(2024年5月31日投稿)
【はじめに】
今回のブログでは、次の書物を参照しながら、西洋美術史における食事観・食物観について考えてみたい。
〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年
この著作の中で、著者は「キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった」(49頁)という。
この意味するところは何かを中心に紹介してみたい。
(著者の章立てをそのまま紹介するというよりは、執筆項目をみてもわかるように、絵画作品を中心に述べてみたい)
【宮下規久朗(みやしたきくろう)氏のプロフィール】
・1963年愛知県生まれ。
・神戸大学文学部助教授。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修了。
・兵庫県立近代美術館、東京都現代美術館学芸員を経て、現職。
・専攻はイタリアを中心とする西洋美術史、日本近代美術史。
<主な著作>
・『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)~第27回サントリー学芸賞受賞
・『バロック美術の成立』(山川出版社)
・『イタリア・バロック―美術と建築(世界歴史の旅)』(山川出版社)
【宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)はこちらから】
宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・はじめに
・プロローグとエピローグ
・≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年
・キリスト教思想の特異性
<聖人の食事~パンと水だけ>
〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃
<乱痴気騒ぎの情景>
〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃
<食の愉悦>
〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃
・農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ
〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年
・台所と市場の罠~第3章より
「二重空間」の絵画
〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年
・静物画と食物~第4章より
西洋美術特有の概念
〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年
【目次】
プロローグ
第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術
1-1 レオナルド・ダ・ヴィンチの≪最後の晩餐≫
1-2 レオナルド以降の≪最後の晩餐≫
1-3 ≪エマオの晩餐≫
1-4 日本の「最後の晩餐」
第2章 よい食事と悪い食事
2-1 キリスト教と西洋美術
2-2 聖人の食事
2-3 慈善の食事
2-4 宴会と西洋美術
2-5 乱痴気騒ぎ
2-6 食の愉悦
2-7 永遠の名作
2-8 農民の食事
第3章 台所と市場の罠
3-1 厨房と二重空間
3-2 市場の情景
3-3 謝肉祭と四旬節の戦い
3-4 カンピの市場画連作
第4章 静物画――食材への誘惑
4-1 静物画――意味を担う芸術
4-2 オランダの食卓画
4-3 スペインのボデゴン
4-4 印象派と静物画
4-5 二十世紀の静物画と食物
第5章 近代美術と飲食
5-1 屋外へ出る食事
5-2 家庭とレストラン
5-3 貧しき食事
5-4 女性と食事
エピローグ
あとがき
主要参考文献
プロローグとエピローグ
<プロローグより>
・「最後の晩餐」の絵は、ほかのあらゆる優れた宗教美術と同じく、信者にとってのみ意味をもつのではない。
優れた美術作品は、普遍的な人間の真実を表象しており、異なる文化圏にある者の心にも訴える力をもっている。
・ただし、こうした真実や力はいつでも誰の心にも響くものではない。
出会うべきときに出会ったときに特に大きく作用する。
画中のキリストのうちに別れた慈父の面影を見るのは、見る者にそれだけ切実にそれを求める心情があったからだが、優れた美術作品は個人的な心情を許容する大きさと深さを備えている。
そして、それらはときに悲しみに沈んだ者を救いあげ、浄化する力をも発揮する。
そんなとき、美術はもはや趣味的な鑑賞の対象などではなく、宗教そのものに化しているといってよい。
・さらに、美術作品だけでなく、食事がコミュニケーションの重要な手段でもあるということを示している。
食事というものが、家族の一体感を確認する行為であるからこそ、父の記憶が夕食と結びついてしまったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、5頁)
<エピローグより>
・西洋美術における様々な食事の表現を見てきた。
多くの場合、そこにはキリスト像の色彩が濃厚であることがわかる。
・キリスト教はそもそも特殊な宗教であった。
母体であったユダヤ教では、神は決して目に見えない存在であり、「いまだかつて神を見たものはいない」とヨハネ伝の冒頭にも書かれているのに、イエス・キリストという普通の人間の肉体をもった神が出現した点が異常である。
キリストは神でありながら生身の肉体をもち、それゆえに、人間の罪の身代わりとなって血を流して犠牲となることができた。
・このことは、ギリシア以来、西洋に根強かった霊肉二元論ではなく、霊も肉も尊いという特異な考えにつながった。
キリストの肉体が受難の末に復活したという教義を象徴するのが、聖体拝領であった。
パンというもっとも基本的な食べ物に象徴的な意味を付与し、食べるという、本能に基づく動物的な行為を神聖な儀式に高めた。
