歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その16≫

2021-02-15 18:35:46 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その16≫
(2021年2月15日投稿)
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログでも、<書について考える>というテーマで述べてみたい。 書について考える際の様々な視点を提示してみようと思う。
例えば、書は線の美かという問題、書はどこまで国際的に理解できるか、国際的な書とは何かといった問題、「書は人なり」という言葉などについて考えてみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<書について考える>
・書はどこまで国際的に理解できるか
・「書は人なり」という言葉について
・現代日本書壇とその批判について
・書は線の美か
・国際的な書とは
・《参考文献》








<書について考える>



書はどこまで国際的に理解できるか


書はどこまで国際的に理解できるか。この問いに、完全に否定的であるのは、大溪洗耳(おおたに せんじ)である。大溪洗耳は、1932年に新潟県に生まれ、1958年に東京学芸大学書道科を卒業した書家である。1979年、1982年には東京新聞後援の個展を開催し、1985年当時、日本教育書道芸術院理事長および東京書作展審査委員を務めていたが、2003年に没した。
『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年、162頁、172頁~174頁)において、次のように述べている。
「書は国際的理解の中で花は咲かないのである。咲いたと思ってもそれは錯覚である。国際的な書を目指すのは、「小字数作品」だなどと、かつて言った馬鹿がいたが、この頃はもう余り聞かない」(大溪、1985年、162頁)
「二つ目は、外国人は書としては何も理解してないという事実である。確然たる理解を得なくてもいい、書は難しく考えて見るものではない、ましてや初めて見る書である、楽しく見てくれればそれでいい、ということをふまえての話ならけっこうである。外国人に解るようになったから、いよいよ書も国際的になったなどとニコニコしないのなら納得する。外国人は書を理解しようがないのである」(大溪、1985年、172頁)。
「何度もくり返すが書は国際的にはなり得ない。なったと思ってもそれは錯覚である。手前味噌である」(大溪、1985年、172頁~174頁)と述べている。
そして、具体的には、国際美術家連盟とかの偉い外人さんが、手島右卿の「崩壊」という作品を見て、読めないのにその印象だけで「崩壊」を感じたというエピソードがあるが、これなど錯覚であると大溪洗耳はいう(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、170頁)。

【大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社はこちらから】

戦後日本の書をダメにした七人

これに対して、書家の岡安千尋(おかやす ちひろ)は異なる見解を示している。岡安には、『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』(日貿出版社、1987年)という著作がある。
その著者略歴によれば、岡安千尋は1951年東京に生まれ、慶応義塾中等部、女子高校に学び、慶應義塾大学理工学部応用化学科を卒業し、そして日本書道専門学校に学び、大田区書道連盟会長の中平南海、専修大学講師の田中常貴に師事したという。そして外国人に書を教え始める一方で、1980年代半ばから後半にかけて、東京の六本木、銀座およびパリにて個展を開いたりした。
その岡安によれば、書において用いられる文字は、ひとつの象徴という大切な意味があるという。書家というのは、モチーフの文字を選ぶ場合、自分が無意識領域の中に抱き暖めている何かを、明確な一つの意を持った文字として意識に還元する作業をやっているのだと述べている。心の中にしまい込んだ文字が、作品になるようだ。自分に内在するものの象徴としての文字を、自分の中にかかえ込んでいて、多くは技術的な種々の問題によって、つっかかっている状態のものらしい。自分の内在するものにくっつく象徴を探し、自己葛藤の中で貯えられた蓄積の文字を自分の中に持つことが書における最も大切なポイントである。ここに書が書たる由縁があり、お習字とは画然とした一本の線が引かれるところがあるという。
こうしたことを、はじめから西洋人にやれというのは無理だが、こうした自覚の下、西洋人が漢字を見て、それに自分に響くものを感じ、象徴として採用するなら、そこに書は成り立つと岡安はみている。それが、漢字の形象面からのもので、よしんばその意味や読みがわからなくとも、要は、それが自分の内在部分の象徴として、どれだけ意味があるかということが大切なのであるという。
(岡安千尋『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』日貿出版社、1987年、205頁~206頁)

外国人に書を教えてきた岡安だからこその持論であり、書の国際的な理解はありえないと否定する大溪洗耳と異なる点である。
また、多くの外国人に書を教えてきた経験から、空間に対する意識の違いに注目していることは興味深い論点である。書ではないが、中近東イスラム圏では、その建築物は平面を装飾意匠で埋め尽くしている。執拗なまでに、文様でびっしりおおわれている。イスラム教の偶像崇拝禁止が影響しているかどうかは不明だが、そこには余白の美などという感覚は全くない点を岡安は指摘している。書は、空間のある一点から来る力が平面の上で仕事をし、又そのもとの一点に収束して戻っていくというような仕事であるという(岡安、1987年、184頁~186頁)。

