歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その3中国3》

2018-07-19 18:05:58 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その3中国3》

3中国3 三国・西晋・十六国
「第3巻 中国3 三国・西晋・十六国」には、三国魏の建国した時から西晋の滅亡に至るまで(220-316)の97年間および十六国(304-439)の書蹟を収めている。

中国書道史3    神田喜一郎
三国は群雄の天下争奪に終始した時代であった。その中で比較的国勢の栄えたのは魏王朝であった。魏・呉・蜀三国の鼎立した時代から西晋の末年にいたるまで、すなわち、およそ西紀3世紀の期間においては、漢以来の篆隷とともに、それから新しく脱化してきた楷行草の書体が相伴って行われた。
いいかえれば、古代型の篆隷と近代型の楷行草とがたがいに交錯して用いられた。普通の文書や消息文では楷行草の書体が用いられたが、儀式ばった文書では、やはり前代からの
篆隷が用いられたようだ。つまり、古代型の篆隷は、ある特定の場合に限って古い書体を意識的に学んだにすぎず、その用途は特殊化されつつあったが、それにひきかえて、楷行草の新しい書体がひろく実用に供せられるようになってきた。ただ、そうした新しい書体も、この時代においてはまだ書体的にも芸術的にも完成への途上にあり、それからおよそ100年の後、東晋の初め、すなわち4世紀の半ばにいたって、それが実を結ぶこととなった。
ところで、三国から西晋時代にわたって石刻の遺存するものは後漢の隆盛さに比べると、やや寂しい。その大きな理由の一つは、建安10年(205)、曹操が故人を葬る儀礼が繁縟になり、そのため天下が疲弊するというので、石室、石獣、碑銘の製作を禁止したことにある。かといって、この時代を通じて、全然遺物がないのではなく、ときにはこの時代の書蹟をうかがうことのできる石刻の伝存されているのを見ることもできる。三国の中では魏碑がかなり多く、呉碑はこれにつぎ、蜀碑はほとんど伝わるものがないという。西晋になると多少見るべきものがある。
魏、西晋の諸碑は隷書でかかれているが、前代からの伝統をうけて、堂堂たる風格を備えており、芸術的にも立派である。「廬江太守范式碑」(図63、64、235年、山東済寧)は唐の李嗣真の書後品に、風華艶麗にして古今に特絶すと称讃しているように、漢碑と肩を並べてもはずかしくない。概して、魏、西晋の諸碑は、後漢末葉の流麗なものに比べて、かえって筆力のある強いものとなっている。この点については、おそらく流麗な隷書が発展して楷書となったので、新しい隷書を書くのに古い隷書を意識的に学んだためと、神田は推測している。ただ、楷書と同じくなることを避けようとした結果、漢隷のおおらかさを失って、鋭くなりすぎているのが特徴として目立つという。
篆書の碑はあまりふるわず、ただ一つ、呉の「天發神讖碑(図77-82、276年、江蘇江寧)がある。古い拓本によると、いわゆる斬釘截鉄の折刀法でかかれたものである。その字勢は雄偉であり、一種の奇異な古樸さを帯びている。また呉の「衡陽太守葛祚碑額」(図84、257年以後)は、楷書でかかれた碑の元祖としてその歴史的意義が認められている。
つぎに墓誌についてであるが、墓誌はもともと死者を埋葬するにあたって、その墳墓の上にその人の行状文を刻した石碑、すなわち墓碑を建てるのに対して、葬る人の名前や履歴を石に刻して地下に埋めたものを意味する。
魏晋時代においては立碑が禁止されていたために、墓碑の例は乏しいが、西晋のころから地上に建てる墓碑を縮小した形式のものをつくって地下に埋める習慣が生じた。このような小型の墓碑がさらに変形して、方形の板石に文字を刻して棺前に建てることが行われるようになったが、まだ銘辞の体裁もととのわず、墓誌という名称もなかった。
これが形式内容ともにいわゆる墓誌として成立するのは、次の南北朝になってからである。この時代の墓誌で比較的古くから知られているのは、「劉韜墓碑」(図100)で、他は洛陽方面から出土したものばかりである。刻されている文字の多くは隷書で、ほぼ類似した書風で、漢以来の筆法を守って、ほとんど特色を見出しにくい。
この時代においては、漢王朝の場合と同じく、石刻以外の文字資料が少なくない。中央アジアから発掘された簡牘(図1-5)はこの時代においても見ることができる。その他、紙本墨書(図6-27)の断片が多く残されている。その中には歴史的考証によって魏晋時代の人の手になったことが認められるものがあり、魏の鐘繇や東晋の王羲之と相接近する時代の産物であるだけに、その資料的価値は貴重である。
木簡では魏の景元4年(263)簡(図2の78)、咸熙2年(265)簡、西晋の泰始2年(266)から5年(269)にいたる諸簡(図3の14-17)には、隷書から楷書への移行のあとがみとめられる。とりわけ、泰始5年(269)7月26日簡(図5の28)には、すでに完全な楷書の体が備わって、この時代の書体のありのままの相をよく示している。
文書では、李柏(図23-27)と張超済の関係文書(図12, 13, 14, 15)を中心として、相当数のものが残されている。その多くは楷行草の消息または記録である。その中で明らかな紀年のあるものとしては、西晋の末葉、懐帝の永嘉4年(310)8月19日付のもの(図19の38)があり、当時に通行した書体を想像させるに十分である。
その他に、仏教経典を書写したいわゆる写経や、仏教経典以外の書籍を書写した写本がある。呉の建衡2年(270)の跋のある「太上玄元道徳経」(図119, 120)は老子を書写した残巻であるが、その所蔵が明らかではないという。
