第五章 白石との再会
同僚の白石は治子との思い出も忘れ、順調に業績をあげて出世をしていった。
白石のいる会社は、次々と出資していた観光会社の経営権を取得して、温泉宿の古い経営体質から観光リゾートへの脱皮を図ることになり、白石に経営を委ねた。
白石は持ち前の強引さで、旧経営陣と縁の有る社員を全員解雇し、自分の方針に同調する者のみで体制を確立していった。
一方、おかみさんの経営している温泉宿は、ひなびた田舎の湯治場の古い温泉宿なので、常連客には人気があるが、新規の利用客は伸び悩んでいて経営は厳しく、いたる所の修繕に資金が必要であった。
おかみさんは仕方なく投資会社から経営参加を条件に資金を借り入れたが、投資会社は経営効率を考えて、リゾートホテルへの転換を迫った。
しかし、おかみさんは経営効率より常連客がくつろげるのが湯治場なのだと、受け入れを拒否し続けたので、投資会社は投資効率を向上させて温泉宿を転売し、高収益を揚げることが不可能だと判断し、商社に持ち株を譲渡してしまった。
商社は投資会社のようなスピードは要求しないが、五ヶ年計画で経営改善を求めてきた。
しかし、おかみさんは、常連客がくつろげなくなるような五ヶ年計画は立案せず、商社とも対立していった。
また、高齢なおかみさんは信頼を置ける治子に温泉宿の実務全般を任せ、自分は経営判断のみを行なうようにしていた。
ある日、治子は商社との会議におかみさんと同席する事になって、温泉宿の玄関で商社のメンバーを出迎えた。
そして、商社のメンバーが乗ったタクシーが温泉宿に近付いてくると鹿が「ギュルギュル、ギュ~イ。ギュルギュル、ギュ~イ。」と激しく威嚇するように吠えた。
タクシーが玄関に止まり、そこから最初に下りてきた男の顔を見た治子は目が釘付けとなった。
「白石さん。」
「おう、君はこんな所に居たんだ。元気かい?」
「あらっ、この方をご存じなの?」
おかみさんは不思議そうに治子に問いかけてきた。
「この人よ、商社で一緒に働いていた人は。」
「そうなの、この方なの。」
「私は君の残した損失を半分にした能力を評価され、観光会社の社長に抜擢されたんだけれど、本当はこんなちっぽけな子会社の社長には収まりたくないんだよ。私の実力は親会社の商社の社長に相応しいんだよ。その時までにこのちっぽけな温泉宿は取り壊して、この辺一帯を日本でも有数なリゾート施設にしてしまうよ。こんな湯治場の温泉宿ではまともな収益は見込めるはずがないんだよ。」
「いいえ、湯治場はお客様がゆっくりくつろいでもらう場所なんです。」
「それでは投資効率が悪いのが、あなたもお分かりだと思いますがねえ。先祖代々受け継がれた温泉宿だと思いますが、時代の流れに取り残されて、逆にご先祖様に申し訳ないのでは無いのでしょうか?」
「いいえ、私の代で終っても、常連のお客様が喜んでいただける温泉宿のままにします。」
「分りました。それでは臨時の株主総会と取締役会を開催して、この温泉宿の取り壊しとリゾート施設建設の決議を行ないます。」
「私は決議に反対します。」
「現在の株主構成をご存じでしょ。今、我々は何でもできるんですよ。
それから治子さん、あなたは社員名簿に載っていないので正式な社員ではないですよね。君さえ良ければリゾート施設の副支配人として私が雇ってあげてもいいよ。今の私は何でもできるからね。君が副支配人でここに居てくれたら、私がここに出張で来た時に、以前のように二人で夜を楽しめるしね。」
「お断りします。あなたは、私の知っている白石さんではありません。」
「この温泉宿は間もなく無くなるのだから、考えた方良いよ。」
「結構です。」
「おかみさん、あなたの頑固さは分りました。今日は、これから帰って臨時株主総会の準備を行いますので、招集通知書が届いたら出席して下さい。代わりに委任状を提出してもらっても良いのですけれどね。それでは今日はこれで。」
そして、タクシーが走り始めると、鹿がまた「ギュルギュル、ギュ~イ。ギュルギュル、ギュ~イ。」と、けたたましく吠え立てた。
草食動物の鹿は下の前歯(切歯)が包丁となっていて、前歯の無い上あごに草を押し付けてかみ切って食べているので牙は無く、本来おとなしい動物なのであるが、そのおとなしい鹿が威嚇するような形相で歯をむき出しにして吠え立てたのであった。
