*序*
「あの毛利元就殿も亡くなられました」
病床の夫人は侍女に支えられて起き上がり、信玄に向かう。
つい先月、中国地方の大大名、毛利元就が亡くなったことは信玄も知っていた。
「儂は毛利殿こそ、わが手本であると遠くから敬ってきた」
坊主頭の信玄はわが妻の背を持ち、ゆっくりと身体を寄せる。
「だが、誰よりもそなたから受けた数々の知恵こそが儂を助けてくれた」
躑躅が崎の館の奥で蝉が鳴く。
昼間は耐え難い暑さだったが、夕刻に近くなり少し涼しい風が要害山から下りてくるように感じる。
「逝くのではない、儂を一人にするな」
「あなた様には気心の知れた御家来衆もありましょうし、禰津の方、油川の方もおられるではありませんか」
夫人は支えられながら、笑みを漏らした。
「儂はなによりもそなたが大事なのだ、儂より先に逝ってはならぬ」
「さような無理を申されるものではありませぬ、妾(わらわ)は間もなくお迎えの船に乗るのです、あなた様はまだまだご活躍・・」
そういったと思うと、夫人は咽て咳き込んだ。
「あ・・」
慌てて侍女が懐紙を渡す。
懐紙が真っ赤に染まる。
信玄は妻の背をさする。
「まだ、駿河は平定したばかり、あなた様はここに留まらず、どうか、お仕事をなさってください」
夫人は背をさする信玄に請う。
「儂はそなたがおらぬと何もできぬ・・本願寺も小田原も」
夫人はそっと信玄の手を離す。
「あんじょう、抜かりはございませぬ・・小田原は間もなく御味方に戻られるでしょうし、本願寺は万全でございます」
「いや、向こうからの動きに際して知恵が欲しい、配下どもでは何の役にも立たぬ」
「あらら、ご心配はそちらでございますか」
信玄は大きく頭を振った。
「ちがう、そこもとにずっと傍にいて欲しいのだ」
「それは本当にお許しくだされませ」
「ならぬ、ならぬ・・」
「妾は先に向こうへ行って、そう、諏訪の方様とゆっくり呑みあかしとうございます」
「うめ、うめよ」
妻の愛称を呼ぶ。
妻はそっと、そばに置いていた篠笛を信玄に渡した。
「あなた様のもとに嫁いでからの甲斐府中での人生、楽しゅうございました」
信玄は声を出して泣きながら妻を抱きしめる。
「そんなことを言うではない」
「諏訪の方様と、あなた様の噂話をたくさんいたしましょう、どうか天からの噂話により戦場でお風邪など召しませぬように」
そういって夫人は笑おうとした。
だがそのとき、また口をおさえ屈みこむ。
侍女が懐紙を差し出したが間に合わなかった。
鮮血が口を覆う手を超えてこぼれる。
「もういけませぬ」
脇に控えていた医師、御宿友綱が侍女を促す。
信玄は夫人の布団から下がり、侍女が夫人を横にする。
「あなた様」
横たわる夫人がそれでも彼を呼ぶ。
「どうかご武運を祈ります」
「そんなことを言わず、生きてくれ」
甲斐、信濃、西上野、駿河、飛騨、奥三河に及ぶ領地を有し、日本有数の大名に成り上がった武田信玄は周りを憚らず泣きながら声を出す。
「うめ、うめよ」
信玄がまた夫人の愛称を呼ぶ。
彼の正室、三条の方、頼子がゆっくりと目を瞑る。
信玄の手には妻の篠笛が握られている。
中庭で蝉が鳴いている。
三条の方、五十歳、元亀元年(1570年)7月28日のことだった。
*甲斐府中*
天文5年(1536年)3月、春の盛りの木曽路を数十人の武士が守って進む輿があった。
輿は四丁、嫁入りの姫と姫の乳母、姫に付き添う侍女がそれぞれ乗せられているだけではなく都からの勅使も同行している。
輿に乗っているのは、甲斐の国守護、武田信虎の嫡男・太郎への口宣案(勅許を書いたメモのようなもの)を奉持している若い公家で正親町公叙、姫はその太郎に嫁ぐ、京・三条家の次女、頼子である。
京から甲斐への道のりなら東海道を駿河に出て、富士川に沿い身延を経て府中に達するのが近道ではあるが、当時は甲斐武田氏と駿河今川氏は激しい戦闘を繰り返していた。
如何に京の高家、しかも勅使がいる隊列だからといっても、まさか紛争地帯を通ることなどはできるはずもない。
それに比し、中山道で木曽を経由すれば、武田氏と親交のある木曽氏、前年に武田氏と和睦した諏訪氏の領地を通過するのであり、安全性は高かった。
だからといっても夜盗の類の横行する当時、特に輿入れの列には屈強な武士の守りが必要で、そばについている武士たちは一時、姫が猶子として預けられた細川家の者たちである。
細川家の嫡男である晴元には、昨年、姫の姉が嫁いでいた。
公家の中でも精華家と呼ばれる高家であるはずの三条家の姫、頼子の婚礼にしては質素だ。
三条家はすでに荘園の大半を失い、しかも質素を旨とする三条公頼には世間体を取り繕う気持ちも資金もなかったのだろう。
ただ、細川晴元の支援だけが頼りだった。
時折、輿から簾を上げて、そっと外を見る姫。
「何か見えますかな」
武士の一人がにこやかに訊く。
「なにも、山ばかり・・」
姫はため息をつく。
近江から美濃に入り、だんだん山が深くなり、そして木曽では周りに屏風のような高い山々が険しくそびえているのが見えるだけだった。
「甲斐の国は遠方ではあるが、荒れ果てた京よりずっと暮らしやすそうだ」
父、公頼が慰めるように言った言葉が思い出される。
同じ嫁ぐなら、姉様のように都に近いところに居たい・・そういって一度だけ駄々をこねたこともある。
姫、頼子はまだ十五歳だった。
甲斐の国には数年前に公頼が左大臣として諸国視察の際に訪れていて、その際、当主の信虎にも、嫡男の太郎にも会っていた。
数日後の昼間、桜が散り始めた甲斐府中に質素な行列が到着した。
辺りは春霞で見通しが効かず、けれど暖かい。
だが、護衛の兵士たちが隊列を見つけると、武田家の館ではない城下の別の館へ案内される。
館の門を入り、輿を庭先に下ろすとそこには布が敷いてあった。
姫はゆっくりと足を布に下ろし、館の前にいる大勢の武士や使用人に見守られながら歩く。
「公家の娘さんは地面など歩かないと聞いていたのだがね」
ふっとそういう声が聴こえる。
だが、三条家は質実な家風だ。
姫であっても、庭で作物も作れば井戸の水も汲むし飯も炊く。
正面で迎えてくれたのは壮年の武士である。
「三条家よりのお輿入り、遠路はるばる、誠にご苦労様でござる」
武士は慇懃に頭を下げた。
「拙者、飯富虎昌と申します、今よりは拙者の手のものが御身の周りのお世話をさせていただきますゆえ、良しなに」
頼子は無言で頭を下げた。