写経で紀年のあるものは、西晋の元康6年(296)の「諸仏要集経」(図121, 122)などわずかに数巻が発見されているだけで、西晋以上にさかのぼるものはない。
古来、法帖に刻された書には、漢時代の人のものもあるにはあったが、それほど重要なものではなかった。三国になってその目標がはっきりしてきて、そのもっとも注目すべき書家は、魏の鐘繇である。彼は後漢の末葉のころの草書の名人として知られた。張芝と並称され、そののち東晋になって現れた王羲之に先行する書家の最上の一人として、永く世に称せられている。もとより八分および楷行草をよくし、とりわけ楷書のたくみなことで有名である。
今日、その筆蹟として「宣示表」(図107-110)、「還示帖」(挿12, 35)、「関内侯薦季直表」
(図111, 112)、「賀捷表」(図113)、「力命表」(挿37)がいろいろな法帖の中に刻されている。しかしこれらは真偽不明というより、むしろ後世の人の作為になるものであろうと神田はみている。ただ、当時の楷書の名家として鐘繇という特定の人物の名が伝えられているところに、大きな意味を見出すべきであるという。
鐘繇の存在は当時の書家たちが新しい楷行草の完成に努力していたことを物語るもので、鐘繇こそはその動きの中の代表的人物であり、その後の書の世界の大きな指導力となった。
鐘繇以外にも、呉の皇象、晋の衛瓘、衛恒、索靖など、当時名のあった人々がいるが、わずかに宋の『淳化閣帖』などの伝世の法帖に刻されたもの(図115)によって、そのおもかげの一端を知りうる程度にすぎない。
西紀304年から439年にいたるおよそ135年間にわたる五胡十六国の時代、モンゴル、トルコおよびチベット系の異民族は、漢民族の文化を吸収して、その文物制度にならった政治組織を備えたものもあった。十六国の中でも最も勢力の大きかった前秦においては、漢人にして書をたくみにした崔悦と盧諶がつかえたことが史籍に見えているし、この国の遺品として「鄧太尉祠碑」(図101)、「広武将軍碑」(図102)が伝えられている。しかしこれらの碑はまだ三国、西晋以来の隷書の気味を脱却しきれぬ過渡的なもので、その技法においても中原のものに及ばない。
また十六国の中には西域から来朝した僧侶によって、仏教が弘められ、仏典の翻訳とともに写経が行われた。その写経から当時の書の動静をうかがうことができるようになった。
例えば、北涼の「仏説菩薩蔵経」(図125, 126)はその書風が石刻の「且渠安周造像記」と同一であって、しかも特色のある隷書の体をなしている。また供養経の一つである「持世第一」の跋語には呉客丹揚郡の張休祖が書写したことが記されていて、その書風は秀媚な楷書で書かれている。このような事実は書の方向がまだ一定せず江南の書風がはいって来ていながら、まだ隷書の体を同化するにいたらず、過渡的な現象を呈していたと神田は解している。
漢王朝のときに完成した隷書が、次第に楷書へ移行していった理由には、文字の形式が篆書から隷書へ、隷書から楷書へと、順を追って簡略に書きやすくなっていった原則的方向にもとづくようだが、また一面には三国以後、儒教思想が崩壊して、新しく老荘思想や神仙思想が勃興してきた風潮がその背景をなしていると神田はみている。
いかめしい八分の隷体が儀礼的な用途にのみ限定されて、やがて一般には平明で安易な楷書が行われるとともに、神韻縹渺とした風致のある行草がよろこばれるようになっていく。ただ、その移行にあたっては、三国から西晋におよぶ約100年の間においては、まだ漢の文化を踏襲して、いくらかその様相を変化した程度のものであって、書の上においても、新しい美しさを完成するにいたらなかった過渡的時代と神田は捉えている。
けれどもやがて来るべき東晋の初めの一大飛躍の踏台は、この時代にこそ築かれつつあったので、この意味からいえば、この時代の書道の歴史の上に占める地位は看過してはならないとする(神田、1頁~11頁)。

西域出土の書蹟   森鹿三
西域というのは広く中国の西方をさすが、紀元前2世紀に漢の武帝が黄河をこえて河西の地に四郡を建置し、タリム盆地周辺のオアシス国家を服属させ、さらにパミール高原のかなたのフェルガナ地方にまで軍を進めて以来、この言葉が盛んに用いられるようになった。
普通には今の新疆ウィグル自治区、それも主として天山以南の地域をさすもののようである。
森鹿三は魏晋時代において、この西域から出土した書蹟について再説している(その概要は2巻「漢晋の木簡」において既述)。
魏晋時代つまり紀元後3、4世紀の頃は紙が発明されてから100年もたっているから、書写材料として紙が普及していたはずで、現に西域出土の魏晋の書蹟には紙に書かれたものが数多く存している。
しかしそれらとともに、木片に書かれた簡も少なからず出現しているので、いわばこの時代は紙木併用期である。そして発掘結果からいえば、西域出土の魏晋書蹟は、ほとんど楼蘭出土といってよい。そこで魏晋の書蹟を集中的に出土した楼蘭について森は説明している。
『史記』の大宛伝は、武帝の即位の翌年(139 B.C.)に西域に使した張騫の西域探検報告をもとにしたものである。それによれば、楼蘭の近くには姑師という国があり、両国ともに城郭に囲まれた都市で、鹽沢すなわちロブノールに臨んだ場所に位置することが伝えられている。武帝の次の昭帝の時代に、楼蘭国王は漢人に殺され、都を南の伊循城(今のミーラン)に遷すことになった(77 B.C.)。
