《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その1中国1》
さて、以下、順次、この目次に従って、『中国書道全集』の内容を要約していく。
1 中国1 殷・周・秦
「第1巻中国1殷・周・秦」には、殷王朝の殷墟遷都(前1400年頃)以後、秦の滅亡(前207年)まで、約1200年間を収めている。この時代の資料は、筆墨で書かれたものは稀で、大部分は甲骨文、金文などのような金石文であるから、図版は拓本が主になっている。
中国書道史1 神田喜一郎
書は中国に発達した一つの特殊な芸術であるといわれるが、書が文学や絵画に伍しつつ、芸術として発達した根本的な理由として、中国の文字、すなわち漢字そのもののもつ特性を神田は挙げている。視覚芸術として審美的対象ともなる可能性が漢字そのものに、最初から内在していたと考えている。
しかし、今日いう意味での書道、すなわち芸術としての書という意識は、必ずしも上古から確立していたわけではない。いまだ漢字形成の途上にあっては、芸術化する余地はなかったが、漢字が一応形成過程を終えて固定化したのち、自覚的な芸術意識の覚醒がはたらくに及んで、はじめて真の書道が成立する。
その時期は今から1800年ほど前、すなわち後漢の末頃を神田は想定している。つまり中国書道史は、後漢を境にして前史と本史に分かれるとする。さらにその前史は秦の始皇を境として、前後2つの時代に分れると考えている。秦の始皇は、各種の字体に一応の終止符を打ち、新しい統一的な字体をつくった。先秦時代の歴史は長いが、これを書道史的に見るならば、それは漢字形成の過程の歴史であって、やがて後代の書芸術の発展を約束する最初の長い準備期であったと神田は考えている。
漢字は中国における書の発達と不可分の関係にあるが、その起源については定説というべきものがなく、不明である。今日確実に知ることのできる中国最古の文字は殷王朝の甲骨文である。
殷王朝は第20代目の盤庚(ばんこう)の時に、都を安陽にうつし、中原に強大な勢力を振うた。その年代はだいたい紀元前14世紀から11世紀に至る頃と推定されている。この時代の殷王朝は、青銅器文明が栄え、その貴族は農耕を主な生業とする庶民の上に立って、豪奢な生活を営んだ。
いわゆる甲骨文(図1-12)はこの時代の殷王朝の遺物である。清朝の末、光緒25年(1899)に、河南省の北端に近い彰徳という街の西北約1里ほどにある小屯という村の土中から、初めて発見された。ここは盤庚がはじめて都をうつした安陽にあたり、殷王朝の遺跡と伝えられる殷墟という地であった。
甲骨文は、こうした土地から発見されたものである。そもそも甲骨文とは亀の甲や牛の骨にきざまれた文字のことで、これは殷人が卜占(うらない)の用に供したものである。古代人が亀の甲を卜占に用いたことは、『尚書』の洪範とか『周礼』の大卜の条などにもその記事が見えている。甲や骨の表面にきざみつけておくもので、つまり卜辞であった。
また甲骨文は、同じ文字でもその字体は必ずしも一定せず、いろんな体に書かれているが、原始的な絵文字からいまだ完全には脱化しきっておらず、いわゆる形声の文字、すなわち表音部と表意部との結合からなる文字などは、その数がはなはだ少ない。
甲骨文の字体や書法を、董作賓は、時代的に5つの類型に分け、それぞれの文字を、雄偉、
謹飭(きんちょく)、頽靡、勁峭(けいしょう)、厳整と評している。これは書道史的には特に注意すべきことであると神田はみている。
甲骨文は、よく切れる小刀のようなもので、甲骨の表面に刻みつけられているが、そこにいくらか筆意が窺われ、原始的な書道の萌芽が認められ、中国最初の書道史料として甲骨文のもつ意味は大きいという。
なお殷王朝の文字には、甲骨文のほかに多少の金文がある。中国では殷王朝以来盛んに精巧な青銅器が製作されたが、それらには多く銘文が刻された。その文字がすなわち金文で、その確実なものは、殷王朝の末期に属する。
殷王朝は紀元前11世紀の後半に、周王朝に滅ぼされた。周王朝は中国史上もっとも長く続いた王朝であったが、その都が鎬京(こうけい、陝西省西安)におかれていた最初の280年ほどを、西周時代(1050?-770B.C.)をいい、都を東の洛邑(河南省洛陽)に遷した時代を、東周時代(770-256B.C.)といった。そして東周時代は春秋時代(722-481B.C.)と戦国時代(480-222B.C.)とに分けられる。春秋時代は斉の桓公など五覇と称せられる諸侯が出て、周王朝に代り天下の諸侯に号令した時代であり、戦国時代は西方に拠った秦と、東方に分立した楚、燕、斉、韓、魏、趙の六国とのみが栄え、互いに抗争を試みた時代である。
さて、両周を通じてその時代の文字を今日に伝えているのは、いわゆる金文である。中国では宋代以来この金文を専門に研究する金文学という一科の学問がおこり、とくに清朝の中葉から今日にまで隆盛を極めている。金文は甲骨文字の系統をうけ、それを一層整えたものということができる。甲骨文字では、同じ一つの文字でも筆画や形態が必ずしも一定せず、ある程度自由に書かれたが、それが固定化し、西周中期の金文になると、だいたい一定してしまった。そして西周末期の銅器の銘文には金文の典型として、よく文字の整った立派なものがある。
ところが東周になって、だいたい春秋時代までは、西周以来の字体がそのまま行われたが、戦国時代になると、東方の六国では、金文とはやや異なった新しい字体が興ってきた。この字体が紀元100年頃にできた『説文解字(せつもんかいじ)』という中国最古の字書に載せている古文という字体によく似ている。
中国の古い伝承では、古文は倉頡(そうけつ、蒼頡とも)の製作したものとなっているが、実は戦国時代に東方の六国で行われた字体ということになると神田は解説している。それから戦国の末期になって、西方の秦が発展したが、ここでも新しい字体がおこってきた。それを今日に伝えているのは石鼓文(図131-134)である。もっとも石鼓文の製作年代には異説は多いが、秦の刻石と定めて大過ないものと神田はみている。
その字体がまた『説文解字』に見える籒文(ちゅうぶん)もしくは大篆という字体によく似ている。古い伝承では、籒文は周の宣王の時に、史籒という史官が製作したといわれているが、これも誤りで、周末に秦の地方で行われた字体に相違ないという。
ともかく周末になって、金文から脱化した古文とか籒文とかの新しい字体がおこり、しかもその古文も各地方によって違っていた。これは群雄割拠した戦国時代としては、もとより免れえなかったが、秦の始皇が出て、天下を統一すると(221B.C.)、字体の統一が重要な政策として取りあげられた。
秦の始皇の掲げた重要政策の一つに「書は文を同じうす」、つまり字体の統一があった。これは丞相李斯によって完成された。李斯は若くして碩学荀子に学び、文に秀で書に巧みで、天稟の政治家であった。李斯の制定した新しい字体は小篆といわれ、籒文すなわち大篆を簡略化したもので、その形がはなはだ端正で、よく均斉のとれた美しい字体である。
今日これを伝えるものとしては、秦の始皇が天下を巡遊した際、自己の頌徳碑とでもいうべき刻石がある(図135-138)。
それから秦の始皇の時に、もう一つ新しい字体隷書がおこった。程邈(ていばく)の発明であると伝えられる。隷とは徒隷の意味で、下賎な従僕のことであるが、そういう徒隷の者の間に用いさせたところから隷書といったともいい、また程邈が徒隷の出身であるからであるともいうが、いずれとも不明という。
むしろ程邈などという特定の人が発明したとみるより、自然発生的におこってきたものとみる方が妥当であろうと神田はみている。現に長沙から発掘された戦国時代末期の楚墓の遺物とは、すでに隷書に近いものが発見されている(「楚簡」図129, 130)。
ともかく、これらの隷書は今の楷書の源をなしたもので、そのいわゆるハネ口に特色がある。社会が複雑になるにしたがい、古文や籒文はもとより、小篆のような字体でも、これを書くのに時間を要し、実用にならない。そこで実用本位に自然に発生したのが隷書で、これから長く一般に使用されることになった。
なお秦の始皇の時代に蒙恬(もうてん)という武将が筆を発明したという伝承がある。筆は殷代から存在した証拠があり、戦国時代の筆も長沙の古墓から発見されており、この伝承はそのまま事実として信拠できない。ただこの時蒙恬が古来の筆に改良を加えて、今日我々の使用する筆に近いものを作ったことは考えられるので、もしそうすると、中国書道史上、これは画期的な事実といわなければならないと神田は付言している。
実際、秦の始皇の刻石の文字などは、もう一種の筆意とか技法というようなものが認められ、ここらあたりから書法の発達があるという。
以上、殷・周・秦の時代は、漢字そのものの形成の途上にある時代であり、したがって明確な芸術意識をもって書かれたと認められるものはないが、原始文字としてそれぞれの特色と面白味とを具えたものである。また実際の技法の上にも参考とすべきものが多く、清朝の末期には、こうした古代文字の技法を参考として、新しい書風を試みた書家・羅振玉の「臨魯白艅父簠銘」も出ている(神田、1頁~6頁)。
中国文字の構造法 小川環樹
先述したように、漢字がはじめて造り出された時代は今日なお正確には知られていない。伝説によれば、中国最初の帝王である黄帝の史官(秘書官)、倉頡(蒼頡とも書く)が創造したというが、これは戦国時代(480-222B.C.)にできた話であって事実ではあるまいといわれる。漢字で書かれた資料のうち、最も古い確実なものは、殷代の都あと(河南省安陽県)から発掘された甲骨文である。
ところで、文字の進化はどの民族においても、一定の順序がある。ほとんど絵画とえらぶところのない形から、簡単な線だけから成る記号へ、そして何らかの表音の価値を有するに至る経路をたどるのが常である。それがさらに進めば、アルファベットのように、純然たる表音の記号となる。今日の漢字はアルファベットほどではないが、表音の性質を幾分かは持っている。その発達の経過は、漢代以来、漢字の構造法についての根本原理となっている六書に基づいて考究してみると、次の4つの段階に分けられる。
