ひゃくた・なおき 放送作家・小説家。大阪市生まれ。『探偵!ナイトスクープ』のチーフライターを25年以上にわたり務めているほか、『大発見!恐怖の法則』などの番組の構成を手がけた。2006年(平成18年)に『永遠の0』(太田出版)を発表し、小説家としてデビュー。2013年(平成25年)、『海賊とよばれた男』で本屋大賞を受賞。同年11月11日、NHK経営委員に就任。
今日8月15日、69回目の終戦記念日を迎えました。戦後生まれの日本人が人口の約8割になろうとする現在、先の戦争の記憶はかなたに消え去ろうとしています。当時の日本人はなぜ戦わねばならなかったのか。平和を当たり前のように享受している私たちが、この平和を守るために、今こそ真剣に考え、胸に刻むべきことは何でしょうか。祖国の安寧を願って命を捧げた方々に思いを馳せ、供養するとともに、平和への祈りを現実の力に変えていかなければ。
世界各地の戦跡を巡って戦没者の成仏供養を続ける阿含宗・桐山靖雄管長と、特攻に殉じた祖父の軌跡を訪ねる孫の姿を描いてミリオンセラーとなった『永遠の0』の作者、百田尚樹氏の2人に存分に語り合っていただきました。
(司会・構成 上島嘉郎)
――『永遠の0』は文庫版で450万部を超え、映画も700万人以上が劇場に足を運びました。改めてうかがいますが、百田さんが『永遠の0』でいちばん伝えたかったことは何ですか
百田 放送作家として長くやってきましたが、50歳になったとき、「とことん命懸けで仕事をしたことがあったか? 人生これで終わっていいのか?」という思いに駆られ、新しいことに挑戦しよう、何か形に残るものをと書き上げたのが『永遠の0』です。
その頃、おやじが末期がんで、その1年前には母方の伯父も鬼籍に入っていました。おやじも伯父も先の大戦に出征しました。私は昭和31年生まれですから戦争体験はありませんが、ビルに撃ち込まれた米軍機の銃弾の痕跡や爆弾が開けた淀川の河川敷の大穴など戦争の残滓(ざんし)は街中に色濃くありました。いろいろな体験談をおやじや伯父たちから聞かされ、自分の血肉につながる話だと思いました。でもおやじは孫たちには戦争のことを話さなかった。それで自分がおやじの代わりに、祖国のために勇敢に戦い、戦後は焦土から奇跡の復興を果たした偉大な世代の物語を、彼らが消え去ってしまう前に感謝と鎮魂を込めて書きとめておかねばならないと思ったのです。
桐山 主人公の宮部久蔵は百田さんの父の世代、宮部はどんな人物だったのかと訪ね歩く孫は百田さんの子の世代で、その両者を結びつけることを目的にされた。宮部は大正9(1920)年生まれですから、私の1つ上です。同世代としてとても親近感を覚えました。
私も健康ならば出征したはずですが、喀血(かっけつ)し、結核であることが分かって召集されることはなかった。友人、知人が大勢戦死しました。彼らは今、靖国神社に祀られています。私も彼らと同じように戦場で斃れ、靖国に祀られていたかもしれないと思うと、生死は紙一重で、身代わりになってくれたという気持ち、感謝の気持ちが自然に湧いてきます。彼らのおかげで私たちは生かされている。この思いを子孫に引き継いでいくことが大切です。靖国神社に参拝し、英霊に感謝の気持ちを表すことと平和を祈る心とは何ら矛盾しない。これがまっとうなこととしてなかなか伝わらないのは、今の日本人のいびつな歴史観によるのでしょうが、『永遠の0』は、それに対しきちんとした問題意識を持って書かれています。
百田 ありがとうございます。戦前は日本が悪かったから戦争に突入し、負けたのだ。そして負けたことは正しかったのだと決めつけ、戦前の日本の歩みを真っ黒に塗り潰すことが「反省」であり、「誤った愛国心を正す」ことなのだと突き進んできたのが戦後の「反戦平和」イデオロギーだったと思います。私はそれに異を唱えたかった。現実はそんな単純な話ではありません。
物語のなかで特攻隊員をテロリストと断じ、「戦前の日本は、狂信的な国家」で、「国民の多くが軍部に洗脳され、天皇陛下のために死ぬことを何の苦しみとも思わず、むしろ喜びとさえ感じた」といい、「ジャーナリストは二度とこの国がそんなことにならないようにするのが使命だ」と誇らしげに語る新聞記者を登場させましたが、実際にこういう独善的な新聞社や出版社が今も日本に害毒を垂れ流し続けています。
桐山 敗北したのだから、戦前までの日本の歩みは間違っていたと一方的に決めつけるのは短絡的です。私はあの時代に生きていました。戦前の日本はとても良い国であったと思っていますし、その思い出は私の財産です。今の若者が日本の国を愛する気持ちを持てないのは、現代の教育ではやむを得ないことかもしれませんがね。
