《「ミロのヴィーナス」考 その3 制作年代と復元案》
【問題の所在】
前回のブログでは、古代ギリシャ彫刻史の中で「ミロのヴィーナス」は如何に位置づけられるのかといった問題を考える際に、ギリシャ彫刻史の全体像を、イメージしておくことが大切であると考えて、その概要を記しておいた。
今回は、「ミロのヴィーナス」の制作年代と復元案に関して述べてみたい。こうした問題の学説整理をしたものが意外とネット検索上に、ひっかからなかったことが理由として挙げられる(諸説の要点を簡単に述べた記事は見つかったが)。
1964年の図録を見ると、このテーマで学説が紹介されているので、わかりやすく簡潔に整理してみたいと思ったのである。その図録巻末に参考文献が付されているので、参考文献のどの著作に依拠して研究者がどのような学説を述べてきたかを明記し、後学の人に便宜を図りたい。下記の学説整理の典拠は、1964年の図録であることを最初に断っておきたい。そして、中村るいの紹介している5つの復元案に付言したい。
また、このテーマについて取り上げる理由は、後に取り扱うハヴロックの著作を紹介する前提となる予備知識を得ることになるからでもある。ハヴロックは「クニドスのヴィーナス」を主な主題としているが、ギリシャ彫刻史の中で、「クニドスのヴィーナス」はどのようにして登場してくるのかを理解しておく必要があるが、「ミロのヴィーナス」の制作年代についての学説整理がしていないと、混乱も生じてくるかと思う。そして、「クニドスのヴィーナス」と「ミロのヴィーナス」はどのような関係にあるのかを考える際にも、参考になろう。
【「ミロのヴィーナス」の制作年代、復元案に関する見解の変遷】
<「ミロのヴィーナス」の制作年代に関するレーナック説>
「ミロのヴィーナス」の制作年代については、現在でこそヘレニズム期とされているが、発見当初はもっとも古い時代と考えられていた。この点に解説を加えておきたい。
フランスの考古学者サロモン・レーナックは、発掘以来、数十年間にわたって発表された諸説を調べ上げたあげく、「「ミロのヴィーナス」は一つのナゾである」と嘆いたことが知られている。
そしてレーナックは、「ミロのヴィーナス」の制作年代を紀元前5世紀と考えていたことは次の文からも窺い知ることができる。
「政治史をひもどけば、ミロ島は紀元前416年にアテナイの支配を受けるようになり、同404年までその状態はつづいた。美術史をたどってみると、≪ミロのビーナス≫の様式は、この同じ時期のアッティカの彫刻のそれで、フェイディアスの弟子たちや後継者たちの様式である。近ごろ、ドイツではこのビーナスをもっとはるかに降った時代に帰属させようとする流行があることを私も知っている。そういう引き下げの見解を今ここでとやかく言うことは差控えるが、ただいま私としては、様式や技術や感情の点から推定して、≪ミロのビーナス≫とパルテノンのフロントン(破風)の彫刻との間に通じる類似があることを考えてみて、この像の制作者は紀元前4世紀の前半より降るとするような、あらゆる伝説を拒否することが出来ることを申述べるに止める」という。
(Salomon Reinach, “La Vénus de Milo”, Gazette des Beaux-Arts, 1890.)
