日日の幻燈

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【note】甲州街道・府中宿から日野宿まで歩いてみた(7)-多摩川を越え、日野宿へ-

2016-06-12 | 旧甲州街道を往く

それでは日野宿へ向けて、一気呵成にラストスパートと行きましょう!


【清水の立場跡】


谷保天満宮を出てすぐ、清水の立場跡があります。立場(たてば)とは、宿場間に設けられた簡易的な休憩施設で、一服するための茶屋があったりしました。
ここ、清水の立場は、湧き水に浸した素麺が名物だったとか。この辺り、谷保天満宮の「常盤の清水」もそうですが、清らな水が豊富に湧き出る土地柄だったようです。清水の立場という呼び名も、もちろんこの湧き水に由来します。

【清水の立場(江戸名所図会より)】


夏の暑い日の冷たい素麺、旅人にとっては、まさに一服の涼だったことでしょう。

【清水の立場付近の甲州街道】


清水の立場付近はなだらかな坂道になっています。
交通量は相変わらず多いので、気を付けて歩きましょう。

【上谷保村常夜燈】


谷保天満宮の西側は、かつて上谷保村と呼ばれていました。ここにも常夜燈がありました。
建てられたのは1794(寛政6)年。他の常夜燈と同じく秋葉大権現を勧請したそうですが、街道から見て正面には、大きく榛名大権現と刻まれています。火を灯す部分(火袋)の月の形が、いいなぁ~と思うのです。
大正時代まで灯がともされ続け、道路拡張に伴い、昭和初期にこの地に移されました。秋葉大権現と刻まれた面を、一番人目に付く街道側に向ければよかったのにね。

【五智如来堂】


街道沿いの小さな祠です。
五智如来とは、仏教でいう五つの智を備えた仏のことで、大日如来の別名とも言われています…とのこと。八王子から移住した人々によって信仰されてきたそうです。

【五智如来堂・堂内】


昭和30年代まで灯火や献花が絶えなかったそうです。今でも10月12日には「おこもり」と呼ばれる、五智如来の供養が行われているとのこと(案内板より)。

【青柳地蔵堂】


この辺りは江戸時代の青柳村。
地蔵堂は完全に閉め切り状態で、中は見えませんでした。江戸時代前期に作られた十一面観音坐像が安置されているようです。

【青柳稲荷神社】


地蔵堂の脇の道を入っていくと青柳稲荷神社。青柳村の鎮守様だったそうです。
行ってみたかったけど、先を急ぐので断念。ちょっと足も重くなってきて…ということもありまして…。

【青柳村常夜燈】


地蔵堂の脇に青柳村の常夜燈があります。
1799(寛政11)年の建立です。甲州街道沿い、今日だけで4つ目の常夜燈。常夜燈めぐりをしているような気分。

【馬頭観音】


常夜燈の傍らにありました。物資の運搬や交易で馬の通行が多かったといわれる甲州街道にふさわしい遺物ですね。

【旧青柳村付近の甲州街道】


多摩川もだいぶ近いはず…。

【立川市へ】


国立市から立川市へ入ります。案外、国立市は短かったです。市の端をなぞった程度でしょうか。

【日野橋交差点1】


ある意味、この日いちばんの難所。
道路が複雑に入り組んでいて、さて、どっちへ行けばいいんだろう?実際に現地に立つと、地図を見ても悩んでしまう状況でした。

【日野橋交差点2】


正解は…フォルクスワーゲンの販売店の右側の道を進むべし。

【日野橋交差点を過ぎた辺りの甲州街道】


交差点を渡ると、また長閑な旧道といった趣に戻ります。
なるべく昔の道に正確に歩きたいと思いつつ、迷ったら、こっちの道へ行ってみるか…となる程度ですが、昔の旅人はそれこそ死活問題。詳しい地図もなかった時代、道標があっても見落としたりしたら…。ま、現代のような複雑な交差点はなかったでしょうけどね。

【多摩川・日野の渡しのモニュメント】


交通量の多い都道29号線を横断すると、いよいよ多摩川。
まずは日野の渡しのモニュメントが、多摩川の手前にあります。最近の設置のようです。

【多摩川・馬頭観音(小)】


モニュメントの傍に馬頭観音。こちらは小さい方。

【多摩川・馬頭観音(大)】


そして大きい方の馬頭観音。
いつのものかはわかりませんでしたが、どちらかは大正時代に建てられたらしいです。多分、大きい方かな?

