イスラエルのネタニヤフや上層部は、バイデンが大嫌いで、トランプとならば膝を突き合わせて前向きな会談をするだろうが、今のバイデン・アメリカの言うことは素直には聞けない状況になっている。
ロシア・プーチンや中国・習の出番が、いよいよ世界から望まれ始めている。
ウクライナ戦争も、中東紛争も、中国の習が動き始めて終息するだろう。
アメリカの衰退が世界にクッキリと見える形で、動いている。
それでもまだ米英欧の側の飼い犬で喜んでいる国家があるとすれば、間抜けやな。
米英欧ですらその事実を認めているのだから、飼い犬はよ~く考えておくことだろう。
そうしてなによりも念頭に置いておくべきことは、猿芝居でも大戦争なくして世界覇権は移せない、そういうことだ。
株式市場は社会の経済活動を映すモノではなくなってしまって久しいが、外資が置き罠として放置しているAIロボットの賭場でしかなくなって、阿呆面したメディアや似非専門家らが後講釈で適当な理由を取り繕って、ド素人を食い散らかしている。
俺はガキの頃から転居が凄まじいことになっておって、小学校だけでも6回の転校、サーカス団の巡業小屋で暮らしていたようなもんだったが、狩猟犬と一緒に寝ションベンしたり寝起きして育って、野良猫を飼ってみたり、いろんな小動物が常に傍にいて、人間よりも獣の方が身近だったような、おかしな幼少期を送っていた。
いまでも獣の天国になってる人間がいない奥山に登ると、ウキウキしてくるのは、そんな血が騒いでいるんだろうと思う。
こちらに驚きや敵対心どころか親近感しか持たない状態で歩いている訳だから、襲われるようなこともある訳がない。
お洒落なペットを飼うのとは違って、獣本来の乱暴至極な、暴力的な親近感という奴だがな。
さて、介護と言っても、日常の介護のことだけではなくって、俺なんかは高齢者たちをまとめて連れだして、日本の四季を味合わせてやったり、非日常な景色や場所を見せてやることを常にやっている。
たとえ要介護となっていても、高齢でも夫婦二人で暮らしているうちはまだ良いが、これが独り身となって婆さん独りの暮らしに変わって来ると、専業主婦で生きて来れた幸せな時代が身に染み付いている婆さん連中は、新しい生活の様式やリズム作りを手伝ってやらないと、じきにボケが酷くなり、無意味で無感動な生の時間がダラダラ過ぎていくだけの退屈な命に成り果てる。
誰かの為に、ナニかをする、誰かの為にナニかを作る、忙しいロボットのような日常を、流されてこなしているだけの大多数の人の存在の意義というそれが無くなってしまうと、子を産んで育てたら生は終わりだということになる。
そうして後は医療や介護、社会福祉という国家のやっているキレイゴトに依存して、健康な自然な老いなど手には出来ないだろう。
ナニが健康で、ナニが自然なのかすら解らなくされて、ただただ用無しになったロボットが社会の片隅に集められ管理され、与えられる餌を食べ、貯えを奪われ、挙げ句に放置されているような社会が現実になっている。
成人すればまずクレジットカードを作り、分割払いを始めて挙げ句に生涯を縛られる住宅ローンを当たり前のように抱え込み、その返済が滞る半端者は社会から先に落ちこぼれ、老いて無事に借金・負債を完済出来たとしてもその老朽化したモノのメンテナンスや建て替えでまたゼニカネが必要になり貯えを奪われてと、猿の終わらない自慰は続くようになっている。
俺なんかはガキの時分にすでにそんな退屈な生き方には興味を失せていたから、若い頃からこの間抜けな資本主義社会でどう愉快に生きて行くか? を、色んな膨大な失敗を積み重ねながらも徹底的に独学で身につけて来たもんさ。
この時代でも、偏差値を競い、良い大学に行き、大企業に就職して、結婚して一人二人の子を育て、老いて孫を見て死んで行く、それがあたかも人間の生の正解のように皆さん洗脳されているが、そこで他や社会や国家に褒められて、他と比べて優越感を得れば自己完結してしまう猿な日常は、俺にはまったく理解出来ない。
これは俺の65年を貫いている想いではある。
俺自身は残念ながらそんな生を生きて来なかった訳で、だから共感や親近感すら湧いては来ないし、会話が成り立たない上に愚かな猿芝居の自意識過剰な日常を見ていると、喜怒哀楽の感情すらまったく動かなくなっている。
生きる? 死ぬ? だから? 言葉や語彙がその存在よりも先に在る猿芝居な日常には、愛や恋ですら胡散臭い腐臭がする。
そこにあるのはゼニカネの受け渡しだけだ。
もっと自分自身をつきつめて、自分を知り尽くし、この肉体に合った生き方は? と試行錯誤する、生まれ持った個の肉体やオツムをとことん有意義に使う、それが俺の生きている意味に繋がっている。
どこの馬の骨かも知れない猿らに教わった俺という仮の姿を、本当の俺が演じて生きるなんてナンセンスだろう。
解りやすく言えば、そういうことさ。
あちこちの高齢者たちの介護に時間を取られて、なかなか思い通りに自分の身体を徹底的に追い込むハードな山歩きが出来なくなっている。
街中を通院や買い物で連れ歩くだけではボケや身体の衰えは酷くなるから、楽しいと思える景色や興味を覚える場所へと連れ出して、加齢による肉体の不調を少しでも意欲を湧かせて解消させてやっている。
効果はテキメンで、関わっているどの高齢者も体調は良くなり、老いの進行もゆっくりになって自然に終われる流れが出来て来ている。
ナニがある訳でもない高齢者たちには、それが一番に大事なことだ。
楽しい会話と、日常にはない景色や場所からの刺激、そんな状況作りは近いまわりの人間がやってやらなければ、なかなかに高齢者は自分では動けないし、動こうともしない。
俺の老いは、そんな高齢者にプロの営業を仕掛けて連れ出す、そんな愉しい時間が増えて行くことで進んで行ってるようでもある。
この週末は、郊外からの帰路、運転する俺の左腕では子犬が寝ておって、その肘にくっ付くようにしてもう一匹の子犬も寝ておった。