すなわち、レーナックの見解は、紀元前5世紀のパルテノン彫刻との比較に基づいている点で、古典盛期の作とする代表的見解である。様式的にみても、アッティカの彫刻の様式で、フェイディアスの弟子や後継者の様式とみていた。この像の制作者は紀元前4世紀の前半より降ることはあるまいとしている。
ドイツ人研究者が、その制作年代をもっとはるかに降った時代に帰属させていたが、レーナックはそれを認めなかった(結果的に、制作年代に関してはドイツ人研究者の方が正しかったことになる)。
また、フランスでは、カトルメール・ド・カンシーも、ヴィーナス像の考証的研究に早く手をつけ、紀元前4世紀のプラクシテレスの傑作として有名な「クニドスのヴィーナス」の首と、この像の頭部と比較した。「ミロのヴィーナス」像の様式の中にも、プラクシテレスの作域を見出そうとする解釈をとり、同じ古典期の後半期、紀元前4世紀を制作期と考えていた。
<制作年代のコリニョン説>
また、ギリシャ彫刻研究の権威マクシム・コリニョンは、その大著『ギリシャ彫刻史第2巻』で、古典期からヘレニスティック時代へ向かってゆく推移の時期を制作期にあてた。つまり古典期は過ぎたが、様式上、いまだ盛期の伝統が継続している時代(いわゆるヘレニスティック時代)のごく初期と考えた。すなわち、アレクサンドロス大王の死(紀元前323年)後、間もないころで、おそらく紀元前4世紀の代表的彫刻家スコパスの流れを汲む彫刻家の手になるものと推測した。制作期は、古典期より降って、ヘレニスティック時代へ入って来たものの、古典期に密着している時期の原作であるという見解である(Maxime Collignon, Histoire de la sculpture greque, tome 2., 1897.)。
その他、エメリック・ダヴィッド(Eméric David)、クララック(Clarac)伯などは、「ミロのヴィーナス」像の制作を古典期とみていた。
<復元案のフルトヴェングラー説>
やがて、考古学的研究は、従来の様式批判とは異なり、材料に即する実証的な調査を基礎にして、原形復元を考察する方向へ展開した。
中でも注目すべきものは、ドイツの美術史家アドルフ・フルトヴェングラー(Adolf Furtwängler、1853-1907)の独自な復元案である。フルトヴェングラーの研究の主点は、「ミロのヴィーナス」の原形はどういうものであったかを探ねることであった。彼は、この像が発掘された当初の状態から研究の糸をたぐり始める。
この像が掘りあてられた時に、上下2つの石塊とともに、2本のヘルメ柱とりんごを握った手が1個、腕の断片、台座の石片などが同じ場所から発掘されたと伝えられる。これらの石片は、後になってルーヴル美術館に送られた(しかし現存しているのは、ヘルメ柱と手と腕の断片である。腕1本と台座の石片は消失している)。
これらの石片とヴィーナス像は、どのような関係にあると考えたらいいのか。
この点については見解が分かれ、レーナックは全く関係ないとみるが、フルトヴェングラーは腕や手の断片はもともとヴィーナス像に付属していたものと推定した。上腕の石片の切断面に残存するくぎ穴とヴィーナスの腕に残っているくぎ穴とがしっくり符合するとみる。そしてりんごを握った手も、寸法も1ミリ程の相違しかないことから、付属物と考えた。つまり、フルトヴェングラーは、これらの石片や台座石をヴィーナス像に所属させることによって、その復元を構想した。また、ミロ島には古くから幸福の神テュケ(Tyche)に対する信仰があり、このテュケの像になぞらえて、「ミロのヴィーナス」像もつくられたと推測した。
左の手はりんごを掌の上にのせて前方に伸び、その手の甲をのせる長い支柱があったという(支柱の上に手がのって支えられている実例は、ギリシャの彫刻や壺絵や土偶や貨幣の図柄に折々見かけられる)。
そしてこの支柱を受ける台座の一つの面には、「マイアンドロスの (アンテ)ィオキア人 メニデスの子 アンドロス これを作る」という銘文があったという。この銘文によって作者をも知りうるとする。
この銘文の書体からみて、ギリシャ末期の台座と考え、この作品自体も末期、いわゆるヘレニスティック時代になるという重大な内容をもつ見解を示した。少なくともあまり著名でない彫刻家の作ということになる(前述したように、この銘文を刻んだ台座は、ルーヴル美術館から消失してしまい、消息不明とされた。台座の銘文は、画家ダヴィッドの弟子グロの画友ドベエ父子の台座写生図からわかる)。
さらに、フルトヴェングラーは、右手と頭部、胴体、衣のひだについて、次のように述べている。右手は、おそらく下半身をまとっている衣が落ちないように、軽くおさえるような位置にあったと想定している。頭部は楕円形の顔立ちで、ほおがいくらかふくらみをもって伸び、眼はやや深く、くぼんで遠方を静かにながめる。頭部でもっとも特色があるのは頭髪で、豊かな波状を描いて華麗であり、ノミの刻みが深い。その頭髪の美しさと技巧は、まさしくギリシャ末期、ヘレニスティック時代の趣向を明らかに示すとみている。
一方、胴体の部分については、自然で品位のある肉付けで、古典盛期に見る高い緊度をもつ純正な感情がみなぎっている。さらに下半身の衣のひだに至っては、歯切れがよい、さばき具合によって高雅な造形性を示すという。そしてこれらの部分はいかにも紀元前5、4世紀古典期の作風を思わせるとする。
一見、頭部の特色と、胴体や衣のひだの特色とが一致せず、多少矛盾を含んでいるかのように思われるが、そこに末期ヘレニスティック時代には、この時代特有の性格(頭部の特色)をもつと同時に、また古典盛期の様式(胴体や衣のひだの特色)を慕って、これを学び、これを模する風潮の時期があったと考えた。この「ミロのヴィーナス」像も、この風潮の中に生まれたとすれば、頭部と胴部の特質が一体の中に含まれていても納得がいくという(中村るいによれば、「ミロのヴィーナス」の頭部はクラシック様式であるのに対して、首から下は、豊かな逆S字のひねりに見られる通り、ヘレニズム様式であるとする[中村、2017年[2018年版]、200頁])。
フルトヴェングラーの結論はこうである。つまり、「ミロのヴィーナス」はりんごを左手に握り、右手で衣をおさえる姿勢で立って、遠方をながめる美の女神であり、そこに左手をのせる支柱が立ち、その台座に作者の銘文が刻まれているということになり、その銘文の書体や彫刻技術の性質から、末期の紀元前150~50年ごろの制作であろうとしたのである。
(A. Furtwängler, Meisterwerke der Griechischen Plastik, Leipzig; Berlin, 1893. ; Revised English ed., Masterpieces of Greek Sculpture, London, 1895.)