「ここは拙者の屋敷でござる。姫様は今宵、こちらにてお休みくだされ」
「はい」小さな声が出る。
「明朝よりこちらにてお輿入れの準備などをさせていただきます」
「はい」なるようになれ、どのようにでもこの頼子を武田で料理するがよいと自分に言い聞かせる。
「御館様のお屋敷には明後日の夕刻頃になると思われます」
「明後日?」
姫の乳母が訊き返す。
「さよう、明日は太郎殿の元服の儀がございまして」
「はい、正親町さまが来られていましたもの、わかっております」
しっかりと姫は返す、だが相変わらず小さな声だ。
「お忙しくなることと存じます、何かありましたらお申し付けくだされ」
飯富虎昌から話を聞きながら同じ武士でも厳つい髭と浅黒い顔が、細川家の武士たちの美男子ぶりとかくも異なるのかと、冷静に武士たちを見つめていた姫ではある。
山賊のような怖い顔ばかりだ。
随行してきた細川家の武士たちの白い肌、優男ぶりとは比べ物にならない。
脇に立つ女性たちは、まるで百姓家のかかさまのように見えてしまう。
「こちらへ」
女性の中でこの人だけは美しいと思われる一人が姫を促す。
侍女たちと館の奥へ向かう。
細川の武士たちは別室で供応を受けるのであろうか。
「巳は、武田信虎さま大方様の侍女を纏めております」
などという。
田舎屋敷ではあるが、そこにはそこの掟がありそうで怖い。
「あなた様はご嫡男のご正室、どうか心を強く持ち、皆を導いてくだされませ」
「仰られても、吾はまだ幼きゆえ、心もとありませぬ」
「姫様はお幾つでいらっしゃいますか?」
廊下を歩きながら纏め役というその女性が訊いてくる。
「はい、誠に若輩者で申し訳ないのですが未だ十六でございます」
「それなら、太郎さまと同い年にございますね」
「え、さようでございますか?」
姫は自分と同い年の男が相手だと伝えられ、意外な気がした。
うんと年上の男に全身を甚振り回されると覚悟していたのだ。
「なかなかの美青年でございます、かような田舎には滅多にいないほどの」
「あら・・」
自分の中でなにかが変わった気がした。
ここまでは、随行してきた正親町公叙の色白な好男子ぶりが眩しく「あの人で好いのに」などとも思っていた。
(明日お会いする殿方へのお楽しみもできたかも)と心の内で思う・・悲劇は自分には似合わないと。
吾は「哀しい物語の主人公」にはならぬ・・生来の強気がわいてくる気がする。
そうだ、自分はあくまでも三条家の息女・頼子なのだ。
明後日に会う太郎とやらには、強く出れば良いのだ・・姫はそう思った
だが改めて冷静に自分を見つめるに、小さな体、やっと膨らんできた胸、この自分をどう持ち上げて、晴信とやらの上に立てるのか‥
彼女の気持ちの中では自分への失笑しか湧いてこなかった。
その夜の食事は田舎にしては豪勢なものだった。
いや、三条家では食事も基本は質素だったので、多くの膳が並べられ山や川のものが調理されているのには驚きでさえあった。
男性たちは姫や姫の侍女には顔を見せない。
世話は大方様の侍女たちと、この家、飯富家の女性たちで行われているようだ。
その夜、優しい笛の音色が飯富家に流れる。
*婚礼*
飯富家で朝から宴席が続き、頼子はそこにただ座っていなければならなかった。
挨拶に来る家臣たちに例をするが、さっと踵を返されては名前など覚えられるはずもない。
やがて、昼頃には花嫁行列が改めて組まれ、武田信虎の屋敷へ向かう。
輿の簾を上げると、荒れ果てた都よりはよほど整備された街並みが続いているのが見える。
「あそこに見える綺麗なお山、あれが富士山なのでしょうか?」
姫は従者に山のまた向こうに見える、遠くの秀麗な山を指して訊いた。
昨日は見えなかった山だ。
「あれこそ富士山でございるだ、ご存じなかったのずらか」
歌に聞く富士の山とは、かほどに見事なものか・・明るい日差しの中、屹立する富士を一瞬見て、「案外、甲斐は悪くはないやもしれぬ」と思う。
沿道では町の人々が花嫁を一目見ようと集まっている。
武田館に着き、脇から広間の奥に通される。
やがて侍女の合図で手をひかれ、広間に入る。
「おお!」という感嘆の声が一斉に湧き上がる。
大勢の家来衆が集まっているところに、小袖の白無垢を着て座る位置を指図される。
隣の直垂の男性が太郎だろう。
男性は動きも見せない。
じっと座ったままだ。
「それでは、誠に芽出度く当家ご嫡男太郎晴信殿と三条家のご息女頼子殿の契りをこれより始めさせていただく」
太郎は、昨日の元服により足利幕府十二代将軍、足利義晴の偏諱を受け、太郎晴信と名乗ることになった。
飯富虎昌が宣言すると場は一斉に盛り上がった。
目を伏せがちにしているが元々、好奇心の旺盛な姫である。
じっと周りの家来衆の様子を観察し、前のほうに昨日まで警護してくれた細川家の人たちもいて、安堵する。
「それでは固めの盃を」
飯富虎昌が間に座り、ここで初めて、頼子と晴信は向き合った。
かための盃が回る。
媒酌をしている飯富虎昌が銚子から注ごうとするが、晴信は目で合図して自分で銚子を持つ。
虎昌は一瞬驚き、目配せして「それはいけませぬ」と言いたそうだったが、晴信に圧された。
自ら姫の盃に酒を注ぐ晴信。
それもなみなみと入れてくる。
姫も驚いたが、なるに任せろと思いそのまま、彼女も晴信の盃に酒を注ぐ。
「まっと入れてくれるけ、あんましにも少のうごいす」
少量の酒を姫が注ごうとすると晴信は小さな声でいう。
「え?」
一瞬混乱した姫だったが盃いっぱいになみなみと注ぐ。
返しに晴信からもまた、なみなみと注がれた。
「これくらいなら、呑めるずら」
また晴信が小さな声で言う。
これを繰り返し、盃事が終わる。
飯富虎昌はそこに集まった人たちに宣言した。
「いや、これは驚きずら、お二方はなみなみと注いだ酒を呑みあったずら」
そこに居た者たちから歓声が上がる。
新郎も新婦も常識外れの豪快な人間だという事になる。
これは武田の将来にとって大きな慶事だと、そこに居る人たちは囁きあう。
どよめく儀式の場はそのまま大盛会の宴会となった。
ただ、都から来ていた正親町公叙は渋い表情をしていた。
儀式が公家の作法を守ったとは、とても言えるものではないからだった。
もちろん、武家社会で広まってきていた小笠原流の作法にも反している。
「申し訳ねえずら」
晴信が小さな声を出す。
姫がそちらを見ると、晴信は笑っている。
悪戯っぽく笑う表情は、まるで公家の貴公子のような品のある顔立ちでもある。