・多くの宗教では、神の姿は目に見えず、表現できないことになっていた。
しかし、キリストは人間の姿をまとって、つまり受肉して人間世界に出現したため、これを記録し、表現することが理屈上は可能となった。
しかも、ギリシアやローマなど造形文化の伝統の根強い地中海世界に普及したため、早くからキリストや聖書の逸話を視覚的に表現することがさかんになった。
・一方、キリスト教の母体であるユダヤ教では、偶像を作ることも拝むことも認めず、旧約聖書でも繰り返し、それを禁じている。
これに対し、キリスト教は、神の像は偶像ではなく、聖像(イコン)であって、その像を拝むのではなく、像の背後にある神を拝むのであって、画像は神を見る手段、窓であるという理論を徐々に作り上げていった。
・8世紀のイコノクラスムや16世紀の宗教改革において、この考えは反駁されながらも、美術は偶像ではなく、神を見る窓であるというイコンの考え方によって、西洋は2000年にわたって豊かな宗教美術を育んできた。
・美術作品という、一見異教的で偶像に通じる物質をイコンとして容認してきたこと、これは、パンという一般的な食べ物を聖体として肯定してきた思想と通じあう。
どちらも、低くて現実的で具体的な物体を象徴化して、神聖化する思考のプロセスである。
つまり、キリストが受肉したことにより、現世の肉体と食物を肯定し、造形表現を肯定する道が拓かれた。食物や造形芸術という、ややもすると肉の滅びや偶像につながる物質を、聖餐という儀礼と聖像という表象に昇華しえた、そこにキリスト教文明の特質があった。
キリスト教文明圏以外では、食物にこれほど特別な意味がないため、美術表現と結びつかなかった。
そもそも食物とは、粗野な自然を加工して人の口に合わせたものであり、自然の征服という側面をもっている。
食べ物を描いた絵画は、自然が切り取られて人に提供されているような快楽を観者に与えた。
また、絵画というものは、目の前にある事物や事象を写して留めるという欲求から生じたものであり、自然を切り取って入手することであった。
食物と絵画にはともに、生や現世を肯定しつつ、自然を克服して人の手に入れられるようにしたものという共通点があり、それゆえに食物を描いた絵画が多いとも考えられる。
・また、食事は、こうした意味のほかに、人と人とのつながりを強調する意味ももっていた。
食事には社会性があり、文化があるので、そこが動物と人間を分ける大きな分岐点となっている。
西洋美術はそれを的確にとらえてきたといえるし、西洋美術における食事表現を通覧すると、いかに食事が人間の文化にとって重要であるかがわかる。
・食事こそはコミュニケーションの最大の手段であり、宗教と芸術につながる文化であった。
人と人、社会と個人、文明と自然、神と人、罪と救い、生と死、それらすべてを結合させる営みが食事であった。
また、真の芸術は、単なる感覚の喜びなどではない。
人間の生の証であり、宗教にも通ずるものである。
その意味において、食事と美術、さらに宗教は一直線につながっていく。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、247頁~250頁)
・ところで、1968年に命を絶ったマラソン選手、円谷幸吉(つぶらやこうきち)の有名な遺書がある。
それは彼が死の間際に食べ物のお礼を几帳面に列挙していることによって、人の心を打つという。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆございました。(下略)」
※日本の伝統的な贈答品は鮭のような食べ物が多かったのだが、この遺書にはそれらの味よりも、それを食べさせてくれた身内の人々への純粋な感謝の念だけが淡々と記され、悲痛も絶望感もない澄み切った心境をうかがわせる。
几帳面に列挙された食べ物と、「美味しゆございました」という言葉の繰り返しからは、食べ物への素朴な感謝の気持ちもにじみ出ている。
・川端康成は、「繰り返される≪おいしゅうございまいした≫といふ、ありきたりの言葉がじつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」とする。
そして「千万言も尽くせぬ哀切」であると評した。
人生の最期に思い出してしたためるべきは、ご馳走の味ではなく、人の情である。
また食べ物は人とのつながりと切り離せないということを、これほど感じさせてくれる文章はない。
・本書では、美術と食とのかかわりを追っている。
美術も食も、死というものに照らしてみたときにこそ、その真の力も妖しく放ちはじめるという。
「最後の晩餐」は、その意味で、美術においても食事においても、究極のテーマであるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、251頁~253頁)
・第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術(16頁~)
≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年(口絵1)
・レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から97年にかけて、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の壁画に描いた≪最後の晩餐≫(口絵1)は、レオナルドが遺した唯一の大作として有名である。
ルネサンスのもっとも重要な記念碑となっている。
※『ダ・ヴィンチ・コード』というベストセラー小説や映画でも、重要な役割を担っていた。
・キリストは捕縛される前日、エルサレムで12人の弟子たちと食事をした。
この日は過越祭(すぎこしさい)の日に当たっており、過越の食事(パサハ)をとることになった。
過越祭とは、エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、ユダヤ人の家を過ぎ越したことに基づき、ユダヤ人の根源をなすエジプト脱出を記念する春の祭りである。
この日は子羊を犠牲にし、ふくらし粉の入っていない種なしパンとともに食して祝うことになっていた。