①第1の段階~象形・指事
漢字は本来すべて一つの文字が一つの単語を表わすものとして造られた。単語は一つの観念(アイディア)に対応するものと見なせば、一字が一つの観念を表わすこととなる(以下、この観念を文字の意義または字義とよぶ)
最古の文字は、一種の絵文字(または文字画)である。この絵文字には2種あって、ある物体の形を写生的に書きあらわした場合は象形と呼ばれ、これ以外のもっと抽象的な観念を書き表わすには象徴的に表現され、中国の文字学者は指事というカテゴリーを立てる。
この2種はいずれにしても絵文字であり、書かれているのは観念であって、その観念に対応する単語の音はどこにも表われていないから、要するにこれは意義符号(イデオグラフ)である。甲骨文に例をとれば、「馬」や「羊」の漢字は象形に属し、「上」や「下」は指事に属する。
②第2の段階~会意
「馬」や「羊」を表わす記号は単体の文字であるが、「上」や「下」のように、2つの記号を組み合わせてできているものでも、各々の部分は独立の文字ではないから、これもやはり単体の文字である。
しかしまた別に、2つ以上の文字を組み合わせて新しい文字が造られた場合、すなわち合体(ごうたい)のものがある。例えば、「好」という字は右の部分が子、左の部分が女にあたり、子と女という2つの文字を合せて女子、わかい女という意味から、美女、女の美しさ、さらに美しいもの一般、および好ましいものを表わすように、字義が変化していった(『説文解字』の注釈家、段玉裁の説による)。ただし甲骨文ではこの「好」という文字は女の姓を表わす固有名詞に使われている。また例えば、「休」という字は、左は人、右は木を表わす文字で、人と木を合して休息の義を表わすという(ただしこれは甲骨文では地名である)。
この類の字は会意と呼ばれる。先の象形に属する字「馬」や「羊」などは後世になるほど
字形が変わって、楷書になるとその字形から馬や羊の姿を思い起こすことは困難になったが、会意の字では字形は変化しても、文字の構成部分である各々の字の独立性は比較的明白なことが多い。
③第3の段階~仮借(かしゃ)
ある一つの文字がもともと単体であったか、合体であったかに関わりなく、その字の表わす単語の音だけについて、それを同音または類似音の他の単語の記号として用いることがある。これは一つの文字をそれとは全く異なった意義の他の単語の記号として借用することであるから、この類を仮借とよぶ。例えば、後の「隹(すい)」にあたる字は、もともと尾の短い鳥類の総名であった。その字が承諾・同意を表わす類似音の単語、のちの「唯(い)」に借用された。この日本語の応答の「ハイ」に当る語に対して後世、口の字を加えて「唯(い)」が造られたが、その専用字が造られる以前には「隹(すい)」の一字が一方では鳥類の本義を表わすほかに、仮借として「ハイ」の意味の借用義をももっていた。
仮借は借用である以上、新たに文字を造ることなく、既製の文字をそのまま使って別の単語を表記すること、つまり別義をもたせることであるから、変態的な造字法といえないこともない、いわゆる「字を造らざる造字」である。
④第4の段階~形声
仮借の文字が多くなってくると、一字が2つ以上の全然異なる意義に用いられ、どちらの意義で使われているか見分けにくくなる。この不便を除くため、新たな方法が考え出された。それはすでに仮借として用いられている文字に、別の構成部分(おおむね独立の既製文字)を付け加えて、意義を明らかにすることである。
故にこの種の文字は常に合体であって、これを分解すれば一部分は必ず新しい文字全体の表わす語と同音(または類似音)であり、したがってその部分は音声の符号(声符)となるわけである。他の部分は文字全体の表わす単語の意義を限定する役割をもつ符号(義符)となる。この方法で組み合わせた文字を形声とよぶ。仮借のところであげた例、「隹」の借義を区別するために造られた「唯」は形声字である。
以上が構造法からみた漢字の発達のあらましである。象形および指事の段階から会意、仮借の段階を経て、形声の段階まで来ると、もはや純粋の絵文字でなく、表音の機能をも有するようになる。形声字は殷代の甲骨文にもすでに出現するが、その数は少なく、約1500字の甲骨文のうちで、形声字は半分に達しない。次の周代(その資料は金文)に入ってやや多くなり、戦国時代(前5-前3世紀)に急激に増加した。それ以後二千数百年の間に、漢字はたえず数を増したが、二千年間の新造字はほとんど形声の方法で造られたものばかりである(清朝になってできた字書『康煕字典』にはおよそ4万字余り(47000字余り)が収められているが、その90%以上は形声字である)。
次に、小川環樹は中国の字書の歴史について、とりわけ『説文解字』を中心に解説している。中国の字書の始めは「史籒(しちゅう)篇」で戦国時代の作といわれる。秦(前3世紀)に入って李斯の「蒼頡篇」、漢代では司馬相如(しょうじょ)(前2世紀)の「凡将篇」、史游(しゆう)(前1世紀)の「急就(きゅうしゅう)篇」その他が出たが、それらはみな字書といっても字引ではなく、初学者のための暗誦用教科書で、後世の「千字文」、「三字経」、「百家姓(ひゃくかせい)」に似た組織のものであった。
文字をその構造によって分析し、分類排列した字書は、後漢の許慎(きょしん)の『説文解字』15篇(略して説文とよぶ)に始まる。この書は後漢の和帝、永元12年(100)に成った。
説文にはすべて9353字を収めているが、その文字全部に字義を注し、その文字の構造について解説を加えた。すなわちこの字書は主として文字の構造を示すためのものであった。もともと漢字の構造法については、前漢末から古文家の経学者の間で六書(りくしょ)という名で知られていたが、許慎の考えの六書とは次のものを指す。
一、指事。二、象形。三、形声。四、会意。五、転注。六、仮借。
この6種のうち、転注以外の5種については、上述したとおりである。ここにかかげた許慎の六書の順序は、漢字の発達の順序とは必ずしも一致しないことは注意すべきであるという。もちろん形声は最後に発達したにちがいないが、形声字がすでに造られた後でも、象形や会意の字が新たに造られることもありうる。
六書については許慎は説文の後序で定義を下し例字を2字ずつ、象形では「日」「月」、指事では「上」「下」という風に挙げている。この定義および例字の示している意義は第5の転注をのぞくほかは明白であるが、ただ転注の解釈のみは古来まちまちである。
その中で、主要な説は3つに分かれるという。
①戴震(1723-1777)の互訓説
段玉裁(1735-1815)の名著『説文解字注』はこれに従っている
②江聲(1721-1799)と許宗彦(1768-1818)の字原分有説
説文の各部に属する字がその部首の字の意義を分有することであるとする
③朱駿聲(1788-1858)の引申説
ある字の原義が変化して異なった意義に用いられるようになった時、なおもとの字をそのまま用いるのが転注で、引申すなわち派生した意義に用いることであるとする。これに対して本義は全く異なり、単に同音語として借用されるのが仮借であるとする。
清朝から近年までの学界で、最も勢力があったのは、上記の戴・江・朱三家の説であるが、各説には一長一短があり、許慎の考えを完全に解きえたとは小川は認めない。
専門の文字学者ではないが、曽国藩(1811-1872)の見解は小川にとって最もすぐれていると考えており、その要点を紹介している。
曽国藩は「朱太学孔揚に与えて転注を論ずる書」という題の書簡において、転注と形声とを対比しつつ、その異なる点を論じている。形声も転注も、義符と声符から成る合体字であるが、形声字の義符はその原字の形を省略することがない。これに反し転注の字は義符の部分が原字の形を幾分とも省略している点が相違するという。
転注ではもとの字を省略するが形声では省略しないのがこの2つの相異なる点であって、つまり転注は形声の変種だということになる。もっとも曽国藩は会意字の場合にも、その構成部分である一つの字が原字よりは省略された形のものは、やはり転注の内に数えているから、正確にいえば転注は合体字の特殊な変種であると小川は理解している。
この考えによると、転注は純粋に文字の構造法の一種として理解することができ、戴震の互訓説、朱駿聲の引申説のような文字構造論の範囲から逸脱したような説よりはまさっていると小川は考えている。
そこで六書がすべて明らかになれば、説文に収めた9300字の中で最大多数をしめるのは形声字で7600字以上ある(ただしこの数字は朱駿聲によったから、曽国藩の説に従って転注字をその中から除かなければならないという)。
これらの形声字は必ず義符を有するから、義符を同じくするものごとに一群にまとめる。
次に、会意の字はいわば2つまたはそれ以上の義符から成るわけであるから、形声字の義符と同じものがあれば、その群へ入れる。こうしてできた文字の群を部とよび、各部には義符となった原字を立てて部首とする。部首の字は同時に一群すなわち部の名称ともなる。こうして説文に収められた総計9353字は540の部に分かたれる。
部首は単体すなわち象形と指事の字が大半であるが、合体の字である場合も少しはある。例えば、木部の部首は単体で、林部の部首は合体であるなどがそれである。部首すなわち540部の排列の方法においては、この書にはまだ一貫した原理はみられない(字画の少ないものから多いものの順にならべる方法は後の宋代に始まった)。
しかし似た意義のもの、字義に連絡のあるものをなるべく近くにおくようにしている。字数の多い部では具体的な字義のものをはじめに、抽象的な観念を表わす字を後においていることが多い。
次に、個々の文字については、篆書(小篆、秦の李斯が定めたといわれる字体)でまず見出しとし、それに隷書(のちの楷書のもとになる字体)を用いて解説を下し、別体があればそのあとに載せ、古文、籒文(戦国時代の書体、この2つは王国維によれば地方的相違だという)の各字体が篆書と異なるときには、さらに次に載せる。そのほか、文字の構造の説明にも一定の凡例がある。