ところが、フルトヴェングラーの明快な復元案を根本から覆す証拠品が発見された。消失したと思われていた石の台座2体のうちの1つだけが、ルーヴル美術館の中で発見された。この台座には、テオドリダス(Theodoridas)が献納する意味の銘文が刻まれていた。この台座の上に、ひげのはえた老人の首を載せているヘルメ柱を立ててみると、台座の孔にこの人柱がはまり、復元できたそうだ。そうすると、もう1つの他の台座も、ひげのない若者を載せているヘルメ柱に属することが証明された。作者の名を刻んだ重要な台座はヴィーナス像のものではなくなり、フルトヴェングラーの明快な構想も崩れ去ることとなったようだ。
ただ、彼の精細な研究が残した業績は小さくなく、ギリシャ美術研究上に深く影響を与えた。例えば、りんごをもつ左手や衣をおさえた右手の配置や、制作年代をヘレニスティック時代へ下げる考え方などである。
<復元案のタラル説>
フルトヴェングラーの見解にもっとも近接する試論としては、1860年、イギリスの医師クローディアス・タラル(Claudius Tarral)のそれがある。これは、銘文のある台座の上に、ひげのない若い人物のヘルメ柱をさし込んだ形の復元案である。フルトヴェングラーの復元案では、ヴィーナス像の左手を支柱の上にのせていたが、タラルの場合、左腕の半分は肩の付根からほぼ水平に左前方に伸び、肱から上に向かって曲がり、りんごをもつ左手の掌は下に向けている。
フルトヴェングラーやタラルをはじめ、復元案の多くは、りんごをもつ左手が特にとりあげられている。その理由は、有名な「パリスの審判」の物語が背景にある。牧童パリスから金のりんごをヴィーナスは授けられ、彼女は美の神となり、「勝利の女神」(Venus Victrix)となるから、ヴィーナスとりんごは切っても切れない縁故がある。原形復元に際して、「りんごをもつ左手」の石片が特に問題にされた。
さらに、この「ミロのヴィーナス」の場合、もう1つの因縁があるそうだ。ミロ島の古名メロスはギリシャ語でりんごを意味するメーロンに由来するといい、「ミロのヴィーナス」は一層りんごとの関係を重視することになるようだ。
りんごをもち、勝利を誇るヴィーナスの代表的な一例は、ルーヴル美術館にある「アルルのヴィーナス」(Vénus d’Arles)である。「アルルのヴィーナス」はローマ時代の模刻だが、その原形は紀元前4世紀、おそらくプラクシテレスの作であろうとみられている(紀元前360年頃に制作された「テスピアイのアフロディテ」を複製したものであると推測されている。1651年、フランスのアルルの旧古代劇場で発見)。頭部から胴体の姿勢をはじめ、ことに衣を上半身ぬいで、下半身だけをまとう半裸の姿が、「ミロのヴィーナス」と共通する点で、両者はよく比較される。
<軍神アレスと共にいるヴィーナス像という復元案>
次に注目すべき復元案は、イギリスのミリンジェン(Millingen)、フランスのクララック(Clarac)伯、ドイツのミュラー(Müller)、ウェルカー(Welcker)など、かなり広く支持を受けたという。それは、「盾をもつヴィーナス」像で、伝説の上での配偶者ともみられる軍神アレスの盾を片手にしている像である。大きな楕円形の盾の上辺の縁を左手でおさえ、下辺を左膝の上にのせている像である。
この復元案の場合、「ミロのヴィーナス」の上半身が幾分左向き斜めに立っている姿勢のいわれが理解できるし、ことに下半身の左膝を高く立てている理由がはっきりすると主張する。立像全体の形が何かをもつ姿勢を暗示しているとする。
現にこの姿勢をあらわす実例があり、その著しい例は、「カプアのヴィーナス」(カプアの劇場の跡から発掘、ナポリ国立考古博物館蔵)である。これは盾を左膝の上にのせて、しみじみと自分の美しさを盾に写して眺め入っているところであるが、その全体の姿勢、左右の手の方向が「ミロのヴィーナス」と近似しているとみる。
