《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その2中国2》
2中国2 漢
「第2巻中国2漢」には、秦の滅亡(前206年)から漢の滅亡(220年)に至るまで、すなわち前漢、新、後漢にわたる425年間の書蹟を収めている。
中国書道史2 神田喜一郎
中国において実質的に書道の歴史というものが考えられるようになるのは漢代からである。漢代になると、文字の書体がようやく安定するとともに、書の技法が発達し、専門の書家がはじめて世にあらわれて、書の芸術性が認識されるようになった。ここに中国の書道の歴史が本当の意味において成立する。漢代は中国書道史の第一歩を踏み出す、最も意義のある時期にあたっていると神田喜一郎は捉えている。
とりわけ後漢末葉の桓帝、霊帝の時には、その文化が最も爛熟の極に達し、漢代の書道もこの二帝の朝において、その最も華やかな様相を呈するにいたった。
ところで、文字はそれぞれの時代において時代の性格をあらわした体を備えている。殷王朝の甲骨文、周王朝の金文、東周の末期における六国の古文、秦の籒文(ちゅうぶん、大篆)があった。
そして秦において、政策の上に文字の統一を取り上げて、秦の大篆をもとにして小篆を定めた。ここにおいて、一応文字の体に一定の規準がつくられたが、さらに実用に適したところの、身分の低い官吏が事務にもちいるにふさわしい別の体が生じた。いわゆる隷書がそれである。
前漢の王朝は中国の書の歴史からいうと、ほとんど暗黒時代で、徴すべき資料が乏しいが、ただ小篆がそれよりも簡便な隷書に移りゆきつつあった。こうして篆書が次第に実用の世界から駆逐されて隷書がその席を占め、両漢を通じてひろく使用されるようになった。
後漢の末葉になって、はじめて古代型の篆隷から近代型の楷行草が脱化してくる。石碑にかかれた隷書は、多くはいわゆる八分の隷法をそなえた模範的な整った字体をなしているが、実用的に隷書をかく場合には、このような隷法をさらに簡略化して、のちの楷書に近い字体にかくような傾向をもつようになった。
この傾向がすでにこの時代に行われたことは、木簡の文字によっても知ることができるが、石碑においても流麗なものから方整なものへ移行してゆく傾向を示した。この傾向によって、後漢の末葉の頃に楷書が生まれたものと神田は推定している。しかし楷書といい、行書といってもこの頃まではまだ楷書とか行書とか独立した書体があったのではなく、このような書体が事実上成立するのは、むしろ次の三国魏以後であるとみている。
楷書が隷書から脱化したのより古く、すでに前漢の時代からおこってきた字体に草書がある。普通に考えられるところでは、隷書から楷書が生まれ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたとされているが、この考え方は明らかに誤謬であると釘をさしている。草書は篆隷から生まれたもので、決して行書から生まれたものではない。いったい草書とは、急ぎの場合に書く字体の意味であって、篆書や隷書を簡略化してかいたものである。したがって、草書は、篆書がまだ行われており、しかも一方では隷書がすでに繁雑視されてきた、そういう時代の産物である。そして『説文解字』の序文に「漢おこって草書あり」と称しているのはもっともと思われると神田は述べている。
資料的には、前漢時代の簡牘の中にすでに当時の草書らしいものが見えるが、その当時はまだ草書という一つの字体が確立されるまでには至らず、多くは草書と隷書とをまじえて書いている。それが一つの字体として確立したのは、おそらく後漢になってからと推測している。ただ、このようにして後漢あたりから行われた草書は、普通の草書とは異なり、章草といって、一字ずつ離して書いたものである。章草という名称の由来については色々と異説が立てられている。例えば、臣下が天子に奉る章奏に用いた字体であるからこのように名づけられたとか、あるいはまた後漢の章帝が発明した字体であるとかがある(神田はいずれが正しいか、よくわからないという)。この章草は、その後、幾字かを連ねてかく草書、すなわち連綿草に変化していった。これが我々が普通に草書といっているもののことであり、またこれを今草という(神田、1頁~12頁)。
漢鏡とその文字 梅原末治
古鏡の銘は、文字を重んずる中国では殷、周の尊彝の款識につづく漢代金文の一つとして、古くから知られている。このことは宋代の「博古図録」において、夙に注目されたところである。そして清朝になると、古銅器の文字と並んで、漢鏡の銘文に関するすぐれた考察がその時代の金文学者によってなされた。もっとも鏡そのものの沿革については、早くから前漢より六朝までの数百年間のものを一括して漢鏡として取扱ってきたために、時代による鏡式の変遷を通じての文字の性質などについては、顧みられるところが少なかった。この鏡式の発展こそは、20世紀になって、日本の学者の手で新たに解明された分野であるという。
古くから知られた漢鏡は、その前漢代のものには、虺(き)龍形を主文とする鏡式や、それから発展したと認められる百乳星雲鏡や弧文帯を主な意匠とした鏡式となり、また蟠螭鏡の流れを受けてそれの渦文化した鏡など、前代の鏡式につづく類も見られる。だが、いずれも鏡体が円く、背文は鈕を中心にして縁に至る間の帯圏が多くなり、その間に意匠された構図が、円い鏡の図文として間然するところのないものとなっており、うちに文字を表わしていることが著しい特徴であるという。
そしてこの文字は、時には構図のうちに図文的に布置されているものもあるが、その多くでは、銘文を主とした帯圏があって、前漢代の鏡式の中には、これが意匠の主要な部分を構成しているものさえある。
鏡背に文字(特に銘文)をいれた帯のある古い鏡式としては、今日では蟠螭鏡のある種のものが挙げられる。帯圏を加えたこの種の蟠螭鏡としては、安徽省寿県から出土した遺品が最初に注意された。その銘文を見ると、「大楽貴富。千秋萬歳。宜酒食。脩相思。愼毋相忘」(図20)とある。短い文ではあるが、書体もいわゆる秦篆である。寿県から出たこの種の鏡の銘文には、本来「長相思」とあるべきところを、長の文字を諱んで、この例に見られるように、「脩相思」に作ったものがある。これは「長」という字が前漢の初期にその地、すなわち当時の寿春に都した淮南王劉安(165-122B.C.)の父の名であるので、それを諱んで「脩」としたものである。そうするとこの種の銘のある蟠螭鏡は、淮南王劉安の代のものであり、蟠螭鏡中での時代の下る鏡式であることが知られると梅原は解説している。