晴信も姫を見てホッとしていた。
京の公家から来た娘なんて言うのは、家柄や高尚な教育を鼻にかけた高慢ちきな女ではないかと思っていたのだ。
だが、実際は背丈も小さく、そして自分との一瞬の掛け合いも難なくこなす機転を持っていた。
「これから、なげえ年月になるが、よろしく頼むずら」
ちいさく、姫を見てそう言う。
まだ、儀式の中でそれを言う場面ではない。
「吾のほうこそ、よろしゅうに」
そういって姫はクスッと笑った。
儀式の場はすでに宴会と化している。
いつもは難しい顔をしている晴信の父、信虎も相好を崩し、すでに大杯をあけているようだ。
その夜、褥に入った晴信は付き従う侍女を遠ざけた。
「もう、二度目・・」
「なにがでございましょう?」
「聞いてなかったか、儂は一昨年に正室を亡くした」
なんだか、この話が来た時にそれは聞いたような気はする。
だが、詳しく聞いたとて何かが変わるわけもなく、そのまま心の中で流してしまっていた。
「それはお辛い思いをいたされました」
「うん、だから頼みがあるんど」
「なんでございましょう」
「死ぬな、儂より先に逝くな」
「なぜそのようなことを」
「あさはお産の時に死んだ」
晴信は二年前に武蔵の上杉朝興の娘を迎えたが、あまりにも若かったゆえか、懐胎するもその子を産むことが出来ず、母子ともに死んだ。
「それはお気の毒でございました」
「あの時は一時にすべてを失ったずら、もうあんな悲しみはいやずら」
そういって晴信は姫の肩を両手でつかんだ。
「死ぬな、儂より先に死ぬな、お方」
呪文のように言う。
よほどその時が苦しかったのだろうと、姫は晴信の心中を察した。
「なんてお優しい殿方」
そのまま褥に入るも、彼は無理をせず、ゆっくりと貴重なひと時を楽しんでいるように見えた。
「温かい」思わず独り言が出る。
「なにが?」抱きしめていた腕の力を緩め、晴信が訊く。
「あなたさまのお身体が」
「そうか、頼子どのの身体は冷てえな、もっとあっためてあげてえ」
フッと姫は笑った。
「それ甲州弁ですやろうか、面白うございます」
「儂の言葉が面白いなんて言うおなごは初めてだ」
「甲州では皆、そのように話されるのですやろうか」
「ほりゃあそうずら」
フフッと小さく笑っていた姫だったが、やがてこらえきれなくなったのか大きく笑いだした。
晴信の下で乳房を吸われながら笑う、
「なんだぁ」
晴信も自然につられて笑う。
そして急に姫は改まって言う。
「吾からもお願いがござりますのや」
「なんだ?」
晴信は姫の顔に自らの顔を近づける。
「二人きりの時、吾のことは、頼子ではなく「うめ」とお呼び下され」
「うめ?そのわけは・・」
「頼子というのは、正式の名でおますが、父も母も家の中では「うめ」と呼んでくださったがゆえに」
「儂と姫の間ではという事ずらか」
「さようでございます、ご家人の方々にはいずれお方とでも呼ばれましょう」
「わかった」
晴信はそう言って姫を抱きしめている腕に力を入れた。
姫のあえぐ声が広がる。
襖の向こうで人の動く気配がする。
やがて今も宴会を続ける広間のほうから歓声が聞こえる。
あれは父信虎や家臣の方々が、侍女からの「今まさに、晴信さまと頼子さま、ご夫婦の契りを為してございます」という報告を聞いて宴がさらに祝いと慶びの言葉で溢れているのであろう。
晴信は冷静にそう思いながらも、姫の身体をむさぼることに余念がなかった。
姫は姫で「今まさに、吾はここのお方になったのだ」と自分に言い聞かせながらも、晴信の暖かくも優しい愛撫に沈んでいく。
*躑躅が崎館*
天文10年(1541年)春、躑躅が崎館の奥は明るい声にあふれていた。
先月誕生した武田晴信と妻頼子の次男、二郎が母に抱かれてキャッキャッと声を発している。
傍らには天文7年(1538年)に生まれた太郎がまだ三歳のあどけなさながらも、賢そうな表情をして母と赤子を見つめている。
二十歳になった三条の方・頼子は美しい。
嫁いできたころの痩せぎす、小さな胸の少女はもはやそこには居らず、ややふっくらとした顔立ちの、豊かな胸を持つ美女になっていた。
「お方様、このあと、桜でも」
三条家からずっと仕えてきてくれる彼女の乳母で今は筆頭の侍女が楽しそうに言う。
春のぼんやりとした空気の向こう、富士山がおぼろげな姿を見せる。
「そうねぇ、近いから積翠寺にでも・・」
三条の方がそう呟くと、侍女はクスッと笑う。
「お方様は本当に積翠寺がお好きですね」
そういわれても三条の方は「あそこは何やらほっとする気配があるのです」と答える。
「わが君のお生まれになられたところでございますし」
「まぁ、それはそれは今も思いが繋がっておられるのですね」
「先だっての歌会では、いまひとつ、咲ききっておりませんでしたし」
数日前、駒井高白斎が主催して武田家の歌会をしたところだった。
それではと、表向きの武士に声をかけ、警護を付けた十人ほどで館から春の盛りの山道を北へ徒士と輿で、それに数騎の馬が先導して歩く。
赤子は三条の方が抱いたままだ。
「重いでしょう、ずいぶん大きくなられましたもの」
侍女が言う。
「いえいえ、こうしてこの子の重さを楽しめるのですから」
三条の方は笑う。
太郎は侍女の一人に手を引かれてついてくる。
長閑な春の空気の中、ゆっくりと石段を上がる一行を見て、住職が一行の前に明るい笑顔を見せる。
「まさに春のおぼろげなる日差しの下、こうして甲斐の国随一の美女をお迎えできることは喜びでございます」
「まぁまぁ、お気遣いなく、ただ桜の花を楽しもうと思ってきただけでございます」
「なるほど、ちょうど見ごろでございます、先だってのお歌会では少し早ようございましたゆえ」
住持はにこやかに答え、春の山野が一望できる高台へ皆を案内した。
府中がある盆地はあちらこちらで桜が咲き、長閑な風情を楽しめる。
「母上、桜がとても美しゅうございます」三歳の太郎が母の膝に抱きついてくる。
「では久しぶりに笛などご披露いたします」
三条の方は皆に向かってそういうと、侍女に持たせていた篠笛を手に取る。
春霞の山野に優しい笛の音が広がる。
笛は三条家の家伝だった。
そこへ騎馬武者たちがやってきた。
要害山城を見に行っていた晴信主従だ。
「笛の音が聴こえた、お方はここにいるぞと教えてもらったようなものだ」
晴信はそう、妻を揶揄う。
「これはこれは、粗末な笛の音をお聞かせいたしました」
「いや、お方の笛は絶品である。儂は何度泣いたかわからぬ」