当時の日本はアメリカ(米)、ブリテン(英)、チャイナ(中)、ダッチ(蘭)という4カ国のABCDラインに包囲され、対日経済制裁によって石油を断たれ、真綿で喉くびを絞められるように窮乏の一途をたどるところまで追い詰められていました。このままでは備蓄石油もまもなく無くなる、どうするのだ、と日本中が悲鳴を上げていたのを私も肌で感じていた。だから、あの戦争は日本が好んで起こしたのではなく、過酷な国際情勢に触発され、自存自衛のためにやむを得なく立ち上がったものと理解しています。
百田 管長のおっしゃるとおりで、日本には戦わざるを得ない理由があったのです。マッカーサーも後年、「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と米議会で語っています。それが今日では、戦ったこと自体が悪いという考えに日本人がなってしまっている。そして命を粗末にした人命軽視のむごい時代だと決めつける。
確かに私は、『永遠の0』で宮部を特攻隊員として死なせましたが、そこに込めたのは、決して命を粗末にするなというメッセージです。生き残るために戦い抜くことと、生き延びるために逃避することとは全然違います。26年という短い人生ですが、宮部が全うしたのは前者です。特攻精神とは人生を完全燃焼させる前向きの姿勢で、命を粗末にすることをよしとするものではない。「自分の人生は誰のためにあるのか」という思い、生と死の間にあって宮部が葛藤した諸々のことから読者が生きる喜びと素晴らしさに気づいて、どんな困難があっても生きる気概を持ってほしいと願って書いたのです。
桐山 人生を完全燃焼させるということは、ただ長生きをするということではありません。戦時中に青春を送った私は、赤紙(召集令状)が来れば、すぐ飛んでいく。突撃と命令されれば突撃する。そういう覚悟を持って生きていました。これは今日的価値観からすれば、なんとバカらしいと感じられるかもしれないが、当時の若者にとって「国を護る」という思いは当たり前だった。自分の命はもちろん大事だけれども、同時に誰かのために、何かのために命を懸けることがあり得るということを自覚していました。
百田 そうですね。それがなかったら人間の生きる意味は、ただ自分の利益だけになってしまいます。戦後は個人の幸福追求が第一で、国家に奉仕や献身を求められることがあってはならないと見なされている。しかし、個人の幸福追求も、まず自分の属する国家社会が安定していればこそです。この他者とのつながりのなかで自分は生かされているという感覚がないと、管長が常々おっしゃっている「英霊にとっては全ての日本人が遺族」ということが分からないし、ご先祖があって今の自分がある、先祖からつながっている命を子孫に引き継ぐために何をなすべきかという垂直の意識も希薄になります。
桐山 宮部久蔵が生きて妻子のもとへ帰ることを願ったのは、決して自分の命を惜しんだからではない。後に続く命、最も身近な命を見守りたかったからで、それは人情として自然ですし、国のためという意識との間で宮部がどれほど苦しんだか、私はよく分かります。突き詰めると、百田さんは「他者のために自分の人生を捧げる」日本人の姿を描かれたことになる。
百田 私は、日本人はそういう生き方をずっとしてきた民族だと思っています。そしてそれは今も全ての日本人の心の底に眠っている。そういう生き方を思い起こしてほしいと願って書いています。
――出光佐三をモデルにした近作『海賊と呼ばれた男』も同じテーマで貫かれています
百田 主人公の国岡鐡造(出光佐三)は敗戦後すぐ「焦土となった国を今一度立て直す」と決意し、焼け残った社屋で将来の生活に不安を感じている社員を前に、「日本は必ずや再び立ち直る。世界は再び驚倒するであろう」「わが社には最大の資産である人がまだ残っている」「ただちに建設にとりかかれ」と叱咤(しった)激励します。そして1人もクビにしない。
桐山 社員を守るのですね。
百田 物語のハイライトは昭和28年5月の「日章丸事件」ですが、そのとき日章丸がイランに向かうことは船長と機関長しか知らない。船員たちは本当の目的地を知らずに出航します。セイロン沖で暗号電文を受信した船長が、この船の目的を英国の海上封鎖を突破してイランから石油を積み出すことだと告げると、船員たちは「日章丸、万歳! 国岡商店、万歳! 日本、万歳!」と叫ぶ。
私は、この件を書きながら何度も泣きました。己一個の人生の充実、幸福なんてどうでもいいとはいいませんが、己一個を超えたところにつながる人生がある。国岡(出光)と、国岡を支えた男たちのすごさと今の日本人はつながっているのだということを知らせたかった。過去と現在の日本は断ち切られたままではなく、ちゃんとつながっている。私たちの父祖は苛酷な時代を懸命に生き、自分以外の誰かに人生を捧げたのだと。