そしてもとの楼蘭城は漢帝国の西域経営の根拠地となった。一方いわゆる南道の要衝の地ミーランに移った旧楼蘭国は鄯善と名を改めた。漢の前進基地となった楼蘭と、長城西端の敦煌の間には、沙漠が横たわっているが、両都市を結んで要塞や望楼が立ちならび、長城の延長線として匈奴の南侵に対する防備となった。その後、漢軍は天山南麓の沃地であるトゥルファン地帯までもその勢力下に入れ、こちらが漢の西域経営の要地になり、紀元後1, 2世紀頃楼蘭は影の薄い存在になっていた。
しかし三国の魏の時代になると、かつて西域の孔道として盛んに利用された白龍堆を横断する敦煌、楼蘭間の路線が復活し、天山南麓に沿う北道およびコンロン山脈の北麓に沿う南道に対して、この新道を中道と命名した。
このような中道が新たに脚光を浴びるようになったのは、楼蘭が再び繁栄をとりもどしたことを意味する。今までの文献では直接にそのことを物語ってはくれなかったが、20世紀に入って、西欧や日本の探検隊が楼蘭の遺蹟から三国の魏、それにつづく西晋、前涼時代の生々しい文書を発掘するに至って、楼蘭についての知見は増大した。
楼蘭の遺蹟をはじめて発見したのはヘディンである。彼はその師リヒトホーフェンが予見したロブノールの移動を実証するために、この湖の付近を調査していた時、幸運にも楼蘭の故城址をさぐりあてた。それは1900年のことである。彼は翌年1901年、この遺蹟に魏晋時代の木簡(図5の27-30)と、紙にかかれた文書(図10-22)を発掘した。
ついで1907-08年、スタインが第2回の中亜探検を行った際、楼蘭遺蹟と認定されたこの廃都において同じく魏晋時代の紙木文書を発掘した(図1-4, 6, 7)。ついで日本の大谷光瑞が組織した西本願寺西域探検隊もまた魏晋の紙木文書を獲得したが、中でも特筆大書すべきは、李柏文書(図23-27)である。これは前後3回にわたる探検中、第2回の1908年橘瑞超が楼蘭遺蹟において発掘している。
以上が20世紀の初め、10余年間に楼蘭遺蹟において発掘された紙木文書であって、これら文書によって千数百年間、砂の中に埋もれていた楼蘭の歴史がある程度再現しうるようになった。ただここで注意すべきは、王国維が流沙墜簡の序文の中で提出している断案である。それはヘディンらが楼蘭と確定したこの廃墟が楼蘭ではなく、居盧倉と呼ばれていた要塞の遺蹟だというものである。
そこでもし王国維の説が正しいとするならば、先に列記したヘディン、スタインらによって発掘された魏晋時代の紙木文書は、居盧倉出土ということになる。このヘディン発見の廃墟が楼蘭なのか、それとも王国維の言うように居盧倉なのか、森は検討している。
王国維がヘディン発見の古城址を楼蘭ではないとする第一の理由は、この地から出土した文書の中に、「三月一日楼蘭白書。済逞白云々」(図12)というように、楼蘭から発信したと理解すべきものが含まれていることである。当時の尺牘の書式として、発信月日の下に発信地を記す例が少なからず認められるから、このように楼蘭から発信した尺牘の出土する場所を楼蘭とはいいえないのであって、王国維の指摘はもっともと思われると森は述べている。
次に第二の理由として、『水経注』によるとタリム川あるいはコンチダリアと考えられる河川が楼蘭城の南を過ぎて東流し、ロブノールに注ぐとあって、楼蘭城はロブノールの西北隅に位置するはずであるのに、いま楼蘭と擬定される廃墟はロブノールの東北隅にあるから、地理的に見ておかしいというのである。しかしこの第二の理由は王国維の思いちがいであると森はみている。
というのは廃墟の位置は北緯40度31分34秒、東経89度50分53秒にあり、発見当時は干上がって乾湖になっていたロブノールの西岸に位しているのであるから、これを湖の東北隅にありとするのは、誤解であると森はいう。
さらに第一の理由についても、月日の下の地名が発信の場所であることは王国維のいう通りであるが、これら発信地を楼蘭と記す尺牘が草稿であるかもしれないということを考慮に入れると、この理由も決して楼蘭説を否定する強力な根拠にはなりえないと森は考えている。
事実、尺牘の草稿は数多く発見されており、かの「李柏文書」はその著しい例であるという。しかし王国維は一方で楼蘭説を否定しながら、この「李柏文書」の草稿によって、この廃墟を海頭と定めている点は森は納得できないとしている。
このように見てくると、王国維の反論には必ずしも従えないという。王国維はこの二つの理由によって楼蘭説を否定した後、ここを海頭と定め、さらに古く姜頼墟、居盧訾倉、龍城と呼ばれたことを考証しているが、この新説にも賛成しかねると森はみなしている。
というのは、1930年と1934年の調査で、黄文弼が楼蘭遺蹟東北方の土垠と命名した地点において、漢代の要塞を発掘した際、「居盧訾倉以郵行」と記した木簡を獲得しているからである。
居盧訾倉あての封検の出土したこの土垠の地こそは居盧訾倉に擬定されるべきであり、またそうすることによって魏の時代に復活された中道の経過する地点が都合よく理解される。この新中道のことを記した「魏略」の西戎伝によると、敦煌から西出して沙漠を横断し、居盧倉を過ぎた後、故楼蘭に至るとあり、土垠を居盧倉、例の廃墟を故楼蘭と擬定する方が無理が少ないとみる。
次に海頭という名称の解釈については、かの「李柏文書」が出土した場所が海頭であることは自明であるから、発掘者の橘が語るように、これが楼蘭故城内で発見されたのであれば、海頭という名称は楼蘭の別称と森は解している。
ただ橘が示した出土地の写真を、スタインの第3回中亜探検報告と照らし合わせて考えると、その出土地は楼蘭故城址(スタインのLAと命名したもの)ではなく、その南方50キロにある別の故城址(スタインのLKと命名したもの)であるらしい。