ただ、ここにも重要な相違がある。両者の視線が違うのである。「カプアのヴィーナス」の眼は、あくまで盾の中に映る自分の姿を見守っているのに対し、「ミロのヴィーナス」は盾を見ず、近いものには気をとられていない。眼付きの方向が異なる。そうなると、「ミロのヴィーナス」像は果たして盾をもっていたかどうか疑問でもある。だから、この復元案も興味深いが、決定的とはいえないとされる。
<ルシャの復元案>
さらに、折衷的試論を考えた研究者もいる。フランスのアンリ・ルシャ(Henri Lechat、1862-1925)がその人である。この女神は、古典期少なくとも紀元前4世紀の作品だと信じるが、同時に発見されたヘルメ柱や台座は後代、おそらくギリシャ末期に補修されたもので、銘文の彫刻家の名も、補修した彫工の名とみなす説である。付属部分を後世の補修とみる見解は、カトルメール・ド・カンシーやクララック伯も早くから気づいていたが、ルシャの推論は、この解釈を基にして、さらに進めたものであった。
この補修が何故になされねばならなかったのか。本来このヴィーナス像は、アレスの盾を持っていたからであるという。それがギリシャ末期に、ローマ軍の侵入によって破壊されたと推測し、この時、金銅の盾などがもぎ取られ、そのため左右の腕も脱落してしまったと想像した。この損傷されたヴィーナス像を紀元前1世紀(ママ)の彫工が補修することになったが、この時、「アレスの盾をもつヴィーナス」ではなく、「りんごをもつヴィーナス」に変形してしまったとルシャは推定した。こうして「りんごをもつヴィーナス」として再生され、左側にヘルメ柱を立て、台座の面に補修者の自分の名を刻んだと解釈した。このように、ルシャは従来の見解を折衷し、統合した推定をした(Henri Lechat, La Sculpture Antique, Paris, 1925.)。
<その他の復元案>
その他の復元案も紹介しておく。例えば、ハッセ(Hasse、ブレスラウ大学の解剖学教授)によれば、「ミロのヴィーナス」は、海に入ろうとして右手で落ちそうな衣をおさえ、左手で頭髪をほぐそうとしていると解釈している。左手の掌の中に見えるのは、りんごではなく、頭髪を結んでいる紐の端についた何かの小さい装身具のようなもの(ヘアバンド?)であるとする。このように、ヴィーナスの日常的な打ち解けた姿に復元しようとする。
また、ファイト・ファレンティン(Veit Valentin)は、「驚きのヴィーナス」像という説を唱えた。これは水浴している最中襲われて驚く瞬間の姿をあらわすものとみるが、のち意見を訂正してヴィーナスではなく、アルテミスが水浴中アクテオンに襲われて驚いているところと考えた。
<群像としての復元案――ヴィーナスと軍神アレス>
上記の説は、単身像としての復元案であるが、群像としての原形を考案したのは、フランスのカトルメール・ド・カンシーやラヴェッソン(Ravaisson、1813-1900)といった考古学者、ドイツの彫刻家ツゥル・シュトラッセン(Zur Strassen)である。
ヴィーナスは単身ではなく、その配偶者あるいは恋人と伝えられる軍神アレスと一緒に立っていたとするものである。ラヴェッソンも早くから、ヴィーナスはアレス(ローマ時代のマルス)のかたわらに立ち、りんごをもつ左手をアレスの肩にかけ、右手をあげて話している様子であろうと考えていた(F. Ravaisson, La Vénus de Milo, Paris, 1871.)。
現にローマ時代につくられた群像には、アレスとヴィーナスの両神の群像がいくつか今日も残存している。「ミロのヴィーナス」も、このような群像に違いないというのだが、ラヴェッソンに先立って、ツゥル・シュトラッセンがこの復元像を石膏でつくって発表した(ただ、その復元像ではあまりにヴィーナスの首をアレスの方(左の方)に向けすぎている点に難があるという)。
