タウンウォーク第2弾は地元のウォーキングをしたいと思います。浜松市内に「家康の散歩道」というウォーキングコースがあります。浜松に住んで長くなりますが行った事のない所ばかりですので今日チャレンジしてみました。
HPにあったコースと現地の案内とでは2か所ほど現地の方が多くなっています。
しかし今日は暑いです。先日の横浜のタウンウォーキングの時も暑い日でしたが今日は更に熱い日ですが、好天に恵まれた事は感謝しなければいけません。
まずは、先日も行きましたが「徳川秀忠誕生の井戸」からスタートです。家康の側室西郷局が二代将軍秀忠を生んだ時に産湯として使った井戸との言伝えがあります。
HPでは「椿姫観音」ですが案内の看板によると「浜松八幡宮」になっています。近い所なので浜松八幡宮に向かいます。この浜松八幡宮は浜松に来て初めて行きます。
この浜松八幡宮は徳川家康公が祈願所とし、武運長久を祈ったと伝えられています。
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武田信玄との戦い(三方原合戦)に敗れ武田軍に追われた際、洞穴に潜んだと言われる境内の御神木「雲立の楠」は、その時、瑞雲が立ち上ったとの故事により称されるようになりました。また「雲立の楠」は、静岡県の天然記念物に指定されています。
浜松八幡宮からすぐのところですが狭い道の中にある「椿姫観音」に行きます。
引間城主飯尾豊前守乗竜の妻お田鶴の方が徳川家康に攻撃された時女ながらも懸命に戦い、侍女たちと共に討死して果てたところといわれている。家康はこの地にお田鶴の方と侍女18人の亡骸を手厚く葬り祠を建て、その周りに100本余の椿の木を植えて供養を営んだ。毎年椿の木は美しい花を咲かせ、付近の人々はこの塚を椿姫塚(又はお台塚)と呼んで追善供養を捧げたと伝えられています。
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今は街角にひっそりと立っています。
次に5分ほど歩いて「東照宮」に行きます。東照宮は各地にあります。特に日光と静岡の久能山が有名ですが、浜松にもありました。この東照宮は明治19年(1886)に創建されました。この場所は引間城の跡です。
さてまたまたHPではこの後は浜松城に入って行くのですが現地案内板は「五社神社・諏訪神社」に向かわせます。ちょっと離れていますが五社神社に行きます。
途中で浜松城大手門跡の碑がありました。
この「五社神社・諏訪神社」は場所は知っていて前は何回か通った事はあります。戦前は五社神社本殿と諏訪神社楼門はが国宝になっていましたが空襲で焼失してしまいました。
ここも家康ゆかりの神社です。
再び浜松城方面に戻ります。
浜松市役所の近くに「家康公鎧掛松」があります。元亀3年(1572)三方原の合戦から浜松城に帰った時に大きな松の木陰で休みました。そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛け松と呼ばれるようになりました。
浜松城に入って行きますが最近場内がリニューアルされました。
天守門ができていました。
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家康の銅像もあります。
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浜松城天守閣。実際はもっと大きな天守だったようです。
次は犀ヶ崖方面に向かいますが、かつて奥山(現浜松市北区引佐町)まで走っていた軽便鉄道の遠州鉄道奥山線の面影を見に行きたいと思います。
浜松城の裏手に軽便鉄道のトンネルが残っています。亀山トンネルという名前だったようです。トンネルに入る前やトンネルの中に当時の写真が掲示されていました。
昭和39年まで営業していたそうです。
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亀山トンネル。軽便鉄道跡は遊歩道になっていました。
犀ヶ崖に着きましたが、資料館は来年2月までお休みのようです。
犀ヶ崖は、三方原台地が亀裂、陥没したもので長さ2キロ、深さ40メートル、幅50メートル の断崖です。三方原の合戦で大敗した徳川軍が浜松城に逃げ帰った夜に、家康の家来、大久保忠世、天野康景が、一矢を報いようと崖を隠すように布を掛け、見えなくし犀が崖の北側に陣する武田軍の背後に廻り夜襲した。追い込まれた武田軍は布の掛った崖に気づけず、次々に人や馬が落ち、山と積まれて散った。という古戦場です。
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写真では崖の深さが分かりづらいですがかなり高い崖です。
本多肥後守忠真の碑もここにあります。三方原の合戦で大敗して浜松城に逃げる際に殿(しんがり)を買って出て刀一本で武田軍に切り込んで死亡します。それを讃えて明治24年に碑が建立されました。
道路を挟んだところには三方原の合戦の敗走時に家康の身代わりとなって死亡した夏目次郎左衛門の碑もあります。
道を戻って西方向に向かい「普済寺」に行きます。細い道の通りにあります。
古刹で徳川家の保護を受けて家康も客殿を寄進しています。今は特に特徴のある寺ではないのが寂しいですね。
すぐ近くに「西来院」があります。ここは家康の正室「築山殿」の廟所があります。築山殿はこの後に訪れる佐鳴湖の小薮(太刀洗の池)で家康の家臣の手にかかり亡くなりました。
その次が「宗源院」です。三方原合戦の際、徳川家康の身代わりとなって戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重の墓があります。また、浜松城主 松平伊豆守信祝が娘・多世姫のために建てたという墓もあります。
この3つのお寺ですがいずれも建て直されて新しくなっていたのが残念でした。
さて、最終コーナーに近づいてきました。
少し歩いて浜松海の星高校の体育館の横を通り部活の元気な声を聞いて高校時代の部活を思い出しました。
その少し先に「蜆塚遺跡」があり、奥に「浜松市博物館」がありました。蜆塚遺跡は以前行った事があります。登呂遺跡に比べると規模は小さいですが復元住居が多数並んでいます。
浜松博物館も入ってみました。浜松周辺の原始時代からの移り変わりを展示していました。
さてここを出て最後の訪問地「太刀洗の池」に向かいます。
坂を下って浜松医療センターの前の駐車場の隅にありました。築山殿が殺害されたあと血の付いた太刀をこの池で洗ったとされる場所です。
同盟関係にあった織田信長と徳川家康両者間における政治的駆引き、岡崎城内における派閥抗争、武田勝頼に内通した疑いなどから、徳川家康は築山御前を殺さなければならない事態に追い込まれました。天正7年(1579)8月29日、築山御前は岡崎城から浜松城に向かう途中、佐鳴湖(さなるこ)畔富塚村の小藪で家康の家臣により殺害されました。築山御前38歳でした。
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暗い話の場所が今日の最後になってしまいました。
浜松のちょっと知らなかった場所を何か所か尋ねる事ができました。来年が「徳川家康公顕彰四百年記念」という事で色々なイベントが行われるようです。家康検定なんてのもあるようです。
家康のゆかりの地なので知っておいた方がいいですよね。静岡や岡崎もゆかりの地なので近いうちに訪れてみようと思います。
今日は暑かったので歩いた距離の割には疲れました。