さて、同じ前漢代の銘文では、四方に一つずつの虺形を大きく写した鏡式の鈕を繞って設けられた方格のうちに、3字ないし4字句から成る文をいれたのがある。また縁が内行花文(連弧文)で、主文が乳と一種の葉文から成るいわゆる方格四乳葉文鏡にも同じ銘文を表わした例が多い(図22、23)。これらにあっては、その文字の篆書の体がかなり意匠化された目立ったものとなっている。
古くから中国で日光鏡ないし精白鏡の名で呼ばれてきた前漢代のこの鏡式は、その称呼の示すように、銘帯が意匠の重要な部分をしていて、遺例も多く当代広く行われたものである。その背文は概ね鈕を繞って内行花文(連弧文)の帯があって、これと縁との間に角張った一種の篆書の銘文を配してある。この文字の体が呉の「天發神讖碑」に似通っているというので、中国では従来三国から晋代の鏡と見られてきたが、銘文の簡単なものにあっては、「見日之光、天下大明」とあるものをはじめ、長い整った文章が目立って多い。そしてその文字は隷体となっている。
さらにこの種の鏡式では、内行花文帯に代えて、その部分をも銘帯としたのが、いわゆる重圏精白鏡である(挿22)。それにはまた書体の上で差異のある優れたものが並び存して、小さな鏡背の上に、当代書道の造詣の表われを見ることができる(図24-26)。同種の鏡式は、王莽から後漢のはじめにも、書体に柔らか味を加えながらも行われた。
以上のような、銘文が鏡背文の重要な部分をなして文章、書体ともに優れた前漢代の鏡式についで、同代の終わりに近くなると、そのあるものの構図を承けながら、背文として
新たな意匠を示すのがある。いわゆる方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡とがそれである。ことに前者が目立って漢代の鏡を特色づけるという。方格四神鏡は、背文の構成の上で四乳葉文鏡と似たところはあるが、内区に線表出で絵画的な青龍、白虎、玄武、朱雀なる四神形を布置するとともに、鈕を繞る方格内に十二支の文字を表わしていて、その構図は思想的な内容を示した複雑なもので、それを繞る銘帯の文字がまたその構図と相応ずる(挿24)。
なお同種の鏡の銘文には、「上大(泰)山見仙人」という神仙の思想を端的に示した句ではじまるものもある。文章はほとんどすべてが7字句の整ったもので、また書の体も細手で篆体より隷書に近い。この点は、銘帯があまり目立たないこととともに、上記前漢の諸鏡とは余程違う。
ところで銘文には、漢の官工たる尚方で作ったことを明記したものもあり、他にも漢における銅の産地を記した点で公的な意味を示している。そうすると、このような構図の鏡が前漢の後期に官工で新たな意匠として作られたことになる。その背景として、武帝による漢国家の充実に伴い、その理念とした思想が強くはたらいて、それが鏡文の上に表われるに至ったと梅原は推測している。
漢室を簒奪した王莽の時代の鏡は、その治世が一時的であったにもかかわらず、王莽鏡として、その名が高い。この王莽の鏡は、鏡式そのものとしては、前漢末に出来上がった方格四神鏡、獣帯鏡と少しも違っていないが、その銘文に、時代を明示するものや、自家の功業を誇示するものもあるところに特色がある。すなわち、前代の鏡における「漢に善銅有って丹陽に出ず」とある「漢」に代えるに自家の建てた「新」なる国号をもってし(図32)、また漢の尚方官工の作鏡に代えるに、初めに自家の姓たる「王氏の作竟」たることを示し、また「多賀国家」の句の「国家」を「新家」としたごときである。
「新興辟廱建明堂。然于挙土列侯王。将軍令尹民所行。諸生萬舎在北方」とあり、特殊な事実を記した銘文である(図33)。これは『前漢書』王莽伝の元始4年(4)の条に見える記事と相応ずるものである。同種の銘文では、いま上海文物保管委員会にある一鏡が特に著しい(図29)。その背文の構図は方格でなくて、円圏の間に主文を配したいわゆる獣帯鏡であるが、縁の近くにある銘文は奇古の趣を示す篆体で書かれ、始建国2年(10)なる紀年から始まる51字から成る。
再び漢室となった後漢の官工での作鏡が、もとの銘文に返ったことはいうまでもなく、その鏡式は方格四神鏡や長宜子孫内行花文鏡であった。それは例えば後者に永平7年(64)の紀年銘を印した鏡のある点などから知られる。しかし時代とともに、他方ではまた新たな意匠の鏡が作られて、それに一方での後漢代の鏡式が見られる。後漢代のこの種の鏡式になると、幸いにもその銘文に年紀を表わした遺品が少なくないので、的確に知ることができる。
さて、これらの諸鏡式で目立つ点は、以前の平面的な背文の表出に対して、肉刻をもってしたものがあること、鏡体においても、鈕から一段高い平縁に至る漢前半のいわば定型的なものから、鏡体断面の複雑化したもののあることと、一方それとは違った全く平面的な類の並び存することであるという。古くから盤龍鏡と呼ばれてきた鏡式、いわゆる環状乳神獣鏡が前者であり、鏡体は平面的であるが、意匠の点で新しい獣首鏡、夔(き)鳳鏡が後者に属するものである。
盤龍鏡は、完好な鈕と一段高い平縁との間に主な図形をいれるという背文の構成の上では
方格四神鏡と異なるところがないが、龍虎の図像が肉刻表出で、鈕を体躯のようにして相向かったものを主文とした点に特色がある。また銘帯も幅が広くなっている。
後漢代の鏡式のうち、獣首鏡と夔鳳鏡とは、鏡体が平面的な点で内行花文鏡に近いが、その構図に特色がある。すなわち二者ともに鈕を繞って四葉形の拡大した糸巻状の図形があり、それで四分したそれぞれに主文をいれ、その外側は縁までの間に内行花文その他の帯圏を配した鏡式である。その主文は、渦雲文をめぐらした正面を向いた獣首であるものと、相向かう目立った夔鳳形であるのとがある。ともに古い銅器の文様中の著しいものをとって鏡背の意匠としたことで一致する。この種の鏡の文字は、長宜子孫内行花文鏡のように、拡大された鈕を繞る区画内に、「長宜子孫」「長生宜子」といった吉祥語をいれているほかに、他の鏡式と同じく、内外両区の間の銘帯にながい主銘がある。
さて獣首鏡の銘帯の文では、その初めに鋳造の年時を記しているものが少なくない。この紀年は後漢桓帝の永寿からはじまって、熹平、光和など後漢代の後半を通じて、魏の甘露5年(260)に及んでいる。現存の夔鳳鏡中の紀年のある永嘉元年(145)鏡の主銘と相似ている(図37)点から、獣首鏡と夔鳳鏡といった両鏡式は後漢での官工で作られた意匠であろうと梅原は推測している。