スタインの写真と比較すると、「李柏文書」発見の場所はLAではなくLKとする方がよいようであるとみる。そうするとここから発見された尺牘の草稿に、楼蘭本城に対して、この地を海頭と呼んでいることも首肯できる。ちなみに、LKの西南100キロには旧楼蘭国の遷都した鄯善すなわちミーランがあり、LAから湖岸をめぐって東北行すれば居盧倉があり、そこから沙漠を横断して東行すれば長城西端の敦煌に達する。いいかえると、敦煌―居盧倉(土垠)―楼蘭(LA)―海頭(LK)―鄯善(ミーラン)というロブノールの北から西に沿う路線上の諸地の排列が考えられる。それとともに、非楼蘭説を唱える王国維にくみしえない理由も明らかになる。王国維の説をこの図式で説明すると居盧倉も楼蘭も海頭もすべて同一地点になってしまう。もっともこれらの三地点を楼蘭と汎称することは許されてよいと森は考え、本全集においても居盧倉の漢簡および海頭の李柏文書を楼蘭出土としたという。しかし楼蘭を狭義に解すると、LAだけを楼蘭とすべく、この楼蘭本城に対してその東北の湖岸にあった漢代の要塞址を居盧倉、LAの南方約50キロにあるLKを海頭と称して区別すべきであろうという。
なお後漢時代の西域経営はトゥルファン盆地に重点がおかれ、楼蘭の方はほとんど放棄されていたようだが、魏晋時代になると楼蘭は再び活況を帯びる。このことを明らかにしてくれたのが、LA出土の紙木文書であった。
王国維の投げた波紋は重大であったが、それを検討した結果、森はLAを楼蘭本城と比定した。王国維の非楼蘭説の重要な根拠となった月日の下に「楼蘭」の二字が見える尺牘を草稿とみる方が円滑に解釈できるとする。
次にこれらの紙木文書の年代については、最も早いのは魏の最後の皇帝である元帝の景元4年(263)の木簡であり、最もおそいのは前涼の建興18年(330)の木簡である。この約70年の間で紙木を通じて最も多くあらわれるのは西晋の武帝の泰始という年号(265-274)であり、無年号の文書も大体これに準ずるものと森は推測している。建興18年の木簡(図3の18)が出現したことによって、前涼国では西晋の滅亡した後も、西晋最後の年号をひきつづいて使用していた事実が知られている。
次にこれら文書を通じて、楼蘭本城が西域長史の治所であったことが知られる。楼蘭を通過する新中道が復活したことの背景には、楼蘭が西域長史の治所として西域経営の中心になったことを森は想像している。そして楼蘭に西域長史がおかれたのは魏の時代のことであり、西晋、前涼にひきつがれたと推測している。前涼時代の西域長史として史上に名をとどめているのは前涼張駿時代の李柏があるのみであるが、前涼に相当数の西域長史があったという。西域出土の魏晋書蹟はほとんどが楼蘭から出土しているために、森はもっぱら楼蘭について話を進めてきた。ただ南道のホータン(于闐)などからも魏晋時代と思われる木簡がスタインによって発見されており、北道のトゥルファンからも晋代の写経(図121, 122)が大谷探検隊によって発掘されている。この時代の史実が明らかにされ、書法の歴史についても、より正確に知られることを森は期待している(森、12頁~18頁)。

天發神讖碑について 外山軍治
280年、呉は晋のために攻め滅ぼされたが、「天發神讖碑」(図77-82)が立てられたのは、呉の滅亡より4年前の天璽元年(276)で、「封禅国山碑」(図83)と同様に、讖緯説の所産にほかならない。予言を重んじる迷信的な思想に過ぎない讖緯説は前漢の中頃より後漢にかけて盛行し、三国時代に入っても依然行われていた。
さて、「天發神讖碑」を立てた経緯は次のようである。天璽元年の前年である天冊元年(275)、呉郡(浙江省)から呉帝のもとへ、漢末から塞がれていた臨平湖が今年になって開流するようになった、という報告が届いた。そして次のように言い添えてあった。「古老の言によりますと、この湖が塞がれば天下が乱れ、この湖が開けば天下が平和になるといい伝えております。近ごろこれというわけもなく、突然また開流いたしました。これは天下がまさに平和になり、青蓋、洛陽に入る祥であります」と。青蓋とは王車の意で、前年術者に天下の形勢を占わせたところ、庚子の歳に青蓋まさに洛陽に入るべしと言った。すなわち、晋を平定し、天下を統一すべき皇帝としてその都にのりこむことができる、という予言であった。臨平湖の開流はこれに応ずる祥瑞だというわけである。祥瑞はなお続き、ある人が臨平湖辺で、呉真皇帝と刻した小石を手に入れて献上した。そこで呉帝は大赦し、天璽と改元し、そして呉の功徳をのべるために「天發神讖碑」を立てたという。呉真皇帝という文字の刻された小石を天璽とみたわけである。「天發神讖碑」とは、天から下されたおつげという意味である。
このように立碑の事情から神怪不思議なものを含んでいるが、この碑については判らないことが多い。何しろ、清の嘉慶10年(1805)火災にあって、原石が消滅しているので、その形状がはっきりしない。拓本が少なく、あっても磨泐した個所が多くて判読が困難である。初め立てられた場所もはっきりしないし、書人の名も判らない。それで、この碑全体が神秘のヴェールにおおわれた感じになっているが、これがこの碑の特徴ある書体への興味と相俟って、多くの人々の研究対象になってきた理由である。
この碑に関する文献で、もっとも完備したものは、清の康煕年間(1662-1722)に書かれた周在浚の「天發神讖碑考」であり、これを一歩進めたのは羅振玉の「天發神讖文補考」である。そこで、外山はこれらを参考にしながら、この碑の問題点を解明しようとしている。
