太田幸司もダルビッシュも
あと一歩で涙…悲願の「白河越え」なるか
準決勝で、
光星学院(青森)が作新学院(栃木)に5―0で快勝。
春夏を通じて初となる東北勢の甲子園制覇に王手をかけた注目の優勝戦。
因みに
04、05年夏と北海道の駒大苫小牧が2連覇を達成。
優勝旗は津軽海峡を渡ったが、
東北勢にとって「白河の関」は難所になっている。
東北のチームは夏の甲子園大会ではこれまで5度、決勝に臨んだ。
1915年の第1回大会で秋田中が延長13回サヨナラ負け。
これ以降、半世紀以上も決勝の舞台から遠ざかる。
1969年は三沢(青森)が松山商(愛媛)と高校球史に残る死闘を演じ、
延長18回引き分け再試合の末に敗れた。
過去 71年の磐城(福島)、
89年の仙台育英(宮城)も涙をのんだ。
8年前の夏はダルビッシュ有(現日本ハム)を擁した東北(宮城)が、
木内監督率いる常総学院(茨城)に屈した。
選抜大会で決勝に進んだのは、わずか2度だけ。
2001年には仙台育英が常総学院の厚い壁にはね返された。
2年前の花巻東(岩手)は菊池雄星の気迫のこもった投球が記憶に新しい。
そして今日注目の優勝戦は光星学院(青森)は
日大三高(西東京)に0―11で敗れ、
東北勢として初の甲子園大会制覇を逃した。
1969年夏に三沢高(青森)で準優勝している太田幸司氏(59)は
「点差ほどの力の差はない。十分に戦える、いいチームだった」
と健闘をたたえていた。
青森勢が決勝に進出したのは三沢高以来、42年ぶりになる。
当時の三沢高は松山商高(愛媛)と延長18回引き分け再試合の末に敗退した。
2日間にわたり計27回を一人で投げ抜いた太田氏は
「あの時は、だれも青森勢が決勝まで来るとは思っていなかった。
決勝でも伸び伸びやれた。
(光星学院には)今年は特に違うプレッシャーがあった。
震災や原発問題もあり、そろそろ東北に優勝を、というムードだった」。
悲願の達成はならなかったが、東北勢に実力がついてきたことは実証できた。
太田氏は「東北勢がちょくちょく決勝に顔を出すようになれば、きっと優勝できる」
とエールを送った。
でも実は・
大阪出身10人の光星学院 それでも「今は青森の人間」
延長18回を戦った三沢から42年。
東北勢として6度目の深紅の大優勝旗への挑戦だったが、
また決勝で悔し涙をこぼすことになった。
光星学院のベンチ入り18人中、大阪出身は10人。
地元青森の選手は3人しかいない。
対戦した高校は「関西弁が飛び交い、大阪のチームと試合しているみたい」と声をそろえ、
地元八戸でも「青森の子たちじゃないし」と勝ち進んでも、
冷ややかな目で見る人もいた。
それでも選手たちは言い続けた。
「僕たちは青森のチーム。出身は違っても今は青森の人間」。
その気持ちが青森の人々にも伝わり、
「頑張って」
「1つでも多く勝ち進んで」と声をかけられることが多くなったと。
大阪出身の仲井監督も
「東北の野球がナメられないように優勝しなければならない」
と挑んだ決勝だったが、
超高校級をそろえた日大三の前に、
悲願は達成できなかったが
立派な立派な準優勝でした。
おめでとう・光星学院!!!