次に画象鏡は後漢の石祠石闕における画象と同様な表現の図像をもってした鏡式である。この種の鏡は、中国では古くから周仲作の銘のある鏡が著聞し、日本の古墳からも、当時舶載された好例が多く見出されているが、1920年代の後半になって、浙江省紹興で古墳群の掘開があって夥しい遺品が出た。これらからすると、この鏡式での古い型は、大形の鈕を繞って方格があり、また一段高い外区を流雲文で飾るところは、漢盛時の方格四神鏡とその趣を同じくする。しかし他方で、内区にいわゆる規矩形がなくて、四隅に置いた乳で四分された各々に、龍虎形と男女の図像(東王父、西王母なる神仙を表わした)を薄肉凸起の手法で大きく表わし、外区の流雲文が異形縮小化し、縁辺がやや突起して三角縁に近い趣を示すようだ。
さて、画象鏡の銘文中には、東王父、西王母の名が見えて図像と相俟って、その神仙思想が顕著に表われており、また文章の上にもかなりの違いが認められる。また画象鏡には現在鋳造の時代を示す紀年鏡例はなお知られていない。しかし鏡式その他からすると後漢にすぐに行われた鏡式であることはほとんど疑いない。これを銘文の上からするも、日本の大和の佐味田宝塚出土の尚方画象鏡の銘に「保」の字が見えているのは、「保」が順帝の諱であるので、その後の漢の世ではこの字に代えるに「治」の字を用いた点に顧みて、順帝即位の紀元125年以前のものであることを示すものと解釈される。
盤龍画象の両鏡式とは違った肉刻で主文を表わしたものに神獣鏡がある。二神二獣を配したものは、鏡体が盤龍鏡に近い。しかしこの種の鏡式で後漢の紀年のある鏡に割合に数多く見られるのは、いわゆる半円方形帯環状乳神獣鏡である。その鏡式は背面の内外両区の間に新たに半円方形帯を伴う突起を作って、体の断面が複雑になり、内区の神獣の一部が環状様となっている点に特色がある。
鏡式で紀年のある元興元年(105)の遺品が早く銭坫の「鏡銘集録」に著録されており、つづいて延熹2年(159)、永康元年(167)、熹平2年(173)の諸鏡がある。その銘文から、当時の尚方の官工で作られたことを示している。
ところでこの銘文は、同じ尚方作竟でも漢盛期の方格四神鏡が整った7字句の文であるのに較べると、4字句を混えたかなり自在のもので、時代相を示している。そしてこの鏡式は神獣の形は変わっていくが、三国代になって盛んに作られたことは、南方呉の紀年鏡例の示すところである。
肉刻で表出した神獣鏡では、半円方形帯の方格を内区に四獣と交互に配した中平6年(189)の紀年のあるもの(図41)や、翼を持つ神仙像を階段状に並べて、周辺に四霊獣を配したいわゆる重列神獣鏡などがある。その重列神獣鏡は建安元年(196)から、紀年鏡があり、一部三国時代に及んでいる。フリア美術館(ニューヨーク)が蔵する建安7年(202)鏡は、中でも最も優れたものである(挿29)。書体はこの時代としては珍しい方形化の目立つ隷体で、前漢の精白鏡に似通いながら、また別個な風格がある。
要するに、後漢時代の諸鏡式は、これを銘文から見ると、前漢の末に出来上がった方格四獣鏡のそれを承けながら、同じ尚方の官工では新たに夔鳳、獣首の両鏡、画象鏡、半円方形帯環状乳神獣鏡などが次第に作られて、これらの意匠が行われた。そして銘文は7字句の文章より、必ずしもそれにこだわらないものから、4字の対句のものが多くなっており、またそれに東王父、西王母の神仙思想が顕著な表われを見るのである。なお漢盛時の尚方官工のもののほかに、早く王莽が魁をなした何某氏作竟ではじまる銘文例が多いことが注意される。それは盤龍鏡銘に著しく、やがて本来尚方作竟の画象鏡その他の鏡式においても多きを占める。これはもと官工の手に成ったものが、時代の進むとともに、貴族の抬頭するに従って、鋳鏡の上にもそれが反映したものとして興味深いという。もっともこのように各地で鋳鏡が行われたために、その銘文や書体は、前漢代における篆書から王莽代に見る隷書として整った書体に較べると、その流れを受けながらも、自由にまた簡単に工人の手で書かれたものが多いと梅原は要約している(梅原、13頁~21頁)。
漢晋の木簡 森鹿三
紙が発明される以前、中国では書写の材料として竹帛が用いられた。が、帛すなわち絹布は高価なものであるから、竹の方が広く用いられた。
竹を書写材料とするには、節を切りおとして適当の長さにし、さらに縦に裂いて札状にし、その青みを抜いて(殺青)、書写の用に供するのである。この竹札のことを簡という。後には竹のかわりに木で作った札のことをも、やはり簡と呼びならわした。ともかく紙以前の書写材料には、簡と呼ばれる竹または木で作った狭長な薄片が使用されていた。秦の始皇帝が焼き捨てた書物も、その後、漢代になって孔子の旧宅の壁の中から発掘された書物もみな、このような簡に書かれていた。降って、晋の時代に河南省北部の汲県にあった魏王の墓を盗掘して発見された中国の古い年代記には、その名も竹書紀年というように、竹簡に書かれていた。降って南朝の斉の時代に、湖北省西北部の襄陽にあった楚王の墓を盗掘して竹簡を発見した。それから6世紀ほどの間は、古簡の発見されたことが記録の上に見えないが、北宋の末に至って、陝西省において地下に埋まっていたかめを掘り出したところ、後漢時代の竹簡や木簡が出現したと伝える。過去の記録に見える竹木簡発見の歴史はほとんど以上で尽きるという。
その後、19世紀を終えるまでの800年間、竹木簡の出現したことを聞かない。しかるに20世紀に入ると、竹木簡の知見はとみに増大した。そのいきさつを概観している。
過去8世紀間、地上から姿を消していた竹木簡を再確認しうる機会を与えてくれたのは、スウェーデンの探検家、スウェン=ヘディンである。彼はタリム盆地(今の新疆ウィグル自治区南部)とチベットを調査するため、1899年から1901年にかけて、この地方をめぐり、1900年には紀元3、4世紀に繁栄した楼蘭の古址を発見し、翌年、多数の古文書を発掘した。同時に、書写年代が3、4世紀を出ない木札文書(121片)をも見出した。
ヘディンが楼蘭で木簡を発見した年には、タリム盆地南辺のニヤ(尼雅)古城址(今のホータンの東北約200キロ)において、イギリスのアウレル=スタインが50片の漢文木簡を発見した。その書写年代は、さきの楼蘭簡とほぼ同時代のものであった。