現在行われている説文のテクストは、宋代に徐鉉(じょげん)が校定し、太宗の雍熙3年(986)に刊行されたものから出ていて、説文は組織的な字書の最古のものである。したがって長い間字書の最高権威の地位をしめ、漢字の字体の正しいか否かを決定する際にも、説文が根拠とされた。但し、清朝以来、古い文字研究が盛んになってからはその手掛りがこれに求められ、20世紀に入って金石文から甲骨文の研究へと進むに至り、説文はそれら最古の遺文よりは幾分新しい字体である小篆を基礎としたため、その解説・分析に多少の誤りがあったことがわかったが、その価値を失ったわけではなく、古文字研究者の参考すべき字書であると小川はみなしている(小川、7頁~12頁)。
甲骨文と金文の書体 貝塚茂樹
甲骨文と金文とは、中国の古代の書道を知る重要な資料である。金文が学問的に研究され始めたのは北宋の真宗時代(998-1022)からであった。これに対して、甲骨文が発見されたのは清朝の末葉、光緒25年(1899)である。宋代に基礎をおかれた金文学は清朝の中期(1800年頃)考証学派の阮元の保護のもとに再興されたが、経書注釈学の補助学として言語学的な研究に力を注いでいた。
ところが清朝末期になって、金文学を独自の学として研究しようとする学風が生まれてきた。つまり金文を経書の本文をよむための資料としてではなく、それ自体において解釈しようとする自由な学風が起こってきた。この傾向を創った呉大澂(ごだいちょう)は、説文に載せられた古文という書体が金文とは差違しているので、むしろ周末の戦国時代の書体と見るべきであろうとの見解に達した。金文こそ、周の盛時に書かれ、孔子によって編纂された経書の文字に近いものと考え、これによって説文を補うとした。また呉大澂は独特の篆文体の名筆を振るって、清末書道界に異彩を放った。
呉大澂とほとんど同時代の孫詒譲(そんいじょう)は精密な金文解釈を示し、呉とともに清朝金文学を大成したが、この孫詒譲の晩年に甲骨文の発見という金文学に大きな影響を与える事件が起こった。
光緒25年(1899)、著名な金石学者だった王懿栄が、北京の薬屋で買った竜骨と称した骨の上に、古代の文字が刻されているのを見つけたのが機縁となって、甲骨文字が初めて学界に紹介された。王氏の死後、その幕下の劉鶚(りゅうがく)がその蒐集を継続し、拓本「鉄雲蔵亀」を公刊した。
ところでこの奇古の文字に注目した孫詒譲は、この中に十干を名とした殷王朝の王名を見つけだし、これを殷王朝が占いに使った亀甲牛骨の上に刻した卜辞であろうと推定した。文字学の造詣を傾け、この新発見の文字と金文とを比較研究して、ある程度まで解読した。
この間、「鉄雲蔵亀」を手にした日本の漢学者林泰輔は、この未知の文字を解読し、論文を発表し、殷代の遺物であろうと論じた(1909年)。この論文を読んで刺戟を受けた羅振玉は、卜辞中に殷帝王の名謚十余を発見するとともに、出土地が殷都の遺跡といわれた河南省安陽県であることをつきとめた。その後、全面的な甲骨文字の解読を試み、甲骨文資料の集成刊行と解読との基礎をおくことに成功した。
羅振玉の助手であった王国維は、さらに甲骨文の中から殷の祖先および帝王の世系について、既存の『史記』などよりは正確な知識をもっていることを明らかにし、殷王朝末期の王室所属の卜師の司った卜辞であることが確証されるようになった。
このように新興の甲骨学は清朝後期の金文学を基礎として出発したが、やがて逆に従来の金文学に刺戟を与えて、その進歩を促した。そして両者が一体となって、殷周の古代文化の解明につとめている。
古文字学の解読という言語学的研究から、殷周時代の政治社会文化の全面にわたった多面的な研究が行われている。甲骨文、金文資料の時代を確定することは、史学的な考証とならんで、書体の鑑別が重要視される。甲骨文、金文にどんな漢字の書体が現われ、どんな経路をたどって変化したか、漢字書体の発展史を貝塚茂樹は略述している。
貝塚は、甲骨文、金文を通じて漢字の書体の変遷を追求する際に、注意すべき点として次の点を指摘している。つまり甲骨文と金文とは残存する漢字の中でもっとも古いものであるが、漢字が初めて創造されたときの原始文字そのものではないことである。
金文の中には10字以上の字数をもち、まとまった文章をなしているものがあるが、一方において、字数の少ない金文も多数存在する。そこには人間を中心として、生活に密接な連関をもっている事物や、たとえば動物、器物、また戦争、経済などの社会的現象を絵画的に表現した、いわゆる図象文字を組合わせた例が多い(図13-19)。
宋代の優れた金文学者呂大臨(りょたいりん)は、このような金文中の図象文字を漢字の原始的な字体とみなすべきだと考えた。この図象文字を要素とした金文には、また父丁、父乙(図13)のような名が現われた例が多い。呂大臨は殷代帝王の祖丁、祖乙などのように、十干を名とした慣習と結びつけ、これらの金文を殷代金文と推定し、これに類した銘文をもつ銅器を商器すなわち殷代の製作にかかるものと見なした(1092年)。
宋代の金文学創始期の学者が図象文字と十干をふくむ人名とを標準として立てた殷代金文の分類法は800年後に至って、殷代の同時代史料である甲骨文字の出現によって実証されるようになった。甲骨文字を初めて研究した羅振玉などは、これが事物の形を絵のように書くことによって意味を表わした象形文字で、後世の漢字のように、筆画が固定していないで、その点では不定形であることを指摘した。
「馬」や「羊」といった動物を表わした文字のように筆画が一定していない特殊の象形的文字のほか、一般にはかなり筆画が固定した文字があるのも事実だが、ただ、甲骨文字の筆画が一定せず、繁簡、方向が自由であることは漢字が殷代においてまだ創造過程中にあったので、この混乱した複雑な様相を示すものと解釈された。
羅振玉が甲骨文字を始源的な漢字とした見解は、前述の宋代金石学者の図象文字を漢字の始源的形態とし、これを要素としてもっている金文を殷代金文と定めた説と一致するように見える。殷墟は殷代末期の武乙、大丁、帝乙の三王の帝都と信じていた羅振玉は、この殷末の短期間の遺物である甲骨文の字形の不定で、複雑な形を示しているのは、当時の漢字がまだ始源的な過程にあったからであると解釈した(このことは当時としては当然な解釈であったのだが)
羅振玉は安陽小屯の殷墟を実地踏査したが、まだ科学的な発掘とはいえなかった。1928年から中国国立中央研究院歴史語言研究所が、科学的な発掘を進め、甲骨文の研究は新しい段階に入った。
甲骨学者董作賓はその発掘を主宰したが、亀甲の大版に刻まれた卜辞を解読するうちに、数十の卜辞が数人の卜人が卜った文を記したものであることを見出した。董作賓はこれらの卜人を天に卜いの疑問を問いかける貞問を司る人という意味で、貞人と呼んだ。卜辞の貞人の組合せと殷の祖先王の称号を手掛りとして、貞人を第1~5期の各期に属するものであり、卜辞はこれを司った貞人の署名をもととして、製作年代をおおよそ決定することができることを論証した。
さらに、殷墟が盤庚の遷都から紂の滅亡までの約270余年といわれる殷王朝後半期の帝都の遺跡であるとして、この期間に文字の書体が変化し、複雑な形を示すことは自然の勢いであって、それだけをとらえて殷代の字形が不定で、原始的象形文字ときめることはできないとする。
第1から5期までの各時代に、それぞれ定まった字形があった。中国の漢字は起源以来殷時代に至るまで相当の長期を経過し、いわゆる図象文字から、一定の字画をもった符号文字となっていたと考えた。
甲骨文字は原始的な図象文字でないと論断するとともに、同時代の殷代金文に、人間、動物、器物、社会、生活を絵画的に表わした原始的な図象文字が多く現われるのは、高度の発展をとげた青銅器の美術的な文様と調和させるため、この上に鋳刻する金文を普通の甲骨文字のような書体ではなく、原始的図象文字の書体でえがこうとした。殷代金文は、このような美的要求から生まれた殷代の「古文」にほかならないと主張した。
董作賓は、殷代の後半期においては甲骨文と並行して、絵画的で筆画の一定しない原始的文字が、銅器の銘文として用いられたことは、殷代における書体の分化という現象を示すものであると解釈する。
また戦国時代の装飾化した鳥書と称する書体(図100-102, 105, 106)もまた殷代に起源すると論じているように、殷代における甲骨文のようないわば実用的な書体と、金文の装飾的書体とが分化していたことを力説している。
ただ殷代金文というものには、このような図象文字だけでできているのではなく、父乙、父丁などという甲骨文字と共通な、字形の安定した実用的文字と組合って、文章をなしているものが少なくない。つまり、殷代金文そのものの中でも、絵画的文字と符号的文字とが並存している。殷代金文に現われる図象文字の多くは、このような殷代の氏族標識であったと考えられる。多子族の析子孫形はこの氏族が殷王朝の祖先の祭祀に、祖神の代りに祭肉をうける尸(し)をつとめることを示している。
馬や羊などの動物を表わした金文は、これらの獣を飼育する職業を示したものであり(図13)、旗、盾(図15)、戈、車(図14)は、軍旅に奉仕するのが氏族の任務であることを意味している。挙氏の挙という字は四手網の象形で、漁業を世襲する部族の標識であった(図17)。いわゆる図象文字はこのような氏族標識という特殊な性質に限られ、一般的な文字ではない。殷氏族が抱いていた呪術的な世界観の中で、各氏族の世襲する職業が決定され、部族はこの職分を神聖なものとして伝承していたので、氏族標識を示す文字だけは、原始的な呪術信仰が生き生きとして保持されていた。素朴、新鮮で生命力に溢れた殷代図象文字の特性はこの呪術力にあるといってもよいと貝塚はみている。
董作賓は、殷代における金文の装飾体と甲骨文の実用体との2種の書体の分化を主張したが、このいわゆる装飾体は、殷代金文の一般的書体ではなくて、特殊の氏族標識にのみ限定して使用された書体である。一般の殷代金文ではなくて、特殊の殷代金文であったとしても、そこに甲骨文とは著しく違った字体が残っていることは注目すべき現象であり、董作賓は少なくともこれによって殷代における書体の分化を認めた。この書体の分化は、金文だけでなく、甲骨文の中においても、もっと普遍的に見られるのである。