中国や日本の書には、余白の美が重視される。とりわけ、日本の書である「かな」の作品の特性として、最も特徴的なのが「余白美」である。書家の武田双雲はその「余白美」に、日本独自の芸術観を見いだしている(武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]、110頁~112頁)。

【岡安千尋『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』日貿出版社はこちらから】

書の交差点―脱日本型思考・書の場合

【武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書はこちらから】

「書」を書く愉しみ (光文社新書)

「書は人なり」という言葉について


この「書は人なり」という言葉はよく使われる。あの松本清張も「書道教授」という推理小説でも用いている。
勝村久子の人柄について、東京の良家の老婦人で、残光のような静かな気品があるとほめた後、その書について次のように記す。
「それに、彼女の書だ。ひとを教えるくらいだから、うまいにきまっているが、書にも気品というものがあって、これは上手とは別ものである。勝村久子の字には確かにその気品がある。書は人なりというが、まったく彼女の人柄と合致している。」
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年、153頁)

【宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫はこちらから】

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション 中 (文春文庫)


ところで、石川九楊は「書は人なり」という言葉について、次のように述べている。
「「書は人なり」と言うのは、書に表現世界なんて存在しないという認識と、個人は固有の性格を具有するという認識とが重なり合った場に生ずる、きわめて現代的な思想である」と
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、95頁)

また、石川九楊は、中国宋代の蘇軾の説を紹介している。つまり、蘇軾は、「書は人なり」という説に対して、顔でさえその人を表わすと言いきることができぬのに、書が人を表わすというようなことはないよと、作者と表現の関係のとても深いところから書について語っているという。
これに対して、日本では「書は人を表わす」という説は人口に膾炙され、書についての評価は、すぐに「書は人なり」に帰着してしまう傾向が強いと指摘し、その理由として、5つ挙げている。そのうちの2つを紹介しておこう。
一、日本の書史は中国の書の流入によって左右されるため、その自律的展開が少なく、また真に評価する書が少ないため、書の価値を評することが、作者の違いを言上げすることに転化されたと主張している。日本人が作品の真贋問題を大きくとり上げるのはそのためという。
二、このため、日本では中国のような書評や書論の厚みがなく、評価法が育っていないという。
「書は人なり」という言説に対して、日本と中国とでは受け止め方が異なるのは、その背景にある書の歴史の厚みや、書論などの評価法といった文化史的蓄積の違いなどに由来することを石川が指摘しているのは興味深い。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、192頁~194頁)

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

【石川九楊『書に通ず』新潮選書はこちらから】

書に通ず (新潮選書)