「お世辞であっても嬉しゅうございます」
「では、儂からも・・情を写して春意緩やかなり」即興の歌を口ずさむ。
「できた、どこかで使おう」
そういって笑う。
「あら、随分上達されましたこと・・とても自然で肩の力が入らず宜しいかと」
「そうだ、これもお方が歌の本質を儂に教示してくれたからだ」
「いえいえ、あなた様に素質があればこそでございます」
元々信虎も武辺一辺倒の男ではない。
若き日より歌を嗜むなど文化にも理解のある領主だったしその息子の晴信もまた歌や詩を心から愛していた。
三条の方が武田に嫁いだことにより、武田家は周囲の武家に比してずっと文化的な香りを漂わせることにもなった。
遠くの富士山は霞んでいる。
「霞むより心もゆらぐ春の日に野べの雲雀も雲に鳴くなり」
晴信はまた呟いた。
空の上の方で雲雀が鳴いている。
「お見事です」
三条の方が感嘆して笑顔を向ける。
晴信は太郎を抱き上げ府中の街並みを指さす。
「まもなく儂はここの長になる、その次はそこもとだ」
「わが君・・」
三条の方が怪訝な顔をする。
「まだまだ、ご辛抱あそばせ」
「お方よ、わかっておるわ・・拙速は武士の恥よ」
彼女のほうを見るでもなく、太郎をあやしながら彼は甲斐府中を眺めている。
「だが、今年こそは飢饉にならぬよう、山や川が暴れぬよう祈るのみだ」
「どうすれば山や川が暴れぬようになるのでしょう」
三条の方が悲しげに聞く。
「こうして春の息吹を見れば、昨年のような大洪水など有り得ぬように見えるのだが」
「本当に哀しいことでございました」
前年、前々年と日本国中に今でいう台風や集中豪雨が起こり、特に甲斐は酷かった。
扇状台地は巨大な川と化し、多くの領民が死に、いくつも村が流され、作物は平年の半分も収穫できず、駿河とのいさかいが終わったのも結局は大飢饉で両国の兵士に食わせるものがなくなったからだ。
「うん、川を付け替えねばならぬ。自然の力を削ぐことで、勢いを減じそれによって洪水から田畑を守ることが出来る」
「まあ、それはあなた様がお考えになったことでございますか」
「いや、ただの受け売りだ・・だがこれは絶対に必要なことで、多くの資金と時間、人手を要する」
「資金も時間も人手も・・」
「それゆえ、手っ取り早く他国を攻めねばならぬ・・」
「御館様はそのようにお考えなのですか?」
御館様というのは晴信の父、武田信虎だ。
「いや、父上は諏訪との同盟を心から喜んでおる」
「それはそうでしょう、昨年、お妹様が嫁がれたではありませぬか」
「うん、そこだ」
閨の場でも話さないことをここで言うのは、むしろここのほうが呑気な表情で花見を楽しんでいると見えるからで、信虎配下の者たちも警戒感を持たないからでもあった。
坊主頭がやってくる。
家臣の一人ではあるが医師でもある駒井高白斎だ。
「ここにおられましたか」
息を切らせて叫ぶ。
「御館様がお呼びでございます」
晴信は暗い顔になった。
「もう少し皆で花見を楽しんでゆっくりするがいい」
二十歳になったばかりの若武者は三条の方にそういうと、高白斎と連れ立って丘を降りて行った。
また三条の方の篠笛が聴こえる。
*諏訪の方*
躑躅が崎の奥には各国の国人から寄せられた人質が住まわされていた。
その中に諏訪家から連れてこられた姫がいた。
名を「梅」という。
武田信虎に恭順の意味を示すために、信虎は諏訪家に人質を求めたが、まさか嫡男を送ることもできず、他に養子として送るにも適当な人がおらず、実子である姫を送ってきたものだ。
これには武田信虎もやや戸惑う。
信虎はこれ以前に、息女である禰々を諏訪頼重の正室として送り込んでいた。
「もし、諏訪殿が裏切れば儂は姫を斬らねばならぬし、向こうも禰々を斬るだろう」
豪快な風貌であり、言動凄まじく配下からも恐れられている信虎だったが、よく他者の心情を理解し、武辺一辺倒ではない部分も持ち合わせていた。
この頃には駿河・今川との同盟も為し、とりあえず国境の憂いは少なくとも二方向に限ってはなくなっていた。
三条の方が花見を楽しんだ天文10年(1541年)秋のことだ。
今川へ嫁いでいる晴信の姉(信虎の長女)の嫁ぎ先を訪問しに行く口実で、武田信虎は富士川に沿って国境を超えた。
その時、突然、晴信が国境を封鎖、信虎に従って駿河に行った配下の者たちの家族を捕らえて監禁した。
一夜にして武田の当主が入れ替わった。
苛烈な信虎から穏やかな晴信へ。
それは若き当主なら、この飢饉で痛めつけられている甲斐をなんとかしてくれるだろうという期待もあったのだろう。
三条の方は一報を聞いて驚いた。
まさかこんなに早く、晴信が実父を追い出すとは考えもしなかったからだ。
館での様々な当主交代の行事を終え、晴信は奥へやってきた。
「このたびは家督相続、おめでとうございます」
三条の方は平伏する。
「うむ、これからが大変だ、うめにもいろいろ手伝ってもらわぬとならぬかもしれぬ」
「まぁ、妾にできることなどございましょうか」
「あちらこちらへ手紙を書いてくれ、晴信は決して私欲のために親父殿を追い出したわけではないとな」
「それは、あなた様が公式に宣言されればよいことでは」
「それだけでは弱いのだ、それぞれに奥方もあろう、そういって説得してもらわねばならぬ」
「それくらいのことでしたら」
「我がをひと、晴信のこと聞きたまふればは覚ゆれど我がはをひとは、いかがすともならぬよしがあり、家督を相続せり。
こはゆめゆめ我利我欲のものならず、父信虎殿のあまりにも苛烈なる行ひに臣や民のこうじたるを見かぬればなり」
三条の方は季節の挨拶にこのような一言を付け足した手紙を、父、三条公頼、実姉である細川晴元正室や、公家衆の奥方たちに送った。
晴信の実父追放は、戦国期にあれども批判されるべき筋合いのものであったが、比較的好意的に受け取られたのは三条の方の努力もあったのかもしれない。
翌年夏、武田晴信は諏訪に侵攻した。
表向きは諏訪頼重が上杉憲政と図って信濃小県の領土分割を決め、そのことが信濃に進攻しようとしている武田にとって由々しき事態であるとしていたが、実際は欲しくて仕方のない諏訪湖岸の豊かな田園を取り込むことが出来るチャンスでもあった。
晴信は即座に出陣、これは当主として初めての戦でもあった。
三条の方は胸が潰れるかと思うほどに心痛し、朝夕の読経を欠かさない。
祈ればこそ願いは叶うと、彼女もまたこの時代の女人でもあった。
