異性の友人として付き合っている女性、裕恵が体調がよくないと言ってきたのは半年ほど前だっただろうか。
彼女は薬剤師であり、街中の調剤薬局に勤めていた。
仕事に熱心になり過ぎて婚期を逃したと時々笑うような人だ。
お互い、年齢は五十に近く、確かにいろいろな病気のリスクというものはある。
それゆえ、大きな病院でしっかり検査をと彼女の背を推した。
「言われなくてもそのつもりよ」
けれど、体調がよくない状態で何か月も我慢をしていたはずだ。
一月ほど時間をかけた検査で裕恵が癌の一種に罹患していることが分かった。
「大丈夫よ、医学は進歩しているし、まずは化学療法で緩解にもっていくから」
強がっている風でもなく心底、そう言っているように見えるのはやはり彼女が薬剤師であるからなのだろうか。
仕事中、スマホに着信があった。
彼女、裕恵からだ。
「ね、今、いい?」
「ああ、ちょうど休憩に入ったところだ」
「その頃だろうと思って電話したの」
「なるほど・・」
「今日、検査結果が出たの」
「そう、結果はどうだったの?」
「うん」
そう言ったまま、電話の向こうの彼女は黙り込んでしまった。
「どうしたの?」僕が問いかける。
「うん」
だがまともに返事がない。
これは何か辛いことを医者に言われたか・僕はそう直感した。
「仕事が終わったら会おう、メシでも食おう」
僕はそう言ってやった、詳しいことは目を見て聴こう。
その日、駅前で待ち合わせた彼女は意外にも落ち着いていた。
行きつけのレストランに入り、適当に注文した後、ワイングラスを合わせる。
「で、どうだった?」
僕は小声で彼女に聴いた。
「うん、癌よ」
「癌は分かっている」
「うん・・」
「それで・・」
「なんとかなりそう、結構辛い治療かもって先生は言っていたけど」
「なんとかなるなら頑張るしかないな」
「うん・・」
そう言いながらアスパラガスのカツを口に放り込んだ彼女は、目に涙をためていた。
そしてふっと口にする言葉。
「ね、今からお願いがあるの」
「なに?」
「抱いてほしい・・」
僕はいきなりの言葉にどう返事していいかわからず彼女を見つめる。
「どうゆうこと?」
「あなた、前にワタシの肩を抱きしめたことがありましたよね、あの続き」
そう、数か月前、一緒に歩いていた裕恵があまりに綺麗に見えて、思わず後ろから肩を抱きしめたことがあった。
あの時は彼女は軽く僕の手を払いのけ「まだその時ではありません」と小さな声で言った。
そのあと、その店近くのラブホで僕は彼女を抱いた。
齢五十、その年齢が信じられぬほどに小柄な彼女の肌は若者のように張りつめて、小さいが形の良い胸は豊かな弾力を魅せてくれた。
「もっと、もっと強く抱いて」
白い肌に汗を光らせ、彼女は僕の首に腕をかけて必死にそう叫ぶ。
僕は可能な限りの力を振り絞って彼女に応えようとする。
全てが終わったあと、彼女は「ありがとう」と言いながら微笑んだ。
そして「しばらく、頼みますね」とも。
清楚というより普段は全く性的なものを感じることのない裕恵からそう言われたのは意外だった。
それ以降、月に二度ほど身体を合わせることが続いた。
何度目かのあるとき、僕は思っていたことを口に出した。
「もしかしたら、君自身の命の限りを感じているの?」
すると彼女は僕にしがみついて大声で泣きだした。
それはまるで、赤子が母の胸の中で泣くようなものだった。
「怖いの?」
僕が訊くと即座に答えが返る。
「当たり前でしょ、わたし死ぬのよ」
そしてそのまま二人の深い海の中へ入りこんでいく。
やがて彼女は入院した。
それまでも二週間くらいの入院は何度かあったが、その時はもはやいつ帰られるか分からないと本人が言う。
そして入院した部屋での同室の病人たちとのやり取りを面白くラインで伝えてくれた。