董作賓は殷代の卜辞を貞人の群によって5期に時代区分し、甲骨文の字形の変化、書体の変遷を時代的に跡づけようとした。十干十二支のような常用字を例にとって、これらの字形の第1期から5期に至るまでの間に変化して行く過程を明らかにした。
次に各期甲骨文が差違のある書風を示していると称えて、次のように特徴づけた。
①第1期の書風は雄偉と評する
甲骨大版の大字がその代表的作品であって(図2)、これらの大字はしばしば強く、太く彫った筆画を、さらに朱で埋めて飾っている(図5 a b)。そのほかに小字でも工整秀麗な作品も少なくない(図3 a b)。これらはすべて中興の英主武丁の風をうけていて、その気魄の宏放とその技術の熟練は驚くべきものがある。
②第2期の書風は謹飭であった。
第1期武丁をついだ祖庚、祖甲の兄弟は守成の賢主で、当時の卜師も規則を厳守して変らなかったので、厳飭工麗の書風をなした(図6)。
③第3期の書風は一転して頽靡に陥った。
前期の老書家が世を去った当期の書家の筆力は概して幼稚軟弱で、筆画の誤りも少なくないといわれる(図7a)。1期、2期の豪放な書風が地を掃って、もっとも堕落した時期といわれる。
④第4期
この第4期の貞人は卜辞に署名していないが、この武乙文丁時代の新興書家は前期の弊を一洗して、作品は勁峭で生動し、時には放逸不羈の趣を呈することすらある(図8, 9, 10)。
⑤第5期
厳整と評されるのは、各卜辞は段、行、字並びすべて正しく、文字はごく小字で「蝿の頭のような小楷」といった調子で、厳粛で整った書風で書かれている(図11, 12)。ただ、獣頭骨上の大字の刻辞はちょっと例外をなしている。
これが董作賓の甲骨文字の書風論であった。その後、殷代の占いを司る貞人を旧派、新派との2群に分け、第1期を旧派、第2期、第3期を新派とし、第4期に旧派が復活し、第5期に新派が復興するというように、この二派の勢力の消長によって卜辞の卜問の性質が異なり、字体書風も変わってくると考えた。甲骨文の字形、書風などの変遷は、一元的な書体の時代による発展ではなくて、新旧2つの貞人の流派という二元的な要素の角逐として説明しようとした。
一方、殷墟第1期の武丁時代の卜辞としては、董作賓のあげた雄偉な大字を書いた25名の貞人集団の卜辞のほかに、細小な字を繊弱な書風でえがいた卜辞が発見された。この類の卜辞は、一般の第1期卜辞が殷王朝の公的な占卜の機関にぞくする貞人の占ったものであるのに対して、これは多子族という部族の私的な占卜機関で占ったものであるという。
さらに、第1期にはいる一群の卜辞には、その書風によって、一般の貞人集団卜辞と多子族の卜辞の中間に位するものが存在した(図3g, 図5e)。これは多子族と並んで殷王朝の有力な部族だった王族にぞくする私的な占卜機関の占った卜辞であることが貝塚らによって明らかになった。
董作賓によって第1期卜辞の典型とされた25貞人、貝塚らのいう殷王朝公式の卜辞の書風を、多子族と王族との私的な卜辞の書風とを比較してみると、対蹠的であるという。公式卜辞の筆画が主として直線、折線によって成り、曲線を用いることが少ないのに対して、私的卜辞の方の筆画は、主に曲線を用いて、直線、折線を好まない。
公式卜辞は直線、折線の筆画を用いて字を左右対称的に構成してゆくのに対し、私的卜辞は曲線的筆画によって見かけ上は厳密な左右対称を破って、自然な線の流動のリズムのなかに調和を見出している。
第1期公式卜辞は厳密な左右相称の均衡美を求めるばかりでなく、大版の卜辞の配列にもこれを重視している。卜辞には、甲骨大版の左右相称の位置で同一の占いを、肯定形、否定形で2度繰り返して占うことがある。これを対貞という。
第1期公式卜辞はとくに対貞の原則を忠実に用いて、卜辞を左右に配置している例が多い。(図1の大版はこの典型的な厳密な左右相称配置を示すものである)。これに対して私的卜辞でも原則として左右相称的に配置しているけれども、あまり厳格には守られない。この対立は公式卜辞を司る専門の卜人の一定の形式技法を固守するのに対して、私的卜辞の非専門卜人の自由な態度との相違から生まれたと貝塚はみている。
ところで文字を筆墨で竹木などの上に書く習慣があったと想像されていたが、中央研究院によって朱墨で文字を第1期甲骨上に書いたものが発掘された。白色陶器の破片上の墨書や玉器上の朱書も見つけられた。殷墟第1期においてすでに文字が筆写されていたことが実物によって証明された。
第1期の公式卜辞の書体の筆画が直線的であることは筆によって書く文字ではなくて、刀によって彫りこむのに適しているので、この書体を契刻体の書と見なすことができる。これに対して、私的卜辞の曲線を愛用した書体は、筆で写した文字にふさわしいのであるから、筆写体をもととして、これを刀で彫ったと見ることができる。このように、殷墟第1期における公式卜辞と私的卜辞との異なった書体は、契刻体と筆写体の分化として解釈すべきものであろうと貝塚は理解している。
甲骨文字の書風の変化はこの殷墟第1期における契刻体と筆写体の2つの書体が相互に働きかけ合いながら、発展した結果であろうという。この発展は契刻体よりも筆写体への転化の方向をとったので、第5期の小字は甲骨文における筆写体の最後の勝利を意味する。
卜辞以外に、殷代後期の金文には、より筆写体の原物に近い力強い筆致を見せたものがある。殷代後期金文中にもより細い曲線的で流動的で柔媚な趣をもった書風も認められる(図28, 29, 33)。だから殷代後期の書体は筆写体をもととしながら、さらに細かい分化が現われていたとみられる。
周王朝は西辺の陝西省の本拠から東征して、中原の殷墟に都した殷王朝を征服した王朝である。周王朝の歴史は西周時代と東周時代に区分される。つまり周室が宗廟のある陝西西安付近の鎬京を宗周と呼んで、常時はここに居住しながら、河南省の洛陽を成周と呼んで政治的首都として、時々中原の諸侯を来朝させ大会議を開いていた。前1100年頃から前770年までのこの期間が西周時代である。一方、周室が西の戎狄によって宗周の都を失陥して、東方の洛陽の成周に移って以後、秦の統一までの約5世紀、すなわち前770年から前256年までを東周時代と呼んでいる。
西周時代の金文は、宗周、成周の二都名がよく現われるので、容易にこれを分類できる。そして東周時代の金文は周王朝の中央集権が破れ、諸侯が地方に割拠したので、金文もまたこれらの諸侯の国で作られたもので、西周金文とたやすく区別できる。
ここで貝塚は西周金文における史官の書体について解説するにあたり、郭沫若の見解に基づいて論じている。
まず郭沫若は西周の金文について、金文に出てくる銅器の作者や、宰相史官などをもととして群に分類し、それを綜合して西周金文の編年化を試みている。この金文の群分類によると、西周時代では前期、中期、後期の3大群に分れるから、西周金文をさらに3期に分けて、その書体を貝塚は特徴づけている。
西周前期金文は、武王、成王、康王の3代の治世にわたるものである。周王朝は殷墟第1期・武丁時代卜辞に、周侯の名の下に、殷の都に来朝していることが書かれているが、殷の文化に接触して以来征服まで3世紀に近い期間が流れている。中原の進んだ殷王朝の文化は周氏族にかなり摂取されていたと想像されるが、西周金文中最古の武王時代の器である「大豊𣪘(たいほうたい)」(図34)の字形は、殷末期の金文、甲骨文のいわゆる筆写体の字形を踏襲してはいるが、書としては稚拙の感を免れない。
殷王朝を征服した武王についで即位し、成周の王都を建設した成王時代の金文に至って初めて独自の書風を形成しかけた。洛陽から出土した「令𣪘(れいたい)」(図35)、「令彝(れいい)」(図36)はこの地に居住し、名相周公旦に仕えた周の史官が鋳造した器である。「令𣪘」の鋭い筆致は成王東征中の器であるにふさわしく、「令彝」の整った書体は洛陽で開いた周の大朝会に際した器であることを思わすものがあるという。両器ともに周公旦の創設しつつある周の新しい政治社会の制度の表現であったと貝塚はみている。
ところで『礼記』表記には、「殷人は神を尊び、民をひきいて神に事(つか)え、鬼を先にして礼を後にす」るのに対して、「周人は礼を尊び、施しを尚ぶ。鬼に事え神を敬して遠ざく」という。殷代は超人間的な神を信じ、亀卜による神意によって政治を行った。周代でも亀卜は行われはしたが、漸次権威がなくなってきた。鬼神すなわち祖霊の祭祀は大切に行うが、鬼神の意によって政治を決定することはすたれ、礼を尊び祭祀を中心として周民族の各部族の団結を強固にすることに力を注いだ。西周の金文は、このような政治的社会的な意味をもった祭祀に使用される銅器の製作銘文である。
銅器自身と同じように、この金文も周公によって創作せられたという礼を具体的に表現したものである。殷代金文は鬼神という呪術力の生き生きとした表現であったのに対し、西周金文は礼という厳粛な儀礼の重苦しい表現であった。殷代の金文は素朴で新鮮で、ときに流麗な書風を示しているのに対して、西周の金文は厳格で人工的であり、形式化する傾向を内包している。
その間において、東方の山東省地方で製作された「禽𣪘」(図40)や「大保𣪘」(図46)には、殷代の多子族卜辞と金文を特徴づけていた流麗な曲線的な書体がまだ少し残存していた。西周前期の金文の代表作と見るべき「周公𣪘」(図50)では筆画は始と終とは鋭く尖り、中ほどは太く肥え、いわゆる肥筆であった。そこには殷代金文の特徴である生命の躍動した強い筆力がまだ残り、整った字の結構とよく調和して独特の厳粛な気分を出している。
成王につぐ康王の時代に入ると、史官令の子である「作冊大」の器文(図47)は、父令の器よりは字形だけは整っているが、その気魄は失われ、「庚贏卣(こうえいゆう」(図57)になると、その形式化はさらに進んでいった。その中で「大盂鼎」(図54、55)の文字は独自の雄健な筆意を発揮している。
西周中期の昭王、穆王の治世に入ると、「静𣪘」(図64)のように、金文の筆画に肥筆は減って、一般に細く変化が乏しくなり、一層生気が欠けてくる。西周中期の金文は器数も少なく、わずかに前期から後期への過渡期をなしているにすぎないので、書体として重大な意味をもっていない。