「ミロのヴィーナス」は軍神アレスと一緒に立っていたとする推論には批判もある。すなわち、この推論はローマ時代の彫刻や伝説にたよりすぎていて、ギリシャ時代には果たして、アレスとヴィーナスの関係はどのように考えられていたか、多少とも疑う点があるというのである(異色の推論として記しておく方が無難かもしれない)。
以上が、1964年の図録で叙述されている「ミロのヴィーナス」像の復元案である。最後に、1964年当時、ルーヴル美術館古代美術部の代表者シャルボノー部長の、次のような解説を図録では引用している。
「人々は長い間、≪ミロのビーナス≫は紀元前4世紀の作品と思い、スコパスの手に帰していた。事実は、石片の組合せの方法、頭髪や殊に衣裳の施工などの技術やその様式によって、明かにこの像は紀元前2世紀末の時代であることを示しているのである。その時期はまた、女神像のかたわらに同時に発見された2つの彫刻断片の時代でもある。このビーナスの作者は、まず紀元前4世紀の作品から感銘を受けたが、そこから気高い、そして強健な美しさに溢れる一つの新しい創造をひき出し、新古典とでもいうべき様式による傑作を生み出したのである。」
(Jean Charbonneaux, La Vénus de Milo, Opus Nobile, VI, 1958.)
ここには、「ミロのヴィーナス」の制作年代について、人々は、紀元前4世紀のスコパスの作品と思い込んでいたが、事実は、石片の組合せの方法、頭髪や殊に衣裳の施工などの技術やその様式によって、紀元前2世紀末に制作されたことが明記してある。
以上、原形に対する復元案を詳述してきたが、決定的な結論は求めることができないようである(朝日新聞社編、1964年、51頁~65頁)。
【中村るいによる「ミロのヴィーナス」の特徴と5つの復元案】
中村るいは、「ミロのヴィーナス」の特徴と復元案について言及しているので、その内容を紹介しておきたい。
中村るいは、「ミロのヴィーナス」の特徴について、次のように捉えている。
「この女神像の特徴は、小さな頭部と、大胆な身体のひねりです。そして身体の中心を通る正中線が、逆S字を描いています。左足を少し前に出し、腰から下に衣をまとっています。衣がなぜ、ずり落ちないのか不思議ですが、腰骨の下で留まっています。両手は切断されていて、右手は肩の付け根の形状から下向きだったことがわかりますが、左手は肩の高さか、それより少し高く挙げているようです。欠けた腕をどう復元するかは定説がなく、大きく分けると、五つの説が提案されています。」
「ミロのヴィーナス」像の特徴を箇条書きにしてみると、
・小さな頭部と、大胆な身体のひねり
・正中線が逆S字
・左足を少し前に出し、腰から下に衣をまとっている
・衣は腰骨の下で留まっている
・両手は切断されていて、右手は肩の付け根の形状から下向き
・左手は肩の高さか、それより少し高く挙げている
・欠けた腕の復元案は5つある
その5つの復元案とは、
第1案:左手を台にのせ、リンゴをもち、右手は腰布をおさえている
第2案:両方の手に花輪をもっている
第3案:左ひじを台にのせ、リンゴをもち、右手に鳩をとまらせている
第4案:左手で髪をつかみ、右手は腰布をおさえている
第5案:ヴィーナスと軍神マルスの群像。左手をマルスの肩に、右手はマルスの腕に添えている
こうした復元案に対して、「失われた腕の復元にはさまざまな推論があり興味深いのですが、決定的な証拠に欠けています」と、この問題に中村るいは付言している。中村は紙幅の都合からか、5つの復元案を提示したにとどまっている(中村るい『ギリシャ美術史入門』三元社、2017年[2018年版]、198頁~199頁)。
先に検討したように、第3案は、視線が手元の鳩にいっているとしたら、この説は無理かもしれない。また、中村の挙げた5つの復元案には、ヴィーナスが盾をもつ案がない。
なお、「ヴィーナスと軍神マルスの群像」の第5案については、ラヴェッソンも言及しているので、フランス語で後に見てみたい。
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