現代日本書壇とその批判について


大溪洗耳の著作として、先述したように、『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年)がある。そこで、西川寧、青山杉雨など7人の書家を批判し、真に実力ある書家は、手島右卿、日比野五鳳、小坂奇石、殿村藍田、堀桂琴、田辺古邨、石橋犀水、伊東参州らであると主張している。
西川寧、青山杉雨が主導する日展および書道界の体質について批判している。西川寧は、1902年東京生まれで、書家の西川春洞の三男で、慶応大学文学部支那文学科を卒業し、文学博士で芸術院会員で、北京留学の経験があり、慶応大学名誉教授であった。つまり「慶応ボーイのスマートボーイ」「学者でインテリで、文章がうまく、いわば痩せたソクラテス」、そして“書道界の天皇”であるという。清代の趙之謙(ちょうしけん、1829-1884)に傾倒し、昭和の三筆の一人とされ、1989年に没した。
大溪は、西川に対する尊敬できる点として、次の2点を指摘している。
①結果的に実らなかったが、会津八一を日展に持ってこようとしたこと。
②西川の若い頃の「倉琅先生詩」は、趙之謙ばりで、すばらしい作品である。
ただ、西川が、書は「用」のために在るべきでないと主張し、「用」の無用論を唱え、その弟子青山杉雨(さんう、1912-1993、大東文化大学教授、生涯一度も個展を開くことがなかった)が、「うまい書だけが書ではない」と認識している点に関しては、疑問を呈し、大溪は持論を展開している。つまり、「用」を否定することは書の技術を否定することでもあると大溪は考え、書の技術は絶対に必要であるという立場をとっている。
例えば、青山は「書家はたんにうまい字を書けばいいのではない。書とは文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現することであり、そのためには哲学、宗教、絵画などの幅広い教養が必要になってくる。作品とはそうした教養、生活の象徴である。」(『読売新聞』昭和58年12月19日付)と主張している。
この青山の議論に関して、大溪は次のように批判している。「書は究極、たんにうまい字のみを目指すものではない」というのも、一つの考え方であるが、文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現するには、表現する技術の「うまさ」がなければならないと大溪は主張している。
また技術の「うまさ」だけでは再表現はすべてが可能とも言えないが、しかし最低技術による「うまさ」は作家である以上避けて通過することはできないという。技術を馬鹿にする作家はすでに自ら作家であることを放棄しているのと変わらないとする。
かつての芸術院会員であった豊道春海、鈴木翠軒、日比野五鳳といった書家は、その作品のすばらしさで人の心を揺さぶり、感動・驚嘆させた。これらの書家には技術という背景があり、その技術は「うまさ」の根底を作っていたと大溪はみる。そしてその「うまさ」の上に、「うまさ」を超えた「すばらしさ」がある。またこの「すばらしさ」をもひっくるめて「うまさ」とすることもある。
しかし、青山杉雨の作品をみても、書家が最低避けて通れない前段階における技術の「うまさ」すらないと、大溪は批評している。
日展は、いくつかの書道団体が集まってやっている連合社中展であると大溪は規定している。日本の書壇、とりわけ西川寧と青山杉雨の書壇は、展覧会をやることによって支えられてきたという。そして西川、青山は二人とも社団法人の日展の謙慎書道会という最大会派に所属していた。青山が日本の書道界に“理念なき展覧会至上主義”を確立したと大溪はみている。また、書道界には師匠がいて、師匠の言う通り勉強して師匠の手本を貰って入選すれば、礼金がいるという構造で、その悪しき金権的体質を大溪は批判している。
(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、48頁~70頁、大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、7頁~55頁)

【大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社はこちらから】

戦後日本の書をダメにした七人

大溪と同じく、榊莫山も、日本の書壇のセクト主義を批判している。日本の書は、中国の漢字・漢詩の流れの系譜と、平安の仮名・和歌の流れの系譜がある。書壇は、漢字作家と仮名作家の二つに分断され、書家のえらぶ言葉(詩、成語、熟語)も、宿命的に決まってしまう。書という芸術を、漢字・仮名・篆刻・現代詩・少字数・刻書・墨象など、小刻みのジャンルに分類していて、展覧会になるとジャンルの旗をなびかせて、セクト主義が横行する。このセクショナリズムこそ、書壇の閉鎖的な体質を生む病巣であると榊は考えている。そのセクト主義が、書の新しい造形的発想を閉じこめ、枯渇させ、若い人たちの想像力や創造性を萎靡(いび)していると批判している。
(榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年、229頁~232頁)

【榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院はこちらから】

中国見聞記―書の源流をたずねて (1982年)

ところで、書作の実質的批判点としては、独立書人団の作品展では、空間章法の悪い作品が多い点を大溪は挙げている。字を書いて作品を書いていないのだという。つまり、字を書くことに腐心するあまり、字以外が見えず、空間が見れていないと批判している。「字は書けても空間が書けない」というのである。この空間が書けるということが現代書の一つの大きな命題であるとする。
例えば、村上三島は、王鐸に没頭しながら、王鐸(1592-1652)の一番すごいところの、行間の章法、行のうねりを学ぼうとしなかったと批判している。王鐸は、明・清二朝に仕えた能書家で、明末ロマンチズムの中心的な存在で、長条幅連綿草の書表現を確立した。
王鐸の技術の三大特徴として、
①行書の各字の線の組立に見える接筆に気を配っている。この点は、米芾や顔真卿や王羲之を超えるところがあると大溪はみている。
②長条幅に見られる各字に亘る因果関係が、直感力だけで布置されていながら、王鐸独特のつっかかりのリズムを出している。
③長条幅における空間は瞠目に値し、天才王鐸の動物的直感からくる呼吸と間のすごさを大溪は賞賛している。
こうした王鐸の書の技術的側面に加えて、明末清初の動乱の中で生きた王鐸の人間性の豊かさを挙げている。
(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、34頁~37頁、163頁~164頁。『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、8頁)