まず立碑の時期であるが、碑の中に天璽元年(276)桼月(7月)また8月云々の文字がみえるから、天璽元年8月、あるいはそれ以降に立てられたものと外山は考えている。立碑の場所に関しては、もっとも古い記録は、晋の山謙之の「丹陽記」で、もと秣陵県南30里の巌山にあったという。このほか、唐の許嵩の「建康実録」の注に、県南40里の龍山下にあったというが、この龍山は巌山の改称のようだ。巌山説を一番信用すべきで、秣陵県は今の南京の東南にあたる。
その後、この碑は立碑の場所を離れ、これを再発見したのは北宋人である。碑額に三つの題記が刻されているが、その一つである北宋元祐6年(1091)転運副使胡宗師の題記によると、彼は江寧府南の天禧門外でこれを発見した。そして転運使司の後庭の籌思亭に輦置して保護を加えて、その後府学に移され、明の嘉靖年間(1522-1566)には明徳堂の後の尊経閣下におかれ、ここで火にあったようだ。
「天發神讖碑」はまた「三段碑」とも呼ばれる。それは碑が折れて三段になっていることから生じた称呼である。既に山謙之の「丹陽記」に、碑が折れて三段になっていることを指摘している。三段になった原因を、碑が折れたためであるとする考えは、晋宋以来ひきつづいて行われてきた。周在浚は江寧府学明徳堂後の尊経閣下にあった碑の形状を記し、はじめて三段を聯読して解読することができた。これは彼の功績で、天發神讖碑の研究はここに一応の完成をみた。
さらに羅振玉は、周在浚の研究の上に自らの構想を打ち立てた。「天發神讖碑」は三つに折れたのではなく、初めから三石を積み重ねて、それに刻したという新説を出した。外山はこの羅振玉の説を大変面白く十分な説得力をもっていると評している。
ところで、晋の張勃の「呉録」ではこの碑の撰者を華覈、書人を皇象であると考えている。皇象は呉の書人として知られているが、その書が他に伝わっていない。それで、これこそ皇象の書だと考えようとした人もいるが、外山はやはり皇象とするには無理があるとみている。その他、「封禅国山碑」と同じく蘇建の書、また朱育の書とする人もあるが、確証がなく、書人不明というよりほかないと外山はみている。
さてこの碑の書については、その一種奇古な書風が人々の興味をひいた。この書は篆、隷の間にあり、とか、篆にあらず隷にあらず、とか、篆にして隷を兼ぬ、とか、また篆多く隷少なきもの、とか言われているように、篆書的な曲線と隷書的な直線とが並存している。この点では、後漢の元和4年(117)の「祀三公山碑」に通ずるものがある。このような書体は、隷筆をもって篆書を書いた結果でき上がったものだと考えている人が多いが外山もこの説に賛同している。つまり隷書通行の時代に、ある意図をもって書かれた篆書であろうとみる。ある意図とは、天のおつげを書くにふさわしく、神秘的な効果を出そうとしたことである。それには当時世間に行われている書と同じではなく、それで通行の隷書よりも古い書体がえらばれ、このような何か気どったところのある、かわった書ができ、その意図はかなり成功していると外山はみている。
「天發神讖碑」は同じ年に刻された「封禅国山碑」とともに、呉の石刻を代表するものであるが、後世にもかなり大きな影響を与えている。楊守敬は「平碑記」の中に、鄧完白の篆書もこの碑と「三公山碑」から出ていることを指摘している。また古怪な書をもって聞えた金農も「天發神讖碑」の影響をうけているといわれる(外山、19頁~23頁)。

鐘繇について    中田勇次郎
書体がもっとも大きな変動を来したのは漢末から魏晋にかけての、篆隷から楷行草への移行であった。八分の隷法が次第に退化して、楷書に変じていくとともに、楷書を更にやわらかくした行書が形成された。草書においても、漢代以来の章草がすたれて、新しく今草の美しさを完成していこうとする。このような時代にあって、もっとも書をよくし、またもっとも指導的地位にあったのが、鐘繇である。
鐘繇はあざなは元常といい、潁川郡長社県(河南省許昌県)の人である。もと墓碑があったことが宋代の記録に見えているが、今は伝わっていない。その伝記は『三国志魏志』巻13に見えている。彼ははじめ漢王朝につかえて、尚書僕射となり、東武亭侯に封ぜられたが、魏の太祖曹操に従って魏王朝の建国に功労があり、魏につかえて宰相となった。明帝のとき、定陵侯に封ぜられ、太傅を授けられ、太和4年(230)、80歳で没した。いわば魏の功臣の一人である。しかし、彼が書にたくみであったということは本伝には少しも記されていない。
けれども同じく『魏志』巻11の管寧伝には、胡昭は史書(隷書をいう)をよくし、鐘繇、邯鄲淳、衛覬、韋誕とともに、並びに名があり、尺牘の手蹟は時として模範とされたといっているから、正史においても彼に書名があったことを認めていないわけではない。ただ、彼は元来立派な大官であって、書はただそのたしなみの一つにすぎず、それによって彼の履歴のすべてをおおうことのできるものではない。
ところが鐘繇は後世政治家としてよりも書家としての名が高くなったため、正史の他にも書家としての俗伝がある。晋の虞喜の『志林』(「重較説郛」巻59)によると、鐘繇はある時韋誕のところで、蔡邕の筆法を見て、ねんごろにそれを求めたけれども、与えられなかった。そこで彼は胸を搥って血をはいて自殺を図った。太祖(魏の武帝、曹操)は五霊丹をのませて命を救った。韋誕が死んでから、鐘繇は密にその墓をあばいてその秘伝を手に入れたという。『太平広記』巻206にも、鐘繇が若い時、劉勝に従って抱犢山に入り、書を学ぶこと3年、ついに魏太祖、邯鄲淳、韋誕などと用筆を論じたとある。
これらはほとんどすべて伝説的なもので、鐘繇の事蹟としては信ずるに足らないと中田はみなしている。このような創始の人に苦心談がともなうことは漢の張芝が池に臨んで池水がみな黒くなったというのと同じことで、書の大家を美化した作り話にすぎないと中田は解説している。