西周後期に入ると肥筆は全く消滅してしまう。筆画は一定の幅をもった線となって、肥筆のような変化が失われた。しかし字形もこれに伴って単体字が減少し、扁旁をもって構成する形声字が増加してきた。形声字では義符と声符との要素を組合せるにあたって、会意的な配列がおおく、上下左右自在であった。後期に入って、扁旁として左右に組合せ、緊密な平衡を保つように布置されてきた。西周後期の中では、早い作品である「史頌𣪘」(図65)、頌鼎はこの傾向を代表する優秀な作品で、頌、徳などの諸字について扁旁化を見ることができるという。
殷から西周および東周前期までの金文は、すべて鋳造銘である、いわゆる鋳款であった。
字を原型に刻みこんで、これにかぶせて鋳型を作って、銅を流し込んだ。字を原型に刻み込むことを琢と称したが、墨子が「これを盤盂に琢す」といったのは、これに当る。琢と篆とは音通であるから、このようにして金石に刻まれた文章を篆文と称するようになったといわれる。
字を原型に刻みこむにあたって、方格を作ってそこに一字ずつほりこむ方法が西周後期から行われ出した。方格の中に字をはめることは、繁簡さまざまな字画で構成された字を無理に一定の大きさに統一することであり、あたかも活字で組んだように、字としては不自然な書き方を強制することになる。方格の使用と、扁旁の固定とは、のびのびと書いていた文字の動きを制限する結果となった。現在の漢字の直接の祖先である大篆は、このような西周後期の金文をもととして、このころ発生した。
金文の文字字体はこのようにして形式化し、固定して、一字の書としての妙味を喪失したが、金文の内容は後期に入って長文となってきた。とくにこの期の金文は周の天子が臣下を官職に任命し、車服などの多くの恩賜品を与えた辞令書を記録したものが多くなった。周室と家臣との封建的な関係を永遠に書き残す記録的な意味を荷うようになってきた。「大克鼎(だいこくてい)」(図76, 77)、「毛公鼎」(図82, 83)はこのような封建的策命の金文の代表である。「毛公鼎」は総計497字に上る現存金文中の最長の金文であり、西周後期に慣用された普通の策命文ではなくて、西周前期の「大盂鼎」などの文体を模した擬古的な文章である。
これに対して、「大克鼎」は西周後期の策命文の前段に作器者の克の祖先の功業を述べた文章を付し、西周後期の温雅な文体の典型と見られる。字体はやや長目な方格の中に収められ、書体も整然として一糸乱れず、西周後期の最上の傑作とすべきであると貝塚はみなしている。
記録的な文章としては、奴隷の売買を述べた「忽鼎(こつてい)」(図70, 71)、荘園の譲渡の誓文である「散氏盤」(図80, 81)など、法律文書として異彩を放ち、書体も独特である。
ところで東周時代は歴史的には春秋時代(770-481B.C.)と戦国時代(481-221B.C.)とに分れたが、金文に関する限りでは、この2つの時代の金文を厳密に分類することは困難であるという。例えば、郭沫若は東周時代の金文を列国的に編纂し、西周時代のように年代的に配列しなかったのは、列国が独立して周王の紀年を載せた金文がほとんど見当らなくなったからであった。
さて春秋時代に属するとされる金文について見ると、西周後期金文を継承して、やや地域的特色を示し始めたことだけは指摘できるようだ。西周後期の金文として代表的な「大克鼎」、「毛公鼎」などは史官の記録として固定化した書体が成立したが、これらは関中の西安を中心とした金文であった。だがすでに地方的には西周の統治権の失墜に伴って、西周後期金文の典型の崩壊および堕落と、その地方化が進行していた。
「師袁𣪘」(図85)は南方淮夷の叛乱について記述しているが、その書体は地方化した金文の一型を示している。この意味においても春秋時代の列国金文の地方的分化も西周後期金文の傾向をついで推進したにすぎないといえる。
春秋前期と中期との境目にあたる頃の斉の「国差儋(こくさたん)」(図89)と「秦公𣪘」(図91)とを比較してみると、東方と西方の極端では相当に異なった書体に分化してきた傾向を看取できる。「秦公𣪘」は説文に籒文として登載された書体に類似していて、西周後期の書体を踏襲した斉の諸器との差は、同時代の器と信じがたいほど著しい。
春秋中期から後期にかけての東方列国の金文を見ると、各国の地方色を強く出してきている。陳夢家は列国の器を5系統に分類したが、中でも注目すべきは南土系(呉、越、徐、楚)中の呉越に発生した鳥書と称した、文様化した文字であった。
春秋後期から戦国の初期にかけては、このような金文の地方差が最も顕著に現れた時期である。やがて各国の金文独特の書体が、列国間の交通の頻繁化に伴って、次第に他国にも浸潤し始めた。戦国後期の「曽姫無卹壺(そうきぶじゅつこ)」(図101)の書体は、「秦公
𣪘」(図91)の籒文体を模して、やや時代的に晩期の特色を加えているにすぎない。
戦国後期に入ると、このような列国書体の伝播、相互影響が出てくるので、金文の書体の編年的な研究は一層難しさを加えてくる。春秋戦国時代の金文書体の編年的研究は、このように未発展の状態である(貝塚、13頁~23頁)。
古銅器の形態 梅原末治
中国の古代にさかんに鋳造された青銅の容器はその形態が多様かつ複雑であり、また重要な文字が印されている点で、他の古代文化圏にその例をみない特色をもっている。日常の容器とかなりかけ離れた面の多いその形態は古典に伝えられている礼の器であることが考えられる。またその文字が中国でもっとも古い時代の貴重な史料であることから、これらの器が重視され、その研究が一方では経学の一つの部門となり、他方では金文の学として唐・宋代から特殊な発達を遂げた。
すでに宋代においてそれらの器形を古典にみえる礼楽の器の名称と較べ、その用途を考えてきた。そして20世紀になると、王国維が『古礼記略説』を書いて、伝統的な解釈を再検討した。ただ、古銅器自体に即した形態の観察という面になると、中国ではそれへの関心が欠けていたが、20世紀とりわけ1928年以降、考古学的に遺跡の調査が進められ、多数の古銅器が見出された。従来単に三代の古銅器と汎称されてきたが、器形の上からそれぞれのもつ性格を推定し、また新たな年代観が組み立てられるまでになった。
古銅器の形態はもともとそれが容器であるから、鉢、壺などの類が目立っている。また中国史前の土器を特色づける三足の器の系統をうけた鼎や、豆とよばれる高杯なども見うけられる。しかしそれにもかかわらず、多くの古銅器は世界各地でみられる古代容器と形の上で著しく趣を異にしたものが多い。このことは𣪘(たい、本来は物を盛る鉢)や、三器一具の盉(か、注口器)にみられるような奇態な形の上に端的に表われている。そしてこのような器で容庚がその著『商周彝器通考』に載せているものは食器、酒器、水器に一部の楽器を加えると、50種を超えている。
そのような特徴をもった古銅器の各形態は、基本となる器体にすべて器台なり、脚が作られて安定した形をとっているほか、様々な余分な部分を作り添えて複雑な様相をしている。形態の上での通性からすると、古銅器は一般に常用された容器とは趣を異にしていて、装飾的な面の多いものである。そして日常の器からこのような器形ができあがるまでには長い発達の過程をへてきたことがわかる。器自体が中国の古典に伝えられる礼楽の器であることも知りうる。
このような特色を具えた銅器が殷の後半の時代に盛んに作られていて、銅器としての頂点を示しているものがあることが殷墟の学術発掘により確かめられた。もっとも発達した銅
容器の類が殷代において完成を示し、次の周代ではその伝統がうけつがれたと見るほかなくなった。このことは中国古代の文化を考える上に極めて注目すべき事実といわなければならない。
中国の学者が古典に散見しているものから食器、酒器、水器などに分けてあげている様々な器形のほとんどすべてがこの時代に存在している。すなわち食器では、鼎(てい)、𣪘(たい)、酒器では角(かく)、爵、斝(か)、觶(し)、觚(こ)などが飲酒の器とされ、尊、卣(ゆう)、盉、觥(こう)、罍(らい)、瓿(ほう)、壺、彝(い)などが貯蔵の器、さては水器として盤などがそれである。
まず鼎では、款足の形をおそったもののほかに、両耳の器に棒状の脚が付けられて整った形をなすものが多い。それらと並んで、四脚の方鼎もあり、また脚が禽獣の形をしたものも見受けられる。器台(圜足)を具えた鉢の形をして穀物などを盛った𣪘の方はこの基本形態のほかに左右に大きな獣首飾りの把手をつけているのが特色である。
角と爵は縦長丸底の器体に、もと動物の角から導かれてきた器の名残りをとどめながらも、三つの尖刀状の脚を付して器の安定に備え、側面に把手をつくり容器としてはすこぶる変わった形である。
斝は爵と相似した二柱一把手であるが、背の低い器体の上縁が一文字で注口などなく、かつ形も大きい。またコップに似た断面長楕円形をなす觶に較べると、觚の方は細長い器体の上縁が朝顔形に大きく開いて、それに高い器体を作り添えた目だった形をしている。殷代の器に多い尊はどっしりとした大きな器台(圜足)の上に横張りの器体があり、それの括れた上に外開きの口頸部をつけた形をとる。また罍は同じく上辺の括れた縦長の壺形を基本形とするが、一対の耳と一個の引手をつくり添えたところに特徴がみられる。
瓿もまた大型の背の低い壺形の器である。彝は上げ底の断面矩形の箱に屋根形の蓋を加えた形態によって他と区別される。また、尊と並んで遺品の多い卣は圜足を具えたすわりのよい器体に蓋がつき提梁を架けた形である。そして盉と觥とは液体を貯えて、それを他に移すための器で、今の土瓶とか片口に相当するものである。
以上略述した個々の古銅器は、文様によって特殊な趣を加えているが、その文様のほとんどが奇異な禽獣文である。禽獣文のうちで、もっとも目だつのは饕餮(とうてつ)とよばれるものである。それと並んで虺龍、夔鳳から象、蝉、魚など様々なものに及んでいる。またこれらの器の銘文となると、それを欠いた器があるばかりでなく、その多くは象形の記号ないしは祖先名を組合わせた簡単なものが多い。