1906年~1908年、スタインは第2回の探検を行ない、ホータン地方と楼蘭故城址で、191点の木簡を得て、東方の敦煌地方からそれより時代のさかのぼる漢代の木簡(図1-10)を探しあてた。その数は702点にも上り、中に数点の竹簡を含んでいた。その解読はフランスのシャヴァンヌが担当し、1913年にその研究が481点の写真を添えて単行された(Les Documents Chinois Découverts par Aurel Stein dans les Sables du Turkestan Oriental.)。
また羅振玉、王国維も解読を行ない、『流沙墜簡』という著書を刊行した。両書ともに不朽の名著と評価されている。ついで、1908~09年には日本の大谷探検隊が楼蘭で数簡を得ており、1913~15年のスタイン第3回中亜探検では楼蘭および敦煌で219点の木簡を獲得している。そして楼蘭出土のものは晋簡、敦煌出土のものは漢簡であることは、前の場合と同様である。
さて、スタインの発掘の木簡については、それまではシャヴァンヌが解読していたが不幸にも1917年に亡くなったので、第3回分の木簡解読は、フランスのマスペロに委託することになり、戦後1953年に公表された(Les Documents Chinois de la troisième Expédition de Sir Aurel Stein en Asie Centrale.)。
20世紀になってからの木簡の発見は西方から開けはじめ、シルクロードに沿って東漸してきたわけであるが、ここに画期的な大発見がおこった。それは敦煌の東北、今の内蒙古自治区のエチナ旗での1万点に及ぶ漢代木簡(図11-15)の大発見である。
1931年、この1万簡が北京にもたらされ、北京大学の馬衡をはじめとする学者がその整理と解読に参加し、労榦が1943年に『居延漢簡考釈』と題する石印本を公けにした。居延というのは漢代にこの地方におかれた県の名であって、その県治は今のカラホトにあった。
20世紀になって発見された竹木簡は、長沙の楚墓の竹簡を除けば、中国の西北辺境から出土したものである。これらの竹木簡が発見された黄河以西の地域は、紀元前2世紀の後半に、漢の武帝によって開拓されたところである。上述の居延、敦煌などは当時における重要な軍事基地であった。
これらの地域の当時における性格を反映して、発見された漢晋木簡の内容も、北方民族に対する防禦と西域の経営ということが主題になっている。羅・王が『流沙墜簡』を著した時、漢晋簡を小学術数方技書と屯戍叢残と簡牘遺文の三つに分類したが、その中で最も多くの分量を占めているのが、屯戍叢残であって、軍事基地の性格を反映した文書・記録であった。ついでこれの十数倍に上る居延簡では、その比例をこえて屯戍叢残の数が飛躍的に増加した。そこで居延簡の整理を担当した労榦は改めて文書、簿録、信札、経籍、雑類に分け、さらに文書、簿録を小分類する必要に迫られた。
さて、過去半世紀間に中国の西北辺境で発見された漢晋簡は1万2千点に近いが、そのほとんどすべてが木簡であって、竹簡はその1パーセントにも達しない。その竹簡の中で注目すべきものは、玉門関附近で発見された薬方書十一簡である。おそらく、内地から伝来された貴重書であったと推測されている。この西北地方では竹が植生しないから竹簡を用いることはきわめて稀であったからである。また木簡の材料としては白楊木や紅柳木が多く、そのほかに松柏科の木(雲杉であろう)も用いられているという。
そして木簡の形状や大きさは様々であるが、長さ23センチ、幅十数ミリという細長い形をしたものが普通である。23センチといえば漢尺のほぼ1尺にあたり、当時かきものを尺書、尺籍、尺牘と称したことがうなずける。
この細長い形をした通常の簡には2、30字しか書けないから、書写した簡を編綴する必要がある。穆天子伝は絹糸でつづられていたというし、孔子の愛読した『易経』は革ひもでつづられていたと伝える。
最近発見されたものはほとんどもとのつづられた姿(すなわち冊書の形)で残っていなかったが、居延からは幸いにも冊書が出現した。その一つは、図14、15の64、65に示した76簡よりなる広地南部候の兵物簿である。このわずかに残された冊書によると、簡は上下二条の麻縄でつづられ、まったく「冊」の字そのままの姿を呈している。
さて文書や簿録、封検や簿検といった公文書を書写したのは官庁にいた書記である。これらの公文書の出土した西北辺境地帯は、軍事上の要地であって、都尉府が置かれ、そこに書記がいた。公文書は書記の筆写にかかり、彼らは文書に必ず自署している。
そしてこれらの公文書は、漢代においては原則として隷書でかかれるものであったらしい。彼らは隷書を手習いしたようで、図6の27のような習書の残簡が少なからず見出されている。もちろん公文書の中にはいわゆる章草でかかれているものもあるが、果たして正式の公文書であったかどうか、疑いがないでもないという。
ほとんどが断簡零墨であるために、はっきりしたことはいえないと断りながら、森鹿三は次のように記している。すなわち、書記たちの筆写する公文書は原則として隷書でかくべきものであり、公文書の形式をもつものの中に章草でかかれているもののあるのは、その草稿あるいは控えではなかろうかと森は推測している。
例えば、長冊の兵物簿のごときは章草でしるされているが、これなども広地南部候長から
広地候官長への上行文書がそえてあるが、今みるこの簿録は候官へ送られたものではなく、その控えとして広地南部候に保管されていたものであろうと森はみなしている。
上述の公文書に対して、簡牘遺文、信札は、私的な間柄のもののしたためるものであるから、正しい隷書でかかれることは稀であって、書体も非常に自由になっており、釈読が困難であるという。
この信札と対蹠的なのは字書である。字書といっても発見されているのは「急就章(図1の4、5)」と「蒼頡篇(図1の1)」だけである。いずれも字をおぼえ字を習うのに便したものである。したがってお手本は立派な隷書であるのに対して、手習いをしたのもの方は稚拙であるという対比が見られる。字書のほか、成書としては竹簡の薬方あり、暦あり、また法令も含めうるが、一般的にいって立派な隷書でかかれている。なお、居延地方からは漢代の毛筆が出土していることを森は付言している(森、22頁~30頁)。
碑碣の形式 水野清一