鐘繇の作った文章として知られているのは、主として『魏志』に伝えられている書疏のたぐいと、法帖によって残されている上表と書簡文だけである。鐘繇の在世した漢末魏初の頃は、一時文学の栄えた時で、魏武帝および文帝をめぐって、いわゆる建安の七子たちが互いに詩文の応酬をした。このことは文学の歴史の上でも著名な事実であるという。鐘繇には魏武帝や文帝との書簡の往来のあったことは文献によって知られるけれども、彼自身の作ったこういう関係の詩文は何も残されていない。鐘繇のあらわしたものとしては「周易訓」「老子訓」「筆勢図」があったことが姚振宗の「三国芸文志」に見えているが、いずれも今日は見られない。また晋の衛恆の「四体書勢」の中にある隷書勢が、唐の徐堅の編した「初学記」巻21に、鐘繇の作として引用されている。
結局、鐘繇の著述として比較的確かなのは、「書疏」と「上表」のたぐい(「全三国文」巻24)であるが、このようなものが伝えられているということは、単に史料としてだけではなく、彼がこれを作り、またこれを書写するのにたくみであったからではないかと中田は推測している。そしてこれは鐘繇の書がその在世当時においても、世の人々にもてはやされていたであろうとしている。
文献の上で鐘繇の書に関する記事が残されているのは、西晋時代からはじまるという。衛恆の「四体書勢」の隷書勢の条に、魏のはじめ、鐘繇と胡昭の二家があり、行書の法をよくした。いずれも劉徳昇に学び、鐘はいくらか異なっていた。しかしおのおの技巧をそなえて、今の世に盛んに行われているという。
斉の王僧虔の「古来能書人名」にも、潁川の鐘繇は魏の太尉、同郡の胡昭は公車徴で、この二子はともに劉徳昇に学んだ。そして胡の書は肥え、鐘の書は痩せていたという。梁の庾肩吾の「書品」にも、劉徳昇のよいところは、鐘と胡がおのおのその美点を採り入れたといい、また胡は肥えて鐘は痩せているという。
いずれも鐘繇が漢末の行書の名家として知られた劉徳昇に学んで、同郷の胡昭とならび称せられていたことを説いている。そしてその特色としては鐘は線が細く痩せているが、胡は太く肥えていることをあげている。
東晋になると、陸玩(278-341)は筆力が痩硬で、鐘繇の法があったことが『宣和書譜』巻7に見え、王濛(309-341)は隷書は鐘繇を法とし、状貌は似ていたが、筋骨は備わっていなかったということが「書断」に見えている。
衛夫人(鑠)は鐘繇の法をよくし、王羲之の師となった人であるということが「古来能書人名」に見え、王廙は章楷をよくし、謹んで鐘繇の法を伝えたということが、同じく「古来能書人名」に見えている。そしてこの人もまた王羲之の師であったことは庾肩吾の「書品」や王僧虔の「論書」にも記されている。
要するに、西晋では鐘繇は胡昭とならび称せられていたが、東晋になると胡昭の名はあまり聞えなくなるようである。
『宣和書譜』巻7の説によると、この二人は同じく劉徳昇の門から出て行書をよくしたのであるが、胡昭は用筆が肥重であり、鐘繇の痩勁に及ばなかったので、胡昭が没してからは名があがらず、ひとり鐘繇だけが行書であらわれるようになったという。この説のように、東晋になってからは胡昭の名は聞えなくなり、鐘繇だけが称せられている。
東晋の王羲之は書の上ではもっとも重要な人物であるが、これも衛夫人や王廙について鐘繇の法を学び、またみずから鐘の遺蹟についても得るところがあったようだ。しかし、本来王の学び方は今までの名家の書を集めて大成することにあったと中田はみている。王が学んだのは、鐘繇においては隷書であり、それとは別に草書では張芝を学び、この二家の長所を取り入れて善を尽くし美を尽くし、従来の古い書風を新しいものに切りかえた。
こうして王が出てから後は、鐘法がすたれて王書が流行するようになった。王羲之の子の王献之になると、父の書風に逸気を加えて、いくらかそのすがたが変化した。王羲之父子の書風はその後南朝の宋、斉、梁の貴族たちの間にもっぱら流行した。しかし鐘繇のすぐれた隷書の名家としての地位はゆるぐことなく継続されていた。南朝の名家で鐘繇の古い筆意を学ぶものは幾人かを見出すことができる。王家の一族の王僧虔の楷書、例えば「太子舎人帖」などにも鐘法がうかがわれ、蕭子雲が鐘繇を学んでいることは鐘繇と王羲之に效って少し字体を変じたとみずから言っている言葉によっても知られるし、その書として伝存する「列子」もやはり鐘法と見てよいものである。
梁武帝には鐘繇の書法十二意を観るという文章があり、いわゆる鐘法の技法が知られる。また梁武帝と陶弘景の応答の「書論」にも、陶弘景が当時江東においては鐘の真蹟が絶滅してしまったので、せめて模本でもよいから見たいと申し出ることが記されている。梁の簡文帝も鐘繇を慕ったことが「述書賦」に見えている。梁の周興嗣の千字文にも「杜藁鐘隷」という句があり、漢の杜度の草書に対して鐘繇の隷書が重んじられていたことがわかる。
このように南朝においても鐘繇は広く重んぜられていたが、それが実際どのように評価されていたかは、その当時の書の品第によって更によくうかがうことができる。
梁の庾肩吾の「書品」においては、古今の書を品第するに当って、張芝と鐘繇と王羲之の三人を上の上の位におき、張は工夫は第一であって天然はこれに次ぎ、鐘は天然は第一であって工夫はこれに次ぎ、王は工夫は張に及ばないが天然はそれ以上であり、天然は鐘に及ばないが工夫はそれ以上であるといっている。これによると、張は精神よりも技巧にすぐれていたのに対し、鐘は技巧よりも精神にすぐれていた。そして王は張と鐘の長所をよくとり入れて、中和をえていたことがわかる。