・キリストはこの食事の席でふいに、「はっきり言っておくが、あなたがたのうち一人が、私を裏切ろうとしている」という衝撃的な発言をする。
レオナルドの絵は、この発言を聞いた使徒たちが驚き慌てる様子をとらえたものである。
※ここには、画家の鋭い人間観察の成果が見られ、驚愕と動揺、疑念と怒りといった使徒たちの様々な感情が、身振りと表情によって見事に表されている。
・12人の弟子たちは、3人ずつのグループに分かれ、それぞれ裏切り者は誰だと話し合ったり、キリストに問いただしたりしている。
裏切り者のユダだけがこの動揺に加わらず、傲然としてテーブルに右ひじをついている。
※キリストを中心として左右に6人ずつの弟子が配された左右対称の人物配置、そして、天井の線を辿るとキリストの頭の位置に消失点が来るようになっている一点透視法による構成は、きわめて明快であり、堂々とした古典主義様式の模範的作例となっている。
・テーブルの上に両手を広げたキリストの身振りは、「裏切りの告知」であるだけではない。
キリストの伸ばした左手の先には丸いパンが見え、右手の先にはワインの入ったグラスがある。
キリストはこの晩餐の席で、賛美の祈りを唱えてパンを割き、弟子たちに与えて、
「取りなさい。これは私の体である」
と宣言し、ワインの杯をとって感謝の祈りを唱えて、弟子たちに渡し、
「皆この杯から飲みなさい。これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」
と述べた。
※これは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して記述している内容である。
以後、キリスト教会は、こうしたキリストの言葉に従って、聖体たるパン(聖餅、ホスティア)を食し、聖血たるワインを飲む儀式、つまりミサを執り行うようになった。
祈ってパンを割き、配餐して杯を回す所作は、もともとユダヤ人の家長が過越祭や安息日のときに家庭で行う食習慣であった。
ミサは、聖餐式、聖体拝領などと訳され、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教会など、あらゆる宗派に共通するキリスト教のもっとも重要な典礼である。
聖餐式は、キリストの犠牲と復活を覚え、キリストを自分の体のうちに取り込み、罪の許しと体の復活にあずかるという、キリスト者としての救済を確認する行為である。
教会に設置されている祭壇というものは、この聖餐のための食卓にほかならない。そのため、余計なものは置かず、テーブルクロスのような白い布をかけられていることが多い。
・初期のキリスト教徒は、共同体としての結束を確認するために、しばしば集まって食事(愛餐、アガペー)をしており、これと聖餐式とははっきり区別されていなかったが、2世紀半ば頃から愛餐と分離し、感謝の祈りを中心とする「エウカリスティア(聖餐)」という典礼になった。これが教会内のミサとなった。
・「最後の晩餐」という主題の最大の意義は、この「聖餐式の制定」、あるいは「ミサの起源」にあった。
キリストの生涯の中で、「カナの婚礼」や「パンと魚の奇蹟」のような飲食にまつわるエピソードが強調されるのは、それらが聖餐を象徴すると解釈されたためである。
「パンを割く」というのは、聖書に頻出する表現で、ひとつのパンをちぎって多くの人に分け、いっしょに食べることをいう。こうして、食卓をともにすることは、信者どうしの結びつきを確認する兄弟の交わりを意味した。
※パンとワインは、西洋ではもっとも基本的な食事である。
日本のご飯と味噌汁に当たるといってよい。
パンはすぐ乾燥するため、ワインとともに食するのが一般的であった。
ワインも酒というよりは食事の基本要素であった。
・レオナルドの作品では、キリストが両手で自分の肉と血を指し示しているのだが、画家はこの主題を、熱い人間のドラマとして表現する一方、それにふさわしい教義上の意味をも表現している。
・「最後の晩餐」の絵は、修道院の食堂の壁画に描かれることが多かった。
レオナルドの壁画も、聖堂に隣接する修道院の食堂に描かれたものである。
キリストの生涯の一エピソードとして物語場面が表現されたものというより、ミサの起源としての意味を強調し、毎日食べるパンに与えられた神聖な意味を思い起こさせるためであった。
修道士たちは食事のたびに、「最後の晩餐」の絵を見ながら、うやうやしくパンをかみ締めていたのである。
・西洋において、食事に神聖な意味を付与されたのは、何よりも「最後の晩餐」、そしてそこから発生したミサのためであるといってよい。
パンとワインという、もっとも基本的な飲食物が、神の体と血であるというこの思想が、西洋の食事観を決定したといってもよい。
・とくに、パンは何よりも重要であった。
「人はパンのみにて生くるものにあらず」とキリストは言ったが、パンは生きる糧、日常的な食料の代名詞であっただけでなく、「命のパン」であるキリスト自身を象徴していた。
※ただし、古代や中世初期のヨーロッパでは、パンとワインは地中海世界のローマ文化圏特有の食べ物である。北方のゲルマン世界では、肉とエール(ホップを入れないどろりとしたビール)こそが主食であった。古代ギリシアでもローマでも、パンには文明の象徴としての役割が与えられており、それを知らないゲルマン人を野蛮であると見なしていた。
キリスト教がパンを聖体として称揚した背景には、古代地中海世界のこうした思想的伝統があったことは疑いない。
・また、キリスト教徒は、復活祭前の6週間の断食期間にあたる四旬節には、肉食を断つことになっているが、やがて肉の代わりに魚を食すことが認められるようになった。
肉は飽食、魚は禁欲を表すものとして対比されるようになる。
魚は一種の精進料理としての地位を与えられたのである。
このことも、最後の晩餐のメニューに魚がふさわしいと目される背景にあったようだ。
・キリストの一番弟子のペテロやその兄のアンデレなど、キリストの十二使徒のうち7人までが、キリストに召される前はガリラヤ湖で網を打つ漁師であった。
豊富な魚の獲れるガリラヤ湖畔で活動したキリストとその弟子たちが、魚を常食していた「魚食の民」であったことはまちがいない。
