今日は東海道の東側で残っている日本橋→横浜を歩きに出かけました。日本橋を早く出発しようと沼津発4時55分の初電で出発日本橋を7時40分に歩き始めました。さすがに4時起きは電車の中で寝ていたとはいえ応えます。
横浜までたどり着く事が出来るのか。何しろ3か月以上のブランクがある東海道ウオークですので。

日本橋に向かう途中に日本銀行を見てきました。威厳があります。
日本橋出発時の天候は曇り。朝の内は涼しい中で歩き始めました。
まず、あまり見た事が無い日本橋を観察しました。
広重の浮世絵を見ると木製の橋ですが現在の橋は明治44年に架けられた石橋です。「全ての道は日本橋に通ず」と言われていますが、標識で東京何Kmとか書いてありますが、これは日本橋までの距離数を示しています。
橋の中央に道路元標が埋め込まれていますが複製が橋のたもとにあります。

日本橋と道路元標
日本橋から歩いてすぐに「江戸歌舞伎発祥の地」の碑があります。歌舞伎の事はよく分からないので詳細は後日調べておきたいと思います。
その碑から道路を挟んで「京橋の記念碑」があります。昭和34年に撤去された京橋の擬宝珠欄千の親柱が記念碑としてのこされています。
その隣に「煉瓦銀座の碑」があります。「明治5年の大火の後、当時の府知事由利公正は、不燃性の街づくりを強く主張し銀座通りに面してレンガ造りの二階建アーケード式建築が並んだ。ここは通称煉瓦通りと呼ばれ、銀座通り商店街形成の基礎となった。」との事です。

江戸歌舞伎発祥の地の碑

京橋記念碑と煉瓦銀座の碑
この後は銀座の中を歩いて行きますが、早朝の銀座をランニングする人達が多い事。ビルが立ち並ぶ繁華街を走れるのは早朝しかないし気分がいいもんなのでしょうね。

銀座のシンボルの和光です。
銀座も終わりに近づいた所に「銀座の柳」があります。松や桜を植えてもすぐに枯れてしまったので柳を植えたら緑で覆いつくすようになったと言われています。
この後、新橋を抜け浜松町に差し掛かると、東京タワーと増上寺が見えてきます。増上寺の山門まで行って写真を取って来ました。中まで見たかったのですが先を急ぐ事にしました。

増上寺山門。
この後第一京浜国道を歩きますが、日比谷通りと交わるところに「西郷・勝両氏会見地」の碑があります。「江戸城総攻撃を目前にした慶應4年(1868)3月13日、14日の両日薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城がなされた。」という重要な会談が行われた場所です。

西郷・勝両氏会見地の碑

日比谷通りの先に東京タワーが見えました。
この後は品川に近づいた所に「泉岳寺」があります。東海道からあまり離れていないところにありすので四十七士に敬意を表して参拝しました。浅野氏の菩提寺で仇討を果たした大石蔵之介以下46人の墓があります。

泉岳寺山門。

大石蔵之介の像

四十七の墓
品川駅の前を通り八ツ山橋を渡るとやっと品川宿に入って行きます。この後は京急沿いを歩く事になります。
北品川の商店街は東海道を盛り上げようと休み処等を作っています。道幅の狭い商店街ですがかえって風情を感じてきます。
この後青物横丁、鮫洲と抜け再び第一京浜国道と交わる手前に「鈴ヶ森処刑場跡」があります。確か同じ名前で磐田にもありました。ここで10万人もの処刑が行われたとの事です。磐田同様あまり語りたくない場所です。