中国では「石鼓」を碣のうちにいれても、ようやく西暦前481年頃のものである。「詛楚文」の三石は前313年に比定されているけれども、その形はわからない。秦の始皇帝の巡狩の刻石は、みなで7石、始皇28年(219B.C.)から37年(210B.C.)にわたっている。みな立石というから、碣の類である。だから碣は戦国、秦にさかのぼるけれども、碑はまだ現れていない。碑の現れるのは後漢以後である。
碣は『説文解字』によると「特立の石なり」とある。したがって、碑形をなさぬ立石は、みな碣ということができる。それでも「石鼓」のように丈の低いものは碣というのにふさわしくないという。始皇瑯琊台の刻石は「石の高さ工部営造尺の丈五尺、下の寛は六尺」というが、現在山東省の済南博物館にみられる瑯琊台刻石は高さ約110センチ、幅約70センチの板状である。
これに対し、江蘇省宜興県国山にある刻石は天璽元年(276)の作であるが、高さ8尺、囲1丈である。浙江省紹興禹王廟にある禹陵窆石はもとより禹陵ではなく、文字も呉の刻にちがいないが、これこそ碣というべきものであろうという。
西方では、新疆省バリコン山中にある永和2年(137)「裴岑紀功碑」(図76)は俗に石人子とよばれ、孤筍のように、上が細くて、下が大きい。東方では、東北遼寧省輯安の甲寅年(414)、「高句麗好太王碑」が高さ18尺、広さ5尺6寸に4尺4寸で方柱状をしている。これらはみな碣である。
さて碑の起源については、いろいろな説があるが、要するに2つの系統がある。その一は、『礼記』の祭義にみえる宗廟の門内にある碑である。これは犠牲をつなぐためのもので、一種の柱である。石でつくったか、木でつくったかわからないが、紐をとおす孔があり、これが碑の穿(せん)になったという。その二は『礼記』の喪服大記にある碑で、墓にたてる柱である。これも石とも、木ともいわないが、二碑あり、それぞれ滑車をつけ、棺を壙底におろすのにつかうという。のちの碑に円首で暈(くん)のあるものがあり、それはこの滑車の名残だという。暈は円形の溝で、それが一方だけ相重なっている。あたかも滑車をななめにみたような表現である。
こういう廟門の碑、墓上の碑が石になり、文章が刻されると石碑になる。それは後漢からで、今日一番古いもので、漢安2年(143)、「北海相景君碑」(図78、79)である。これは山東省済寧にあり、圭首で、穿がある。円首の碑は、滑車の形からでたが、圭首の形式については、雨水の流れるための形式であるという関野貞の見解を支持している。
漢安2年は景君の卒年で、建碑の年はわからない。碑には誄を刻し、末尾に辞と称するが、のちの墓誌銘にあたるものを刻す。碑陰には54人の題名を記し、碑をたて、辞を録するゆえんを述べている。もちろん隷書で、ただ碑額のみが篆書、「漢故益州太守北海相景君銘」という。いわば一種の墓碑である。景君の墓側にたてたことは明らかである。
しかし山東省博物館に陳列された河平3年(26B.C.)「麃孝禹(ひょうこうう)刻石」(図59)をみると、これはすでに円首である。高さ1.45メートル、幅44センチ、穿はない。墓碑ではあるが、墓上の棺をおろす碑からでたものでないと水野は推測している。
ともかく、後漢も、2世紀後半になると、建碑もさかんになり、碑形も一定する。すなわち、圭首か、円首で、穿があり、板状をなす。往々、上部に題額をつくり、これを篆書でかいたから「篆額」の名ができた。圭首の代表として延熹元年(158)「郎中鄭固碑」(挿46)、円首の代表として永興2年(154)「孔謙碑」(挿47)を挙げている。後者は、碣ともよばれているが、小形だからである。形制は完全な暈と穿のある碑である。いずれも、円首であれば、暈のあるのが常例であるが、暈のすじが龍身に擬され、そのはしに龍頭があらわされて、のちの螭(ち)首の原型となるという。建安7年(202)「巴郡太守樊敏碑」はそのはやい一例である。また永興元年(153)「孔廟置守廟百石卒史碑」(図82、83)いらい、碑側にまま流雲文があらわされ、碑台に方趺がみとめられる。光和6年(183)「白石神君碑」(図116、117)には、はじめて亀趺がつくられ、「樊敏碑」には龍虎が璧をふくむ台座がある。このうち「置守廟碑」だけが墓碑でない。曲阜の孔子廟に百石卒史をおき、礼器の出納その他をつかさどらさせるにいたった縁由を記したもので、その記事のあとに讃がついている。
魏晋時代には、まだ漢代の制がそのまま行われている。魏の黄初元年(220)「孔羨修孔廟碑」(挿48)は、もっとも代表的な圭首碑であり、晋の永康元年(300)「沛国相張朗碑」(挿49)は代表的な龍頭の円首碑である。前者には穿あり、後者には暈があるが、穿はない。新出の晋咸寧4年(278)「皇帝三臨辟雍碑」(挿50)も龍頭の円首で、穿はない。ここで注意すべき点は、漢末魏晋における墓碑の禁令で、その結果、墓碑は小さくなり、墓中におさめられるとともに、また墓誌という特殊な形式を生むにいたったし、その他の修理碑、記念碑の類は大きくなり、大碑のおこなわれるもといを築いた。
さて南北朝時代になると、南朝では宋の「寧州刺史爨龍顔碑」のほか、梁の諸王の墓碑のみであるが、みな円首で穿がある。とくに梁碑は「始興忠武王蕭憺碑」のみが年号あり、天監18年(519)の作である。暈はなくなるが、円首に龍をあらわすから、これではもはや螭首というほかはない。碑額と碑側に流麗な禽獣唐草文を彫っているのは注意されるし、碑台としての亀趺が完備している。
北朝でも、円首に龍が左右均斉につくられるから、やはり螭首である。穿は太安3年(456)「中岳嵩高霊碑」にみられるほか、ほとんどみられなくなる。これに反して篆額は発達して明確な形をとるようになる。といっても、神亀2年(519)「兗州賈思伯碑」(6巻図22、23)、正光3年(522)「魯郡太守張猛龍碑」などは、正書の碑額(6巻図24)である。東魏天平3年(536)「侍中黄鉞大師高盛碑」、北周天和2年(567)「西嶽華山神廟碑」などになると、螭首の彫刻がみごとなばかりでなく、りっぱな圭首の碑額のつくられるのが特色である。ことに高盛碑、また高飜碑などは、碑側の唐草雲気文が南朝にまけないくらい流麗である。これらは墓前にたった墓碑であまり大きくないが、中岳廟の碑、西嶽廟の碑は廟前にたち、神徳をたたえた廟碑で、ますます高大になった。
ところが、碑のうちには、景明5年(504)、霍揚碑、武平8年(577)「斉太公望表」のように、仏像をきざむものができ、そのうち仏像を彫るための碑がつくられた。カンサス市美術館の西魏張興碩等の碑、メトロポリタン美術館の北魏永煕2年(290)碑、あるいは東魏武定3年(545)「報徳寺七仏頌碑」など、みな碑形を利用して、これに仏像の龕や浮彫をつくった。しかも仏教の流行とともに、この風は上下を風靡し、大小さまざまのものがつくられた。金石学者の間では、碑像とよばれているが、あまり適切な名称ではない。