また、王羲之が書を論じた言葉として、私の書を鐘と張に比べる時は、鐘は抗行することができる。あるいはそれ以上に出られるかもしれない。張の草書はまだ雁行することができるといい、また昔の書の中では鐘と張はもとより絶倫である。その他のものは少しましな程度で、気にとめるには足らない。この二人をおいては自分の書がこれに次ぐという。この言葉は唐の孫過庭の「書譜」にもほぼ同じ意味の文章が引かれていて、古くから王のものとして知られている。これは王の立場から張・鐘二家の優劣を論じたもので、鐘の王に対する比重をよく示している。
梁武帝の言葉に、王羲之は鐘繇を学ぶ時には、字勢が巧妙に、字形が密になるが、自運するとなると、筆意が疎略に、字形が緩になったといい、また王献之が王羲之に及ばないのは王羲之が鐘繇に及ばないようなものであるという。これは王が鐘を学んでもその精妙さに至らなかったことを述べたもので、王より鐘の方が高く評価されていたことがこれによって知られる。
南朝人は書を自然現象になぞらえて鑑賞する。今、梁の武帝の「書評」の中から、張、鐘、王三家の書を品評した言葉をとりあげてみると、張については、漢の武帝が道を愛し、虚(そら)によって仙化しようとするごとくであるといい、鐘については雲鵠が天に飛び、群鴻が海に戯れるようで、行間が茂密で、まことにこれ以上に出ることは難しいといい、王については字勢が雄逸で、龍が天門に跳り、虎が鳳閣に臥するようであるという。張は草書のたくみなすがたが神仙のように縹渺とした風韻を帯びていることを形容したもののようである。
鐘は隷書の字画の構成がたくみによく組み合わせられ、筆勢の生動するさまがいかにも翩翻として巧妙であることを形容した。たとえを飛鳥にとっているのは、筆法に八分の隷意があったことを意味するのかと中田は想像している。王は字勢が雄大で、逸気のあることを龍虎にたとえたもので、威風堂々として渾成されたすがたが想像される。梁の袁昂の「古今書評」に、張を驚奇といい、鐘を特絶といい、王を鼎能といっているのも、これとほぼ同様で、張の草書の軽妙さ、鐘の隷書の精巧さに、王の二者を調和した各体における完成された美しさを述べているものと中田は解釈している。
このように南朝において、書の第一等の人物として考えられていたのは、張芝、鐘繇、王羲之の三家であり、張は草書、鐘は隷書にすぐれ、王はこの二つを兼ねていた。したがって鐘は三家の中では隷書においてもっとも傑出し、その書の技巧よりも精神においてすぐれているのが特色であった。
王僧虔の言葉に、書の妙道は神彩を上とし、形質はこれに次ぐ、これを兼ねるものこそ古人に紹ぐことができるという。鐘の書は要するにこの神彩においてすぐれた書であるということができるとする。
魏の文帝の「典論」の中に文章を論じて、文は気をもって主となすといった有名な言葉は、精妙な技巧の上に強い気象を盛り上げたと思われる鐘の書についてもいいうると中田はみている。
以上によって、南朝における鐘繇の評価とその位置の大略を中田は示したが、次に鐘繇の作品について考えている。
鐘繇は三つの書体をよくしたといわれる。すなわち、「古来能書人名」によると、銘石の書はもっともすぐれたものである。章程書は秘書に伝え小学に教えるものである。行狎書は相聞するものであるという。
第一の銘石の書は、碑銘にもちいる書体のことで、八分をさすと中田はいう。鐘繇は漢末から魏の初めまで生存した人で、その生涯の大半は漢代にすごしている。その当時の書体から考えるならば、まだ八分の隷法が流行していた時代である。例えば、「曹全碑」(2巻図118, 119)は西紀185年、「張遷碑」(2巻図120, 121)は186年の作であり、魏の初めの黄初元年(220)とわずかに30年ほどのへだたりにすぎない。鐘繇の生存した時代はまだ漢末の八分の最盛期に接近しているのであるから、彼が八分をよくしたという言葉はきわめて自然である。
「書品」には許昌の碑を妙尽し、鄴下の牘を窮極するとある。これは鐘繇が碑と尺牘をよくしたことを述べたものである。許昌の碑とは、河南許昌にある碑という意味で、具体的には「公卿上尊号奏」(図55, 56)と「受禅碑」(図57, 58)、またはそのいずれかを指すという。
王羲之の作と伝える衛夫人の「筆陣図」の後に題するという文章の中にも、鐘公の太山の銘および魏文帝、「受禅碑」の中に八分の一法があるといい、許下にゆき、鐘繇と梁鵠の書を見たという。この文は唐人あたりの偽作らしいが、やはり彼の碑について述べたもので、その中に許昌の二碑をとりあげている。
これらから考えてみると、彼のもっとも上手であった銘石の書、すなわち八分としては南朝からこのかた「公卿上尊号奏」と「受禅碑」を目標としていると中田は解釈している。
この二碑の書が鐘繇の手になるかどうかはしばらくおくとして、鐘繇の八分としてはこの許昌の二碑のようなものを想像しておいても大差はないと中田はみている。
第二の章程書というのは、上奏文とか法令の公文書や記録に用いる書体のことで、秘書官に授けたり、児童を教育したりする正式の実用体と解される。張懐瓘はこれを八分としている。後世この説に従っている者もあるが、八分は銘石の書に当たるから、これは八分をもう少し実用化した、今日のいわゆる楷書に相当するものであろうと中田はみている。
「古来能書人名」に、晋の王廙が章楷をよくし、謹んで鐘法を伝えたという。現存する王廙の書としては、『淳化閣帖』などに二表が刻されている。その書体は鐘の「宣示表」(図107-110)などと全く同様であり、これはやはり鐘法で書いたものと中田はみている。そしてここに章楷といっているのは、章程書と解してよいとする。したがって章程書というのは「宣示表」のたぐいの書体を意味するものとみている。