同僚の白石は治子との思い出も忘れ、順調に業績をあげて出世をしていった。
白石のいる会社は、次々と出資していた観光会社の経営権を取得して、温泉宿の古い経営体質から観光リゾートへの脱皮を図ることになり、白石に経営を委ねた。
白石は持ち前の強引さで、旧経営陣と縁の有る社員を全員解雇し、自分の方針に同調する者のみで体制を確立していった。
一方、おかみさんの経営している温泉宿は、ひなびた田舎の湯治場の古い温泉宿なので、常連客には人気があるが、新規の利用客は伸び悩んでいて経営は厳しく、いたる所の修繕に資金が必要であった。
おかみさんは仕方なく投資会社から経営参加を条件に資金を借り入れたが、投資会社は経営効率を考えて、リゾートホテルへの転換を迫った。
しかし、おかみさんは経営効率より常連客がくつろげるのが湯治場なのだと、受け入れを拒否し続けたので、投資会社は投資効率を向上させて温泉宿を転売し、高収益を揚げることが不可能だと判断し、商社に持ち株を譲渡してしまった。
商社は投資会社のようなスピードは要求しないが、五ヶ年計画で経営改善を求めてきた。
しかし、おかみさんは、常連客がくつろげなくなるような五ヶ年計画は立案せず、商社とも対立していった。
また、高齢なおかみさんは信頼を置ける治子に温泉宿の実務全般を任せ、自分は経営判断のみを行なうようにしていた。
ある日、治子は商社との会議におかみさんと同席する事になって、温泉宿の玄関で商社のメンバーを出迎えた。
そして、商社のメンバーが乗ったタクシーが温泉宿に近付いてくると鹿が「ギュルギュル、ギュ~イ。ギュルギュル、ギュ~イ。」と激しく威嚇するように吠えた。
タクシーが玄関に止まり、そこから最初に下りてきた男の顔を見た治子は目が釘付けとなった。
「白石さん。」
「おう、君はこんな所に居たんだ。元気かい?」
「あらっ、この方をご存じなの?」
おかみさんは不思議そうに治子に問いかけてきた。
「この人よ、商社で一緒に働いていた人は。」
「そうなの、この方なの。」
「私は君の残した損失を半分にした能力を評価され、観光会社の社長に抜擢されたんだけれど、本当はこんなちっぽけな子会社の社長には収まりたくないんだよ。私の実力は親会社の商社の社長に相応しいんだよ。その時までにこのちっぽけな温泉宿は取り壊して、この辺一帯を日本でも有数なリゾート施設にしてしまうよ。こんな湯治場の温泉宿ではまともな収益は見込めるはずがないんだよ。」
「いいえ、湯治場はお客様がゆっくりくつろいでもらう場所なんです。」
「それでは投資効率が悪いのが、あなたもお分かりだと思いますがねえ。先祖代々受け継がれた温泉宿だと思いますが、時代の流れに取り残されて、逆にご先祖様に申し訳ないのでは無いのでしょうか?」
「いいえ、私の代で終っても、常連のお客様が喜んでいただける温泉宿のままにします。」
「分りました。それでは臨時の株主総会と取締役会を開催して、この温泉宿の取り壊しとリゾート施設建設の決議を行ないます。」
「私は決議に反対します。」
「現在の株主構成をご存じでしょ。今、我々は何でもできるんですよ。
それから治子さん、あなたは社員名簿に載っていないので正式な社員ではないですよね。君さえ良ければリゾート施設の副支配人として私が雇ってあげてもいいよ。今の私は何でもできるからね。君が副支配人でここに居てくれたら、私がここに出張で来た時に、以前のように二人で夜を楽しめるしね。」
「お断りします。あなたは、私の知っている白石さんではありません。」
「この温泉宿は間もなく無くなるのだから、考えた方良いよ。」
「結構です。」
「おかみさん、あなたの頑固さは分りました。今日は、これから帰って臨時株主総会の準備を行いますので、招集通知書が届いたら出席して下さい。代わりに委任状を提出してもらっても良いのですけれどね。それでは今日はこれで。」
そして、タクシーが走り始めると、鹿がまた「ギュルギュル、ギュ~イ。ギュルギュル、ギュ~イ。」と、けたたましく吠え立てた。
草食動物の鹿は下の前歯(切歯)が包丁となっていて、前歯の無い上あごに草を押し付けてかみ切って食べているので牙は無く、本来おとなしい動物なのであるが、そのおとなしい鹿が威嚇するような形相で歯をむき出しにして吠え立てたのであった。