秋の日の、ヴィオロンの溜息の身に染みて、ひたぶるにうら哀し・・・という訳もあるが、今の俺にはナニも感じ得ない。
熊笹をたんと喰らい、肛門に栓をして木の実をたらふく食べ、それから穴倉に入って冬眠する本土の熊公は、春になれば水芭蕉を喰らい、極度の下痢を引き起こして冬眠中に消化した糞を排出するが、冬眠しない熊公も居る訳で、味噌も糞も一緒にして管理しようとする人間界のやり方では、熊公を絶滅まで追い込むしか叶わないことだ。
喰ったり喰われたりでエエやんけ。
世界中で人間同士が殺し合いを続け、かたや資本主義社会の自転車操業に巻き込まれた多くの人間は自分のことで精一杯、隣人が殺し合いをやっていたって、無関心に携帯の画面に夢中になっている。
地球の命あるモノの中で、すでに人間は下等の底辺を蠢いているケダモノでしかない。
晩秋というよりも、初冬と言う。
四季を感じながら、長く険しい道のりを、淡々と生き続けて来た者には、晩秋は短く、長い冬がやってくる。
その冬の過ごし方を、ひとりひとりが考えていなければ、惨めな消灯の時を迎える。
冬と言っても、太陽の光は強く輝き、想いの秋に溺れることもなく、遥か彼方まで澄みきっている。
ナニをすることもなく、ナニも想うこともなく、淡々と過ぎて行く雲を眺めている。
人の中にいて心動かすこともなくなり、地球や宇宙にのみ心を動かす。
ガキの頃の、遊び惚けていた夕暮れ時の、真っ赤に燃える夕陽を見ていたのとおんなじだ。
この宇宙の中の地球に生きる人類は、あくまでもその場所でしか生きられないという現実を受け入れて、地球や宇宙の変化には、ナンの力も持たない弱い生物でしかないという自覚を忘れてはいけない。
人間の社会でゼニカネ・権力を持ち、地球を温暖化しているとか、土地を買い漁って偉くなったような顔をしている猿には、じきにしっぺ返しがやってくるのが常だ。
俺のように人生65年、山や海で遊び惚けて来たジジィは、人間界では傍若無人に振舞ってはいても、地球や宇宙での人間の限界を知っているから謙虚なもので、ただただ笑って暮らしている。
モノには気持ちを残さないし、極力要らないモノは持たないで生きて居る。
家や車や宝飾品や贅沢品と、身勝手にモノの価値を作って行ってる人間の社会では、俺には興味を持つモノがなくなってる。
衣食住なんざ別に金をかけずともその時に生きて居れればそれで良いし、その為に借金・負債なんざ抱えることもなく、常に要らない束縛は身に負わないように生きてる。
自分のしたいように自由自在な日常を送る為には、今の社会ではナニが必要か? どんな情報を常に取り入れているのか? 未来予測はどうなのか? そんなことだけをキチンと身に着けておれば、普段着のまんまで正装なんて必要も無い。
地球の蠢き一つで、人間社会のモノなんざ、一瞬で吹っ飛んでしまう訳で、宇宙からのアクシデントや地球のトラブル一つで、人間の命すら木っ端微塵となる。
別にね、音楽は風や山や海が奏でる音だけで良いし、絵画や景色も四季おりおりの自然の変化だけで充分だ。
標高の高い場所の大気を吸い込み、山の放出する放射能を浴び、太陽の光を身体いっぱいに当てて、美味い水を飲む、それだけでも生き物には栄養となっている。
だからと言って自然回帰だとか、田舎暮らしだとか無農薬だとか、バブル崩壊時に盛んになる猿な騒動にも興味は無く、俺自身が普通で良いと想っている日常があれば良い。
胡散臭い人間が作ったモノは、どれもこれもその時だけの満足較べ、自転車操業な感性の起伏ばかりに日常を費やしていると、ナニも無かったで終わってしまうぜよ。
経営学だとか、経済学だとか、政治の世界の裏表だとか、人間社会でじっくりと揉まれて仕掛けて生きて居ると、どれもこれも必要な知識や学問でもなんでも無い。
俺なんざナニも学んでないどころか、先生や先輩や師匠すら、誰もいない。
すべて激しく仕掛けて痛い目に遭っての経験だけで、こうやって30年以上も銀座で周旋屋をやっているから、怪しい連中のことは手に取るようにすべてが見える。
無駄なマニュアルや法律を丸暗記して喜んでる猿とは違って、人間の社会で必要なことだけで生きて居るから、無駄はなくなってる。
身体に負っている傷の数ほど、怖いモノはなくなって行く。
愚かな人間の世界で大きなナニかが起きそうな、そんな時は、身体が反応するものさ。
地球では新参者の人類がロボットにプログラミング・入力しているデータや経験則や歴史に伝統、そんなものが通じなくなって来てるのは、ここ20年の天気予報を見て居れば解るだろう。
猿のマニュアルが通用しているのは地球の平穏期の短い間の話で、地球のクシャミひとつで人類の価値観は吹っ飛んでしまう。
楽しいね、愉快だね、地球や宇宙とともに日を暮らしていると、ナニが起きても笑いが止まらない。