日日の幻燈

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【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(2)-日野宿本陣-

2016-06-20 | 旧甲州街道を往く

高幡不動をお参りした私たちは、バスで日野駅まで移動しました。この日は今年一番の暑さ。とても高幡不動から日野まで歩く気力も体力もありません。もっとも天気に関係なく、はなからバス移動のつもりでしたが…。

日野宿、何と言っても見どころは日野宿本陣。
都内で本陣の建造物が残っているのは、ここ、日野宿だけ。

【日野宿本陣・表門】


日野宿には本陣と脇本陣が1軒ずつあって、東西に隣り合って建っていました。本陣、脇本陣ともに佐藤家。交代で日野宿の名主を勤めた家柄です。人々は本陣のほうを上佐藤家、脇本陣のほうを下佐藤家と呼んだそうです。当時は2軒の間に塀などは存在せず、自由に行き来できたとか。同じ敷地内に建っていたような感じですね。
で、本陣建築が残っているのは下佐藤家です。

【日野宿本陣・主屋】


表門を入るとすぐ主屋。現在の本陣の建物は、1864(元治元)年に再建されたもの。
内部を観覧できますが、正面の玄関からは入れません。左手にまわって土間から上がります。ここに受付があって入場料は200円。
ボランティアのガイドさんが室内を丁寧に説明してくれました。ただぐるっと見るよりは、本陣にまつわるいろいろなエピソードが聞けるので、おススメです。いつも待機しているのかはわかりませんが…。

【日野本陣・屋内】


灯りがともっている部屋は玄関の間。玄関から上がってすぐの部屋になります。写真の右側が玄関になります。玄関から上がれるのは、参勤交代の大名や幕府公認の役人など、身分の高い人たちに限られたようです。

ちなみにこの玄関の間、佐藤家と親戚関係の土方歳三が、少年の頃よく遊びに来て、ここで昼寝していたそうです。別名「土方歳三昼寝の間」といったところ。
また、いちばん奥に見える部屋には、函館で戦死した歳三の遺品(写真と刀)を持ち帰った市村鉄之助が匿われていたそうです。
ガイドさんからの説明がなかったら、そんなエピソードを知りもせずに、ぐるっとまわっておしまい…だったことでしょう。やっぱり直接話を聞くと面白い!

【本陣・床の間の透かし彫り】


床の間の壁にはめ込まれている透かし彫りは、天気が良い日には写真の通り、あざやかな六角形が浮かび上がります。天気が悪いと見られないのだとか。ラッキー!
うす暗い部屋に、なんとも幻想的な日本の美です。

【天然理心流佐藤道場跡】


表門の脇に、佐藤道場跡の碑が建っています。新選組でお馴染みの天然理心流は、日野を含む多摩の地で広まり、幕末の佐藤家当主で名主を勤めた彦五郎は、自らも剣術を習い屋敷内に道場を建てました。日野近辺は追剥や強盗など、けっこう物騒な土地だったようで、自衛のためでもあったようです。
そしてこの道場に、近藤勇、土方歳三、沖田総司ら新選組の面々が稽古に来ていたのだとか。新選組出会いの地でもあるわけですね。

【疑惑の(?)入場券】


さて、約30分のガイドさんの説明を聞き終えて、本陣を後にしましたが、ここでちょっと気になることが。
ネットで調べても、みんなここが「日野宿本陣」といい、表門にも「日野宿本陣」となっています。が、入場券には「日野宿脇本陣」。
ここは本陣なの?脇本陣なの?

ガイドブックには、もともと脇本陣だったが幕末に本陣になった、とあります。で、受付でもらったパンフレットをよくよく見ると、片隅にこんな説明が。

「日野市教育員会では、都内唯一の本陣建築であることから、市指定有形文化財「日野宿本陣」として指定しておりますが、東京都教育委員会では、長期間脇本陣として営業していたことから、東京都指定史跡「日野宿脇本陣」として指定しております」

日野市と東京都で見解が違うわけか…。
でも、幕末の短期間でも本陣であったのなら(現地の案内板には「幕末には本陣を称している」という微妙な言い回しでしたが)、本陣を名乗ってもいいんじゃない?建物だって残っているんだからね。
なんだか混乱してしまうから、統一した方がいいと思うのでした。


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