続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

団十郎襲名

2019-01-20 16:46:47 | 期待してます
海老蔵さんが来年団十郎襲名なさるそうです。

おめでとうございます。

私の姉たちは海老蔵さんの御祖父様のフアンでした。

歌舞伎座から帰ってくると、海老様海老様で大変でした。

海老様が私の方を見たとか目が綺麗とか

私はさっぱり分かりませんでした。

その頃私は、マーガレットオブライエンに夢中でした。

今の海老蔵さんが成田山新勝寺にお父様の団十郎さんと

いらっしゃるとき、私と友人は京成成田駅でお出迎えを

しました。なんて綺麗な人だろうと思いました。

スカイライナーから降りたときみんな大騒ぎでした。

海老蔵さんは少し緊張した様子でしたが、

団十郎さんは、ニコニコして私たちの声援に応えて

くださいました。

成田山新勝寺開基1070年の総門落慶の時、私は招待されました。

団十郎さんがご挨拶なさった時声の素晴らしさに驚きました。

力強く響き渡りました。

海老蔵さんも御祖父様お父様と同じような素晴らしい活躍を

期待します。

姉たちは海老蔵さんの姿を見ることなく亡くなりましたが、

もし生きていたら、私の海老様にそっくり

と言ったかもしれません。









市原 悦子 さん

2019-01-19 18:18:28 | 素晴らしい人
市原悦子さんが亡くなられました。心からお悔やみ申しあげます。

日本昔話、家政婦は見た、沢山テレビで見ました。

私の市原さんの一番印象に残った作品は、近松心中物語です。

帝劇で見ました。平幹二朗さん、太地喜和子さん、菅野菜保之さん、

市原悦子さん、素晴らしい方ばかりでした。

太地喜和子さんが舞台に現れた時、太地さんの吐息か観客のため息か

と思われるほどの空気が流れました。

市原さんは身体の動きが生き生きとしていて、素晴らしい動きでいた。

よく覚えていませんが、綱で二階に昇るような場面でした。

とにかく身体の動きが敏捷で、驚きました。

勿論太地さんの衣が柔らかく風に舞っているような、柔らかさも

印象的でした。平さんの美しい声、菅さんの戸惑いがちで、

哀しくて少し笑ってしまうような台詞。

市原さんの訃報を聞いて、次々思い出しました。

新聞で知ったことですが、市原さんは運動神経抜群の人

だったそうです。あの物静かな話し方から想像できませんでした。

市原悦子さんのご冥福をお祈り申上げます。








待望のカルーセル

2019-01-17 16:53:46 | うれしいこと
注文していた綺麗な缶が届きましたカルーセルです。



何気なく楽天でお菓子を探していたら、可愛い缶を見つけました。

私の好きなカルーセルです。英国製です。すぐ注文

昔夫が海外に出張すると綺麗な缶に入ったお菓子を買ってきました。

子どもたちは大喜びでした。マッキントッシュのクオリティーストリートや

スイスの小さなチョコレート、後はホテルでベッドにおかれた小さなチョコ

夫はお休みチョコと言って子どもたちに渡していました。

クオリティーストリートの缶は綺麗でした。今は違うデザインになっています。

この缶は中味はともかく、カルーセルが、気に入りました。

幼い頃父と花屋敷の回転木馬に乗りました。小さかったので、馬には乗れず、

小さな赤い自動車に座りました。

サンフランシスコのフィッシヤーマンワーフで無理を言って乗ったのも

幼い頃の思い出があったからかしら。

浦安のディズニーでは荷物番でした。夫の得意そうなうれしそうな

顔を思い出します。

中味はタッフイーとファッジで、美味しいです。英国の味かしら。

テーブルに置いてカルーセルの思い出に浸ります。



これは私のお気に入りの布とビーズ出できた小さな絵です。

横綱稀勢の里の引退

2019-01-16 20:40:23 | 辛い
哀しい辛いニュースでした。

場所が始まってもどうしても見ることができなくて、相撲番組は

見ませんでした。頑張っているのは分かっていても辛くて・・・

多分こうなるとは思っていましたが、切ないです。

これからの新しい道を、しっかり進んでくれることを期待しています。

本当にご苦労様お疲れ様でした。


父は相撲好きでした。昔々国技館に行くと、お土産はなんとサトウキビ!

もう物資が少なくなってきた時で、サトウキビはうれしいお土産でした。

台の上でトンカチで叩くと繊維がほぐれてそれをみんなでチュウチュウ

吸います。母は嫌がっていましたが、私たちは大喜びでした。

戦後双葉山が宗教を信じて、教祖様をマスコミから守るためにしたことが

暴力と言われました、父や近所のおじさんたちは、双葉山がしたことは

当たり前だよ、って言っていました。

私たち子どもたちも双葉山の味方でした。

みんな相撲さんが大好きでした。

戦後国技館が使えなくて、浜町公園で臨時の国技館ができました。

私たちどもたちが招待されました。

私たちはあちこち歩き回って、お相撲さんが、髪を直しているところや

川に向かって涼んでいるところを見て回っていました。

そこへ静かに浅黒い立派なお相撲さんが出てきました。

目が鋭く、化粧まわしは緑、(モスグリーン)千代の山関でした。

騒いでいた私たちは一瞬はっとして言葉が出ませんでした。

わー綺麗、友達が小さな声で言いました。

それから私たちは自分の席に戻っておとなしくなりました。

千代の山は横綱になりました。

あの一瞬を忘れることができません。

その後縁があって毎場所同じ席で観戦できることができました。

父が生きていたらどんなに喜んだことかと思います。

私たち日本人はお相撲が大好きです。

横綱稀勢の里よく辛抱なさいましたお疲れ様でした。

これからの相撲界を支える人になって下さい。

頑張ってください。



  







小豆粥を食べました

2019-01-15 11:46:40 | ありがたい
15日は小豆粥の日です。作りました。

と言っても、備蓄食料の中から、小豆粥を出しました。

七草がゆの時と同じ、温めて焼いたお餅を入れて少し塩味で

美味しく頂きました。

袋を見たら賞味期限2016年でした。

でも美味しかった。あと 7 袋残っているので、早く食べないと。

災害の時、高齢者は水分のあるお粥が良いと聞いて、備蓄しました。

あと10穀粥もありました。これからお粥生活になりそうです。

昔々姉が明日は小豆粥だよとさも美味しそうに囁きました。

私は甘いお汁粉のような物を想像しました。

朝お膳に出たのは小豆でしたが、お塩味でした。甘いのを

期待していた私は、少ししょんぼりしました。

そのうち毎日お粥、雑炊、すいとんの日が続く生活になりました。

またか~と言う気持ちになりましたが、両親に戦地で戦っている

兵隊さんのことを考えなさいと言われました。

我が家は長兄、次兄とも戦地に行っていました。長兄は激戦地

ニューギニアで戦死、その後の情報では餓死だそうです。

今は幸せです。お粥の処分に頭を悩ますなんて。

しっかり食べますお粥さん。ごめんなさい大きい兄さん。



今朝2年前に切ったムクゲの切り株からキノコが生えていました。
ヤブランに隠れていました。