銅器は上述したように殷代後半に完成形を示していたが、ひきつづいて周代においても盛んにつくられた。ただ両者の間に俄かに区別しがたいものがあったので、これを殷周期とに総括した年代観もみられたほどである。
しかし器にある銘文を考えてみると、周初の記録的な銘文から、それに文飾を加えながら、次第に整った形をとって中周に続いていることがわかる。また形態の上でも鼎をはじめ𣪘、壺、卣、尊の器形や装飾などが古いそれを継承しているようにみえても、時代の進展にともなって、東周に入ると古銅器と不離の関係にある礼の衰退が現われ始め、変化が生じてきたと解釈されている。
周の中期には銘文におのずから差異があり、器形においても、盨、簠など新しい器形が見られる。注口の器である匜も、基本の形態では兕觥の系統をうけながら怪異な蓋などはなく、実用的な形に近づいたものになっている。壺の類にあっても、古い罍、瓿などに代わって両側の上部に遊環をつけた別個な趣を呈するものを主とするようになったし、殷代の器形に目だって見うけられた角、爵、觚、斝などの諸器や、禽獣形の器などで当代の文字のあるものは存在しないようであるという。
これを装飾文についてみれば、饕餮文を主とした禽獣文が殷代の器とくらべ、かなりの便化が認められるほか、別個な装飾文の要素(例えば羽状とか鱗状とかいわれる帯文など)が目立つ。このような要素を辿ってゆくと、周の初期にまで遡れると梅原は推測している。そうであるならば、この時代の器に周初と同様に、史官の書いた辞令の文章を刻している事実と並んで、周の古銅器が殷周初の伝統をうけながらも、それ自体の特色を示すものといってよいと梅原はみている。
次に戦国時代の古銅器についてであるが、秦銅器とよばれた遺品は、その形態や装飾文の上で殷周の古銅器と趣を異にするところがあり、それまでの古銅器観に新たな展開をもたらすことになった。これを形態についていえば、器の種類では、鼎、豆、𣪘などから盤など、周代中期のものと大差はないが、しかしこれらの器形は従来の古銅器が厚手につくられて、個々の形の上に超現実的な面の多いものであったのに対して、薄く仕上げた軽快な趣を呈し、実用の容器としてふさわしい形をしている。この点で、これまで礼楽の器としての夏・殷・周三代の尊彝と区別されてきた漢代のいわゆる服御之器と近いものがある。
器形にも変化がみられたように、文様にもまた差異を生じて、外観を一層別個なものとしている。装飾文の要素は著しく細緻に平面的になり、表出が地文化し、より古い時代の古銅器のような怪異さがなくなっており、これを一定の単位文を型で繰り返すというメカニカルな表出法によったところにその特色がある。
次に、器の銘文では、概して簡単な刻文で、郭沫若が『周代彝銘進化観』の中で、「簡単に自己の名をしるす方法にかえり、あるいは工人の自由にまかせて、銅器にはつくった工人の名を署するという風を生じた」としている。このように戦国時代の古銅器は古い系統を受けながらも、むしろそこでは新しい多くの面をもっている点で、次の漢代の器に近いという。
以上、古銅器の形態観にあって認められる点は、時代による変遷があるとともに、もっとも古い殷の時代において、形態の上で一つの頂点を示している。もともと古銅器が容器を主としたものなので、その形態の基づくところが普遍的な土器や骨角製容器などにある。しかし現実に古銅器の示す形態から直ちにそういうものとの連繋をたどるとなると、間隙が大きすぎるので、両者の間に中間形式のあったことが想定されてきた。かねてそういう先行の容器が木器であると推測されてきたが、河南省の殷墓の学術発掘で現実に木器類の存在を物語る痕跡が見出されたことは大いに注目されるべきであるという。
古く日常の容器として作られた木製の容器類が、それ自体の材質から、形の上で土器などと差異を示すように進んでいったものが殷代になって青銅が豊富となり、鋳銅の技術が進んだ結果、それに移して作られるようになった。これが古銅器としてもっとも古い殷代の器に一つの完成形が示されているゆえんのものであろうと梅原はみている(梅原、24頁~31頁)。
近時出現の文字資料 梅原末治
中国において漢以前に遡る文字の資料としては、古銅器の款識すなわち金文のほかに、19世紀の末年に殷墟から出た亀版獣骨に刻された貞卜の文字がある。甲骨学として、金文学と並び一部門をなすようになった。これを書道史の立場からみれば、例えば董作賓のいわゆる甲骨文の断代研究によって、この最古の文字の上に発達の段階をたどることができる。
ここでは20世紀、中国における先秦遺跡の考古学上の発掘(殷墟の発掘が中心)の結果によって知られだした甲骨文以外の資料を梅原は紹介している。
1920年代の終わりから着手された殷墟の発掘により、利器においても重要な知見が示されることになった。それら利器は勾兵とよばれ、特色のある形をなしており、常用の利器としての性格から離れた、一種の儀表の器とみられている。
殷墟の発掘で知られた利器に刻された文字は、周になって銅容器に重要な銘文を印することになったことはやや趣を異にするようであるが、しかし儀仗的なその類が引き続いて行われたことは、周の後半の戈などに見られる銘文よりわかる。
ところで、周の後半戦国時代の利器類にあっては、豊飾化が著しくなり、新たに金銀象嵌の文様で飾られた器が少なくなく、文字もまた以前の鋳銘と並んで金象嵌のものがある。そして文字それ自体もこれにともなって装飾化した特殊な書体をなすようになった。つまり鳥書というのがそれで、書道史の上からも注意されている。このいわゆる鳥書の利器
は、1920年代の後半に、安徽省の寿県を中心とした淮河流域出土と伝えるものが世に現われ、さらに湖南省長沙古墓群の採掘によって一層著しくなった。ただこれらは殷墟の場合と違って、学術発掘の資料でないため、まとまった知見を欠くうらみがある。それでも銘文のある利器は狭義の戈をはじめ矛、銅剣の類にわたっていて、主として身の部分に金象嵌で表わされるといった目だったものである。例えば英国博物館に所蔵する戈(挿56)や、細川家に蔵される銅矛(図105)がそれである。この鳥書は銘文の意味と、出土地域(長沙)とから、戦国時代に南方の楚の地方で行われた書体の一つであることが認められている。
次に新しい資料として、前述した利器類とあい前後して出現した戦国時代の容器上の文字がある。金文は主として周の初期、中期の尊彝の類にあるが、それ以後の文字に至ってはある種の器に限られていて割合に乏しかった。
ところが、1920年代の終わりに洛陽郊外金村の古墓から遺品・遺文が発掘された。金村出土の金文のうちで、もっとも著しい存在は「驫氏編鐘」(図110)である。これは後の隷体を思わせるような整った書体の銘文で、その内容から年代を推定することのできるもっとも古い金文例である。もっともその実年代の比定については、出土の当初考えられていた周の霊王の22年(550B.C.)とする見方に対して、郭沫若は安王の22年(380B.C.)であるとし、また唐蘭は烈王の22年(404B.C.)とし、いまだ決していない(全集では、戦国初期とする。図版解説、205頁参照のこと)。
この編鐘以外の金村出土の金文として、「嗣子壺」とよばれる一器がある。また三脚を具えた漆器の奩の台金具に針書したものがある。その年次は周の顕王(332-329B.C.)あるいは赧王(278-275B.C.)のいずれかに当たるという。
これと同じ書体の文字は金渡金の銀盒や銀製の人物像にも刻されていて、その自由な刻字の全文の解読は困難であるが、新たな当代の文字例をなす。
この長沙の古墓から出土した銀象嵌の金具を付した「漆奩」(図126)の底裏に文字が刻されいるのも同じ類である。これは方形の区画内に4行に刻されていて、同じく廿九年の年紀がみられるのは現存する漆器の銘文のうち最古の例をなすという。
また湖南省長沙古墓の検出によって知られることになった布帛文書、竹簡の一群も、新たな文字資料である。20世紀初めから1930年にかけて、スタインやヘディンによる西域探検により、漢代の簡策、木札文書が発見され、画期的な文字資料を提供したが、この長沙の発見品は漢代以前に遡ることと、そのうちに布帛の文書が含まれていることで、一層重要視された。
長沙の古墓群は、1930年代後半、市街の発展に伴う土木工事により遺構が発見された。戦国時代の墓葬は、木室が厚く粘土で被われ、内部が浄化された湿気でみちていたことから、稀にみる完好な保存状態を保っていたようだ。出土した「楚帛書」(図127, 128)の文字は金文に似た篆書であり、しかも細密に墨書されたものである。録された文字は、神を祀る文であり、周辺の図像はその祀られた鬼神を描いたものと考えられている。香港大学の饒宗頤は、この「楚帛書」について、篆籒筆写の運筆法を知るに足る最古の資料として、中国書道史上の至宝と評している(図版解説、214頁参照のこと)。
次に竹簡(図129, 130)の類は布帛文書とちがって、中共の治下になって1951年より長沙遺跡の学術発掘で見出された。時代の違う2つの古墓の構造が明らかになり、上方に位置した漢代の墓室のあるものに木簡の類や、また下方の戦国時代の木造の室内に竹簡や古印が遺存することが認められた。竹簡に墨書された文字は漢代居延の木簡などとは違うが、しかも布帛の書と似ていながら、自由な筆致で書かれているところにまた別な趣があり、当代の文字の貴重な資料をなしている。
この長沙の資料は墓室が地表下深くに営まれて、これらの遺品が清浄な水気のうちにあったために幸いに保存された。この点からすると、乾燥のために保存された西域での織物や木簡類とは全く相反した環境であった。しかもこの相反する二者が、考古学上の調査によって新たにその存在が明らかにされたことは、20世紀における古代中国の文字学の上での大きな事実といえると、梅原は付言している(梅原、32頁~37頁)。
古印について 水野清一
中国の印章は古来もっぱら文字の印がおこなわれた。ただ中国でも周末から秦漢にかけては、かなり画像印がおこなわれ、「肖生印」の名で呼ばれている。画像が禽獣、人物を主にしているからである。