隋唐になると、碑はますます盛んにつくられ、今日に残るものもすこぶる多い。隋開皇6年(586)「龍蔵寺碑」は碑額(7巻図1)が正書でかいてあり、大業7年(611)「修孔子廟碑」は珍しく円首である。
唐初の貞観21年(647)「晋祠銘碑」は大きな圭首の額で、飛白の文字がある。龍朔3年(663)「道因法師碑」には圭首の碑額に仏龕がある。これはすでに隋からあることで、さかのぼれば北朝にもある。永徽4年(653)「大唐三蔵聖教序碑」ならびに序記碑では、碑の上部に仏龕があり、下部に天人の奏楽、舞踊像があり、左右に細密な唐草文帯がある。碑側には、盛んに唐草文がつくられ、「道因法師碑」、天宝2載(742)「隆闡法師碑」の唐草文、開元24年(736)「大智禅師碑」の菩薩獅子唐草文は、じつに豊麗で、唐代の特色をよく発揮している。
唐代でできた、新しい形式は、大きな帽子をつけたような碑首で、関野貞は蓋首という名で呼んでいる。その一番古いものは、文明元年(684)「乾陵述聖頌碑」で、次は天宝3載(744)「嵩陽観聖徳感応碑」である。方趺のうえに碑身をおき、その上に額石をおき、さらに蓋石をのせている
その翌年、天宝4載(745)につくられた「玄宗御書孝経碑」は、この蓋首の下に方柱形の碑をつくったので珍しい。三角柱を四方からよせて方柱形にしたもので、その上に大きな蓋首をのせている。珍しい碑形であるが、行われたのはこの時代だけで、その後は廃れてしまった。
碑がそのはじまりから戦功を記したり、政績を頌したり、人一代の事蹟を録したりするほか、神徳、仏徳をたたえ、また経典を刊したりする。漢魏の石経も、碑形をしてならんでいたらしい。仏典も、南北朝末の末法思想の普及からますます石に刻されたが、碑形をなすものは河北房山の垂拱3年(685)、雲居寺金剛経碑二基などである。これは螭首方趺で碑額に仏龕がつくられている。
宋元以後は、もはや碑形も、この形式の範囲をでず、碑といえば、螭首亀趺を普通とし、まま円首なり、方趺がつくられるということになった。文章はもとより神仏や人の徳をたたえるものを主としたが、同時にそれに関連して重修碑の類が多くなってきた(水野、30頁~36頁)。
別刷附録 司隷校尉楊淮表紀
次に「第2巻中国2漢」の図版解説を付記しておきたい。
敦煌出土漢簡について
敦煌出土漢簡とは、スタイン卿が第2回の中央アジア探検(1906-1908)で発掘した木簡の中、敦煌附近で発掘したものと、第3回探検(1913-1915)で発掘した簡のうち、敦煌、酒泉の地帯で発掘したものとを指す。
第2回探検で発掘した木簡の釈文解説を施したものには、シャヴァンヌ著 Les Documents
Chinois Découverts par Aurel Stein dans les Sables du Turkestan Oriental (Oxford, 1913)などがある。図版の1-49は、このシャヴァンヌの著書より採録したものであるという。
第3回探検のそれには、マスペロ著Les Documents Chinois de la Troisième Expédition
de Sir Aurel Stein en Asie Centrale (London, 1953)などがある。図版の40-50はマスペロの著書の写真より適宜採録したものであるという。
ところで、当時は簡の数も少なかったので、主として既存の史料を利用して、簡文の解釈をおこなう段階で、簡自体の性質を究明することは必ずしも十分ではなかった。その後、後述する居延簡1万点の発掘によって、簡そのものの研究もかなり進んだ。
敦煌出土漢簡について、例えば、図10の47-49の簡について、米田賢次郎・大庭脩は次のように説明している。漢代では国境守備隊の食糧確保の一手段として、大規模な屯田策を強行した。その方法は二種ある。
一つは軍卒が、自身で守備し、かつ耕作する場合で、一人当りの耕作面積は約20畝位という(敦煌簡には一人当り40畝と20畝の例がある)。
第二には居延のように専門の耕作者をおく場合である(田卒と呼ばれていた)。この簡の例では一人当り約100畝となり、面積からいって、この弛刑達は専ら耕作に使役されたと推測されている。弛刑とは罪人の刑の執行をとり止められたもので、通常その代りに国境で強制労働に就役されていた。
刀筆は、木簡などに字をかいた時、間違ったり、あるいは前に一度使用した簡に書くときに、簡をけずる小刀をいい、転じて記録文書をいうようになった(米田賢次郎・大庭脩、図版解説、149頁、156頁参照のこと)。
居延出土漢簡
居延出土漢簡とは、有名な探検家スヴェン・ヘディンを団長とする西北科学考査団が、1930年4月から約1年間に、居延沢およびエチナ河流域にかけた発掘した約1万点の木簡を指す。
これらの簡は不幸な戦争中に、主として労榦の手によって釈読された。日本でも木簡研究熱が高まり、「東洋史研究」に居延漢簡の特集号がでた。その諸論文は、多く木簡自身から帰納的な結論を導き出すこと、および木簡を通して居延地区の生活、および官制の組織の解明に努力がはらわれた。これはスタイン探検隊の発見した木簡が第2回には893点、第3回が約200点という少数であるに比較して、居延のそれは1万に及ぶという量の強みによるものである(大庭脩、図版解説、156頁参照のこと)。
図17 封泥(ふうでい)
簡牘に書信をしたためた漢時代の人は、その発送にあたって、やはり今日のように封緘をした。それは簡牘を繩で縛り、そのうえに泥を押しつけ、泥のうえに印を押捺するという仕方で、封緘に用いられた泥だから封泥とよばれ、いわば封筒をとじるシールにあたる。したがって封泥の裏側には繩のあとがくぼんでいるのが普通である。
漢の郵便物は郵亭を順次リレー式に運ばれ、その記録に「一封居延都尉章」などと書いてあるのは封泥に押捺された印によって発信者を記録したもので、「封完」「封破」などとあるのは、受領時の封泥の状態を記したものである。
封泥が歴史的な遺物として中国で注目されるようになったのは清末のことで、呉式芬・陳介祺が『封泥攷略』を著したのが封泥についての専著のはじめである。
