日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・府中宿から日野宿まで歩いてみた(3)-けっこうあるぞ、歴史の名残り-

2016-06-04 | 旧甲州街道を往く

高安寺で、何気に時間をとられた一行です。ここから先を急ぎましょう。

【片町】


高安寺付近は、片町という集落でした。
街道の南側に高安寺があったため、北側、つまり街道の片側に集落ができたため片町と呼ばれたそうです。

【片町付近の甲州街道】


高安寺と並行する甲州街道。このあたりは街道歩きにふさわしく、のどかな雰囲気です。


【弁慶坂】


片町を過ぎてすぐ弁慶坂に差しかかります。
坂の名前は、高安寺の「弁慶硯の井」の伝説からからとられたとのこと。江戸時代にはすでに弁慶坂と呼ばれていたようです。

【弁慶坂付近の甲州街道】


なだらかな坂道で、のどかな雰囲気が続いています。


【弁慶橋】


弁慶坂を下った交差点に弁慶橋の標石があります。
かつてここに橋が架かり、弁慶橋と呼ばれていましたが、今は標石が残るのみ。橋の名は、やはり高安寺の「弁慶硯の井」に由来するのだそうです。
弁慶、この辺りの顔ですね。

【石橋供養塔】


弁慶橋の標石とともに、石橋供養塔が建っています。1871(明治4)年の建立で、弁慶橋の安全を祈願して建てられたものだそうです。

【棒屋の坂】


鹿島坂、弁慶坂に続き、またまた坂です。
弁慶橋の標石付近、かつては棒屋の坂と呼ばれていました。坂を下りきったところの家が、棒屋と呼ばれていたことに由来するそうです。
府中、坂が多いですよね。


【番外編・新田義貞像】


さて、ここでちょっと甲州街道を外れて寄り道を。
街道から南下して目指すはJR分倍河原駅。駅前のロータリーに新田義貞の像があります。
ここ、分倍河原は新田義貞と鎌倉幕府軍が戦った場所。義貞はここでの勝利で勢いづいて、一気に鎌倉攻略に向かいました。
甲州街道から分倍河原駅に出るのには、距離的には大したことがないのですが、けっこう細い道が入り組んでいて、迷ってしまいました。
京王線の分倍河原駅と立体交差する感じなので、像を見に行く場合はお間違いなきよう。

【番外編・鎌倉時代末期の板碑】


分倍河原駅から甲州街道へ戻る道すがら、ここにもいろいろとありました。
まずは、八雲神社脇の板碑。1319(元応元)年に建てられた板碑です。大蔵近之という人物が父親の追善供養のために建てたものだとか。ただし傷みが激しくなったため、現在設置されているのは複製品だそうです。悪しからず。

【番外編・屋敷分】


屋敷分(やしきぶん)という地名は江戸時代の地誌にも出てきます。甲州街道に沿って集落があると記されていますが、これは街道が新設された時に村ごと移住してできたものだそうです。もともとは、街道の南側にあったとのことなので、まさにこの辺りでしょうか。
地名の由来は六所宮(大國魂神社)の社家を務めた家々の屋敷があったからだって。単純だけど、ま、地名の起こりなんてそんなもの。でも、私はそういうのも歴史を感じさせていいなぁ~と思うのです。

【番外編・浅間神社】


屋敷分村の鎮守さまだったとのこと。道沿いには古い石仏。

【番外編・浅間横丁】


浅間神社の脇道。もちろん名前は浅間神社に由来します。


【内藤家表門(府中宿本陣表門)】


さて、分倍河原駅の新田義貞像から北上して、再び甲州街道に復帰しました。
で、次なるスポットはこちら、府中宿本陣の表門です。もともとは本陣・矢島家にあったものを移築したそうです。
この門があるお宅は、かつてこの辺り(元宿村)の名主だった内藤家。今も広大な邸宅から、当時の栄華がうかがえます。

【内藤家前の甲州街道】


まだのどかな旧道といった感じです。
江戸時代に甲州街道が整備される前は、ここ、元宿村が宿場だったそうです。

【元宿町交差点】


元宿町の交差点で、今まで歩いてきた府中方面を振り返ってみました。
右側が歩いてきた甲州街道。そして、トラックが通っている左側が国道20号線。布田五宿の国領で分岐した旧甲州街道と国道20号線は、ここで合流します。

【秋葉大権現常夜燈】


本宿交番前の交差点を渡るとすぐ、交番の横に本宿村の常夜燈があります。
案内板(由来書)によると、この辺りは水に乏しい台地で、本宿村の人々は火災に苦しんでいたそうです。そこで、1792(寛政4)年に火伏せの秋葉大権現を勧請し常夜燈を設置しました。木帳に名前を記された村人が順番で、毎夕、常夜燈を灯して無事を祈り、次の者に引き継ぎました。
太平洋戦争の灯火管制が敷かれるまで続いたそうです。


さて、常夜燈を見た後、熊野神社へ向かいますが、それはまた次回ということで。


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