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朝鮮学校を無償化の対象から除外 国の処分を取り消す判決 | NHKニュース 2017.7.28 / 一方、広島では・・・

2017-07-28 13:59:43 | 命 人権 差別
<子ども達の教育の機会均等>
大阪地裁において、文部科学省が朝鮮学校を高校授業料の実質無償化の対象にしなかった事が違法との判決が下りました。

今まで無償化の対象外だった事がおかしかった。
これが認められた始めての裁判でした。

教育は誰でも平等に受ける権利があります。

朝鮮民主主義人民共和国の政治手法と、朝鮮民族の方が教育を受ける事を同列に扱う事はあってはなりません!
堂々と学びたい事を学びたいだけ学んでほしいです。(K・T氏FBコメントより)

画像に含まれている可能性があるもの:2人、、スマイル、屋外

 

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大阪

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170728/k10011078051000.html

 

国が朝鮮学校を高校授業料の実質無償化の対象にしなかったことについて、大阪・東大阪市にある朝鮮学校を運営する学校法人が違法だと訴えた裁判で、大阪地方裁判所は学校側の訴えを認めて国の処分を取り消し、無償化の対象に指定するよう命じる判決を言い渡しました。朝鮮学校をめぐる同様の訴えは各地で起こされていますが、無償化の対象に指定するよう命じる判決は初めてだということです。

平成25年、文部科学省が朝鮮学校を高校授業料の実質無償化の対象にしなかったことについて、大阪の朝鮮学校を運営する学校法人「大阪朝鮮学園」は、「北朝鮮との外交問題を理由に不利益を与えるのは差別意識を助長し違法だ」などとして、対象から除外した国の処分の取り消しなどを求める訴えを起こしました。

裁判で、国は「外交的な理由で授業料の実質無償化から外したわけではなく、判断に誤りはない」と反論していました。

28日の判決で、大阪地方裁判所の西田隆裕裁判長は、「無償化に関する法律を朝鮮学校に適用することは拉致問題の解決の妨げになり、国民の理解が得られないという外交的、政治的意見に基づいて対象から排除したと認められ、法律の趣旨を逸脱し、違法で無効だ」と指摘して、対象から除外した国の処分を取り消し、無償化の対象に指定するよう命じました。

原告の弁護団によりますと、朝鮮学校をめぐる同様の訴えは東京や名古屋など5つの裁判所で起こされていますが、無償化の対象に指定するよう命じる判決は初めてだということです。

官房長官「関係省庁で精査し対応」

菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、「詳細を承知していないので、これから関係省庁でしっかり精査して対応していきたい」と述べました。

 

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広島の判決では・・・

http://hiroshimastyle.com/blog-entry-3299.htmlより転載

広島朝鮮学校の授業料無償化裁判は学校側が敗訴

国が朝鮮学校を高校授業料の実質無償化の対象にしなかったことについて、広島市にある朝鮮学校を運営する学校法人などが違法だと訴えていた裁判で、広島地方裁判所は「朝鮮総連の強力な指導の下にあり、就学支援金を支給したとしても授業料に充てられない懸念がある」などと指摘し、学校側の訴えを退ける判決を言い渡した。

4年前、文部科学省が朝鮮学校を高校授業料の実質無償化の対象にしなかったことについて、広島市にある朝鮮学校を運営する学校法人「広島朝鮮学園」と生徒110人が、学習権や平等権を侵害し、違法だなどとして、対象から除外した国の処分の取り消しと合わせておよそ6000万円の損害賠償などを求める訴えを起こした。

裁判で原告側は「拉致問題など外交上の理由で対象とならないのは差別だ」などと主張したのに対し、国側は「北朝鮮や朝鮮総連の影響力は否定できず、適正な学校運営が行われているか十分な確証が得られない」などとして訴えを退けるよう求めていた。

19日の判決で、広島地方裁判所の小西洋裁判長は「朝鮮総連の強力な指導の下にあり、就学支援金を支給したとしても授業料に充てられない懸念がある」などと指摘した。そのうえで「文部科学大臣の判断に裁量の逸脱や乱用は認められない」などとして学校側の訴えを退けた。

