日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・府中宿から日野宿まで歩いてみた(5)-国立市へ入りました-

2016-06-08 | 旧甲州街道を往く

【日本橋から33キロ】


熊野神社と古墳を後にして、歩き続けます。この辺り、日本橋から33キロ地点。交通量はかなりのものです。史跡や見どころが道の左右に分散していますが、安全第一、横断歩道を渡りましょう。

【国立市へ突入】


府中市を出て国立市に入ります。
さすが歴史のある町だけあって、府中市は史跡の保存・整備や案内に力を入れているなぁ…という感じでした。
次の国立市はどうでしょうか?

【獅子宿跡】


獅子宿って何?
江戸時代から昭和まで、この地にあった佐藤家が、谷保天満宮に奉納される獅子舞の稽古場となり、大祭の際には、ここから獅子頭をかぶり天満宮へ参進したとのこと。この獅子頭、平安時代に村上天皇から賜ったといわれています。
現在は獅子宿は天満宮境内に移され、この碑が建てられたということです。
つまり獅子宿とは、大祭に向けて獅子舞の稽古をして、当日はここから天満宮へ繰り出していく、いわば獅子頭の仮の住まい…ということでいいのでしょうか?

【本田家薬医門】


本田家は下谷保村の名主の家柄だそうです。で、さらに幕府の馬医者を勤めたことから、門は乗馬のまま通れる造りになっているとか。確かに大きくて立派な門です。
薬医門は、門が閉じていても、横の木戸から患者が出入りできるようにしてあるのだとか(梁がどうとか、専門的な解説はなんだかよくわかりませんでした)。
奥の屋敷も含めて国の登録文化財で、たまに内部公開をしているようです。

【本田家前の甲州街道】


この辺り、江戸時代には下谷保村とよばれていました。本田家は村の名主だけあって、今でも街道に沿う邸宅の敷地は広大です。写真の板塀も、門から続くものです。ただ、道路拡張などもあったので、江戸時代の姿そのままではないと思いますが、それでも想像を掻き立てるのには十分過ぎるかと。

【下谷保村常夜燈】


本宿村の常夜燈と同じく、秋葉大権現を勧請して設置された常夜燈。1863(文久3)年に建てられました。ジョートミとよばれる回覧板が各戸に廻り、その家が交代で毎夕欠かさず火を灯したそうです。このシステムも本宿村と同じ。この辺りの常夜燈は、どこでもそのようにして灯され続けてきたのでしょう。

【関家かなどこ跡】


この辺り、かつては鋳物が盛んだったようです。
鋳物三家のひとつに数えられた関家のかなどこ跡が、歩道わきの案内板によって示されています。
江戸時代から明治にかけて鋳物鋳造を家業としていた関家では、梵鐘や仏像のほかにも、鍋や釜など日用品なども作っていたそうです。内藤新宿の天龍寺にある江戸三名鐘のひとつ「追い出しの鐘」は、ここ、関家で鋳造されたとのこと。
ちなみに「かなどこ」ってなんだろう?って、家に帰ってからネットで調べてみましたが、明確な解説に出会えませんでした。工房とか作業場ってことでいいんですよね?

【関家鋳造・天龍寺「追い出しの鐘」】


新宿・天龍寺の「追い出しの鐘」。1700年(元禄13)年に改鋳された現在の鐘は3代目に当たり、高さ155センチ、口径85、5センチ。関孫兵衛種久が鋳造しました。

【関家かなどこ跡付近の甲州街道】


さて、関家のかなどこ跡から歩き出しました。次の目的地は谷保天満宮です。有名なはずのに、なぜかマイナー感が否めない(失礼!)のですが、どんな神社なのかは行ってのお楽しみです(旅の仲間誰ひとり、訪れたことがないとのことでした。もちろん私も…)。


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