王羲之と王鐸とを対比させながら、その相違について、わかりやすく対話形式で述べた書物として、大溪洗耳は『王羲之大好きオジさんの憂鬱』(日貿出版社、1995年)という著作を出版している。
書家の大溪洗耳自身、10代から20代前半までは、書聖王羲之を尊敬し、「蘭亭序」をすばらしいと思い、「張金界奴本蘭亭序」といった法帖を臨書していた。しかし、大学生時代から、王羲之の書の「かったるさ」が嫌いになり、その体験を踏まえて、この本を書いたようだ。王鐸大好きオジサンが、王羲之大好きオジサンを目の前に座らせて、説教をする形式で、書の極意を伝授していくといった内容である。
例えば、書で重要なのは章法であると、王鐸大好きオジサンは説いている。董其昌も「書は章法を以て一大事となす。行間茂密これなり」と言っている。空間章法は即応力で、本を読んでも会得できない。書がうまくなるのは生活神経で、情念を培うことが大切であるという。
(大溪洗耳『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、1頁~24頁、209頁~210頁)

そもそも大溪の基本認識は、こうである。
書家が書作品を評する時に用いる「うまさ」とは、書作の表現技術が勝れていることを意味すると大溪はいっている。例えば、筆がよく使えているとか、紙と筆との関係がよいとか、緩急もよいとか、潤渇のバランスが自然であるとか、線質が生でない、字形が自然な表情で、連綿に合理性がある。太細接筆によく神経がゆきとどいていて、文字章法もよい。天地左右行間字間と全体章法もゆるぎなく、リズムと間のとり方もよいなどを挙げている。
このような書作の表現技術の勝れた「うまさ」だけでは職業書家・プロの「うまさ」の条件には到達せず、「うまさ」の中に背景を持たなければならないと説く。背景とは、本物を身につけることであるという。本物とは、中国の碑帖をさす。例えば、鳴鶴を祖として秋鶴、尚亭に近い作家は、漢魏六朝を至上のものとして学んだ。唐代でも、宋代以降でもいいが、本場の本物を洞察しなければならないという。臨書をし、くり返し書くことで、見るは観るになり、観るは洞察になり、よいものとは何かを認識するという。
(大溪、1985年、23頁~25頁)

良寛の言い分を大溪洗耳が解説すると、こうである。つまり、書家で「うまい」書を作る人はたくさんいるが、勝れた「おもしろい」書ということになると、さっぱりであるという。その理由としては、書家は書の勉強しかしないから、書の世界に埋没して周囲と関わらないから、視野が狭いというのである。
現代の書家でいえば、一年中、あっちの展覧会、こっちの展覧会、そうでなければ書の研究会、書家の集まり、と飛び走り、書が頭から離れない。だから、他の世界に首をつっこんでいる暇がなく、つまらない、いかにも書家らしい書になってしまうのではないかと、説明している。
良寛が字書きの字が嫌だといった所以もそのへんにあるのだろうと推測している。
(大溪、続、1985年、174頁~175頁)
また絵画の世界を見ても、アブストラクトは本来、具象をやって導き出されたものであり、根幹はすべて具象(フィギュラテイフ)からの出発であるとみる。ピカソのキュビズムは、バルセロナ時代の6000枚のデッサンが基盤になっているという(大溪、1985年、137頁~139頁)。
そして、大溪は、書における線質が重要で、それは書作の生命であることを、次のように強調している。
「書における線質は、書作の生命である。線質が悪ければ、どんなに形が勝れていても、見れたものではない。書における線質は絵でいうマチエルである。大方の絵はマチエルを見ればその技術の程度は解かる。書における線質も、大方の場合、その基本技術の、程度がどれくらいか直ぐ解かる。線はくり返し書作をすることで練られてきて、いわゆる「なま」でなくなる。この「なま」でない状態を何時で発揮出来る技術を持ってはじめてプロといえる。書の批評は実作者でないと基本的な部分で見誤ることがあるというのは、この線質如何の見分においてである。実作をして線が「なま」でなくなる過程を十年単位で認識しないと、ほんとうの批評は出来ない。線質は多様で、同一作品中でも、人によったら千変万化する。線質を正しく見極めて、後に造形性云々を言わなければ、書の批評をしたことにはならない。線質が解らないから、形だけの話になる。形だけで作風を言ったり、見た目で言辞を弄する。」
(大溪、続、1985年、130頁~131頁)
「書において線質は生命である。書の線質だけは、書作家でないと解らないという、東洋の墨の美術の最大の特性でもある。」とも言っている(大溪、続、1985年、132頁)。
このように大溪洗耳は書において線質は生命であると考えている。