判決を受けて、広島地方裁判所の前では弁護士2人が「不当判決」とか「司法は差別を容認した」と書かれた旗を掲げた。裁判所前には朝鮮学校の生徒や関係者たちが集まり、「不当判決は絶対に許さない」などと声をそろえて訴えていた。判決のあと、原告団や弁護士などが記者会見した。

このなかで「広島朝鮮学園」の金英雄理事長は広島高等裁判所に控訴する方針を示したうえで「こんな不当判決があるのかと怒りで声が出ません。判決では子どもたちの学習権という言葉が1つも無かった。国の政治情勢とは関係なく正当な判決を出すべきだ」と述べた。

また、3年前の卒業生で、原告の1人の金大貴さん(21)は「4年間やってきたことや自分たちの存在を否定された悔しさしかない。司法に認められるまで諦めず最後まで闘いたい」と話していた。

弁護団の代表を務める足立修一弁護士は「判決は国の主張の丸写しで、日本の学校と朝鮮学校との間に明確な差別が存在している。原告の思いをどうすれば裁判所に理解してもらえるのか、真剣に考えていきたい」と話していた。

判決について、文部科学省の初等中等教育局高校修学支援室は「国の勝訴の判断が示されたものと承知しており、主張が認められたものと受け止めています」とコメントした。(NHK広島)

広島朝鮮学校 敗訴

 

 

 

 


「相模原障害者殺傷事件」への「怒り」は足りていたか・・・「障害者の生命と尊厳が傷つけられたこと」に、「怒り」が足りていないのではないか (荒井裕樹 2017.7.25)

2017-07-28 11:43:34 | 命 人権 差別

 

http://imidas.jp/opinion/F-40-151-17-07-G688.htmlより転載

2017/7/25FREE

「相模原障害者殺傷事件」への「怒り」は足りていたか

いま私たちが積み重ねるべき言動について

時事オピニオン

荒井裕樹

 2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設で起きた凶行から一年。この事件に私たちはどう向き合うべきか。障害者運動や障害者文化論などを研究してきた二松學舎大学専任講師の荒井裕樹氏は、「障害者の生命と尊厳が傷つけられたこと」に対し、社会的な「怒り」が足りていないのではないか、と疑問を投げかける。

「相模原事件」にどう向き合うか



 あの凄惨な事件から一年が経つ。まずは、生命を奪われた方のご冥福を祈り、いまなお癒えない傷を抱えた方の心の内を推し量りたい。
 一方で、この事件を追う人たち(報道関係者や障害者団体関係者)からは、早くも事件の風化を懸念する声が漏れている。この原稿を書いている7月現在、まだ殺人罪などで起訴された植松聖(さとし)被告の公判もはじまっておらず、現場となった建物の再建問題も確たる結論が出ていないというのに。
 私は「相模原事件」にどう向き合うかが、この社会の未来を決めると思っている。重い障害を持つ人たちと共に、私たちはどのような社会を作ろうとしているのか。その理念や哲学が問われている。
 このことを前提に、本稿では「相模原事件」に関連して気になっている二つの事柄について書いておきたい。

不気味な「安楽死」のニュアンス



 一つは、かつて、この社会で議論の末に退けられたはずの言葉や概念が、いつの間にかよみがえっている不気味さについて。具体的には、事件を起こす5カ月前の16年2月、植松被告が衆院議長に宛てた「手紙」(ほとんど犯行予告)にあった「安楽死」という言葉についてだ。
 この言葉は一般に、回復の見込みのない末期状態の患者に対し、本人の意向を尊重して、耐えがたい苦痛から解放されるために死に至る処置を施すこと、といった主旨で使われる。しかし、例の「手紙」で使われた「安楽死」は、どのように読んでも、こうとは解釈できない。むしろ前後の文脈を踏まえれば、「不幸を作り出すことしかできない障害者を殺すこと(殺してあげること)」といった意味合いで用いられている。
 極めて自分勝手な理屈にめまいがするほどの嫌悪感を覚えるが、私が真に不気味に思うのはこの点ではない。というのも、かつて「安楽死」という言葉には、同様の意味合いが含まれていたことがあるからだ。
 経緯を説明しておこう。煩雑にならないよう簡略な記述に留める(注1)。
 日本で「安楽死」という言葉が社会的な関心事となりはじめたのは1960年代初頭と言われている。この時期、ベルギーで障害児を殺害した家族や医師らに無罪判決が下ったことが大々的に報じられたり(62年11月)、司法の場で「安楽死」の要件が示されたり(名古屋高裁山内事件判決:62年12月)したことで、「安楽死」という言葉が一般向けの週刊誌などにも頻繁に登場した。
 当時の週刊誌などに掲載された「安楽死」の議論に目を通してみると、この言葉に現在とはかなり異なるニュアンスが含まれていたことがわかる。つまり、社会や家族の負担となり、生きていても仕方のない障害者を「安楽」に死に至らしめること、といった意味合いが含まれているのだ。
 ただ、当時はこのことに対して特に批判的な意見は出ていない。一部の障害者団体が敏感に反応しているが、はっきりとした反論はなされていない。