封泥の色には様々なものがあったらしく、『漢旧儀』によると、皇帝は紫泥を用いたという。また封泥の文字はほとんどが陽文で、陰文の物は少ない。これは漢印が多く陰刻であったことをしめす。そのことは印を作る技術が未発達であったせいもあろうが、印の目的が、印肉を用いて押捺することよりも、むしろ封泥に鈐するためであったことによる。
封泥が多数出土した場所は、当時の郡県の官庁があったことが推測されている。そして印文の中には『漢書』百官公卿表などの漢の官制の記録にはない官庁名があって、その欠を補うことができ、漢代官制の研究に寄与するところが多いと、大庭脩は解説している。
(大庭脩、図版解説、160頁~162頁参照のこと)。
図19-10 後漢印 漢委奴國王(金印、蛇鈕、印面、24粍平方)
天明4年(1784)2月、福岡から遠からぬ玄界灘の志賀島で、百姓甚兵衛が、島の南側、海岸沿いの田の灌漑溝の修理をする内に、3個の石を組んで箱形の中にこの金印がはいっていたので大騒ぎとなり、結局、翌月16日に郡代に届け出で、藩主から米若干俵(ある所伝では銀5枚)を賜ったという。
それから約25年後の享和3年(1803)に黒田藩士の梶原景煕が、金印の印影、印の前後左右の立面図、出土場所を示す島の地図などを画いた後に、ことの次第を漢文で書き記した。
印文の「委奴國」とは、以前は「イド」と読み、筑前の怡土郡にあてる説、「ヤマト」の音を写したとする説、「委」は倭の略で、倭をいやしめて呼んだとする説などがあったが、「倭ノ奴國」すなわち今の福岡市あたりにあった小国にあてる説(三宅米吉)が今日ではもっとも広く行われている。
当時の日本は百余の小国に分れており、その何十箇国かは、それぞれ大陸と交通していた。後漢第一代の光武帝の中元2年(57)正月(その翌月に光武帝はなくなった)に倭奴国の使が朝貢して印綬を賜わったことが『後漢書』に見え、その印こそ、その時のものであると普通に解されている。
この印の材質は金である。『漢官儀』に印の制を述べて「王公侯は金」とあり、『漢旧儀』に「諸侯王は黄金、槖駝鈕、文には璽という、列侯は黄金、亀鈕、文に印という、丞相大将軍は黄金印、亀鈕、文に章という、云々」とあり、高位の官印は金で作るのが通例のような書き方であるが、今、残る実例で見ると、上に挙げられた高位の官の印でも銅印が多く、時に鎏金のものがあるに過ぎない。蓋し金印は今の場合のように外国の王とか、特別に功労のあった者とかに授けるだけのものであったのであろうと、藤枝晃は推測している。
倭は東夷であるから、この印は蛇鈕である。他の印の蛇鈕と比べると、細工は段違いに入念である。書体もなかなか立派で、王莽時代の印の諸例よりはやや太い感じである。この印の国宝指定がきっかけになって、真偽の論議がやかましかったことがある。
天明4年(1784)当時の日本にこれだけの印文を作れる篆刻家はまだいなかったはずであり、また蛇鈕その他の手本になるような古印はそう幾つも伝わっていなかったはずであると藤枝はみており、真偽についての論議は無用であるという(藤枝晃、図版解説、166頁、参照のこと)。
図84、85「魯相韓勅造孔廟礼器碑(ろしょうかんちょくこうびょうのらいきをつくるひ)」
東京の書道博物館に拓本があり、永寿2年(156)のものとされる。
山東省曲阜の孔子廟には漢碑のすぐれたものが多数あるが、その中でも「百石卒史碑」(図82、83)、「史晨前後碑」(図98-101)そしてこの「礼器碑」の三碑は、後漢において立碑の流行した最盛期にあたるとともに、そのもっとも傑出したものとして古来著名である。しかも、この三碑の中で「礼器碑」はとくに高く評定され、漢隷の第一品とまで称しているほどである。およそ漢隷を学ぶ人々には必要欠くべからざるものであるばかりではなく、諸碑を学んでからのち到達する最後の段階であるとされている。
この碑は後漢の桓帝の永寿2年(156)、魯相の韓勅が造立したものである。この碑は、碑陽と碑陰と左右両側にいずれも文字が刻されているが、碑額はない。だから、碑の名称は昔から一定していないが、「漢魯相韓勅増修孔子廟前碑」とするのがよく立碑の主旨をあらわしている。
碑文の内容は魯相の韓勅が孔子廟を修理し、廟の祭祀にもちいる器物を修造し、あわせて孔子の親戚にあたる顔氏と并官氏の子孫に、邑から取り立てる賦税を免除して、恩典を施した。この事業によって国を挙げてその余恵を受けたので、韓勅の功績をたたえて、その始末を文に記し、石に刻して永くその声名を後世に伝えんとしたものである。
この碑は明の郭宗昌が、鬼神の加護によってできたもので、人工によって書かれたものではないと激称して以来、多くの人によって推称されたといわれる。清朝の前期における帖学派の学者たちも口をそろえて讃美している。中でも、王澍はもっともこの碑に執心した人である。
そこで中田勇次郎は、この王澍の五節八変の説を検討している。この説はこの碑の書を研究するにあたって、まず碑文を5つの段節に分ち、その間に8つの書風の変化を認めようとするものである。例えば、第一節1第一変、序では、「つつしみぶかく熟練した筆で、全力を尽してかいているので、力が字の外にあらわれて、あらゆる美しさが備わっている」という。このように、五節八変について記しているが、これによると、この碑は同一人が時を変えてかいたものである。
これに対し、翁方綱は書風が段節によって変化することはほぼ同じように認めているが、書者については、碑陰の末行に小さくかかれている文字の中に「七人所作」とあるのを七人書するところと解し、合計七人とする。しかし、翁方綱説では、「七人所作」を書を書いたと解してよいかどうかにも、中田は疑問があるという。
そして書風も四面ともに大体において相通ずるものがあり、かりに何人かの別の人がかいたとしても、その書風においてはほぼ同じ種類のものと見てよいので、しいて七人とする必要があるとは思われないという。むしろ王澍の説のままの方がこの碑の鑑賞には統一された理念があらわれて都合がよいと中田は主張している。
ところで漢隷には素樸なものと流麗なものがあるが、この碑はそのいずれにもかたよらず、よく中和をえている。結体はととのい、八分の隷法は誇張に陥ることなく、きわめて温雅であり、痩勁な線を主調として清潔に、筆勢も滞ることなく、一種の高い理智的な精神をたたえている。王澍はさらに序の部分に重点をおいて、そこに自然の神妙さを見出して、その書のすぐれていることを力説している。
