暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

松山城跡 1984年(吉見町)

2018-05-07 18:10:02 | 城館跡探訪
最近、大分手持ちのネタが尽きてきました。

わたしは、現在、仕事の関係で埼玉県在住ではないので、城跡の探訪・調査は冬期と夏期の

里帰り時になります。

ちなみに勤務先地域の城郭には全く関心がありません。

自分が、その地に本当に根付いていないためでしょう。


今日は古い、資料の中から、松山城跡の写真を見つけ出しましたので、記事にしてみました。

武州の名城松山城跡は吉見町の凝灰岩質左岸の丘の上にあります。



南西側市野川対岸から見た遠景です。

がけ下にあるのは、知る日ぞ知る「岩窟ホテル」です。

現在ここは、立ち入り禁止ですが、当時は、まだ入場できたはずです。

わたしも、2度、この中に入ったことがあります。

本当は、1回の大穴は醤油倉庫として使われていたのです。また、ホテル内部は2階構造になっていましたが、

湿度が高く、宿泊も許されていませんでした。

最近は心霊スポットのような扱いになっているのですが、宿泊したとか話していて、まったくでたらめで、

困りますね。ああいうのは。


さて、松山城跡本丸には、一時、新興宗教団体の施設があったそうです。

下の写真が本丸ですが、ここに残っているのは、遺構ではなく団体の建物のコンクリート製の土台です。



城址碑は非常に大きなものです。




本丸手前にある空堀ですが、非常に大きく深く、おまけに赤土の堀ですから、落ちようものなら滑って

這い上がってくるのには一苦労でしょう。

搦め手口の岩室観音です。本当に真っ暗な写真で話になりませんが、






この搦め手口を登り切った場所に、惣曲輪があり、穴があります。



これを井戸跡とする説もありますが、どうも、樹木を抜いた跡か陥没痕だということのようです。


昨年末頃から、松山城に関する書物を読んでいたのですが、さまざまな伝承があり、そうしたことも踏まえて

調査に行きたいと思っています。

村岡九頭竜大権現石祠(熊谷市)

2018-05-06 22:00:47 | 水の神
村岡九頭竜大権現石祠は、荒川大橋の傍ら、村岡側にあります。

この付近は、過去何度も荒川の水害に見舞われており、堤防が何重にもなっております。



創建時期は不明だそうですが、現在の石祠は大正15年に再建されたものだそうです。

この辺りは、以前、川砂利関係の会社があり、砂利を運ぶトラックが走り回っていたので、

今でも砂っぽい感じがします。






東城 1985年(旧妻沼町)

2018-05-05 20:54:34 | 城館跡探訪
旧妻沼町の東城は斎藤実盛の築城と伝えられており、福川岸の集落にあります。

現在は、城跡域はやや荒廃が進んでいます。










下の写真は、1985年頃のものです。





夏場で樹が茂っているため、うす暗いのですが、それでも、人の出入りしている気配があります。

八幡社の参拝者が減っている雰囲気が濃厚ですが、遺構は30年間よく保存され続けていると思います。



(付記:南側から撮影したとして掲載した写真は、資料との照合の結果、妻沼町内にある高城城のものと

判明いたしましたので、削除し訂正いたします。2018年5月13日)

少間池跡(熊谷市)

2018-05-04 21:49:52 | 水の神
水の神にも様々ありますが、この記事では少間池(さやまいけ)跡について、

書きたいと思います。

少間池跡は、熊谷市西部にある観音山の近くにあります。

私が少間池を初めて見たのは、1983年頃だったと思います。

当時は、水田の中にある水深30センチも無いような沼地で、周囲の10aほどではなかったかと思います。

少間池は祭祀遺跡で、遊水地を神として祀ったものでした。

現在の少間池は水田区画整理のために単なる整備された水田になっております。




写真では、かなり高低差のある崖の上に石祠が建てられていますが、

1983年頃の少間池の背後は緩やかな緩斜面で、このような崖はありませんでした。



新しい石祠の脇に、かつての古い石祠の一部が安置されていました。



当時写真を撮影したのは間違いないと記憶していますが、残念ながら古い写真は紛失してしまいました。

もし発見できた時には、記事に書きたいと思います。

久下の渡し跡の九頭竜神石祠(熊谷市)

2018-05-03 19:07:06 | 水の神
荒川流域には多くの水の神にかかわる信仰の痕跡が残されています。

久下氏館調査の傍ら、久下の渡し跡付近にある九頭竜神の石祠を見つけました。

荒川は江戸初期の元荒川の締め切りによって、河川流路が統合され大河川化した後、

水害が増加したと言われています。

しかし、熊谷側の堤防は切れず、大里、吉見側に水害が集中し、しかも、上流の村が、

下流の村落を犠牲にして、自村の水害を免れるため、意図的に堤防修繕を行なわないなどの

行為が横行したため、しばしば大きな論争を引き起こしたとされています。

このように熊谷側の洪水負担はかなり減少していたはずなのですが、それでも、

台風などの度に堤防の口まで水が増加する光景は、恐ろしいという表現意外に無かったでしょう。


土手上の久下の渡し跡の石碑があります。





九頭竜神はこの石碑の脇にありました。