半世紀前の亡霊



 この言葉をめぐる状況は70年代に大きく変化する。多くの障害者団体から、障害者を標的にした「安楽死」は許さないという問題提起がなされたのだ。特にナチス・ドイツの障害者虐殺などが引き合いに出され、安易な「安楽死」肯定は障害者差別につながるといった批判が展開された。
 この批判の先頭に立ったのが「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」(後述)であり、リベラル系の知識人の一部もその主張に同意したこともあって、「安楽死」という言葉には拭いがたい負のイメージが貼り付いた。70〜80年代に障害者問題に関わった人の中には、このニュアンスを肌感覚で記憶している人もいるだろう。
 先に私が示した不気味さは、この点に関わる。植松被告が使った「安楽死」という言葉は、かつて障害者運動に関わった人たちが全力で批判したはずの意味合いで使われている。彼が当時の言論状況を知っていたとは思えない。そんな事情など意識することなく、「安楽死」という言葉を、あのような意味合いで用いたのだろう。
 そう遠くない昔、私たちの社会の中で、議論の果てに「望ましくないもの」や「悪しきもの」として退けられた言葉や概念が、いつの間にかよみがえっている。まるで半世紀前の亡霊が現れたかのような観がある。
 現時点では、植松被告の「安楽死」観が広い支持を得るとは思えない。共感する人も多くはないだろう。しかし、「言っていることはわからなくもない」程度に受ける止める人は確実に存在する。
「わからなくもない」人たちが存在するからといって、すぐに同じような蛮行が繰り返されるとは断言できない。しかし、そういった意見の層が厚くなれば、障害者への人権侵害を黙認する風潮は確実に高まるだろう。

踏みにじられた「尊厳」への「怒り」が足りない



 もう一つは、現在の社会状況に関わるもので説明が難しい。強いて言えば、この事件に対する「怒り」が足りないのではないか、という点だ。
 この一年、自分なりに事件をめぐる「言葉」を追いかけてきた。各地で追悼集会が開かれ「悲しみ」がわかちあわれた。信じがたい凶行への「恐怖」が吐露された。識者からは、この事件が「精神障害者」に対する偏見を助長しかねないことへの「懸念」や「憂慮」が繰り返し示された。
 事件に関心を持つ人たちは、冷静かつ誠実な言葉を積み重ねてきた。ただ、19人もの障害者の生命と尊厳が奪われたことへの「怒り」の言葉は少なかったように思う。社会全体に目を向けてみても、事件の規模と残忍さを思えば、もっと「怒り」が共有されてもよいはずなのに、この事件に向き合おうとする熱量は上がっていない。
 社会の関心が高まらない背景には、被害者の顔が見えない異例の匿名報道もあるかもしれない。「怒り」よりも「おぞましさ」が先に立ち、早く忘れてしまいたい人が多いのかもしれない。しかし、最大の理由は、この事件が「障害者施設という遠い世界で、異常な人間が起こした例外的な事件」として受け止められていることにあるように思えてならない。