彼女の実家三条家は天台宗に帰依し、武田家は禅宗・臨済宗を家の宗旨としている。
いずれも法華経が依経で、双方の寿量品と観世音菩薩本持品を特に読むことが多かった。
衆生見劫尽 大火所焼時 我此土安穏 天人常充満
衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり
呪詛諸毒薬 諸欲害心者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
呪いの言葉や、諸欲を持って害するもの、観音力を念ずれば それらはその本人のもとに還る。
あるいは悪い人や、毒龍や諸々の鬼をもってきたとしても、観音力を念ずれば、どのようなときでも敢えて害されることはない。
仏の言っていることは分かる。
天から仏が助けてくれるのではない。要は自分の中にある観音力を呼び覚ませよと。
三条の方はその部分に特に力を込めた。
我が最愛の夫、晴信に仏の力が満ち満ちて死なずに帰ってきてくださいますように。
必死で祈る甲斐あってか、やがて晴信は凱旋してきた。
「勝ったぞ」
そういって夫が彼女の前に立った時、三条の方は崩れて気を失いそうになった。
「おいおい、疲れているのは儂だぞ、癒してくれるのではないのか」
そういう晴信に、三条の方は周囲に侍女たちがいるのも構わずに抱き着いて離れない。
大泣きに泣く三条の方を、彼女の最愛の夫はゆっくりと抱きしめた。
「祈ってくれたのだな、不思議なことがたくさんあった」
晴信はそう言って妻の背を抱いた。
「一番大きな不思議は、儂がまさに上原城に臨もうとするとき、諏訪殿は何も戦支度をしていなかったことだ」
泣く妻の背を抱き、晴信は妻の耳に囁いた。
諏訪頼重は甲斐府中に連れてこられ、間もなく自刃させられた。
冬の風が吹くころ、晴信が三条の方と食事をしていた時に改まって言い出した。
「うめ、聞いてほしいことがある」
「なんでございましょう、わざわざ改まる程のこともないかと思いますのに」
「いや、そなたの、うめの許しがなければできぬことだ」
「あなた様の仰るようなこと大体見当がつきます」
「そうか、では言おう」
「どうぞ何なりと」そう答えつつ、三条の方は不安でもあった。
「諏訪の領民とわが武田の間がうまく行かぬ」
「それで?」
「そこで、諏訪頼重殿の息女である「梅」というものがこの館に人質でおるのだが」
「そのお方をどなたかと娶せる?」
「うん」
「でも太郎はまだ五つ、諏訪さまのご息女なら確か十三歳くらいでは」
「それでは釣り合いが取れぬ」
「では・・・」
「儂の側室に来てもらおうと思っている」
来るべき時が来た。
武将の妻たるものいつか、夫の独占ができなくなるのは分かっていた。
だがそれが、夫がたまたま惚れた相手で、手つきになってしまったとかいうのではなく、まさかこのような政略的な意味合いになるとは思わなかった。
「十三歳のご息女をあなた様が?」
「そうだ、それしか諏訪の民を手なずける方途がない」
真剣に悩む表情を見せる晴信。
そっと酌をしながら「よいではありませぬか」と答える。
「案外、あなた様は期待もされているのではございませぬか」
「いや、頼子・・」
「いえいえ、わざわざその名前で呼ばなくても結構ですよ」
「すまぬ、うめ・・」
「武将たるもの、娶るのもまた戦・・」
悪戯っぽく三条の方は晴信を見る。
顔を赤くした晴信はひたすら酒を口に運ぶ。
数日後、三条の方は侍女を連れて館の奥の人質達の曲輪へ出向いた。
人質とはいっても、相手が同盟国の関係者であるならば粗略にはできない。
曲輪の中はむしろ穏やかな空気が漂っている。
侍女が「失礼に存じます」と襖の外で声をかけると、すぐに襖があけられた。
正室が見舞いに来るという事は連絡があったはずだ。
部屋の奥に着飾った娘が座っていた。
「ご正室の頼子さまでございます」
侍女がいう。
「巳は、諏訪頼重か娘、梅でございます」
「あら、あなたも「梅」どのと仰るのですか」
「はい・・」
「妾も御館様(晴信)とふたりきりのときは、うめ、と呼んでいただいております」
「え・・」
梅姫が面くらう。
「あら、大変失礼をいたしました。この度はお父君の諏訪頼重様にはまことにお辛いことでございました。謹んでお見舞い申し上げます」
そう言って頭を下げる。
「かようなご丁寧なお見舞い、誠にかたじけなく存じます」
梅がさらに頭を低くする。
「ね、梅姫どの」
三条の方は言葉の調子を変える。
梅はゆっくり顔を上げる。
漆黒の髪、大きな瞳の白い顔が印象的だ。
「今から当家からあなたにあるお話は、快く受けてくださいますように」
「はい、実はそれとなく聞いております」
「それはあなたにとっては、お嫌なことかもしれませぬが、当家と諏訪家にとってはとても大事なことでございますゆえ」
「はい、なにを言われても、例えば命を差し出せと言われても」
真剣に答える梅。
三条の方は諭すように言う。
「命を差し出せなんてことはありませぬ、あなたにとっても多分良きこと」
梅はホッとしたかのように顔を上げた。
「いま、梅どのはお幾つでいらっしゃいますか?」
三条の方の問いに梅はややあってから答える。
「はい、未だ十三でございます」
「それはお若い、まだまだ女性としての身体もできておりませぬね」
「はい、恥ずかしいことなのですが御印が未だでございます」
「それはちょっとお話を伸ばさねばなりませぬ」
「そうしていただけると有難く存じます」
「わかりました・・今日のお話はそれだけ、あとはお父様の菩提を弔ってあげてくださいませ」
三条の方はそこまで言うと、ゆっくりと立ち上がった。
その夜、寝所に来た晴信に三条の方は小さな声で言う。
「諏訪の姫様をお迎えになる際には、きちんと、諏訪の家からお輿入れするように取り図ってくださった方がよろしいかと」
「諏訪の姫に会ったのか」
「はい、とてもお美しく、聡明な方だとお見受けいたしました」
「そうか・・」
「ただ、まだあまりにもお若くて、せめて妾がここに来た時の十五歳になられるまでお待ちになられては」
「うむ、そのほうが良いな」
晴信はそれだけ言うと、三条の方を抱きしめた。
それから二年後の春、諏訪の姫が武田家に側室として輿入れすることになった。
この間、晴信と三条の方の間には三郎と長女が生まれていたし、三条家でも頼子とは歳の離れた妹ができていた。
甲州街道を諏訪から甲斐府中に向け、花嫁行列が通る。