書は線の美か


ただ「書は線の美」であるというと、不十分であることを石川九楊は論じている。書は線の芸術であるという考えは、文字を構成する「点と画」を「点と線」と言ってしまったところが間違いであるという。
例えば、「大」と書いた時の一点一画は、決して野放図な点と線ではない。「大」の字を三本の線からなると言っても、実際には、第一画の横画は右上がりに書かれるのが基準であり、そこには起筆と送筆と終筆という三つの単位をもって書かれる。
また第二画は「左はらい」と言われるような先端に行くにしたがって尖る形状をもつ。そして第三画は「右はらい」と呼ばれる先端に三角形の力のためとはらいからなる形状を備えている。「大」の字は、「左はらい」と「右はらい」とでは形状が異なり、厳密には決して左右対称ではない。
そして、石川はいう。「大」という「文字」を書くのではなく、作者はなにか切実な理由があって、「大」という「言葉」を書くのであると。その「言葉であるところの文字」は点と画を積み重ねるところから生まれてくる。点と画は決して一般的な点や線ではなく、すでに言葉の一部である文字、否、言葉そのものをすでに微粒子的に含んでいる存在なのだと述べている。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、23頁~24頁)

【石川九楊『書に通ず』新潮選書はこちらから】

書に通ず (新潮選書)


国際的な書とは


石川は戦後前衛書を紹介した後に、字句の判読性に書の本質はないと主張している。「書を読む」「書が読める」とは、書として表現された世界を解読することであるというのである。筆蝕と構成と角度の芸術である書は、それらの歴史的蓄積の理解の上に立って、正確に読み解かれるべきであるという。
字句が読めず、理解できなくても、書を読むことは可能であるともいう。この書にまつわりつく謎について、高村光太郎は字句が何と書かれているかわからないのに、その表現を感じとることのできるのはなぜだろうと考え、書の美の要素として、「筆触の生理的心理的統整」の存在を発見していることを石川は紹介している。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、250頁)

【石川九楊『書に通ず』新潮選書はこちらから】

書に通ず (新潮選書)

そして石川は次のように述べている。
「現在は、たとえ書とはとうてい思えない形にまで歪んだ形であっても、書の本質と美質を核とし、そこに東アジアを超え、西欧をも含み込んだ世界の姿を写し込む実験と、演習をしなければなりません。現在はそのような時代であると私は考えています。」と
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、254頁)
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか)」(1972年)などの前衛書をものしている石川の書に対する理解には深いものがあろう。

《参考文献》
魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年
青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年
真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]
宇野雪村編『中国書道史 下巻』木耳社、1972年
榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版]
榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年
榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年
平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]
平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]
伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]
天石東村『書道入門』保育社、1985年
堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年
堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]
鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]
石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年
石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年
石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年
石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年
石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年
石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年
石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年
石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年
石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年
神田喜一郎ほか編『書道全集』(平凡社刊、1965年~1968年、中国篇、全15冊、別巻2冊、計17冊
神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]
何平『中国碑林紀行』二玄社、1999年
松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年
鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]
鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]
会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]
本田春玲『百万人の書道史―日本篇』日貿出版社、1987年
西川寧編『書道』毎日新聞社、1976年
西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]
青山杉雨「行書の歴史」(西川、1971年[1980年版]所収)
青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年
西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]
西川寧『書というもの』二玄社、1969年[1984年版]
疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年
武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]
上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]
角井博ほか『中国法書ガイド34 雁塔聖教序 唐 褚遂良』二玄社、1987年[2013年版]
佘雪曼編『書道技法講座7 行書 王羲之』二玄社、1970年[1982年版]
吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』清水新書、1984年[1988年版]
大日方鴻允・宮下雀雪『人生を彩る書道』創友社、1987年
李家正文『筆談墨史』朝日新聞社、1965年
李家正文『書の詩』木耳社、1974年
吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]
吉丸竹軒『楽しく学ぶ 四体蘭亭叙』金園社、2012年
小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]
田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]
大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年
大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年
大溪洗耳『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年
岡安千尋『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』日貿出版社、1987年
紫舟『龍馬のことば』朝日新聞出版、2010年
金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年
村上三島『独習書道技法講座9 草書・十七帖』二玄社、1984年
春名好重『古筆百話』淡交社、1984年
加藤精一『弘法大師空海伝』春秋社、1989年
財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社、1967年[1977年版]
鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社、1987年
筒井茂徳『行書がうまくなる本 蘭亭序を習う』二玄社、2009年[2013年版]
金田石城『字のうまくなる本』光文社文庫、1985年

松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年
高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年
白川静『漢字―生い立ちとその背景―』岩波新書、1970年[1972年版]
阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年
阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年
藤堂明保『漢字の話 上・下』朝日選書、1986年
藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]
遠藤哲夫『漢字の知恵』講談社現代新書、1988年[1993年版]




最新の画像もっと見る

コメントを投稿