何が出来ただろうか。 その頃のある時、梶山と私と女房と三人で夕刻の西銀座を歩いていた。女房は梶山とは初対面だった。 並木通りの洋品店のウインドに水色のワンピースが出ていた。妻が「あれ、いいわね」と言ったか、あるいは一瞬見蕩れるような目つきをしたのか、よくわからないのだが、すぐさま梶山は店に入っていって、それを買ってしまって女房にプレゼントした。値段は一万円ぐらいだった。昭和三十年代半ばの一万円という額はちょっとしたものである。女房はボーッ となってしまった。こんなふうに梶山は、まず人の心をギュッと摑んでしまうようなところがあった。気合がいい。これは彼の文章にも通ずるものだ。
あるとき、梶山に心酔していて、一番弟子といってもいいと思われる高橋呉郎さんがこんなことを言った。
「梶山さんの文章を読んでいて、この一行を書くために、カジさん、三年はかかっているなっ てわかるときがあるんです。それが梶山さんのいいところじゃないですか」
私も全く同感である。いいときの梶山の文章は、そういう一行一行の連発だった。だから、文章が緊密であり緊迫感があった。大宅壮一先生は、梶山のネタは常に新鮮だと言っていた。 その梶山がエロ小説を書くようになった。私は怒ったり叱ったりしていたが、そのうちに何も言えないようになった。梶山は所帯が大きくなり、色々な意味での扶養家族が増えすぎた。気のいい彼は、雑誌の穴うめのために一晩に百五十枚も書かされたりしていた。そうやって、私からするならば爆死するようにして死んでしまった。
梶山が、いまでも生きていたらどうだろうか、と考えることがある。いつでも、そんなら私が先きに死んでいたという結論に達する。 それくらい二人でよく飲んだ。彼が生きていたら禁酒なんか出来っこない。
引用元『忘れえぬ人』(山口瞳著)
改めて梶山季之先生の人生・仕事をウィキペティアで読み返すと、すごいとしか言いようがありません。
1975年5月、取材先の香港で食道静脈瘤破裂で急死。享年45歳。
まさに爆死でありました。
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