(今でもかの地では、「ペテロの魚」と名づけられたガリラヤ湖で獲れる大ぶりの魚を食べているという。ただし、味は大味でそれほどおいしくないらしい)
・キリストは、パン五つと魚二匹を、説教を聞いていた5000人もの衆人の食物として十分な量に増やすという有名な「パンと魚の奇蹟」を行った。
このときも最後の晩餐と同じように、キリストは、賛美の祈りを唱えてから、パンを割いて弟子たちに渡している。
・また、復活後、弟子たちの前に現れたキリストは、焼いた魚を渡されるとそれを弟子たちの前で食べ(ルカ24:42-43)、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちの前に現れて朝食をすすめ、パンと魚をとって彼らに与えたという(ヨハネ21:13)。
キリストと弟子たちにとって、パンと魚はいわば常食であったようだが、復活してからも食べたことから、キリストは魚食を好んだと考えられている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、16頁~25頁)
・第2章 よい食事と悪い食事(46頁~)
キリスト教思想の特異性
・林檎や果物も、原罪という意味を持つようになった。
たとえば、15世紀のヤン・ファン・アイクの有名な≪アルノルフィニ夫妻像≫で、
窓際にさりげなく置かれた果物も原罪を表し、モデルの夫婦の罪を示している。
そして奥の鏡の縁にはキリストの受難伝が刻まれており、夫婦がキリストの犠牲にあずかって救済されることも示される。
ヴィーナスが持っているリンゴも、異教の愛欲の女神の持物であるということとあいまって、原罪と結びつくことが多かった。
・キリスト教の教義では、アダムとイヴが禁断の木の実を食べたことから、すべての人間が背負うことになった原罪から人間を救うために、キリストが地上に遣わされ、犠牲になったことになっている。
それ以来人間はこの犠牲を銘記して、救済されるために、キリストの象徴である聖体のパンを食べるという儀式を行うことになった。
つまり、キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。
西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった。
食事というものが、単にもっとも身近で毎日繰り返される根源的な営みであったからというだけではない。わが国では明治になるまで、食事を描いた単独の作品は皆無であった。
美術のあり方のちがいのためでもあるが、美術の歴史において、もっとも頻繁に食事を表現してきたのは、西洋であることはまちがいない。
その背景は、キリスト教の思想があると考えられている。
キリスト教に裏打ちされた食事の美術は、単なる教義の図解にとどまらず、その時代や地域、注文者・作者・観者の意図や個性や欲望に応じて、豊かに変奏しつつ、多彩な成果を生んでいった。
では、模範的なよい食事と否定的な悪い食事とが具体的にどう表現され、そこにどんな意味があったのか、具体的に見ている。
<聖人の食事~パンと水だけ>
〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃(口絵3)
・西洋美術史上、もっとも模範的な食事の絵は、ダニエーレ・クレスピが描いた≪聖カルロの食事≫(口絵3、ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃)
という作品であるようだ。
17世紀初頭にミラノで活躍したこの画家は、イタリアでもそれほど知られていないが、この絵だけは非常に有名である。
・ひとりの聖職者がハンカチで目頭を押さえて本を読みながら、パンを食べている。
テーブルクロスもない食卓の上には、水のはいったフラスコとグラスがあるだけである。
画面右の台には、布が掛けれており、その上には大きな十字架が立て掛けられ、司教の帽子が置かれている。画面奥では、この食事の情景を見て、その食事の様子に驚いている二人の男の姿が見える。
※カルロ・ボロメオは、名門貴族の家に生まれ、1564年から84年までミラノの大司教を努めた。
カトリック改革(反宗教改革)の旗手として知られ、ミラノをヨーロッパ有数の宗教都市に変貌させた人物である。
彼は、司教区内をつぶさに巡視する一方、1576年のペストの際は多くの貴族のように避難したりせずに、先頭に立って自ら病人の救済に当たり、民衆を大いに勇気づけた。
宮殿で贅沢三昧に育てられたにもかかわらず、常に粗衣粗食に甘んじ、衣も家具も売り払い、壁掛けすら取り外させ、所領をも売却して貧者や孤児、病人たちに施したという。
彼は、後世になってますます崇敬を集め、早くも1610年には列聖され、4世紀の聖アンブロシウスとともに、今でもミラノ人の精神的支柱となっている。
・この聖人は、ミラノをはじめとしてイタリアのバロック美術の主人公として、数々の作品に登場する。
聖人の神々しさや英雄性はまったく見られず、孤独な聖職者の厳粛で禁欲的な姿が印象づけられる。
パンと水だけの質素な食事をとりながら、本を読み、そこに書かれたキリストの受難を思って涙を流す。
※いかにも消化に悪そうな食事ではあるが、この姿勢こそ、キリスト者の食事のあるべき姿にほかならなかった。罪を悔い改めるために肉もワインもとらず、貧民と同じ食事をとるのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、49頁~52頁)
<乱痴気騒ぎの情景>
ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫
〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃(口絵4)
・カトリックのまま残ったフランドルでは、大工房を構えた巨匠ルーベンスが圧倒的な影響力をもって活躍していたが、その影響下から優れた画家が育っていた。
その一人、ヤーコプ・ヨルダーンスは、ルーベンス作品に見られる高揚した生命力をさらに発展させ、農民が登場する風俗画を得意とした。
歴史画や寓意画においても、ニンフやサテュロスが乱舞する祝祭的な情景を粗野なまでに力強く表現した。
もっとも得意とし、人気を博したのは、農民や庶民の乱痴気騒ぎの情景である。