「斜め向かいのお婆さん、食事の時についてきたものを溜め込むんですよ~~ヨーグルトや牛乳の蓋とか」
「人間は不思議だね、何かを取り込んでいないと安心できないのかも」
「ですよね~ワタシはあなたの心を取り込めたかしら」
「う~~ん、なんとも言えないが、早くまた抱きしめたい」
「あら、そう思ってくださるんですね」
「もちろん」
二か月近く入院していきなり彼女は僕の目の前に現れた。
LINEで「お近くの駅前にいます」と送ってくる。
公休日でゆっくりするつもりだった僕は慌てた。
「え・・・病院は?」
「一時的に外泊許可をもらいました」
「そうなんだ」
「今日、可能なら会ってください」
そんなに強く彼女に言われたことはない。
僕は何よりも彼女に会いにクルマを駅へ向かわせた。
さほど広くない駅前のロータリー、その脇で杖を突きやっとの思いで立っているであろう裕恵、彼女を見つけた。
「大丈夫なのか、こんなところまで来て」
彼女は大儀な風で僕のクルマに乗り込み「大丈夫じゃありません」という。
「じゃ、なぜそんなに大変な思いをして」
「ね、久しぶりに抱いてくれます?」
それを否定する気持ちを僕は持てない。
「わかった、あそこでいいか・・」
よく行っていたラブホの名を出すと「いいですよ」とのこと。
柔らかいオレンジの光線が広がるホテルの客室で彼女の肌がやや疲れて見えた。
胸の弾力はあるが、彼女が快感を感じたそのあと、大きな呼吸をした。
そして、は、は、は・・と大きな苦しそうな呼吸になる。
「大丈夫か?」
訊くと「はい、もっと、もっと」という。
いつものように愛撫を続けているとやがて呼吸が大きくなり、とてもこれ以上は続けられないと僕が感じるようになってしまった。
「無理だよ、それ以上やると命に係わる」
「いえ、もっと、もっと」
息を切らせてそう言う。
「僕は犯罪者扱いされたくない、それより今度また体調がよくなってから続きをしよう」
そういうと、彼女は僕の首に回していた腕を離した。
けれど相変わらず呼吸は荒いままで、彼女の胸に僕の耳を押さえつけると、激しく鼓動する心臓の音が聞こえた。
「続きなんてあるのかしら」
彼女は裸のままそう言って泣きじゃくった。
「帰っておいでよ」
僕がそう言うと彼女は頷いたが「優しいのね、でも無理なの分かっているでしょ」と呟く。
そしてまたしばらく泣いた。
部屋を明るくして彼女の肌を見ると、全体に黄色がかっている。
「ものすごくしんどそうに見える」
はぁはぁと息をしながら「そうなの?」と彼女は訊く。
「次に続きをするのを決めた、君は必ずここに帰ってこなくてはならない」
「ありがとう」
暫くそのまま休ませてから、僕は彼女を彼女の自宅近くの駅まで電車に同乗して送った。
「駅からすぐですから」
そう言う彼女を無理にタクシー乗り場につれて行って、止まっていたタクシーに乗せた。
結局、その日の夜から彼女はまた病院に戻っていく。
そのあともずっと彼女からの何らかのメッセージはラインであったりスマホのメールであったりはするが続いていた。
ただ、その日から十日ほどあと、彼女からのメッセージがない日があった。
そこから何日もメッセージがない。
不審に思った僕は彼女が入院していた病院に伺ってみたが「患者さんのことは、ご家族でない限りお伝え出来ません」とのことだ。
そこで、前に一度、自宅の電話番号を訊いていたのを思い出し、そこへかけてみた。
出たのは彼女の母親だった。
「娘は、数日前に病院で亡くなりました」
そう言って泣いている様子が伺えた。
そして一方的に電話は切られた。
おい、裕恵、まだ続きがあったじゃないか・・
僕はそう呟きながら意識を失った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます