続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

東京大空襲のこと

2020-03-09 12:24:21 | 怖かった

75年前の空襲を思い出します。

夜中に起こされて、外を見たら、大きな火の粉が

家の前の通りを凄い勢いで飛んでいます。

防空頭巾、小さな袋を斜めがけにして、火の粉を

見ていました。次姉と父がいません、

近所の火を消していると母が言いました。母は

リヤカーに荷物を積んでいます。お米屋さんが

空気入れを貸してと言って空気入れを持って

行きました。

次姉と父がもう駄目だ逃げよう空気入れは?

お米屋さんが・・・お米屋さんはもう避難して

お店の前に空気入れが投げ出されてあったそうです。

それを持ってきて、空気を入れて避難しました。

ご主人が戦地にいる隣の家の小母さんと小さな

三人も一緒に総勢10人が連れ立って避難です。

お隣の6歳の貞雄ちゃんは、しっかり荷物を

背負っていました。真ん中の良子ちゃんは4歳、

姉が背負いました。一番小さいとし坊は小母さん

私はその前に足を挫いてよろよろしとしてい

ました。恥ずかしながら母に背負われました。

強風と、火の粉の中全員助かりました。

私たちが船堀橋を渡りきったところで、

橋は燃えてしまったそうです。

その後は親戚に助けられて無事いままで

生かされて来ました。

お隣の小母さん可愛い三兄妹も無事に小母さんの

実家に戻れましたが、小父さんはハルピンで戦死

しました。有名なお店のコックさんでした。

前線には行かないだろうと父は言っていましたが

残念でした。長兄も3月ニューギニアで戦死。

色々な事を思い出す三月です。

沢山の人が焼死したのに、政府はその後も初期の

消火を勧めていたそうです。正直に消火していて

もう少しで全員死ぬところでした。

リヤカーの空気入れを放り出した、お米さん

は戦後派手に仕事をしていたそうですが、

父はあんな奴がね~と言っていました。

すぐ上の姉には、強子は腰が抜けたんだね、と

いつまでもからかわれていました。

橋のたもとで私たちを、出迎えてくれた、警防団の

人たち、親戚、みんな有り難かったです。