第三の行狎書は相聞すなわち書簡にもちいる書体をいう。梁の庾元威の「論書」の中に、宋の宗炳の作った九体書をあげており、その中に行狎書がある。その体は行書であるが同じ行書といっても色々な書法があるわけであるから、鐘の場合にはその特有の行書の体があったと中田は推測している。本来鐘繇は胡昭とともに劉徳昇から行書を学んだことになっており、張懐瓘の「書断」では鐘繇の行書を王羲之、王献之、張芝とともに神品四人の中に入れているが、この書体の実際を知ることは困難である。
以上、三つの書体は要するに八分、隷(今隷、楷書)、行の三体と解してよいとする。鐘繇の書いたこの三体の書はいずれも南朝を通じて鑑賞されたのであろうが、この中でも八分は既に漢隷に模範があるから、それよりも近代性のある隷、行の方に人々が注目し、王羲之などの新書風もこの面から出てきたものと中田はみている。
また隷、行の中でも、隷書の方がすぐれていたらしく、鐘繇の「宣示表」のたぐいのものが王羲之の臨書を通じて世に残されて、鐘繇の八分よりも隷書が代表的なものとされるようになった。
西晋から東晋へかけて、北方民族の圧迫を受けて江南に逃れた漢人たちは、争乱の中にあっても鐘繇の書を袖中にしのばせていたという。南朝において鐘繇の遺品が少なかったにもかかわらず、その影響するところは上述したように多大であった。一方、北方民族の間においても、漢人によって鐘法が伝えられた。崔悦や盧諶の二人は鐘法をよくしたが、のちに羯族の後趙に仕えている。また中央アジアから発見された文書の一つの焉耆の玄の尺牘(図6の1)はいわゆる鐘法とよばれる筆法とすこぶる類似している。降って北魏の洛陽に遷都してから後つくられた多くの墓誌に、楷書の優秀なものがあり、勁健でしかも自然の風神をえた書風はかつての鐘法へのつながりをもっていると中田はみている。例えば、「司馬昞墓誌」などは全く鐘法に範を取っているという。
隋唐時代は南北朝の楷書を清算して、新しい美しさを完成したが、隋代にはまだ鐘法の名残をとどめている。例えば「美人董氏墓誌」がそれである。そして欧陽詢と虞世南の法があらわれてからは、もはや鐘法は行われなくなって、もっぱら唐楷の世界となった。唐代は王羲之を貴んだ。鐘書の流伝も少なく、わずかな臨本によって鑑賞していたらしく、鐘繇の書を論ずるにはただその隷書をよいとした。唐太宗、虞世南などにもその説があり、張懐瓘の「書断」にも隷書を第一として八分の上におき、李嗣真の「書後品」にも正書をとり逸品五人の中に入れている。しかしこの時代の書人の中で鐘法を学んだといわれている人はきわめて稀である。
宋代の初めに『淳化閣帖』が刻されてから、書の歴史と分野が概括的にまとめられて、広く世に認識されるようになった。それとともに書に関する学問的研究がようやく深くなってきて、古法帖に対する批判がきびしくなり、唐以来の二王におけるほとんど盲目的な崇拝の熱情がさめて、新しく王書への反省がなされてきた。王よりさらにすぐれたものとして鐘繇を求める気運が次第に生じてきた。北宋から南宋にかけて、そういう人々が現れ、蘇軾の行楷には王僧虔に似たものがあり、その書風は二王よりも鐘に近づいていると中田はみる。その門に出た黄庭堅も鐘繇の小字を善くしたとみずからいっている。
明代になって法帖の趣味が流行するに伴い、集帖の中に鐘繇の法書が多数刻された。「関内侯薦季直表」(図111, 112)、「賀捷表」(図113)、「力命表」、「墓田丙舎帖」(図114)がそれである。これによって鐘繇の輪郭が益々明らかに形成された。文人の中には特に好んで、このような鐘法を習う者もあった。例えば、祝允明などは小楷において鐘法をもっとも学んだ一人で、その「出師表」をみると、その当時の鐘法というものがどのように理解されていたかがわかる。要するに王羲之以前の楷書として、その妍媚繊巧のすがたのない高古純朴な書風が喜ばれた。
鐘繇はその長い歴史の上において、三度の変遷をへたと中田はいう。つまり①鐘繇の在世時代と、②王羲之が学ぶようになってから以後唐代までと、③宋の閣帖に刻されてから以後との三段階においてそれぞれその実質と見方が変わってきた。本来在世当時は主として八分の名手であったのが、王羲之以後は楷書によって名をあげ、それが宋代において法帖に刻されてから以後は、また一種の法帖としての鐘法の美しさを生み出して多くの後世の文人たちの好尚に投じた。今日我々の考える鐘繇は宋以後の法帖によってつくりあげられた鐘繇であってそれなりに一つの書芸術の佳境にまで到達している。しかし六朝における実際の書論とは合致しないものがあると中田はいう。本当の鐘繇というものは六朝時代の色々な書論に見えるように、技巧にもすぐれているが、さらに精神においてより一層すぐれており、そのすがたは雲鵠の天に遊び、群鴻の海に戯れるごとく、結体も緊密で、筆勢も潑剌として躍動していたとみる。
鐘繇の生きた漢魏のころは英雄豪傑が天下を睥睨した時代であり、その特質は豪快な気象のあらわれにあったから、鐘繇の書にも精神力の強さと鋭さにおいて、きびしいものがあったにちがいないと中田はみる。つまり法帖に見られるようなただ単に淳古という書風だけではなかったというのである。遺憾なことには、古来その書蹟の伝わるものが稀で、今日その信頼しうるものが残っていないことであるが、本当の鐘繇のすがたを理解するには、このような特性を念頭においていなければならないと中田は主張している(中田、24頁~32頁)。



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