文字印は、陽文(朱文)にしても、陰文(白文)にしても、表面と溝の底との二段になる。中国ではもっぱら青銅印で、まま玉印があり、まれに骨印、陶印、ガラス印があり、湖南省長沙の発掘で、周漢の滑石印、松石(トルコいし)印、金印が知られている。
中国で印章が一般につかわれたのは、もとより東周以後であり、とくに戦国時代以後であるとされる。東周末、戦国のものは河南洛陽金村のいわゆる韓君墓、河北易県の燕の下都、湖南長沙の楚墓から発見されている。
燕の下都出土のものは白銅貨青銅印で、整った文字が深く鋳だされており、普通にみる古鉨の一種である。洛陽金村のそれは青銅印と玉印であるが、これらも古鉨中に普通にみる形式である。これに反し、長沙楚墓の古印は変化にとみ、印材も金、青銅、松石(トルコいし)、滑石の4種を含む。戦国印、秦印もしくは漢印とみられている。このように長沙の楚墓のものは、周鉨から秦印、漢印まで含み、その間における推移の方向がおのずから察せられる。
出土地のわかるものをいえば、上記の数例であるが、この他に陝西と山東と綏遠がある。これらは古印の出土する三大中心であるという。古くは陝西、すなわち関中の漢印が注意にのぼり、阮元、陳介祺になって、ようやく山東の古印が有名になり、さらに陳介祺、羅振玉になって綏遠の古印が注意されるようになった。これらの遺跡出土印によって、殷周から秦漢にいたる大勢がほぼ明らかになったと水野はみている。
文字については、陽文の殷金文から東周ふうの金文(古文)になり、ついにそれが整理されて、詔版文字の秦篆になり、ついで漢のいわゆる模印篆に変化した経路がほぼみとめられる(水野、38頁~43頁)。
古石刻について 神田喜一郎
石碑の国と中国を呼んで過言でないほど、中国には至るところ石碑が多い。碑林といって石碑が林のごとく立ち並んでいる場所さえもある。
その石碑は、何時ごろからどうして起こったか、すなわち石碑の起源という問題については学界に異説がある。中には、夏の岣嶁(くる)の碑という伝説上の石碑もある。これは夏の禹王が自ら治水の功を書きしるしたと伝えられるものである。岣嶁というのは、今の湖南省衡陽県にある名高い衡山のことであり、現に衡山の雲密峰には、その原石と称するものが存在している。しかしこれは全く後世の偽物である。
今日確かに信じ得る古石刻として原石の遺存しているのは、「石鼓文」と秦の刻石だけである。それから、その文字の摹本のみが伝わるものに、秦の「詛楚(そそ)文」というものがある。以下、神田喜一郎はこれらのものについて説明を試みている。
「石鼓文」については、北京の孔子廟の正門である大成門の左右に、大きな鼓状の石が5個ずつ硝子箱に入れて陳列されている。これがいわゆる石鼓で、それに刻されている文章が「石鼓文」(図131-134)である。
石鼓という名称は、その形状が鼓に似ているところからおこった俗称で、元来は碣と呼ぶべきものであるという。そして「石鼓文」の内容が多く狩猟のことに関しているので、これを「猟碣(りょうけつ)」と呼ぶ学者もある。しかし、唐の韓愈や宋の蘇軾のような大詩人が、いずれもこれを詠じた「石鼓歌」という大作を遺していて、一般には石鼓の俗称が広く用いられている。
この石鼓は、その年代について古来異説が多い。古くは周の成王時代のものとみる説があり、新しくは北朝の宇文周の時代のものとみる説がある。しかし普通に信じられているのは、周の宣王の時代のものとみる説である。これは石鼓に刻されている文章が、周の宣王の時代の製作と考えられている『詩経』の中の小雅車攻・吉日の諸篇と似ているということと、その字体が周の宣王の時代に製作されたと伝えられる籒文によく似ていることが大きな理由となっている。しかし、今日ではこれらの理由は全く理由にならず、この通説の支持者は少なくなってきていると神田はいう。
そして新たにその文字の字体や内容から考えて、石鼓を東周時代に秦で作られたものとする説が有力になってきている。秦刻としても、秦の何王の時代のものかという点になると、諸家の間に異説が多くて一致しない。唐蘭は「石鼓文」の字体と内容とを検討して、その年代を秦の霊公の3年、すなわち周の威烈王の4年(422B.C.)と決定している。神田はこの説をほぼ正鵠にちかいものとみなしている。
そして「石鼓文」の字体が小篆に似ながらも繁複なところがあり、また周の金文に較べては多少斉整されている。これらの点から察して、東周時代における秦の刻石であることだけは、ほぼ間違いなかろうと付言している。
さて、「石鼓文」の文章はかなり難解で、韓愈のような学者でも、「辞(ことば)は厳に義は密にして、読めども暁(さと)り難し」と嘆じている。しかし元の潘迪(はんてき)が「石鼓文音訓」を著して以来、解読が進み、狩猟のことを詠じた韻文であると解されている。
この石鼓は、唐初はじめて陳倉の田野から発見されたものといわれている。陳倉は、今の陝西省の宝雞県にあたる。ここは昔、秦の文公が狩猟したと伝えられる土地である。ここから発見されて、その後移されたが、宋の大観年間(1107-1110)に、国都汴京(べんけい、今の河南省開封)の大学に置かれることになり、ついで宮中の保和殿に移された。しかし金が汴京を陥れる(1126)に及んで、石鼓を燕京(今の北京)に運んだが、元代、これを孔子廟に置き、民国22年(1933)まで、同じ場所にあった。
秦の始皇は天下を統一した(221B.C.)後、各地を巡幸して、頌徳碑を建てた。それが秦の刻石と呼ばれているもので、次の7石である。
1.嶧山(えきざん)の刻石
秦の始皇治世の28年(219B.C.)、すなわち天下を統一して後の第3年、今の山東省兗州(えんしゅう)府にある鄒嶧山に建てた頌徳碑で、これが始皇の第1次の刻石である。
2.泰山の刻石(図137)
同じ年、山東の名高い泰山に建てた頌徳碑で、始皇の第2次の刻石
3.瑯邪台(ろうやだい)の刻石(図135, 136)
同じ年、今の山東省にある瑯邪山に建てた第3次の刻石
4.之罘(ちいふ)の刻石
その翌29年(218B.C.)、今の山東省福山県の芝罘に建てた第4次の刻石
5,之罘東観の刻石
之罘の刻石と同時に刻された第5次の刻石。東観とは東遊の意。
6.碣石(けつせき)の刻石
秦の始皇治世の32年(215B.C.)、今の河北省昌黎県の碣石山に建てた頌徳碑。
7.会稽の刻石
秦の始皇治世の37年(210B.C.)、今の浙江省紹興県の会稽山に建てた頌徳碑。
いわゆる秦の刻石は、以上の7石である。その本文は嶧山の刻石を除くほか、すべて『史記』の始皇本紀にみえている。ただ原石は大半亡佚して、現在は泰山および瑯邪台の両刻石の残片が存するにすぎない。刻石を後世模刻したものはいろいろ伝わり、中には真偽疑わしいものもあるが、宋の淳化4年(993)に鄭文宝の摹刻した嶧山の刻石などは信用してよいという。秦の刻石の文字は、すべて李斯が書いたといわれている。小篆の典型として古来尊重されているが、泰山や瑯邪台の刻石のわずかに残っている文字をみても、いかにも斉整した、品格の高い立派な書であると神田は評している。
詛楚文というのは、秦の恵文王が楚の懐王と覇を争った時に懐王を呪詛した文である。原石が現存しないが、その年代からいうと、秦の刻石よりも古く、東周の赧王の2年(313B.C.)すなわち秦の恵文王の12年に、秦で作られたものと考えられている。
原石は1.巫咸文(ふかんぶん)、2.大沈厥湫文(たいちんけっしゅうぶん)、3.亞駝文(あだぶん)の3石があって、これを併せて「詛楚文」と称した(3石ともに宋代にはじめて発見されたが、間もなく亡佚した)。
巫咸は巫神、大沈厥湫は厥湫という大きな淵、亞駝は河の名といい、これらの神に秦の恵文王が祈願した。宋の欧陽脩の著した「集古録」をはじめ、その記録が多く遺っている。その文章は難解だが、古代に行われた一種の宗教的儀礼を知る上にも重要な文献であるとされる。今伝わる「汝帖」所収の文字・字体は摹刻ではあるが、「石鼓文」や秦の始皇の刻石の文字と比較して、当時の字体を知るによい参考資料となるものである(神田、44頁~48頁)。
別刷附録 楚帛書
さて、以下、順次、この目次に従って、『中国書道全集』の内容を要約していく。
1 中国1 殷・周・秦
「第1巻中国1殷・周・秦」には、殷王朝の殷墟遷都(前1400年頃)以後、秦の滅亡(前207年)まで、約1200年間を収めている。この時代の資料は、筆墨で書かれたものは稀で、大部分は甲骨文、金文などのような金石文であるから、図版は拓本が主になっている。
中国書道史1 神田喜一郎
書は中国に発達した一つの特殊な芸術であるといわれるが、書が文学や絵画に伍しつつ、芸術として発達した根本的な理由として、中国の文字、すなわち漢字そのもののもつ特性を神田は挙げている。視覚芸術として審美的対象ともなる可能性が漢字そのものに、最初から内在していたと考えている。
しかし、今日いう意味での書道、すなわち芸術としての書という意識は、必ずしも上古から確立していたわけではない。いまだ漢字形成の途上にあっては、芸術化する余地はなかったが、漢字が一応形成過程を終えて固定化したのち、自覚的な芸術意識の覚醒がはたらくに及んで、はじめて真の書道が成立する。
その時期は今から1800年ほど前、すなわち後漢の末頃を神田は想定している。つまり中国書道史は、後漢を境にして前史と本史に分かれるとする。さらにその前史は秦の始皇を境として、前後2つの時代に分れると考えている。秦の始皇は、各種の字体に一応の終止符を打ち、新しい統一的な字体をつくった。先秦時代の歴史は長いが、これを書道史的に見るならば、それは漢字形成の過程の歴史であって、やがて後代の書芸術の発展を約束する最初の長い準備期であったと神田は考えている。
漢字は中国における書の発達と不可分の関係にあるが、その起源については定説というべきものがなく、不明である。今日確実に知ることのできる中国最古の文字は殷王朝の甲骨文である。
殷王朝は第20代目の盤庚(ばんこう)の時に、都を安陽にうつし、中原に強大な勢力を振うた。その年代はだいたい紀元前14世紀から11世紀に至る頃と推定されている。この時代の殷王朝は、青銅器文明が栄え、その貴族は農耕を主な生業とする庶民の上に立って、豪奢な生活を営んだ。