(横が3メートルもある歴史画のような大画面に、このような世俗の主題を描いたことが注目される)
・ヨルダーンスは、フランドルに住みながらカルヴァン派の信者であり、ハーグ近郊のハイス・テン・ボスで制作したこともあったので、オランダでは比較的よく知られていたようだ。
老人が歌い、若者がバグパイプを吹く一家団欒の宴席である≪老いが歌えば若きが笛吹く≫、それに≪豆の王の祝宴≫という二つの主題が、とくに繰り返し制作された。
・「豆の王様」とは、十二日節の行事だが、生誕間もない幼児キリストに東方から三人の王(三博士)が贈り物を持ってやってきたことにちなむ祝宴である。
豆を一粒だけ入れて焼いたケーキを切り分け、豆入りに当たった者が王の役になり、彼が王妃、侍従、侍医などの役を割り振って、擬似宮廷を作り、「王様の乾杯」という一同の唱和とともに酒を一気に飲み干すものである。
・宴会につきものの、既成の秩序の転倒という性格を色濃くもっている。
ヨルダーンスは、王の役に当たり、王冠を被って杯をあおる太った老人を中心に、老いも若きも大きく杯を掲げて乾杯する情景を何度も描いた(口絵4)。
・ヨルダーンスは、オランダの風俗画よりも、人物の比重が大きく、力強い歴史画(宗教・寓意・歴史などの物語的主題を持つ絵画)のような大画面としている。
ここでも、単なる農民の乱痴気騒ぎではなく、公現祭(キリストが人類の前に顕現したことを祝う祭日)を祝うという信仰が、表向きの主題となっていることが重要である。
☆16世紀から17世紀にかけて、どんちゃん騒ぎの絵がこれほど頻繁に描かれたのは、なぜだろうか。
・中世から近世にかけては、食糧供給が非常に不安定であった。
貴族といえども凶作の年は、質素な食に甘んじなければならなかった。
こうした社会では逆に、富裕層や貴族はしばしば大宴会を催す傾向があったという。
あらゆる階級が、粗食とごちそうを交互に食べるのが決まりだった。食料不足のために、こうした起伏が習慣として定着していた。
・とくに農村では、毎日の食べ物と祝祭時の食べ物との落差が大きく、収穫祭、結婚式、守護聖人の祝日、復活祭、クリスマスなどに、桁外れのお祭り騒ぎをする一方、通常はせいぜいパンか野菜の煮汁だけで生きていた。
19世紀までヨーロッパの農民の大半は、肉をほとんど口にせず、パンのほかは鍋で煮た野菜とスープばかりであった。しかも、食料は長く貯蔵できないし、いつ兵隊や略奪者が来て奪い去るとも知れなかった。
大量に貯蔵するよりはお祭りのときに全部食べてしまうという意識になったのである。
教会は四旬節や聖人記念日などの精進日を定め、この期間にはパンと水しか食べてはいけないことにしたが、それが厳しければ厳しいほど、祭りのときのどんちゃん騒ぎは過熱するのだった。
・農民たちの乱痴気騒ぎは、都市の富裕な貴族や商人にとっても、理想的な情景であり、彼らは自宅にこうした絵を飾ることで、飢えや欠乏への不安をかき消して気分を高揚させようとしたのであろう、と著者は解釈している。
ヨルダーンスの農民風俗画には、しばしば異教の神が登場するが、丸々と太った農民たちは、豊穣の神ケレスや酒神バッカスやシレノスと同じく、見ているだけでおめでたい感じ、つまり吉祥的な効果を与えたとみている。
(布袋や大黒などわが国の七福神が太っているのも、同じ役割を果たすものであったらしい)
・食糧供給がなんとか安定する18世紀半ばにいたるまで、肥満は恥どころか、社会的威信を表すものであった。また、料理の豪華さは、多くの場合、質より量で判断されていた。
・フランドルやオランダの宴会図は、放蕩息子や七つの大罪という教訓的な主題の伝統の上に成立したものである。17世紀になると、明るい農民の生活を描くことが、それ自体ひとつの主題として確立した。
そこにはもはや、反面教師的・否定的な意味は薄れ、宗教的祭事を祝う健全な庶民の信仰心が好意的に眺められるようになっている。
・また、画家たちは、陽気な宴会に自らの姿を描きこむという誘惑にかられたようだ。
ステーンもヨルダーンスも、しばしば乱痴気騒ぎの情景に、楽器を奏でる自画像を挿入した。レンブラントも、新妻サスキアとともにいる自画像を描いたとき、自らは放蕩息子として登場させた。
※今まで見てきた宴会図のほとんどは、フランドルやオランダで制作されたもので、イタリアやスペインのものは少ない。
これは、キリスト教以前のケルト・ゲルマン社会が、ラブレーの『ガルガンチュア』や『パンタグリュエル』に描かれたような大食漢や暴飲暴食を好ましいものとしていたことと関連があるらしい。
古代地中海世界では、基本的に節食をよしとしていたが、それがキリスト教の禁欲観に継承され、その伝統のゆえにイタリアなどでは、どんちゃん騒ぎの絵が少なかったのであろう、と著者はみている。
つまり、フランドルでは、キリスト教的な倫理観を表に出しながらも、その下層には古来のゲルマン的価値観が息づいていたという。
※賑やかな宴会や乱痴気騒ぎは、キリスト教的観点からすればよいことではないが、人生の幸福を感じる行為であり、美術の主題として、画家も鑑賞者も喜んで制作し、受容したことがうかがえる。
美術というものは、道徳や教義の絵解きとしてだけでは説明できない、人間の複雑な心性を表象するものであるという。
さかんに表現された宴会図には、表向きの宗教的な教義と芸術制作の動機との乖離を見ることができるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、76頁~82頁)
<食の愉悦>
カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫
〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃(口絵5)
・17世紀の風俗画に表れた宴会図は、食べるという行為よりも、仲間や家族で飲みかつ歌うという祝祭的な性格をもつものが多かった。食べることだけを主題とした作品はそれほど多くはない。
16世紀後半のイタリアでは、フランドル美術の影響を受けて、世俗的な風俗画や静物画が勃興しつつあった。
そんな傾向を代表する画家ヴィンチェンツォ・カンピは、農民が食事をする光景を描いている。
