続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

忘れないうちに思い出すままに

2018-08-15 17:50:54 | 忘れない
東京が激しく空襲にさらされたのは昭和19年だったかしら。
すぐそばに高射砲陣地があったのに、ちっとも当たらなくて、音ばかり
まるで大掃除で畳をぼんぼん叩くような音ばかりでした。
探照灯でくっきりB29をとらえてもただ見ているだけでした。
大きかったです。悠々と飛んでいました。

ところが日本の戦闘機がB29との空中戦で、B29を撃墜したのです。
銀色のパイプのようなものがばらばらときらきら光って落ちて行きました。
外で見ていた人たちが歓声をあげましたが、両親はすぐ家の中入って
あんな声を出すんじゃないと言いました。
みんなは茂原の方に落ちたんじゃないかと言っていました。

またその後の空中戦で煙をはいて真っ黒になった日本の戦闘機が
低空で飛んで行ったときは、みんなで泣いてしまいました。
東京湾に落ちたんだろうとみんな手を合わせて拝みました。

錦糸町の駅でB29の搭乗員が掴まって柱に縛られみんなに
殴られていると言う噂が流れました。

間もなく我が家は3月10日の大空襲で跡形もなく焼けました。
父の大好きな浪花節のレコードが灰色になっていました。
逃げる時馬が道路を行ったり来たりパカパカと走り回り
怖くてその音と風の音がしばらく耳から離れませんでした。

焼け残った一郭の家を借りて落ち着きましたが
毎日の空襲です。
リヤカーに荷物を載せて、焼け跡に避難しました。
物凄い空襲で飛行機が沢山飛んでいました。
それが東京山の手の空襲だったことが後で知りました。

米軍のビラが撒かれていました。拾った者は、交番に
届けないと罰せられるから拾わないように言われました。
あるとき空から紙がひらひら飛んできました。
みんな集まりましたが、どこからか見知らぬ男の人が
落ちてきた紙を奪うように取っていきました。
不思議な人たちでした。
噂では、アメリカ兵が日本の子どもを笑顔で抱いている
写真だったそうです。

間もなく戦争は負けました。
父のつぶやき・・・戦争も喧嘩も勝たなきゃだめだな。
泥棒よけに矢でも鉄砲でも持ってないと馬鹿にされるぞ。

戦争犯罪人として東條さんたちがレシーバーをかけさせられて
出て来たときは、父はアメリカに不利なことを言うと、電気が
通じてビリビリさせられるんだ、気の毒にな。と言いました。
わが家はみんなそうだとばかり思っていました。
学校でもみんなそう言っていました。
レシーバーなんて知らなかったんです。

戦争が終わって次は飢えとの戦いでした。
私は母の実家が農家だったのでいつも預けられました。
いわゆる 食い扶持稼ぎ です。小さくてもしっかり
稼いでいました。
祖母も叔父叔母みんな良くしてくれました。
手伝いもせず遊んでいて今思うと申し訳ないです。











八月十五日の記憶

2018-08-15 08:35:04 | ひとりごと
三月十日の大空襲で家を失くした私たちは。
焼け残った家を借りて住んでいました。周りは焼け跡でした。
あの日は暑くても真っ青な明るい空でした
天皇陛下の大切なお言葉の放送がありました。
ラジオも焼けてしまって、近所のお宅にみんな集まってお言葉を
聞きました。
ラジオの音が聞きづらく私には難しい言葉で良く分かりませんでした。
お言葉終わった後大人たちは泣いていました。お母さんに抱かれた
小さな子もお母さんが泣いているので、一緒に泣いていました。
よくドラマで 終わったぞ!とうれしそうな声を上げる人なんて
いませんでした。

家に帰り、もう空襲がないぞと父、母はこれ以上空襲が
夜昼続いたらみんな気が狂ったねとほっとした表情でした。
それからが大変でした。戦時中は統制が取れていた食糧です。
少なくても配給がありました。
混乱の時代父と母は食糧を手に入れるために苦労しました。
私たちも我慢しましたが、訳の分からない真っ黒なお団子を
父が知り合いから買ってきました。我慢して食べました。
でもお腹をこわした記憶がありません。大丈夫だったのです。

今の歳まで生きていられるのは父と母のお蔭です。
ただ大きい兄さん(長兄)はニューギニアのサンサポールでの
北岸作戦で無念の戦死です。
小さい兄さん(次兄)は無事横須賀から復員してきました。
今日も青い空ですね。