9年前の3月9日、私たちが被災した、江戸川区で
戦災資料館ができて、展示物もあると新聞で見て、
電車を乗り換えバスでと言うのは、無理なので、
少し贅沢して懐かしい江戸川区小松川に行ってきました。
見違えるように整理された町になっていました。
昔の区役所は川向こうに移転してしまい、区の施設が
ありました。唯一焼け残った文書館がありました。
施設の中には、当時の生活を偲ばせる衣服、食器が展示
されていますた。焼ける前の、地図には住んでいた人の
名前調べられてありました。優しい叔父さんの提灯やさん
空気入れを放った米や、大きなお金持ちの乾物やさん、
お世話になったお医者さま、友達の質屋さん、
駄菓子屋さん、煙草屋さん、我が家は履物屋が
分かりました。係の人にお礼を言いました。
これだけ調べるのは大変だったでしょう。
前任者の方が熱心になさったそうですが、昨年
亡くなられたそうです。私たちの避難した経路を
子どもの頃の記憶ですが、お話ししたら、
良くご無事でしたね。と仰いました。
父と母は火に向かって避難したのでした。
大回リしてでも助かりました。
区役所の隣の小松川神社に、お参りしました。
防空壕があったところです。
昔の町内の地図をコピーしてくださいました。
まだ少し見ていたかったのですが、夕方の
混雑に遭わないように帰ってきました。
11日は、同じ運転手さんの当番の日なので
心残りのないようもう一度行こうと思いました。
連絡したら、遠くに行く予定がで来たので、無理
でした。少残念でしたが、家にいることにしました。
11日友達Mちゃんがお菓子を届けてくれました。
おしゃべりしていたところ、もの凄い揺れが来ました。
とても長い揺れでした。北上にいる孫たちの顔が
目の前に浮かびました。すぐメールをしましたが、
繋がりません、その後、家の中が滅茶滅茶です。
とママのメールがあったきり連絡なしでした。
まさかこんな大きな震災だったとは、津浪の凄さに
震えが止まりませんでした。
11日に小松川に行っていたら、帰りは大変なことに
なっていたと思います
当番だった運転手さんは、明け方になっても、
家に帰れなかったそうです。