・中でも、≪リコッタチーズを食べる人々≫は、四人の男女が大きなチーズを食べている情景を表現している。食事を正面から捉えた稀有な作品である。
リコッタチーズを交互にすくっては食べる男女。
右端の女性はスプーンを持ったまま、こちらに笑顔を向けている。
その隣の男はチーズの塊にスプーンを突っ込んでいる。
その右の男はスプーンに載せた大きなチーズを上から口に入れようと大きく口を開けている。
画面左端の男は口いっぱいにチーズを含んで口を半開きにしているために、口の中のチーズが見えている。
※リコッタチーズは、豆腐のようなものだと考えればよいようだ。
豆腐自体はもともと中国の唐代にチーズを模倣して作られるようになったものだという。
※スプーンを持つ右の女性から順に、スプーンをチーズに突っ込む、それを口に持って行く、口に含むという一連の動作が連続しているようである。
また、男たちが右から若者、中年、老年と、人生の三段階を示すようであり、女性も加えて、あらゆる人間が代表されている、と著者は見ている。
いずれの顔も食べることの幸福感に満ち溢れ、にぎやかで明るい雰囲気が漂っている。
この作品は、画家カンピの没後、遺産として未亡人が持っていたことはわかっているが、誰の注文でどんな意図をもって制作されたのかは、不明であるようだ。
※画家の当初のねらいはともかく、著者は、この絵こそ、食の愉悦を表現した傑作であり、「西洋美術史におけるもっとも愛すべき作品」であるとみなしている。
※聖人や修道士のようなしんみりとした質素な食事は、誰からも敬われるべき模範的な食事にはちがいないが、美術表現においては、豊富な食物に取り囲まれて明るく談笑しつつ食べる情景のほうが受け入られてきたようだ。
それは、欲望や快楽に屈して堕落した人間の愚かで否定さるべき表現というよりは、この世の隅々に神の栄光を見て、日常的な営みを重んずる現世肯定的なイメージであるともいえる。
カンピの生きた16世紀後半のロンバルディア地方は、カルロ・ボロメオの主導する厳しいカトリック改革の本拠地であり、≪聖カルロの食事≫のような戒律と禁欲に縛られた敬虔さが尊重された。
・そのため、カンピの風俗画は、貪欲や大食の罪のような教訓性を表したものと考えられるのだが、こうした表向きの主題を口実にしながら、庶民や農民の食事のようなたくましくも明るい生命力を提示した、と著者は考えている。
それらは、貴族や商人のような富裕な顧客に受け入られ、教会に収蔵されたこともあるが、「悪しき食事」や「大食の悪徳」という表向きの教訓性がそれを可能にしたという。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、82頁~86頁)
農民の食事 ラ・トゥール、ゴッホ(93頁~)
農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ
〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
・20世紀に歴史の闇から発見されて、いまやフランス最大の画家と目されるジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、カラヴァッジョの様式を瞑想的にした静穏な宗教画で名高いが、初期には無骨なまでに自然主義的な農民や旅芸人の姿を描いていた。
・1975年にはじめて世に出た≪豆を食べる夫婦≫は、1620年頃と思われる初期のラ・トゥール特有の表現主義的なタッチよる力強い傑作である。
老いた農民の夫婦が立ったまま、短い木のスプーンで、手に持った陶器の碗に入ったエンドウマメをすくっては食べている。
・カラッチの≪豆を食べる男≫では、スプーンから汁が滴り落ちていたが、この豆料理はほとんど汁気がないようであり、硬そうである。
カラッチ作品に遅れること約40年だが、同様に、農民が喜怒哀楽も会話もなく、淡々と主食である豆を食べているというイメージである。
男は碗を持つ手で同時に杖を支えているので、室内ではないだろう。
巡礼者など無宿の流れ者かもしれないという。
※ラ・トゥールがなぜこのような夫婦を描いたのかは不明である。
しかし、無言のうちに厳粛な雰囲気と威厳を漂わせる彼らの姿には、貧しき者こそキリストの身内であって幸いであり、天の国を継ぐべき人たちであるという思想が表現されているとみる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、93頁~94頁)
〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
・ラ・トゥールのやや後に同じフランスで、こうした農民の食事を描いたのが、ルイ・ル・ナンである。
ル・ナン兄弟も19世紀になって再発見された画家であり、三人の兄弟の手を見分けるのは困難だが、ルイ・ル・ナンは農民の風俗を得意とし、風俗画でありながら宗教画にも似た古典主義的な画面を描いた。
・≪農民の食事≫では、三人の男が深刻な表情をして座り、画面左の男はワインを飲んでいる。
中央の男はワイングラスを掲げ、右手にはパンを切るナイフを持っている。
右の男は何も持たずに手を合わせて祈っている。
女性と子供、少年がその背後にいて、画面の雰囲気を和らげており、とくに中央奥にいる子供はつぶらな瞳をこちらに向けている。
※ここではあきらかに、ワインとパンによる聖餐が暗示されている。
フランドルやオランダに見られたどんちゃん騒ぎの農民とはまったく別の世界の住人のようである。
彼らは堂々と屹立し、神の身内になる義人として威厳を保っている。
※農民でありながら、修道士や聖人にも似た厳粛な食事をとっている、こうした情景は、貧しき者こそが神の宴席に招かれるというキリスト教特有の思想の表れである。
敬虔なキリスト者は、貴賤にかかわらず、いつも神の恵みに感謝し、神のことを思いつつ、食事をするのである。
〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年(口絵7)
・こうした農民の食事風景の傑作は、19世紀末のゴッホ初期の代表作≪馬鈴薯を食べる人々≫である。
ランプの灯る薄暗い部屋で五人の家族が夕食にジャガイモの皿を囲んでいる。
