前回は、失敗シーンばかり紹介したので、今回はかっこよく決まったシーンを紹介します。
雨のビデオは、受験6回目です。各課題は無難にこなして行けるようになったのですが、今ひとつ点数が取れません。この日は確か50点でした。
こうやって、50点台での足踏みが続き、GWが過ぎ、梅雨が過ぎ、夏になり、お盆がやってきました。
盆休みになると、ビデオ係りのsportster乗りは北海道にツーリングに行ってしまいました。そした、私はと言うと、帰省もせず、遊びにも行かず、ひたすら試験場通いの日々が続いていました。
盆休み期間は、受験者の数が通常の4倍くらい(60~70名)になります。朝一に受付をして、夕方まで待って、試験を受ける時間は10分程度です。この10分にすべてを掛けて限定解除に挑むのです。
さすがに私も精神的に滅入って来て、「俺なんでこんな事してるんやろう」と弱音を吐きそうになってました。
そして、受験11回目。1993年8月16日。ついに70点を獲得し、免許証の裏に「自二限定解除」の判を押して貰う事ができたのです。
合格発表の電光掲示板に、自分の受験番号が点灯した時、両手を上げて「やったー、通ったー」と叫びました。
当日残念ながら不合格となった他の受験者から「おめでとう」と羨望と妬みの握手を求められました。
限定解除は、今まで受けて合格した試験の中で一番嬉しかったです。10回も落第する試験なんて他にはないでしょう。大学に合格した時より嬉しかったです。
こうして、バイクに殆ど乗ったことが無い、限定解除ライダーが一人誕生したのです。
この瞬間、日本で市販されている全てのバイクを運転できる事になり、いままで抑圧されていたものが一気に吹っ飛んでいった様な感覚に見舞われました。
そして、sportster乗りが北海道から帰って来た時、私は免許証の裏の「限定解除」の判を、水戸黄門の印籠のように見せ付けてやりました。
それを見たsportster乗りは一言、「ホンマに取るとは思ってなかった」。
それを聞いた私が一言、「じゃかましい。お前は責任を取って来年俺を北海道ツーリングに連れて行くんじゃ!」
と言うやりとりが有り、1994年8月、私にとって2回目の宿泊ツーリングが、sportster乗りと二人での10泊11日の大旅行になってしまうのですが、その話は気が向いたら、またの機会に...書くかもしれません。
めでたしめでたし。
↓応援のクリックお願いします↓