続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

可愛いいとし坊

2020-08-10 13:05:16 | 可愛い
東京大空襲の時私たちと一緒に逃げて無事
助かったお隣には、サダオちゃん、良子ちゃん、トシオちゃんが
いました。お父さんが出征したので、母子4人暮らしでした。
トシオちゃんは私はとし坊と呼んでいました。2歳ぐらいだったのかしら。
私が給食で残してきたパンを たちたち(お菓子) と待っていました。
ぼそぼそのパンで喉につかえそうで、食べるのが辛いパンでした。
食べないと叱られて、家に帰らせてくれません。
いつも3人ぐらいが、泣きそうにしていました。
最後は私です、上級生が掃除に来ます。早く食べろよ・・・
私は泣きます。しょうがないな~もう帰れよ、と言われて、パンを
袋に入れて飛んで帰ります。
家に着き店にランドセルを置いて、すぐにお隣のとし坊の家に
行きます。とし坊は たちたち~ と喜んで抱きつきます。
可愛かった。何回も泣いてパンを持って帰りました。
うるさいから早く帰らせろ、と言う上級生と、またこいつかと怒る
上級生がいても、ひたすら泣き戦術で乗り切りました。
しばらくしてその給食もなくなりました。
とし坊も可哀想でした。
とし坊はどうしているかしら、サダオちゃん、良子ちゃん、も
三人のお父さんは満州で戦死しました。
お父さんの実家にみんなで帰りましたが、その後のことは
分かりません。もうみんな75は過ぎているでしょう。
元気かしら。可愛かった三人でした。





  




原子爆弾と戦後のこと

2020-08-10 13:05:16 | 辛い
私は東京大空襲に遭いましたが、猛火の中
家族6人、お隣の家族4人も無事逃げ延びました。
その後焼け残った家を借りて住みました。
新型爆弾が落とされたそうだ、100年草木が生えない
らしいと大人たちがひそひそ話していました。
敗戦になり、苦しいひもじい思いをしながらも、
両親や親戚のお陰で無事育ちました。
長兄はニューギニアで戦死しました。次兄は横須賀から
帰ってきました。
 
姉が結婚するとき、相手のお父さんが、お宅の息子さんは
戦死なさってお気の毒です。息子は無事帰ってきましたが
息子も地獄を見ました。と母に話したそうです。
復員してほっとしたのもつかの間、再び国から呼び出されて、
沢山のお金を渡されて、とにかく行ってくると出かけました。
外地じゃないからと、安心して行ったところが、広島でした。
衛生兵だった義兄はどのような仕事をしたのでしょうか、
帰ってきたときは、疲労困憊ていたそうです。
私たちはずっと後になって母から聞きました。
被爆はしなかったのでしょうか。
義兄は良き家庭人で、仕事もしっかりして、部下に信頼されていました。
酔うと 明治一代女 を唄っていました。陽気な人でした。

次兄は水兵だったので、棒で殴られたよなんて笑って言っていました。
泳げないから海に放り投げられた・・・アップアップしたよ~
私たちは笑っていましたが、苦労したんですね。
その兄は警察予備隊から誘いがありましたが、断りました。
あの時代の人は人に言えない苦労をしたのだと思います。

お国のために尊い命を捧げた英霊を祀る、靖国神社に
お参りに行かない総理、議員、役人、はどのような考えをして
いるのでしょうか。知りたいです。