歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




本陣を先に紹介しましたが、日野宿全体を歩いてみましょう。以前の記事とかぶるところもありますが、ご容赦のほどを。

日野宿は大久保長安によって開かれたと言われます。「甲州道中宿村大概帳」によると
・本陣…1軒
・脇本陣…1軒
・旅籠屋…20軒
・問屋場…1ヶ所
・宿場の家数…423軒
・宿場の人口…1556人

1839(天保10)年の「諸渡世議定連名帳」には、質屋7軒、居酒屋12軒、食物屋20軒などが記録されているそうです。ただ、飯盛旅籠はなかったようで、遊興の地的な繁華街は形成されなかったとのこと。
また、日野の渡しの管理も任されていました。


【東の地蔵】


江戸から歩いてくると、この辺りが日野宿の東端にあたります。そこに建てられたから「東の地蔵」。福地蔵とも呼ばれています。宿場の安泰と旅人の無事を祈って1809(享和9)年に建てられました。


【本陣】


宿場の中ほど、名主を勤めた佐藤家の屋敷が本陣として公開されています。
詳しくはこちらを → 日野宿本陣


【問屋場・高札場跡】


街道をはさんで本陣の反対側に問屋場跡と高札場跡の碑が建っています。

【本陣・問屋場・高札場前の街道】


この辺りが、かつて宿場の中心地でした。今は交通量は多めですが、高層ビルなどもなく、のんびりとした雰囲気です。


【八坂神社】


日野宿の中心から日野駅へ向かって歩いていく途中に八坂神社があります。
言い伝えによると、多摩川の洪水のあと、金色に輝く牛頭天王の像が拾い上げられ祀られたのが起源だとか。五穀豊穣、厄病除け、子孫繁栄に「霊験無双」の神なり、と鳥居脇の案内板には記されていました。
新選組ファンには、天然理心流の奉納額でお馴染みでしょうか。本陣に開かれた佐藤道場で学ぶ門人たちが奉納した額で、近藤勇、沖田総司の署名がされているそうですが、公開は年に1回だけのようです。


【宝泉寺】


鎌倉時代末期の創建で臨済宗のお寺です。
山門は1853(嘉永6)年に建てられました。

【宝泉寺・本堂】


本堂は平成になって建て替えられたもの。

【宝泉寺・井上源三郎顕彰碑】


井上源三郎は日野市出身で新選組六番隊組長。鳥羽伏見の戦いで戦死しました。すぐそばにお墓もあります。
新選組ファンでなければ、井上源三郎って誰?って話。
私も大河ドラマの「新選組!」を見て、初めて知った人物でした。ドラマでは人の良さそうなおじさんキャラでしたが、実際のところ、剣術は免許皆伝の腕前だったとか。新撰組で組長を勤めるほどですからね、このくらいはやっぱり当然なのかと。


【飯綱権現社・鳥居】


宝泉寺を出ると、JR中央線沿いに街道は上り坂になっています。
そしてほどなく飯綱権現社。地元では「いづなさま」と呼ばれているそうです。鳥居をくぐって、石段を上ると小さな祠があります。

【飯綱権現社・祠と煉瓦】


祠の土台、煉瓦で作られています。神社にはちょっと見慣れない感じ。
明治時代、日野では甲武鉄道(現在の中央線)の工事のため煉瓦を生産しました。その数、50万個。鉄橋などの土台として使われたそうで、今でも多摩川を渡る鉄橋に見ることができます。
そして、この祠の土台もこの時に作られた煉瓦と考えられています。飯綱権現社は、鉄道の開通のために今の場所に遷りました。1889(明治22)年、工事に着手したと記録が残っているそうです。


【坂下地蔵堂・街道沿いのお地蔵様】


飯綱権現社の西隣です。坂下地蔵堂の前、街道沿いに1737(元文2)年に建てられたものも含めて、大小のお地蔵様が並んでいます。

【坂下地蔵堂】


坂下地蔵堂は1713(正徳3)年に、江戸小舟町の井田八左衛門によって建てられました。小舟町といえば江戸のど真ん中、日本橋あたり。江戸の人なのに、わざわざ遠い日野に建てたのですね。日野と縁のあった人物なのでしょうか?説明文には日野、八王子はじめ多摩一帯の人たちの合力で建てられたとあります。
ここが日野宿の西端にあたることから、西の地蔵と呼ばれました。
お堂の中に、本尊の延命地蔵尊が祀られています。


本来は、この坂下地蔵堂から中央線を横切るルートが旧街道のようですが、今は閉鎖されて渡ることができません。
なので、せっかく上ってきた道をいったん戻って、線路の高架の下をくぐり駅の反対側に出ます。
そこからまた坂道を上り、日野台と呼ばれる台地、そしてその先の八王子へと向かいます。

日野宿、お地蔵様に始まりお地蔵様に終わる…そんな感じでした。
では、次回、日野宿を後にして八王子へと歩いていきましょう。


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