一家団欒の会話もなく、厳しい表情で黙々と塩茹でしただけのジャガイモの大皿に直接フォークを伸ばし、画面右の女性は黙ってコーヒーを注いでおり、その左にいる男はだまって茶碗を差し出している。
左の夫婦のうち、嫁は何か話すかのように左端の夫に顔を向けるか、男はこれを黙殺している。
※ゴッホは、主に記憶に基づいて、この絵を制作したのだが、大変な労力と時間をかけた。
「ジャガイモを食べる人々が、皿に手を伸ばすその手で大地を掘ったのだということを強調しようとした」と画家自身記しているように、ジャガイモは彼らが自ら耕して、その手で収穫した大地の恵みであり、彼らはこの恵みを神に感謝しつつ食べているのである。
※南米原産で16世紀に、スペインがヨーロッパにもたらしたジャガイモは、食物としてなかなか一般化しなかった。
しかし、飢饉のたびに穀物の代替物として徐々にその真価が認められ、18世紀にはヨーロッパ中に普及し、農民や労働者の一般的な食物となっていた。
ジャガイモをパンにする試みもあったが、困難であったため、この絵のように、そのまま茹でて食べるのが、一般的であった。
ジャガイモは、パンを食べられない最下層民の主食であり、パン以下の食物とみなされていた。
画面に漂う厳粛な雰囲気は、修道士の食卓のイメージと大差がない。
※ゴッホは、敬虔なクリスチャンであり、神学を修めて牧師を志していたほどであったがが、農民の生活を表現する大作として、農作業の情景ではなく、労働後の食事の場面を選んだことは意義深い。
ステーンやヨルダーンスの歌い騒ぐ農民の伝統的なイメージに反し、酒ではなく、コーヒーを飲む静かで理性的な農民の姿を提示した。
17世紀にトルコからヨーロッパに伝えられたコーヒーは、理性を鈍麻させる酒に対して、理性を覚醒させる飲料として歓迎され、普及した。
※入念に構想され、長期間にわたって制作された、この記念碑的作品には、土に生きる農民たちの労働の成果と、彼らの素朴だが純粋な信仰が見事に表現されている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、96頁~97頁)
第3章 台所と市場の罠(100頁~)
台所と市場の罠
【「二重空間」の絵画】
・西洋美術史を振り返ると、食事の情景よりも、台所における調理の場面や、食材を売る市場の情景のほうが、頻繁に表現されているようだ。
いずれも食事そのものではないものの、その準備として重要な主題ではあるが、なぜそれらがさかんに描かれたのだろうか、と著者は問いかける。
・≪リコッタチーズを食べる人々≫を描いたカンピにもっとも大きな影響を与えたのは、フランドルのアールツェンとブーケラールという画家であったという。
彼らは、16世紀後半に、静物画や風俗画と宗教画が同居している奇妙な作品群を描き、17世紀風俗画の祖となった画家である。
それらは、画面手前に食材や商品が並べられ、同時代の人物がそれらの前で立ち働く風俗画となっているが、画面奥には、聖書の場面が小さく見えるというような作品である。
こうした「二重空間」の絵画は、16世紀後半から17世紀初めにかけて、フランドル、北イタリア、そしてスペインで流行した。
※一般には、それぞれの世俗ジャンルが独立する前の未分化の過渡的な現象を示すものと説明されるが、その意味については、現在も定説を見ていないようだ。
それらは、聖なる場面に現実性を導入するための試みと見ることができる。
あるいは画中空間と現実空間を接続させるバロック的な手法の先駆となるものであった。
そして、静物画や風俗画がジャンルとして独立する以前の16世紀半ばにおいて、食物や厨房を前面に大きく写実的に描いたという点で、注目に値するようだ。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、100頁~101頁)
〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年(口絵8)
・たとえば、ピーテル・アールツェンの≪マルタとマリアの家のキリスト≫は、手前に食物や道具が所狭しと並べられた厨房の情景であり、奥に見える部屋にキリストとマルタ、マリアが小さく見える。
※「マルタとマリアの家のキリスト」という主題は、厨房と結びついている。
マルタとマリアの姉妹の家に、キリストが迎えられたとき、姉のマルタは主をいろいろともてなすためにせわしく働いていたが、妹のマリアはキリストの足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタはこうした妹の態度に腹を立て、ついにキリストに、妹をたしなめて自分を手伝うように注意してほしいと訴えた。
すると主はこう答えた。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(ルカ10:38-42)
※家事を手伝わない妹が得をし、働き者の姉がキリストにたしなめられるという一見不条理な話なのだが、古来さまざまな神学的解釈がなされてきた。
マルタは活動的生、マリアは瞑想的(観想的)生という、人間の生活のふたつの側面を象徴するという解釈が普及した。信仰生活にとっては後者のほうが重要であるが、両者は相補うべきだとされた。
女性にとっての家事労働を軽視するのではなく、いずれも重要であるというわけだが、「二重空間」の絵は、なぜか手前に厨房の場面が大きく描かれ、奥にわずかにキリストやマリアが見えるのであった。
・アールツェンのこの絵では、奥の暖炉の前で、マルタが箒(ほうき)のようなものを手にして立ち、キリストは足もとに座り込んで、手を合わせるマリアの頭に手を置いている。
暖炉の上には、オランダ語で「マリアは良い方を選んだ」という文字が見える。
しかし、こうした情景とは関係なく、手前には大きな肉の塊やパン、バターやワインの容器などのほか、革の財布、書類や銀器の入った金庫、陶器や花瓶が大きく見える。
※おおむねいえることは、これらの手前の物質はマリアの選んだ精神的価値と対比され、現世のはかない価値を象徴しているということである。
つまり、手前に展開された物質的価値や欲望の世界を乗り越えて、キリストの近くの精神的世界に行くべきという教訓である。