幾日か時間をかけ、ゆっくり進む行列が府中に近くなった頃には日が暮れかけていた。
提灯に灯りをともし、それが延々と続く。
三条の方は躑躅が崎館の石段の上で晴信とともに行列を迎える。
「美しいものだな」
晴信が呟く。
「本当に・・妾の時はこれよりずっと、みすぼらしゅうございました」
「うめ、妬いているのか?」
三条の方は少しだけ考えて答える。
「そりゃあ、妬きますよ」そう言って笑う。
「お・・」
「これで諏訪の民の心を繋ぐことが出来れば、妾の妬き餅くらいいくらでも妬いて差し上げます」
晴信の横で頬を緩め、行列を眺める三条の方は達観しているかのように見える。
ふっと、三条の方は懐から篠笛を取り出して奏でる。
爽やかで優しい音色は、夜の府中に広まる。
闇の中に浮かぶ提灯や松明の風景と合わさり、幻想的なひと時となった。
三条の方の奏でる音色は、晴信の第二夫人への祝いの笛ではなかったか。
*苦渋の始まり*
天文15年(1546年)諏訪の方が懐妊し、里帰り出産として諏訪へ帰っていった。
躑躅が崎を出る諏訪の方を見送り、自室で少し休んでいた三条の方に、二郎の乳母が「ちょっと見ていただきたい」と言ってきた。
なにか二郎が粗相でもしたのかと気軽に二郎の部屋を訪ねた三条の方は、寝かされている二郎と、その周囲の数人の侍女を見てただならぬ気配を察する。
「今朝から高熱が出て、それがどんどん酷くなっております」
ぐったりしてしまい、意識も朦朧としている。
やがて医師の永田徳本が入ってきて手当、投薬をする。
しばし様子を見るしかなかろうと言われても、赤い顔をして息の苦しそうな二郎から離れられない。
晴信にも報告がいっており、彼も部屋に入ってきたがなす術もない。
「うめよ、儂らは医者ではない、ここは祈るしかなかろう」
晴信はそう言って三条の方を仏間に誘う。
やがて二人が祈る法華経が、その中でも観世音菩薩本持品(観音経)が躑躅が崎の奥に聞こえてくる。
三条の方の声は何度も涙で途切れる。
二郎の高熱は数日続き、一時は特本も「御覚悟召された方がよろしいかと存じます」と晴信夫妻に耳打ちするほどだった。
薬効の甲斐あり、さらに祈りが通じたのか、二郎は奇跡的に生死の境を脱した。
だが、この時、二郎の目は見えなくなっていた。
晴信も三条の方もなんとか、二郎の目が快癒するように薬草を求め、また周囲のあらゆる寺社に願文を捧げた。
だが、二郎の目は戻らない。
すぐそばにいる親を探して泣く二郎に、晴信夫妻はただ狼狽えるだけだった。
永田徳本は領主の子の病を完全に治することが出来なかったことを甚だしく悔い、晴信に願い出て諏訪へ移ってしまう。
晴信と三条の方夫妻には二郎が生まれた二年後に三郎と長女が生まれていた。
長女はいたって元気だが、三郎が生まれた時から病弱で、時折高熱を出す。
まだ、九歳になったばかりの太郎が利発な子で、そこは救われるが二郎・三郎のことは三条の方の心にいつ大きな不安として存在するようになった。
「うまくいかぬことよの」
三条の方は館の庭からよく見える富士に向かって呟く。
諏訪の方、梅が側室になったことは、諏訪領民の心を鎮めた。
晴信が家督を継いでから少しずつ行ってきた治水事業もようやくその効果が出始めていて、水害による被害が目に見えて減り、甲斐の国の生産力はようやく向上してきた。
府中の街にも明るい表情をした人が増えた。
自分と晴信の間もうまくいっている。
だのに・・と思う。
一番大切な子供が二人も病弱なのは何が間違えているのだろうかと思う。
仏への祈り方であろうか、それとも奥を取り仕切るものとしての配慮が足りておらず、神仏が見放しているのだろうかと悩む。
悩みを振り切るかのように笛を吹くが、その音色は哀しげであった。
三条の方もまた、若い母の一人として何よりも子供のことが大切だった。
翌年、天文16年春、諏訪の方が上原城において男子を出産したことが伝わってきた。
晴信の正室、三条の方には男子が三人もあるし、太郎は快活で頭脳明晰、何の問題もなく、このまま順当に時が過ぎれば、諏訪の方が生んだ四郎は太郎の一家臣でしかないのは明白だが、なぜか三条の方にはそこが不安だった。
もとより、諏訪の方への不満などはない。
躑躅が崎に諏訪の方がいたころは、数度はお互いに行き来し、さすがに歴史のある家の娘と感嘆もしていたし、諏訪の方でも特に三条の方を頼りにしていて何かにつけ相談を持ってくるようにもなっていて、時には笛の指南を三条の方に求めたりもしていた。
「四郎さまのお誕生、おめでとうございます」
三条の方は晴信にそういったが、彼の顔はあまり喜んでいる風でもなかった。
「うむ、ただ・・諏訪の方が、お梅が・・産後の肥立ちが悪うてな」と呟く。
幸い、自分は頑健な質だったからお産は比較的楽だったが、線の細い諏訪の方は確かに苦しみそうだと思う。
「それはお困りでしょう、諏訪の方様がお気の毒です」
「何かよい方策はないものか」
暫く考えてから三条の方はこんなことを言った。
「鰻は、諏訪でも獲れますか?」
「鰻?」晴信は意外な表情をして三条の方を見つめる。
「そう、まさしくあの細長いお魚でございます」
「鰻は諏訪でも甲斐でも獲れるが」
「では、諏訪の鰻のなるべく大きいのをよく焼いて、もし焼いた鰻が弱ったお身体に差し支えるようでしたら、汁の具として多めに入れたのを召し上がっていただきましょう」
「あれは武士が、戦の前などに体力を作るために食うことが多い魚だが、産後にそんなものを食べても良いのか」
「焼いたままのは脂がたくさんですから、お産の後には苦しいかもしれません。お汁がよいかもですね」
「それはかたじけない」
「それと、貝類もお産で失った血を増やすのには良いのです。諏訪湖に田螺などが獲れれば、それも食事に加えて差し上げましょう」
「その知恵は助かる」
「あと、今の季節、路傍に蓬が生えておりましょう」
「あの蓬か」
「はい、それを煎じて飲んでいただきましょう」
「蓬は赤子を生む女子には毒にもなると聞いたことがあるが」
「それは、赤子が生まれる前でございましょう、生んでしまった後は、とにかく血を増やして気の力を増していかねばなりませぬ」
「そうか、わかった・・しかし・・」
「は?」
「うめは公家の娘であろう、そのようなことを知っているとは」
「公家といっても三条家は質素が家訓でございます。病もその前の段階で抑え込むには食べ物から気をつけねばなりませぬ。病になると高こうつきます」