 もちろん、植松被告の身勝手な理屈に怒った人は少なくない。ただ、ここで問題にしているのは、「身勝手な理屈を振り回すこと」への怒りではなく、「障害者の生命と尊厳が傷つけられたこと」への怒りだ。
 被害者の関係者や、障害者の社会参加を求めて闘ってきた当事者団体には、はっきりとこのような「怒り」を示してきた人たちがいる。しかし、それが社会に広く染みているとは言いがたい。事件後、どれだけの人が「障害者の生命と尊厳が傷つけられたこと」に対して怒っただろうか。私自身、自戒の念を込めて思う。私の「怒り」は足りているだろうか。もっと怒らねばならないのではないか。
 障害者問題に関して言えば、この十数年で「障害者と仲良くするための言葉」は増えた(「みんな違ってみんないい」など)。「障害を肯定的に捉える言葉」も多様になった(「障害は個性」など)。しかし、障害者の尊厳が傷つけられたとき、とっさにどんな言葉を発せられるだろう。はっきりと「怒り」を表すことができるだろうか。
 一見、柔らかな言葉で接していても、なにか問題が起きたとき、その人のために怒らないのであれば、それは共生と言えるのか。理不尽に奪われた生命があるにもかかわらず、それに対して怒らないのであれば、「理不尽に奪われても怒らなくてよい生命」が存在することになる。「障害者の生命と尊厳」は、傷つけられても「怒り」に値しないものなのか。本当にそれでよいのか。そこが問われなければならない。
「障害者が殺されること」を他人事だと思ってはいけない。そう思った瞬間、「誰か特定の人たちが殺されても特に気にならない社会」を肯定することになる。そんな社会の「無関心という壁」の向こうで何が起きるかを想像してほしい。自分や自分の大切な人が、「壁」の向こう側に押しやられない保障など、どこにもない。

事件後に注目を集めた伝説の障害者運動家・横田弘

 


 とはいっても、「怒る」ことは難しい。「怒り」は往々にして嫌われる。日本語の表現上、「悲しみをわかちあう」は自然な言い回しだが、「怒りをわかちあう」という言い方はしない。「怒り」は個人的で突発的な感情とされ、理性的に処理すべきものとされている。
 しかし、この事件に関して、「怒りたい人」や「怒りをわかちあいたい人」も一定数いるのではないか。そう思える現象がある。
 事件後、一冊の本が注目を集めた。故・横田弘(1933〜2013)の『障害者殺しの思想』(増補新装版、15年、現代書館)だ。


 横田は「青い芝の会」(前出)に属した伝説的な障害者運動家。重度脳性マヒ者で、立つことも歩くこともできず、発語障害もあった。
 私見では、横田は「障害者差別に対して史上最も熱く怒った人物」だ。「障害者なんていなくなればいい」という植松被告の価値観を「優生思想」に基づくものだとして批判する論調が目立ったが、そもそも「優生思想」が障害者差別なのだと告発したのも横田と彼の仲間たちだった。
 横田は運動に関わった40年間、ずっと怒り続けていた。「障害者のためを思って」という「健全者」の一方的な「愛と正義」が障害者を街から排除し、時には殺すことにつながるのだと怒り続けた。
 そんな横田や、彼が属した「青い芝の会」が再注目されている。それは何を意味するのか。

横田弘の「怒り」にヒントを求める

 


 私なりに解説すると、横田の「怒り」には二つの特徴がある。
 一つは「共生のために怒ったこと」だ。障害者も街で暮らしたい。親や施設職員に人生を決められたくない。隣近所の子と同じ学校に行きたい。恋もしたいし、結婚もしたいし、子どもも育てたい。皆が「普通」にしていることから障害者を排除するな。一緒に生きさせろ。横田の怒りは単純明快だった。
「怒り」と「憎悪」は違う。「怒り」は相手の存在を認め、自分と相手がつながっていることを前提とした感情だが、「憎悪」は相手の存在を拒絶する感情だ。「怒り」には葛藤があるが「憎悪」に葛藤はない。
 横田は差別に無自覚な「健全者」に怒ったが、「健全者なんかいなくなればいい」とは言わなかった。彼は自分たちの尊厳を傷つけた者に対して怒ったが、その者と生きていくために怒っていた。
 もう一つの特徴は「空気を読まなかったこと」だ車椅子がバスの乗車拒否にあえば、抗議のために仲間とバスを占拠した。「養護学校」(現・特別支援学校)の義務化に反対して、デモや座り込みを強行した。そんな横田らの主張は嫌われた。「過激派」「エゴイスト」「生意気」「恩知らず」と罵られた。それでも横田らは街に出て、差別するなと訴えた。
 横田も、彼の仲間も、元々は「普通の障害者」だった。幼い頃から「愛される障害者」であれと教えられ、世間に迷惑をかけまいと生きてきた。しかし、どれだけ努力しても、社会は障害者を受け入れないことに絶望して「闘う障害者」になった。
 弱い立場の者は、どれだけ緻密に「空気」を読んでも苦しめられるだけ。だとしたら、虐げられている者は、自分の生命と尊厳を守るために怒らねばらない。横田の「怒り」は痛快だった。
 いま、横田弘や「青い芝の会」が再注目されているのは、そんな「怒り」へのある種の“憧れ”があるのではないか。自分よりも圧倒的に力ある者に立ち向かった横田たちに、「怒り」へのヒントを求めている人たちがいるように思えるのだ(注2)。

