暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

大堀 1984年(滑川町)

2018-05-12 21:48:45 | 城館跡探訪
埼玉県内には、当時の身分からはとても信じられないような、高貴な貴族や武士の館跡と

伝えられるものがあります。

九条兼実が住んだといわれる、大堀はその代表格でしょう。

一種の「流され王伝説」、「貴種流離譚」のようなもので、実際に、九条兼実が

住んだかについては疑わしいようですが。

大堀のある辺りは、月輪という場所で、九条兼実が月輪殿と呼ばれたことにちなんでいるようです。




大堀はうっそうとした森の中にあり、結構気持ちが悪いです。

写真は、明るい場所で撮影したものですが、奥に踏み込んで言って撮影しなかったのが幸いして、

見やすい写真になりました。ただし、アングル的にはひどく、一応、堀を撮影したのですが、

かろうじて、何か「堀のようなもの」を撫でるようにして、撮影したという感じです。

ここにも、自転車で行ったのですが、場所もなかなかわからずに困った記憶があります。


幡羅太郎館跡 1985年(深谷市)

2018-05-11 21:44:24 | 城館跡探訪
幡羅太郎館跡は鎌倉期の館跡とされ、成田氏は幡羅氏の後裔と言われています。

この1985年頃の私は、高校の帰りにそのまま城館跡巡りをしているような

アホだったので、残っている写真がおおむねうす暗いです。

幡羅太郎館跡は、一般の農家の敷地になっており、高い土塁と深い空堀が残っている

大きなものです。



土塁はかなり立派なもので、大きな木の根が絡みついていました。


限られた時間で何か所も廻ろうとしたせいで、細かいところをあまり見ない雑な見学でした。

休日にもう一度見学に行った記憶があるので、まだ写真があるはずなのですが、

今回の整理ではこの一枚の確認にとどまりました。



羽尾堀の内 1984年

2018-05-10 20:57:53 | 城館跡探訪
羽尾堀の内は羽尾恒儀の居館跡と伝えられていますが、

羽尾氏については詳しい文献・文書等が無く、詳細は不明です。

ですが、東松山の青鳥城にも築城者として羽尾恒儀の伝承があるところから、

羽尾氏の名は地元の有力豪族として知られていたのでしょう。

羽尾堀の内は、羽尾神社境内にあります。




羽尾神社の社殿裏に土塁・空堀遺構がありますが、一枚目の写真は何がなんだかよくわかりません。

おそらく土塁をうつしたものだと思ういますが。



2枚目には、割合はっきりと空堀遺構が写されています。



とにかく当時のカメラの限界もありますが、腕前の限界には目を覆いたくなります。



でも、当時は、これで大喜びだったのですから他愛が無いですね。

記憶では、汚い水の流れている水堀もあったような気がしたのですが、リストには含まれていませんでした。



阿部鉄丸陣屋跡 1985年(寄居町)

2018-05-09 20:03:15 | 城館跡探訪
阿部鉄丸陣屋跡は、忍藩鉢形領の管理にために享保12年に置かれたものです。

阿部鉄丸陣屋跡は寄居町立原地区にあり、鉢形城跡を通り越えて、間もなくだったので、

比較的見つけやすかったのを覚えています。

いまでも、忘れられないのが、陣屋跡には農家があり、わたしが訪ねていった日は

何かのお祝い事があったらしく、庭に何台も自家用車が止められていて

白いタイツを穿いた子供が、ピョンピョンとジャンプをしていて、にぎやかだったことです。


さすがに真正面から撮影するのは気が引けて、側面の水田から屋敷林を撮影しました。



屋敷林の細い水堀跡がありました。

屋敷地には、井戸や、陣屋が祀った稲荷社もあるというように『埼玉の館城跡』に記載されていましたが、

この時は、何も言えずじまいで、ただ訪問した記念写真のようになってしまいました。

折原堀の内 1985年(寄居町)

2018-05-08 21:47:50 | 城館跡探訪
折原堀ノ内は、寄居町鉢形城の西の折原地区にあります。

丹党織原氏の居館跡とされています。



写真は、1985年頃のものですが、これでは何のことなのやら全く分かりません。

恐らく奥の屋敷林らしいところに、遺構とされる水堀があったのかもしれませんが今となってはです。

もう少し、よく見てまわればよかったと思います。

実はこの写真については、記憶はあったものの、どこを撮影したのか自信を持てませんでしたが、、

ネガフィルムの記録メモが出てきて、ここが折原堀ノ内であることがわかりました。

ほとんどヤブばかりのネガなので、メモが残っていてよかったと思いました。