※あるいは、こうした絵には、プロテスタント的な思想が反映されているという見方もある。
つまり、聖書の情景を実際に見るように修行させるロヨラなどのカトリックとは正反対に、ヴィジョンを否定し、真実は見えないもののうちにあるという考え方である。
アールツェンやブーケラールの画面で目を奪う前景は、堕落した世界そのものであり、それを通してしか、超越的なものは把握できないとする。
※これらの作品が制作された1560年代は、宗教改革によるイコノクラスム(偶像破壊)の嵐が吹き荒れており、自らの宗教画を破壊されたこともあるアールツェンは、プロテスタントの検閲官の目を潜り抜けるために、あえてキリスト教的な教訓を含ませたと考える研究者もいる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、101頁~104頁)
静物画と食物~第4章より
・市場や厨房の絵において、描かれた食物が徐々に中心となり、聖書的な教訓や市場・厨房という舞台設定もなくしてしまったのが、静物画である。
静物画の主題で圧倒的に多いのが食物であった。
静物画というジャンルは、発生のときから食物や食材を描くことによって流行し、愛されてきた。
したがって、美術における食べ物の絵を探ることは、必然的に静物画の歴史を振り返ることになる。
・静物画という日本語は、英語のstill life(動かざる生命)の翻訳である。
そもそもこの用語は、オランダで1650年頃に成立したstillevenという語に由来する。
このことからもわかるように、オランダこそは静物画の故郷であった。
※ただし、静物画は西洋では長い伝統をもつ。
ゼウクシスやパラシオスといった古代ギリシアの画家たちが、果物やカーテンなど静物を巧みに描いて、人や動物の目を欺いたという逸話が多く伝えられている。
本物そっくりの絵を「トロンプ・ルイユ(目だまし絵)」とよぶが、本物と見まがうばかりの静物画がいつの時代にも喜ばれた。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、138頁~139頁)
西洋美術特有の概念
・古代に発した静物画の伝統は、中世に一旦途絶えるものの、中世後期からルネサンスに復活した。
15世紀にフランドルで再び生まれた静物表現は、キリスト教的な意味に染められたものになっていた。
・表には礼拝する注文主の肖像が描かれており、裏には花瓶に入った百合の花が描かれたメムリンクの有名な作品や、聖母子図の裏に洗面器と水差し、タオルなどが描かれた逸名の画家による作品があるが、これらはすべて聖母の純潔を象徴するものであった。
・葡萄(ワイン)やパンはキリストの象徴である。
リンゴは原罪、ザクロは復活を示すというように、特定の事物がキリスト教的な象徴と結びついている。
日常的な事物に象徴的な意味を込めるのは、フランドル絵画の伝統といってもよいが、静物画に、物の単なる迫真的な再現にとどまらず、ある意味を伝える記号であるという新たな機能が加わった。
・西洋美術には、物がある人物の属性を示すというアトリビュート(持物)という概念がる。
聖母は百合、ペテロは鍵、パウロは剣、ジュピターは雷、ヴィーナスは薔薇やリンゴというように、神や聖人がそれぞれ特定の物と組み合わされることで見分けられるという図像上の決まりである。
また、古代以来、擬人像という伝統もあって、「真実」や「信仰」、「五感」「四季」「四大要素」といった美徳や抽象的な概念を人物と物の組み合わせによって表現する慣習があった。
17世紀には、そこから擬人像が消え、アトリビュートだけが描かれて寓意的な静物画となることが多くなる。
・目に見える具体的な物や人に抽象的な概念を重ねるという習慣では、東洋ではほとんど見られない西洋特有の思考法といってよい。
中国や日本には、漢字という表意文字があり、意味と形態の美の双方を伝えることができるため、書を芸術とする伝統が形成され、擬人像やアトリビュートを必要としなかった。
そのため、「仁義」とか「一日一善」とかいう書を掲げればすむ。
しかし、同じ意味を伝えるのに西洋ではいちいち正義やら慈愛の擬人像を作らねばならなかった。
こうして静物画は、単なる物の表現であるだけでなく、宗教画や物語画と同じく、意味を担う芸術となったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、141頁~143頁)
五感の寓意
・そんな寓意的主題のひとつとして、「五感の寓意」がある。
一般に、着飾った女性や裸婦が五感の擬人像となって、五感を表す行為をしている連作である。味覚の寓意としては果物を食べたり、乳を与えたり、ワインを飲んだりする姿で表されることが多い。風俗画の中に五感の寓意を示すことはフランドルでさかんに見られた。
・静物画では、ルーヴル美術館にあるフランスのリュバン・ボージャンの絵(図49)が有名である。
そこでは、視覚は鏡、聴覚はリュートと楽譜、嗅覚は花瓶の花、味覚は切ったパンとグラスに入ったワイン、そして触覚は小銭入れ、トランプの札、チェス盤によって表されている。
※図49 ボージャン≪静物≫パリ、ルーヴル美術館、1630年
・五感の寓意という主題が流行したのは、絵画が視覚という単一の感覚にしか対応しないため、ほかの諸感覚をも想起させ、ひとつの世界や小宇宙を表現しようとしたためであろう。
とくに静物画は絵画の中でもっとも地味でありながら、物をリアルに描くことによって、味覚や嗅覚、触覚を直接刺激し、視覚の限界を乗り越えようとしたジャンルであったといえる。
静物画の題材のうちでも、食物のほかに、嗅覚に訴える花や聴覚を想起させる楽器がとくに好まれたのも、そのためである。
静物画に限らず、西洋絵画に食べ物や飲食にまつわる主題が多いのは、キリスト教的な意味のためであると同時に、絵画のうちに味覚という快楽を加えて、絵を見る喜びを増幅させるためであったと見ることができる、と著者は考えている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、143頁~146頁)
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