これより品川宿。

現在の品川宿。

鈴ヶ森刑場遺跡。
第一京浜国道を歩きますが、品川宿あたりから天気が良くなり太陽光線が容赦なく攻撃を始めました。
だんだん歩いていて苦しくなってきます。まだ蒲田にも着いていないのに。
時刻も昼に近付いて来ました。よく考えたら今朝は4時頃朝食を食べてしまったので昼までのインターバルが長いという事を思い出しました。足は痛くなるしガス欠気味だしピンチです。かといってがっつり食べたい訳ではないので色々迷っていました。
蒲田付近でそば屋発見。旨いかどうか分からないけど入っちゃいました。
頭がオーバーヒート気味でしたので気持ち良かったです。
やっと歩く元気がでてきて遂に六郷橋までやって来ました。
東京とはここまで神奈川県に入ります。六郷川(多摩川)を渡っている時に吹いていた風が気持ち良かったです。

六郷川(多摩川)河原での草野球にほのぼの感。

遂に神奈川県に入ります。

六郷渡しの碑。
川崎市に入るとそこが川崎宿です。この町も街道沿いの案内がしてあり分かりやすかったです。手書きで書いてあったのも味があります。
しかし川崎宿は史跡があまり残っていないので立て札による説明だけでした。
本来なら川崎大師にも行きたいのですが時間も押して来たので横浜に向かって行きます。

現在の川崎宿。
京急の八丁畷駅の近くに芭蕉の句碑がありました。色々な所で芭蕉さんの句碑を見ますが才能豊かだったんですね。
その先を進むといつの間にか川崎市から横浜市に移っていました。
「市場の一里塚」の前を通ると新鶴見大橋が架かっています。デザイン的な橋でした。

芭蕉の句碑。

市場の一里塚。

新鶴見大橋。
この橋を越えると「鶴見橋関門旧蹟の碑」です。安政6年の横浜開港以来外国人殺傷が多く発生した為不審な浪士や旅人を取り締まる為関門が設けられたという事です。

鶴見橋関門旧蹟の碑。
京急鶴見駅を越え進むとJR鶴見線の「国道」という駅があります。前から気になっていたのですが行ってみると第一京浜国道が横を通っています。駅は何もなく通路には照明もありませんでした。かつては通路で店が出ていた事を偲ばせるだけです。

国道駅。中は真っ暗。
国道駅をさらに進むと「生麦事件の碑」があります。日本史でも習いました。「文久2年(1862)、薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴見区)を通過のさい、日本語を理解できずに行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を無礼打ちにし、殺傷した事件である。この事件がきっかけとなり、薩英戦争が起こることになる」という事件でした。この碑の場所は転々としているようで今も近くに高速道路の工事が行われているので移転していました。

生麦事件の碑。
さあ今日何回目かの第一京浜国道を歩きますがいよいよ暑さが疲労を助長するようになって来て2回目のピンチです。
国道沿いはなかなか見所もなく気力だけで歩きますし、近くに駅はいっぱいあるのでリタイアは簡単ですが微妙に未歩行区間が残ると又、ここまで来なくてはいけなくなるので是が非でも横浜の上台橋まで歩かなくてはなりません。
遂に、東神奈川駅に曲がる交差点まで来ました。JRの駅で1区間です。
コンビニで飲み物を買って力水にして進みます。
滝の川橋を渡って先を左折。京急神奈川駅を越え鉄道の上を渡り、最後の細い道に入ります。
この辺が神奈川宿の辺です。
広重の神奈川宿は海のすぐそばを通りますのでこの辺から現在の海までは埋め立てされたんですね。
「田中屋」という料亭があります。昔は「さくらや」といっていましたが広重の「神奈川宿」にもさくらやの看板が描かれています。当時からあったんですね。ここは竜馬の妻のおりょうが働いていた事でも有名です。

田中屋です。数々の著名人も利用しました。
その先に「神奈川関門碑跡」があります。ここも先程の「鶴見関門碑」と同じです。

神奈川関門碑。
この後、約3カ月前に来た懐かしい橋が現れます。ヤッターーーーーー!!!!!!!!
辛かったけど歩き切りました。
これで東海道は日本橋から三重県の石薬師宿の手前までが繋がりました。残るは三重・滋賀・京都歩き切るぞ。

苦しかった!!!でも達成感がありました。
今回は3カ月余りのブランクがあったので大変でしたが、近いうちに三重遠征を計画したいと思います。