三条の方はそう言って少し笑う。
「ほかにも、様々な知恵がございますゆえ、書きつけて諏訪に送ってあげれば如何でしょう」
「なるほど、よくわかった」
晴信は近習を呼んだ。
「大急ぎで諏訪に伝えてくれ」
三条の方から、薬効のある食べ物やその調理法を近習に聞かせて書き付させる。
そしてそのあと、いつもよりもっと深く三条の方を抱きしめる。
子を四人産んでも、三条の方の色香は褪せない。
「先とて教へたまへし食ひ物や薬草のこと、げに良く効き、今はゆゆしくすくよかになりき。
いかがお礼を言ふべからむや。げに救はれき。かたじけなくさうらふ」
諏訪の方から三条の方へ、感謝の手紙が届いたのはそれからふた月ほど後のことであった。
あの、清楚な少女の風貌が彼女の瞼に浮かび上がる。
翌年、三条の方にも次女が生まれた。
虚弱であった男子二人の後の元気がみなぎる女児だった。
*激動*
天文十九年、三条の方の息子、太郎は今川義元の娘を正室に迎え入れた。
「吾はこれほどの喜びはございませぬ」
婚礼の席上で三条の方は嬉しさを隠せず、めったに披露しない笛を吹いてその喜びを現した。
今川の姫は清楚で美しく、三条の方とも気が合った。
この話には、晴信が今川へ追いやった父、武田信虎の交渉もあってのことだ。
いまや配下の者に恐れられていた元領主は、武田の外交部員のような役割をしていた。
だがその年の秋、不敗のはずだった武田軍は砥石城で敵方村上義清の果敢な反撃を受け、大敗した。
しかも敗軍し、逃げる途中で敵の激しい追尾を受け、多くの将兵を失った。
晴信は影武者を立て、命からがら甲斐府中に逃げ帰ってきた。
「軍兵は物言はずして大将の下知聞く時ぞ、いくさには勝つ」
晴信は久しぶりに会った妻の顔を見ても苦渋に満ちた表情で呟いた。
「負け戦とわかってしまえば浮足立って誰も大将のいう事を聴かなくなるという事ですね」
三条の方はそれでも帰ってきた夫にしがみついた。
「妾はあなた様が生きてくださったことが最も嬉しいのです」
翌年、配下の真田幸隆により内通者を得て城は開城、村上勢は降伏となったが、そのころ三条の方には大変な連絡が来ていた。
「父君、三条公頼におかれば、先日の陶の乱におきておのづから逗留中の周防におきて横死せられき。」
三条西家のものからの急ぎの手紙だった。
「まさか・・」
自分の父は朝廷や幕府の権力争いにも加担していない。
達観した姿勢でただ権力中枢を横から眺めるだけではなかったのか。
それがなぜ・・
三条の方からの連絡にすぐ晴信が奥へやってきた。
「御父君に異変か」
「はい、父、三条公頼におかれては、さきほどの大内家の内乱、周防山口の大寧寺におきまして、戦の巻き添えで亡くなられたとの報告にございます」
「なぜに、大内氏ともその家臣たる陶氏とも全く関係なき、うめの御父上が死なねばならんのだ」
晴信は何度か会ったことのある公頼の、公家にしては厳つい表情を思い浮かべていた。
「辛うございます」
三条の方は涙も拭かない。
「そうであろう・・」
「大名の妻は・・こういう時、どうすればよろしいのでしょう、まさか、父の菩提を弔いに、周防などへ行けるはずもなく」
泣き崩れる三条の方の肩をそっと抱きながら、晴信は世の不定を感じていた。
その夜は哀しい笛の音が躑躅が崎に広がる。
翌天文二十二年正月、晴信の攻勢になす術もなく、旧来の信濃守護・小笠原長時は越後へ出奔する。
さらに夏にはあの剛勇の村上義清も越後へ逃れた。
川中島で村上義清をかくまった上杉輝虎と一戦があったものの、この時は大きな変化はなかった。
だがこの夏、旗下の西保を継いだことになっていた三郎が突然亡くなった。
元々病弱であったがまさか十一歳という若さで亡くなるとは三条の方には予想もできなかった。
我が子が先に逝くのは母親として最大の苦しみである。
さすがに三条の方も幾日も部屋を出ず、持仏の釈迦如来に悶々と祈りを捧げる。
叶う事のない祈りは躑躅が崎の奥を暗く落としてしまう。
その頃、美濃で高名な希庵玄密という僧を晴信が恵林寺の住職に招いた。
だが彼は、入山するとすぐに弟子の快川紹喜に住職を譲る。
これは、晴信の許しがあってのことだったが、高名な僧がそこまで押す弟子というのは、どのような素晴らしいのかと当時、甲斐府中では話題になった。
年が明けて春とは名ばかりの寒い日、晴信と三条の方は恵林寺を訪れる。
山門で迎えた快川紹喜は、付き人を従えた領主夫妻を拝むように立つ。
気温は冬のままで、冷たい風が吹く。
だが、富士山がうすく見えていて、陽射しは春のものだ。
晴信と挨拶をしている間、ふっと快川は夫人を見る。
逆光の中に浮かび上がるその姿は美しく、思わず息をのむ。
「拙僧はかほどの美人にお会いしたことはございませぬ」
お世辞ではなく本気でそう言った。
寺の門前には梅が咲いて微かな香りが風に乗って運ばれてくる。
「ご正室様は、まさに春の梅のような人だ」と快川は実感する。
「妾ほどのものならこの府中にもたくさんおられましょう」
三条の方はそう言って笑う。
だが、そのとき快川から見た夫人は、心の中に何かが溜まっているような印象を受けてしまう。
庫裏で湯を出しながら、領主夫妻と向き合う。
晴信との会話がほぼ終わったころ、夫人はふっと口に出した。
「妾の信心に、なにか御仏に叱られるところはあるのでしょうか」
快川は思いつめた風の夫人に優しく問う。
「なにかその様なことがございましたかな」
少しの沈黙の後、夫人は次男の盲目と、三男の夭折を語る。
「それは、お辛いことでございましたな」
夫人は顔を下に向けて涙を拭いている。
「だが、すべてに意味のあること、御仏の心を疑わず、そっとご子息のご供養を為されることで霊山に居られるご子息にも思いは届き、そして今を生きられる不遇のご子息様もきっと運が開けてくるものもございましょう」と諭す。
これまで、三条の方は、こう思っていた。
法華経には、死というものは法を知るための仮の姿だと説かれている。
だが、妾はすでに仏陀の教えは守っているつもりなのにと、仏への恨みすらもわいてくる。
いや、自分がいけないところもあるかもしれない、これ以上、これ以上、子供たちが不幸に陥らぬように、どうか妾に正すべきところがあるなら教えてほしい。
だが快川に会って、仏に問うのではなく、素直に仏に向かえばよいのだと気づかされる。
まもなく、太郎が「義信」と、将軍足利義藤(のちの義輝)から、足利将軍家累代の「義」の偏諱を受けた。