数十年後の社会のために

 


 私たちの社会は、いま、かなり不気味な状態にある。困窮者へのバッシングにせよ、マイノリティーへのヘイトせよ、人が人の尊厳を傷つけることへの心理的なハードルは確実に低下している。「相模原事件」も、このような文脈の中で受け止めなければならない。
 ただ、そういった状況に「怒りたい人」や「怒りをわかちあいたい人」も、やはり一定数いる。その「怒り」を孤立させてはいけない。
 数十年後の社会がどんな姿形をしているかは、いま私たちがどういった言動を積み重ねるかによって決まる。だとしたら、「相模原事件」に怒らなくてよいのか。私たちの次の世代が「障害者の生命と尊厳のため」にまっとうに怒れるかどうかは、いまの私たちにかかっている。

(注1)以下の記述に関して、詳細や具体的な事例に関心のある人は、拙著『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(11年、現代書館)を参照してほしい。

(注2)横田弘に興味のある人は、次の拙著も参照してほしい。『差別されてる自覚はあるか――横田弘と「青い芝の会」行動綱領』(17年、現代書館)。

 

イメージ 荒井裕樹 二松學舎大学専任講師

1980年、東京都生まれ。2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て現職。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『隔離の文学』(11年、書肆アルス)、『障害と文学』(11年、現代書館)、『生きていく絵』(13年、亜紀書房)、『差別されてる自覚はあるか』(17年、現代書館)などがある。

 

 

 

 

 


相模原事件から1年~「命へのまなざし」を 作家・雨宮処凛 〔huffingtonpost.jp 2017.7.27〕

2017-07-28 00:54:52 | 命 人権 差別

http://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/sagamihara-murder-one-year_b_17594414.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

相模原事件から1年

雨宮処凛 Headshot  作家・活動家

投稿日: 2017年07月27日 10時12分 JST 更新: 2017年07月27日 10時27分 JST
  
 

この原稿が更新される7月26日は、相模原の障害者施設で19名が殺害されてからちょうど1年という日である。

1年という月日が経っても、私たちはいまだに殺された人ほとんどの名前も顔も知らないままだ。人となりも、どんな生活をしていたかも、私たちには知る由がない。

あれだけの大事件であれば、どんな人だったのか、どんな夢や目標を持っていたのか、連日のようにメディアで報じられ、友人知人たちが涙ながらにコメントしたりするものだが、そのようなことはほとんどないまま、1年が経過した。その事実が、事件の特殊性と、この国に根強くある「差別」を嫌でも示しているかのようだ。

事件から1年という節目を前に、現場を取材した記者たちによって一冊の本が出版された。それは『妄信 相模原障害者殺傷事件』(朝日新聞取材班 朝日新聞出版)。地道な取材を積み上げたルポルタージュを、一気に読んだ。

仲間うちでは「下っ端も下っ端」だったという植松被告。入れ墨を入れ、薬物をしていた植松被告を友人の1人はこう称する。

「結局、自分に自信がなかったってことでしょ。酒だって弱くて、すぐつぶれるし。いきがって、ハイになって、人との差を埋めたかったんでしょ」

が、自分に自信がなく、いきがっている若者など掃いて捨てるほどいる。というか、この国の一般的な「若者像」でもある。そんな「普通の若者」だった被告はなぜ、あれほどむごい事件を起こしてしまったのか。

