「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの 行幸(みゆき)またなむ」(藤原忠平)
水彩画教室の仲間たちと、京都・嵯峨野路のうち小倉山周辺に日帰りの旅を楽しんできました。
すでに冬。紅葉は色あせてしまっただろう、と思っていたのですが、さにあらず。平均年齢70歳をとうに過ぎ、行幸というのは不遜な我々を、彼女たちは真っ赤な装いで待っていてくれました。
まず訪ねたのは、化野(あだしの)念仏寺。
その昔、この辺は死者が風葬だったのを弘法大師によって土葬され、寺ができたとか。明治になり一帯の無縁仏を集めて祀った約8000体の石仏が並んでいます。
霊園に続く昼間も日差しが届かない竹林。出発したばかりなのでさほど疲れはありませんが、心なしゆっくり、口数も少なめになりました。
「嵯峨の釈迦堂」としても知られる895年建立の清凉寺。若き日の浄土宗の元祖法然上人が仏教を究めるためにこもったことから「元祖おこもりの寺」とも呼ばれているそうです。
本尊の釈迦如来はじめ、いくつもの国宝や重文を拝観。
湯豆腐で昼食、一息入れました。
平清盛の寵愛を受け、やがて清盛の心変わりで出家した白拍子の祇王(ぎおう)や母、妹らが祀られた尼寺の祇王寺。庭も屋根も赤、黄、深紅に染め上げられています。「京都に来ているのだ」の思いが一層高まりました。
徒歩数分の二尊院(にそんいん)へ。
その背後には、冒頭の小倉百人一首にある小倉山(おぐらやま)が、どっかりと座っています。
標高300メートにも満たないこの山の麓や周辺は、平安時代から貴人・文人・賢人たちが政治や文化の歴史をつくってきた舞台でもあったのでしょう。
小倉百人一首を撰集した鎌倉初期の歌人・藤原定家も、この地に山荘を構えていたとされています。
散策は俳句ゆかりの地へも。
落柿舎(らくししゃ)。芭蕉の高弟である蕉門十哲のひとり、向井去来の草庵です。
土地の主が庭にあった40本の柿の木ごと商人に売却したところ、夜中の強風でほとんどが落果したので商人に金を返した、との逸話からこの名がついたとか。
茅葺の庵、吟行に使われた蓑や笠。何本かの柿の木も真っ赤な実を残していました。
自然石に刻まれた芭蕉ら13人の句碑を巡ります。
柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらしやま 去来
五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡(あと) 芭蕉
凡(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり 虚子
句を目にしつつ、僕に句会入りを勧めてくれる現役時代の先輩とのやりとりを思い起こしていました。
「君も絵だけでなく、そろそろ俳句もやったらどうかね。俳句も写生をするのだから同じだよ」
「いや、絵もまともに描けないのに、俳句ができるわけがないでしょう」
締めくくりは、野宮(ののみや)神社。
良縁、子宝、安産、それに受験合格の神様とあれば、境内も女性や若者たちでいっぱい。もちろん我々も、孫たちを念頭に詣でて帰途へ。
神社仏閣、国宝・重文、庵、庭園、小路、そして待ってくれていた紅葉と黄葉。心が癒され、充実した旅でした。