義の字の偏諱は武田家始まって以来のことだ。
これは芽出度いことだが、その分今川家を窓口にした交渉に武田信虎も一役買っているという事でもある。
せめて、三郎の悲劇の分まで、義信が大成してくれたら・・
三条の方の想いはようやく少し静まってくる。
翌年秋、武田晴信は川中島へ出陣し、上杉輝虎と大きな戦もないまま睨み合いの膠着状態となっていた。
だがこの時、善光寺が兵火で焼かれ、晴信は善光寺再建まで本尊を預かるとして自領に持ち帰っていた。
そしてこの三年後に甲斐府中に善光寺を建立する。
晴信にしてみれば憧れの善光寺本尊を甲斐府中に勧進することが出来たわけで、彼は素直に喜び、甲斐の民からも歓迎されたが、信濃の民からは怒りを買うことになる。
そんな中、三条西家のものから三条の方に手紙があった
「先刻、周防におきて大内家にとりて代はれる陶晴賢は毛利元就と対陣なされ、安芸の厳島に合戦がすはたが、毛利元就は僅かの兵力をもちて陶晴賢討ち取ることをなしたり。
お方の父、三条公頼殿の敵は討たれしか」
父の死があまりにも理不尽極まりない状況であり、三条の方の心が大きく傷ついていた。
その父や同じように周防に滞在していた公家衆をどさくさに紛れて殺害した陶晴賢という人物を、彼女は心底恨んでもいたので、この報告は確かに朗報でもあった。
だが、海内一と称され、唐や天竺にまでその名がとどろくという安芸の厳島で戦などできるのだろうかと思う。
もしかしたらそのことは、神々の怒りを買うことにならないか・・三条の方の気持ちは複雑だ。
自分の夫も善光寺を戦場としたあげく、本尊を持ち帰ってしまっている。
疲れ切った夫が三条の方の部屋を訪れた。
「此度の戦は別の意味で疲れた」
「よくぞ生きて帰ってくださいました、それだけで十分でございます」
三条の方は晴信の背に回り、肩を揉む。
「ああ、うめにこうして会うことがどれだけ待ち遠しかったか」
そう呟く。
「あら、ここに帰るまでに随分諏訪でご逗留されておられたとか」
「いや、それは旗下の者たちも疲労困憊しておるだろうし、せめて湯につかって旨いものでも食ってもらおうかと思ってな」
「でも、あなた様は諏訪の方様と久方ぶりに御昵懇・・」
「いや、それは・・」
困り果てる晴信に「諏訪の方様はお元気でしたか?」と聞く。
「うん、うめの言っていたものを食べてそれ以来、驚くほど元気なったという事だ」
「それはようござりました、諏訪の方様はさぞやお美しくなられていたことでしょう」
晴信は顔を赤くして妻の顔を見る。
三条の方は少し笑うが急に改まる。
「このような知らせを都からいただきました」
父の敵が潰え去ったと都からの手紙を見せた。
「毛利元就どのか、儂も気になって調べさせた、二万の軍隊を二千人で打ち破ったそうだ」
「それは・・」
「嵐の夜に船で海を渡り、厳島の山上から総攻撃をかけたそうだ、普通の人間が思いつく策ではない」
「毛利殿ご本人はどのようなお方なのでしょう」
「わが武田にとっては縁者でもある安芸の武田家を追い出した張本人で、必ずしも儂の立場から見れば好む相手ではない」
「怖いお方なのでしょうか」
「それが、人心を掌握することで版図を広げ、厳島の戦では神社の神官たちも味方につけていたそうだ」
「では、神仏を冒涜するという方ではないのでしょうか」
「戦の後には必ずその場で戦死者の法要を営むそうだ」
「あなた様は、そういったことをなさらないのですか?」
「いや、儂も法要をして塚を立てる、敵味方の区別はせぬ」
「なら同じではございませぬか」
「うむ・・わが身と同じことをしている奴がいることに、少し驚いたのよ」
そうだ、神仏の怒りを買わないようにしなければならない。
それはきっと、自分たちの普段の生活にも大きく影響することになるはずだ。
三条の方はそう信じている。
そして、こう付け足した。
「善光寺の御本尊は古来より信濃の民のもの・・どうか、信濃にお返しください、そうでなければ神仏の加護はいただけなくなるやもしれませぬ」
晴信は答えた。
「うむ、兵火で御本尊が焼かれては申し訳ないからお連れした。信濃ではまだまだ戦が続くゆえ、安全な甲斐でしばらくお預かりし、そのための寺も立てる。もちろん、信濃が平定でき、平和になれば御本尊は元の場所にお返しする」
三条の方はそれを聞いて安心する。
この少し後、諏訪の方が亡くなったという知らせが届いた。
二年後、弘治三年四月、三条の方の妹が本願寺顕如に嫁いだ。
腹違いの年の離れた妹で、会ったことはないが自分の血縁のものが嫁ぐことにやはりうれしさを感じる。
だが、夫・晴信はまたも信濃で戦だ。
それも今回はかなり激戦だと伝わってくる。
葛山城を配下の馬場信春らが攻め、敵方はすべて戦死、逃げ場のなくなった女子供は崖から身投げをしたという。
いくら戦の倣いだとて、女子供まで死ななくても良いのにと三条の方は哀しく思う。
折角上向き始めた自分たち夫婦の運が、いや、三条の方自身の運が、また下向きにならねばいいのにと思い悩む。
亡くなった敵方の、特に女子供へ供養の法華経を読む。
自分ではそれくらいのことしかできない。
晴信が帰ってきても、三条の方は戦のことを責め立てたりはしない。
自分は戦については素人であり、戦場ではそこなりの事情があるのだろうし、激烈な戦がもしこの甲斐府中を襲えば自分たちもその時は同じ運命だ。
ただ、言葉の少ない夫に酌をし、肩を揉む。
「お疲れ様でございました」
「うむ、まぁ、いろいろ聞いただろうが、やむを得ぬ事情もある」
「無理にお話はなさらなくて結構ですよ、それより今宵はゆっくりと休んでくださいませ」
「そういってもらえると助かる」
「なにか、妾がなすことがありましょうか」
「そうだな・・」
少し考えてから晴信は言った。
「笛が聴きたい、心が疲れておるときは、うめの笛が一番だ」
妻はすぐに笛を取り出し、奏でる。
優しいゆっくりとした音色が広がる。
晴信は笛の音を聞きながら夫人の膝を枕に横になってしまった。
すぐに大きな鼾をかいて寝入ってしまう。
夫のその様子に、戦で心が疲れていることを妻は実感する。
こうして自分の膝の上に来てくれた・・ただそのことが嬉しい。
晴信はこの少し前に、いずれも国人の禰津家・油川家からそれぞれの姫を側室に迎えている。
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