本書によると、植松被告が事件の舞台となったやまゆり園で働き始めたのは、2012年12月。当初は真面目な働きぶりだったというが、13年5月頃から変わっていった。

友人に、障害者を「生きているとは思えない」などと話すようになり、また、事件が起きた16年2月には「障害者が生きているのは無駄だ」などと書いたビラを勤務先の周りで配っている。

そうして同月14日、「障害者470人を抹殺することができます」などと書いた「手紙」を渡そうと衆院議長公邸に足を運んでいる。しかし、断られ、翌日、再び衆院議長公邸に現れる。

対応した職員は郵送を促したが、植松被告は門の前で土下座。2時間後、手紙は受け取られたという。その前々日の13日には、安倍晋三首相を訪ねて自民党本部に足を運んでいた。が、警備が厳しく断念し、帰り道にたまたま見つけたのが衆院議長公邸だったのだ。

それにしても、植松被告が3日間に渡り永田町に現れ、土下座までしていたとは初耳だ。

その後、植松被告が措置入院となり、退院したことは多くの人が知るところだろう。

そうして、事件前日。植松被告はホームセンターで結束バンドなどを買い、知人の女性と都心の高級焼肉店で食事をしている。女性と別れたあとはホテルで過ごし、派遣型風俗を利用したという。事件が起きたのは、それから数時間後のことだ。

「世界が平和になりますように。Beautiful Japan!!!!!!」

事件後、植松被告はTwitterにそう投稿した。

考えれば考えるほど、沈黙し、思考停止したくなる事件だ。

本書では、追いつめられる介助の現場についても触れられている。

自身も障害者施設で働き、燃え尽きて退職、現在は明治学院大学教授の深谷美枝氏は、植松被告も「バーンアウト(燃え尽き)を経験した」と推察する。深谷氏自身、過酷な勤務に、利用者を人と思えなくなるほど追いつめられたという。

施設での仕事は「内なるウエマツさんとの闘い」だったという彼女は、今も当時接した少女が夢に出てくるという。温かな記憶に癒される一方で、やはり現場は綺麗事では済まされない。

強度の行動障害があった少女は、テレビを棚から落として壊したり、他の利用者の耳を噛みちぎったこともあった。深谷さんの身体には常に少女に噛み付かれた歯形がついていたという。

教員を目指したものの挫折し、福祉の世界に入ったものの、おそらく勤務の中で差別意識を強めていった植松被告に対し、彼女は言う。

「専門性に乏しく人格も未熟な若者が、施設の仕事で燃え尽きた。その体験が病理性と結びつき、事件につながったように見える」

施設で働き始めた当初、植松被告は障害者を「慣れるとかわいい」と言っていたという。が、逮捕後の調べでは、勤務の中で憎悪を募らせていったと話している。入所者が粗相をして植松被告が片付けていた時のこと。

「上から勝ち誇ったような顔をして見ている入所者がいて、許せなかった」

事件直後も書いたが、私には知的障害のあるいとこがいた。20代のある日、風邪の菌が脳に入って急激に体調を悪化させた彼女は、家族が救急車を呼ぶものの「知的障害の人は受け入れられない」と受診を拒否された。翌日に受け入れ先が決まったものの、あっという間に亡くなった。

そんないとこにも、「暴力」の問題はあった。

いとこの家に遊びに行った日、たまたまいとこが通っていた作業所の職員が来ていて、話を聞く機会があったのだ。その作業所の人たちに、いとこは時に居酒屋などに連れていってもらうことがあったようだった。職員の人たちが引率する形でそういう場所も楽しんでいたという。

そっか、もう20歳超えてるもんな。微笑ましく聞いていると、衝撃的な言葉が耳に飛び込んできた。いとこは酔うと、職員に暴力をふるうことがあるのだという。「結構、ひどいんですよね...」。

控えめに言った職員の言葉に、私は凍りついていた。いとこの家族も、ショックを受けていた。ただただ申し訳ないと思いつつも、何をどう思っていいのかわからず、その上、なんて答えていいのかもわからず思考停止した。いとこの家族もただ言葉を失っていた。結局、その場で打開策などは語られず、沈黙が続いた。