しかし、この説は魏晋の書に書論の基礎を置く帖学の立場の考え方から出たのではないかと思うと中田は述べている。漢人の理想とした八分は、むしろ「史晨碑」や蔡邕筆と伝えられているようなものにあったかもしれないという。けれども、八分が魏晋の書を導き出したという点からいえば、やはりこの碑の漢碑におけり位地(ママ)と価値はもっとも高く評定されなければならないと付言している。この意味ではまたこの碑と「曹全碑」(図118、119)を漢碑の双璧と称することもできるという(中田勇次郎、図版解説、186頁~187頁参照のこと)。
図118、119「郃陽令曹全碑(ごうようれいそうぜんひ)」
中平2年(185)拓本 23×11.3糎
漢碑の八分の代表的名品として本来著名なものである。明の隆慶から万暦のはじめのころ、陝西省の郃陽県の旧城から出土してはじめて世に知られるようになった。それまでの著録にはのっていない。
曹全はあざなを景完といい、敦煌效殻(甘粛省)の人である。早く父をうしない、義祖母に養育され、継母につかえたが、孝心の礼に厚かったので、郷人がその善行をたたえて、諺に、「親を重んじ歓を致す曹景完、世を易(つ)ぎ徳を載せその名を隕(おと)さず」といったという。184年、郎中に除せられ、酒泉禄福長を拝した。たまたま匪賊張角すなわち黄巾賊が暴動を起こして各地を荒らしたので、選ばれて郃陽令を拝し、動乱を収拾し、民治に尽瘁した。
そこで、群僚たちがかれの高徳を表彰するために、その功績を記して石に刻したのがこの碑である。文中には曹全の没年を記さず、建碑の年も光和7年すなわち中平元年の翌歳のことであり、おそらく彼の生存中に建てられた頌徳碑であろうという。
ところでこの書は結体もよくととのい、文字の構成にも行きとどいた感覚のはたらきが見られ、波払は長くうつくしく、筆勢はよどみなく清らかに澄んでいる。一種のやさしく、わかわかしい婉麗さがただよい、八分の行き方として完成の域に達している。木簡では敦煌出土漢簡シャヴァンヌ本5、鄭子方の部分を参照することによって、その真蹟の技法を考えることができる。
のちの魏晋の書は漢の八分の書法から発展してきたが、それにはこのような技巧の高度に進んだものに関係づけて観察するのがよく、その点においてこの書は、ほとんど漢末に近いものとして、八分の最後の花であるとともに、書法を護り伝えるのちの伝統的書道へのつながりが予想されるものであると中田勇次郎はみている(中田勇次郎、図版解説、197頁~198頁参照のこと)。
漢代の木簡について
今日知られている漢代の木簡は、辺境守備隊の書記や兵卒の書いたものが多いので、書としては上等ではないものが多いとされる。
その中でも、習字手本としても用いられたと思われる「蒼頡篇」や「急就篇」のような字書を書いたものの中には、上手の書もまじっており、あるいはそれらの中には内地から持って行ったものもあるかもしれないと内藤乾吉は推測している(内藤乾吉、図版解説、182頁参照のこと)。
塼(せん)について
図54として、「竟寧(きょうねい)元年塼」(京都大学文学部蔵、竟寧元年[前33]、拓本、堅31糎)が掲載されている。
中国の塼の起源は殷代の版築に求められるべきであろうが、塼が一般に行われたのは周代の後半からのことのようである。漢代になると、木造の墓室と並んで塼墓の発達に伴って、そのための塼が一般化した。この墓塼はそのようなものの中で古い一例をなすもので、文字は隷書の優れた風格を示す点で、現存の塼文中での白眉というべきものであると梅原末治は評している(梅原末治、図版解説、176頁参照のこと)。
巻末の「書人小伝」に基づいて、張芝について補足しておく。
張芝(ちょうし、?-初平年間[190-193])
もと敦煌酒泉(甘粛省)の人で、父は太常の高官にのぼったという知名の士で、張芝は、名臣の家に生れ、幼い時から学問にはげんだ。しかし終身仕官せず、世を避け、潔白な処士として終った。
平生から書をこのみ、家にあるところの衣帛は、すべて書をかいてから練るという熱心さであった。また池に臨んで書を学び、そのために池の水が真っ黒になったという逸事はもっともよく世に知られている。彼がとりわけよくしたのは章草であった。その師としたのは杜度と崔瑗であるといわれるが生存年代から考えて、直接就いて学んだのではなく、ただその書風を受けついだのであろうという。
しかし、張芝の父には崔瑗および崔寔に与えた書簡の文章が伝えられているところからみると、父は崔氏父子と交遊したと思われるから、張芝も幼少の頃に崔瑗、または長じて崔寔の教えを受けているかもしれないと中田勇次郎は推測している。
張芝は章草のほかに一筆飛白書をよくしたと伝えられている。これは筆を断絶せずに一筆で書き下ろした飛白体の書のことらしく、彼のいた当時にすでにこのような書体があったかどうかはわからないと中田はいう。さらに、張芝が連綿体の今草を創始したという説もあるが、これは信じられないと中田は否定している。
とにかく彼が草書の名手であったことは、『後漢書』にもそのことが見えているほどである。彼の書いた書はほんの小紙片でも人々が珍重し、のちには彼の門下に出た韋誕が、彼のことを草聖と称したという。
そののち東晋の王羲之も彼を魏の鐘繇と相ならぶ最上級の書人として学んでいる。また梁の庾肩吾(ゆけんご)の書品では、彼を鐘繇・王羲之とともに上の上の位において品評し、張芝は鐘・王に比べると天然よりもその工夫にすぐれているといい、その技巧の絶妙であったことを称揚している(類似したことは孫過庭の『書譜』にも記してあるので、後述したい)。
その書風については、梁の武帝の批評に、漢の武帝が道術を愛し、虚(そら)に憑って仙人になろうとするようであるという。唐の李嗣真の書後品にも、春虹が澗に飲み、落霞が浦に浮ぶのに似ているとか、沃霧が沾濡し、繁霜が揺落するのに似ているなどと形容している。
しかし、今日彼の真蹟として伝えられているものは絶無といってよい。のみならず、古くは晋代のときにも貴重なものであり、南朝宋の頃にも彼の章草を稀世の宝として珍重していた。
唐の太宗も探し求めることができず、褚遂良もわずかな断簡しか手に入らなかったといわれる。だから、古来いかに稀であったかがわかる。したがって、その書風もあきらかでない。このほかに行書と隷書をよくしたといわれているが、実例もなく、事実そうであったか疑わしいと中田は解説している(中田勇次郎、書人小伝、202頁参照のこと)。
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