【多摩川・日野の渡し付近】


ついに出ました。多摩川です。
右側に見える橋が立日橋(たっぴばし)。立川市と日野市を結ぶので、このようなネーミングなりました。この橋の上をモノレールも通っています。
そしてこの辺りが、かつての多摩川の渡し。日野の渡し、日野津、日野渡船場などと呼ばれていました。
江戸初期、多摩川を越えるには、ここより下流の万願寺の渡しが使われていました。
その後、江戸中期の貞享年間から、万願寺の渡しに代わりここが渡し場となりました。

【多摩川・立日橋】


さて、私たちも多摩川を渡ります。
大正時代までは渡し船があったそうですが、もちろん今はなし。1989年に開通した立日橋を歩いて渡ります。これも一種の徒歩渡し…ということで。

【多摩川・立日橋上より】


多摩川と言えば、名物は鮎。
江戸時代には将軍への献上品で、明治天皇も鮎漁のため府中に行幸されています。
高度成長期、川は汚染されて鮎はいったん姿を消しますが、水質の改善とともに多摩川の鮎も復活。東京都島しょ農林水産総合センターの調査結果によると、今年は463万匹の鮎が遡上したと推定されるそうです。

【日野市へ】


立日橋上で立川市から日野市へ入ります。この辺り、多摩川が両市の境界になっているんですね。

【東の地蔵と馬頭観音】


立日橋を渡って都道149号線沿いに歩いていくと、東の地蔵があります。
日野宿の安泰と旅人の守護を祈願して建てられ、福地蔵とも呼ばれました。そして、ここが日野宿の東の端にあたります。祠の前には文化年間のものといわれる馬頭観音。
いよいよ日野宿へ到着です!
惜しいことに、私たちが歩いているのは車道の右側。地蔵は左側。う~ん、車道の真ん中に中央分離帯的なフェンスがあって向こう側へ渡れない…。
ということで、遠くから写真だけとなりました。

【日野宿へ】


東の地蔵を過ぎてしばらく行くと、都道256号線とぶつかります。ここを右へ折れると、日野宿の中心へ向かうことになります。写真の奥の方が日野宿方面です。

【有山家の蔵】


洋館のように見えますが、実は蔵だそうです。かつては日野銀行の店舗として使われていたとか。明治時代に建てられ、関東大震災後に改築されました。
それにしても重厚な趣ですね。現在は閉鎖中のようです。

【高幡不動道標】


江戸時代のものかと思いきや、1884(明治17)年に建てられた道標。

【日野宿本陣】


日野宿本陣に到着!本日のゴール地点です。
時刻は夕方の5時。大國魂神社の前に集合したのが11時過ぎだったので、寄り道しながらもペース的にはいい感じだったかと。
でも、前回から約8か月ぶりで、足はかなり重い。
普段、いかに運動不足なのかを思い知らされた旅の一行でした。

甲州街道は、江戸前期と中期以降とでは道筋が変わってしまっています。私たちが歩いたのは中期以降の道。なので、今回、チェックできないポイントがありました。本宿の一里塚(NECの敷地内)、万願寺の渡し、万願寺の一里塚…。せっかくなので、いつか見に行こうと思います。


そんなわけで、無事日野宿に到着したあとは、お決まりの大宴会…じゃなくって、反省会。
飲んで食べて歌って…そういう元気はまだ余っている私たちだったのでした。


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