夢子の部屋

日々の生活の思ったことを自分勝手に書いています。

私の宗教遍歴♬

2022-09-09 08:06:46 | エッセイ
おはようございます♪
金曜(9月9日)の朝。
曇り。

14.~5歳のころから
「人は何のために生きているのだろうか?」
など考え出して それは結構長い年月続いていた。

長崎県の諫早市に親戚(祖父の兄の家)があったので
中学以降は たまに遊びに行ったりした。
最初に遊びに行ったときは 諫早や長崎の観光を案内された。

おばが 熱心なPL教の信者だったので
教会に連れて行かれた事もあった。
生きる意味を知りたかったので 教会の方に色々質問したりもした。
しかし ピンとこなかった。

長崎市内は キリスト教の教会がたくさんある。
ある時ふらふらと入って マリア様を眺めたりしていたら
牧師さんのお話を伺う事が出来た。ありがたいと思ったが
これも ピンとこなかった。

漱石の「門」ではないが
私も門の前まで行って 中に入れない人間なのか
と思ったりした。 要するに雑念が多いのだろうと!

常に 生きる意味を考えていたが
そう簡単に 結論が出るものでは無かった。

結婚し親になったら 忙しさで
あまり そういう深いことは頭から離れて行った。
時々はおもうこともあったりして!

30代後半から 子供の事や親の病気などで
心があちこち揺れ動き すがるもの欲しさに
天理教に道を求めた。 
天理教は義母や義姉が信仰していた。
昭和天皇が崩御されたとき 日本中が喪に服すので
勤めていたお店も休みなので
その期間を利用して ようぼく になった。
お祈りして快癒願いなど 出来る人に。

割とがむしゃらに突き進んだが
いつまでも 自分の生活が思い描く通りにならないので
ある時を境に ピタッ! と止めてしまった。
それでも 7,8年は信者だったか。
(多分 今でも天理教の大元には 私の名前が残ってるだろう)
あの時は 何の宗教でもよかったのだと思う。
とにかく すがる物が欲しかっただけ。

現在は 信仰している宗教はない。
歳をとったせいなのか
若い頃のように「生きる意味」などで悩まないので
今は 毎日 のほほんと生きている。

旧統一教会などのニュースを目にし
久々に 自身の宗教遍歴を 思い出したりしている。 





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