セミの終わる頃(9)

2016-12-30 13:25:18 | 小説
    第四章 鹿の想い

治子が介抱してやった小鹿はお嫁さんを連れてくるようになり、仲睦まじくしている。
しかし、治子を見る目が潤んでいて、エサをくれる人間以上の想いが治子には感じられる。
成長した雄鹿の治子への想いは、自分達に小鹿が産まれてからもずっと続いており、雄鹿が治子にすり寄って来た時に
「あなたには奥さんが居るでしょ、浮気はダメよ。」
と声を掛ける毎日であった。
治子も若い雄鹿が人間であれば不倫に及んでいただろうと考えて、フッと白石との思い出が頭をよぎることが有った。
白石とは恋人ごっこであったが、体は激しく燃えていた。本当の恋人であれば、この上ない幸せであっただろうと考えると、寂しさが込み上げてきた。

治子はふっと、この鹿が人間であれば命を助けてあげた男性から感謝の心と愛する心を貰えるなんて素敵ではないかと考えた。

「ねえ、私とずっと一緒に居てくれる。」
「もちろんだよ、僕の命は全て君の贈り物だからね。体も心も全て君に捧げるつもりだよ。」
二人で知らない地に足を踏み入れたり、
名作のラブストーリーが上映されている空間で二人が主役になったり、
二人で小さな遊園地の迷路で迷ったり、
今日は特別な日だから奮発した食事をしたり、
太陽の下の広い海辺で水着を着た二人で駆けっこをしたり、
大空の花火を見た後で手に持った線香花火に火をつけて二人で眺めていたり、
大きな木の陰で背中合わせに座って本を読んだり、
思い切ってオーロラを見に行ったり、
今まで忘れていた思い出造りができたであろうと思うと治子は寂しさがこみ上げてくるのであった。

そして、治子はこの鹿の愛情が手に取るように分るが恋人にはなれない。
「あなたには雌鹿と小鹿がいるでしょ。」
「鹿の愛と、人間への愛とは別なんだよ。僕は鹿であり人間なので、人間の僕が愛しているのは治子さんだけなんだよ。もちろん鹿の時は雌鹿と小鹿を愛しているんだよ。」
「そんな都合のいいことが有るの?」
「僕の愛は鹿とか人間とか関係なく、生きているものに対する愛なのです。」

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