いとこの場合、酔った時の話だったので、お酒を飲まなければいいという解決策があった。だけど、その時、思った。もし、自分が作業所や施設の職員として働いていて、いつ暴力をふるうかわからない人のケアをしなければならない立場だとしたら。

やまゆり園の元職員の男性は、入所者の暴力などの問題に対して、こう語る。

「入所者は施設を出ても居場所がない。暴れても警察を呼ぶわけにはいかず、職員が自分でなんとかする。毎日がその繰り返し」

彼らは守られているのに、自分は守られていない―――。植松被告の中には、そんな思いがあったのではないだろうか。

自身も脳性麻痺の後遺症があり、車椅子生活を送る東大准教授の熊谷晋一郎氏は、このように語る。

「明日にも自分が価値のない存在とされてしまう不安が広がっている社会では、悪意は障害者のような、より不要だと思われている存在に向かいやすくなる」

また、ダウン症の娘を持つ和光大名誉教授の最首悟氏は、以下のように語っている。

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現代は『私の存在価値は何か』『社会に役立っているのか』という存在証明が難しい。終身雇用が失われ、弱者はいつ切り捨てられるかわからない。これは誰でも、とてつもなく不安なこと。不安が解消されないから、まぎわらすしかありません。

まぎらわす相手として通常は人と交流しますが、植松被告が存在証明を求めた先は、国家による勲章だったのでしょう。衆院議長公邸に持参した手紙に『日本国が大きな一歩を踏み出す』と書いています。日本のために正しいことをした、だから英雄として認めてほしいと思っているはずです。その意味で、彼は精神異常者でも快楽殺人者でもなく、『正気』だった。ネットでは共感する声もあります」

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「誰でもよかった」のではない。「死刑になりたかった」のでもない。自分の行為が「称賛」を受けると思い、大量殺人事件を起こした植松被告。

しかし、彼もまた、教員という夢に挫折し、一時は生活保護を受けるほど生活が困窮するという「弱者」の一人でもあったのだ。

本書で興味深いのは、事件に対する世界の反応だ。

事件後、追悼集会には世界各国から多くのメッセージが集まったという。アイルランドの国立大学教授は「私たちは人を有用かどうかで判断しません。そうした発想を支える功利的な考え方は、歴史のごみ箱に投げ込まれました」と書き、インドからは「高齢者と障害者をどう扱うかに、市民と国民の性格が表れます」という言葉も届いた。

相模原事件から5年前、ノルウェーではアンネシュ・ブレイビクという30代の男が77人を殺害するという事件が起きている。狙ったのは、移民受け入れに寛容な人々。彼自身は「欧州をイスラムの支配から救う」と事件を正当化していた。

ネオナチサイトに参加していたブレイビクと、「ヒトラーの思想が降りてきた」と語った植松被告。自らにとって「不健康な要素」を取り除き、社会を「純化」したいという意図。そして、挫折と孤立。2人には多くの共通点がある。

そんな事件を受け、ノルウェーでは何が起きたか。

「ノルウェーは国を挙げて犠牲者を追悼し、首相が『さらに寛容な社会をつくる』と宣言した。事件の生存者の中には、『テロを機に監視社会ができたら、彼の思うつぼだ。そうさせないのが、生き残った僕らの役割だ』と地方議会選に出馬した人もいた」という。

翻って、日本ではどうか。首相や政権から「障害者差別は許さない」という力強いメッセージが発されることはなく、逆に事件を受けて元都知事の一人は「やまゆり園事件犯人の気持ちはわかる」と公言。精神障害者の措置入院や予防拘禁ばかりが語られ、「危ないやつは排除・隔離しろ」と、突き詰めれば植松被告の主張と重なり合うような意見ばかりが支持を得ている気がして仕方ない。

効率や、生産性ばかりを重視する社会のあり方と、決して無関係ではない相模原事件。

あの時、「かけがえのない命」「命は大切」と繰り返したメディアは、今日も「高齢者福祉にこんなに金がかかって財政難」、という「お荷物」感たっぷりの報道を繰り返している。

常にお金と天秤にかけられる、命。

見直すべきは、障害者への差別とかそんなことよりずーっと手前の、私たちの「命へのまなざし」、そのものだと思うのだ

(2017年7月26日「雨宮処凛がゆく!」より転載)