桐山 それが確かに今もつながっていると思わせたのは、東日本大震災でした。津波到達の直前まで防災無線で町民に避難を呼びかけ死亡した女性職員。最後まで住民の避難誘導に当たって津波にのみ込まれた警察官や消防団員の存在です。彼らは、なぜ自分の安全を図るよりも他者の命を案ずることができたのか。
その一方、震災がれきの処理では「放射能汚染が心配」などという市民のクレームによって、実際には放射線量を測って問題がないにもかかわらず、処理を受け入れた自治体は数えるほどしかありませんでした。がれきを受け入れた石原都知事(当時)は、「自分のことしか考えないのは、日本人がダメになった証拠のひとつ」といいましたが、私も石原さんに同感です。日本人は岐路に立っている。
多くの命が失われた大震災から私たちは何をくみ取るべきか。生き残った人々は、自分は独りではないということ、家族や同胞、連綿と続く命の絆を実感したでしょう。その絆は、今生きている者同士だけにあるのではなく死者との間にもある。この死者との結びつきを忘れてしまったら、日本人は日本人でなくなると私は思っています。それは先の大戦の英霊との絆にもいえることです。残されたわれわれのために命を投げ出してくださった彼らのことを忘れてはならない。
――管長はこの10月に福島県で、11月にはサイパン島、テニアン島で大柴燈護摩供を挙行されるとうかがっています
桐山 福島では東日本大震災犠牲者の成仏供養と震災復興、国土安寧を祈念します。またサイパン島、テニアン島では先の大戦の戦没者成仏供養と世界平和を祈念します。
百田 管長はこれまでもシベリア、ガダルカナル、パラオ諸島、東シナ海など、陸上・洋上の戦跡を巡られて慰霊法要を続けてこられましたが、この度の法要はどのような思いから発心されたのですか。
桐山 福島は地震と大津波だけでなく原子力発電所の事故という二重の災害に見舞われました。今、反原発や脱原発など原子力発電を巡って議論がやかましい。天然資源の乏しい日本にとってエネルギー問題は安全保障を考えるうえでもきわめて重要です。この問題を一時の感情論や不安感で判断してはならないと私は思っています。
戦前、福島県石川町に原子爆弾の研究開発をする理研の施設がありました。戦後原子力は平和利用に限定され、福島県にも原子力発電所が建設された。核エネルギーは広島、長崎に投下された原爆の惨禍を見るまでもなく、正負の両面性を持っています。しかし誤解を恐れずにいえば、「過ちは繰り返しませぬから」という広島の原爆記念碑の碑文のように、主語のない、曖昧な立場から、ただ「核」を忌避し、拒絶すればそれですむのか。恐怖という情緒的な反応だけに囚われて思考停止してはならない。平和や国家の安寧を祈る力は、決してひ弱なものであってはならない。私は震災犠牲者の成仏供養とともに、そうしたことをしっかり考える契機にもなればと思っています。
『永遠の0』にも出てきますが、昭和19年6月のマリアナ沖海戦に敗れ、7月にサイパンを失陥したことで、日本は米軍による本土空襲を受けるようになりました。そしてテニアン島から広島、長崎への原爆投下のB29が飛び立っています。福島とサイパン島、テニアン島には時空を超えて「核」という存在があり、そこで護摩を焚くのは、自然災害と戦争という違いはあるにせよ、人間の生死の根源的な意味、「核」と人間との関わりを考えるものです。
百田 慰霊と祈念と、深い思惟のための法要ということですね。
桐山 実はこんなことがあったのです。かつてガダルカナルでの法要を終えた夜、ふと気がつくと宿舎の寝室の窓に大勢の英霊が並んで私を見つめていました。その御霊に向き合った私は、「ああ、海底に沈んだままの英霊のご供養が残っている」と覚り、その後洋上法要を挙行しました。この度は、居宅の仏間にたたずむ人がいて、それがサイパンの防衛戦の作戦主務参謀だった晴気誠少佐のような気がしてならない。彼は何も語らないのですが、私はそう直観した。信じられない話といわれても一向に構わない。
百田 晴気少佐の作戦は、米軍の圧倒的な物量の前に敗れました。責任を感じ続けた少佐は、「サイパンにて散るべかりし命を今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ」と家族に遺書を残し、終戦の翌日、市ケ谷の陸軍省で自決しました。
生き残った者、生かされた者の
使命を忘れてはならない。
桐山 私は“呼ばれた”ような気がしているのです。生き残った者、生かされた者には使命がある。それを今の日本人は忘れてはいないか、そう問いかけられている。これは私だけが感じていることかも知れない。一緒に付いて来てくれと誰かに頼むことでもない。しかしそれでいいのです。日本人としての矜持を共有する者に通じればそれで良い。
百田 千万人と雖(いえど)も吾往かん、の気概ですね。
桐山 日本人は自らの気概によってこれまで続いてきた民族です。それを失ってはならない。
――ありがとうございました
2014.8.15