いわゆる甲骨文(図1-12)はこの時代の殷王朝の遺物である。清朝の末、光緒25年(1899)に、河南省の北端に近い彰徳という街の西北約1里ほどにある小屯という村の土中から、初めて発見された。ここは盤庚がはじめて都をうつした安陽にあたり、殷王朝の遺跡と伝えられる殷墟という地であった。
甲骨文は、こうした土地から発見されたものである。そもそも甲骨文とは亀の甲や牛の骨にきざまれた文字のことで、これは殷人が卜占(うらない)の用に供したものである。古代人が亀の甲を卜占に用いたことは、『尚書』の洪範とか『周礼』の大卜の条などにもその記事が見えている。甲や骨の表面にきざみつけておくもので、つまり卜辞であった。
また甲骨文は、同じ文字でもその字体は必ずしも一定せず、いろんな体に書かれているが、原始的な絵文字からいまだ完全には脱化しきっておらず、いわゆる形声の文字、すなわち表音部と表意部との結合からなる文字などは、その数がはなはだ少ない。
甲骨文の字体や書法を、董作賓は、時代的に5つの類型に分け、それぞれの文字を、雄偉、
謹飭(きんちょく)、頽靡、勁峭(けいしょう)、厳整と評している。これは書道史的には特に注意すべきことであると神田はみている。
甲骨文は、よく切れる小刀のようなもので、甲骨の表面に刻みつけられているが、そこにいくらか筆意が窺われ、原始的な書道の萌芽が認められ、中国最初の書道史料として甲骨文のもつ意味は大きいという。
なお殷王朝の文字には、甲骨文のほかに多少の金文がある。中国では殷王朝以来盛んに精巧な青銅器が製作されたが、それらには多く銘文が刻された。その文字がすなわち金文で、その確実なものは、殷王朝の末期に属する。
殷王朝は紀元前11世紀の後半に、周王朝に滅ぼされた。周王朝は中国史上もっとも長く続いた王朝であったが、その都が鎬京(こうけい、陝西省西安)におかれていた最初の280年ほどを、西周時代(1050?-770B.C.)をいい、都を東の洛邑(河南省洛陽)に遷した時代を、東周時代(770-256B.C.)といった。そして東周時代は春秋時代(722-481B.C.)と戦国時代(480-222B.C.)とに分けられる。春秋時代は斉の桓公など五覇と称せられる諸侯が出て、周王朝に代り天下の諸侯に号令した時代であり、戦国時代は西方に拠った秦と、東方に分立した楚、燕、斉、韓、魏、趙の六国とのみが栄え、互いに抗争を試みた時代である。
さて、両周を通じてその時代の文字を今日に伝えているのは、いわゆる金文である。中国では宋代以来この金文を専門に研究する金文学という一科の学問がおこり、とくに清朝の中葉から今日にまで隆盛を極めている。金文は甲骨文字の系統をうけ、それを一層整えたものということができる。甲骨文字では、同じ一つの文字でも筆画や形態が必ずしも一定せず、ある程度自由に書かれたが、それが固定化し、西周中期の金文になると、だいたい一定してしまった。そして西周末期の銅器の銘文には金文の典型として、よく文字の整った立派なものがある。
ところが東周になって、だいたい春秋時代までは、西周以来の字体がそのまま行われたが、戦国時代になると、東方の六国では、金文とはやや異なった新しい字体が興ってきた。この字体が紀元100年頃にできた『説文解字(せつもんかいじ)』という中国最古の字書に載せている古文という字体によく似ている。
中国の古い伝承では、古文は倉頡(そうけつ、蒼頡とも)の製作したものとなっているが、実は戦国時代に東方の六国で行われた字体ということになると神田は解説している。それから戦国の末期になって、西方の秦が発展したが、ここでも新しい字体がおこってきた。それを今日に伝えているのは石鼓文(図131-134)である。もっとも石鼓文の製作年代には異説は多いが、秦の刻石と定めて大過ないものと神田はみている。
その字体がまた『説文解字』に見える籒文(ちゅうぶん)もしくは大篆という字体によく似ている。古い伝承では、籒文は周の宣王の時に、史籒という史官が製作したといわれているが、これも誤りで、周末に秦の地方で行われた字体に相違ないという。
ともかく周末になって、金文から脱化した古文とか籒文とかの新しい字体がおこり、しかもその古文も各地方によって違っていた。これは群雄割拠した戦国時代としては、もとより免れえなかったが、秦の始皇が出て、天下を統一すると(221B.C.)、字体の統一が重要な政策として取りあげられた。
秦の始皇の掲げた重要政策の一つに「書は文を同じうす」、つまり字体の統一があった。これは丞相李斯によって完成された。李斯は若くして碩学荀子に学び、文に秀で書に巧みで、天稟の政治家であった。李斯の制定した新しい字体は小篆といわれ、籒文すなわち大篆を簡略化したもので、その形がはなはだ端正で、よく均斉のとれた美しい字体である。
今日これを伝えるものとしては、秦の始皇が天下を巡遊した際、自己の頌徳碑とでもいうべき刻石がある(図135-138)。
それから秦の始皇の時に、もう一つ新しい字体隷書がおこった。程邈(ていばく)の発明であると伝えられる。隷とは徒隷の意味で、下賎な従僕のことであるが、そういう徒隷の者の間に用いさせたところから隷書といったともいい、また程邈が徒隷の出身であるからであるともいうが、いずれとも不明という。
むしろ程邈などという特定の人が発明したとみるより、自然発生的におこってきたものとみる方が妥当であろうと神田はみている。現に長沙から発掘された戦国時代末期の楚墓の遺物とは、すでに隷書に近いものが発見されている(「楚簡」図129, 130)。
ともかく、これらの隷書は今の楷書の源をなしたもので、そのいわゆるハネ口に特色がある。社会が複雑になるにしたがい、古文や籒文はもとより、小篆のような字体でも、これを書くのに時間を要し、実用にならない。そこで実用本位に自然に発生したのが隷書で、これから長く一般に使用されることになった。
なお秦の始皇の時代に蒙恬(もうてん)という武将が筆を発明したという伝承がある。筆は殷代から存在した証拠があり、戦国時代の筆も長沙の古墓から発見されており、この伝承はそのまま事実として信拠できない。ただこの時蒙恬が古来の筆に改良を加えて、今日我々の使用する筆に近いものを作ったことは考えられるので、もしそうすると、中国書道史上、これは画期的な事実といわなければならないと神田は付言している。
実際、秦の始皇の刻石の文字などは、もう一種の筆意とか技法というようなものが認められ、ここらあたりから書法の発達があるという。
以上、殷・周・秦の時代は、漢字そのものの形成の途上にある時代であり、したがって明確な芸術意識をもって書かれたと認められるものはないが、原始文字としてそれぞれの特色と面白味とを具えたものである。また実際の技法の上にも参考とすべきものが多く、清朝の末期には、こうした古代文字の技法を参考として、新しい書風を試みた書家・羅振玉の「臨魯白艅父簠銘」も出ている(神田、1頁~6頁)。
中国文字の構造法 小川環樹
先述したように、漢字がはじめて造り出された時代は今日なお正確には知られていない。伝説によれば、中国最初の帝王である黄帝の史官(秘書官)、倉頡(蒼頡とも書く)が創造したというが、これは戦国時代(480-222B.C.)にできた話であって事実ではあるまいといわれる。漢字で書かれた資料のうち、最も古い確実なものは、殷代の都あと(河南省安陽県)から発掘された甲骨文である。
ところで、文字の進化はどの民族においても、一定の順序がある。ほとんど絵画とえらぶところのない形から、簡単な線だけから成る記号へ、そして何らかの表音の価値を有するに至る経路をたどるのが常である。それがさらに進めば、アルファベットのように、純然たる表音の記号となる。今日の漢字はアルファベットほどではないが、表音の性質を幾分かは持っている。その発達の経過は、漢代以来、漢字の構造法についての根本原理となっている六書に基づいて考究してみると、次の4つの段階に分けられる。
①第1の段階~象形・指事
漢字は本来すべて一つの文字が一つの単語を表わすものとして造られた。単語は一つの観念(アイディア)に対応するものと見なせば、一字が一つの観念を表わすこととなる(以下、この観念を文字の意義または字義とよぶ)
最古の文字は、一種の絵文字(または文字画)である。この絵文字には2種あって、ある物体の形を写生的に書きあらわした場合は象形と呼ばれ、これ以外のもっと抽象的な観念を書き表わすには象徴的に表現され、中国の文字学者は指事というカテゴリーを立てる。
この2種はいずれにしても絵文字であり、書かれているのは観念であって、その観念に対応する単語の音はどこにも表われていないから、要するにこれは意義符号(イデオグラフ)である。甲骨文に例をとれば、「馬」や「羊」の漢字は象形に属し、「上」や「下」は指事に属する。
②第2の段階~会意
「馬」や「羊」を表わす記号は単体の文字であるが、「上」や「下」のように、2つの記号を組み合わせてできているものでも、各々の部分は独立の文字ではないから、これもやはり単体の文字である。
しかしまた別に、2つ以上の文字を組み合わせて新しい文字が造られた場合、すなわち合体(ごうたい)のものがある。例えば、「好」という字は右の部分が子、左の部分が女にあたり、子と女という2つの文字を合せて女子、わかい女という意味から、美女、女の美しさ、さらに美しいもの一般、および好ましいものを表わすように、字義が変化していった(『説文解字』の注釈家、段玉裁の説による)。ただし甲骨文ではこの「好」という文字は女の姓を表わす固有名詞に使われている。また例えば、「休」という字は、左は人、右は木を表わす文字で、人と木を合して休息の義を表わすという(ただしこれは甲骨文では地名である)。
この類の字は会意と呼ばれる。先の象形に属する字「馬」や「羊」などは後世になるほど
字形が変わって、楷書になるとその字形から馬や羊の姿を思い起こすことは困難になったが、会意の字では字形は変化しても、文字の構成部分である各々の字の独立性は比較的明白なことが多い。
③第3の段階~仮借(かしゃ)
ある一つの文字がもともと単体であったか、合体であったかに関わりなく、その字の表わす単語の音だけについて、それを同音または類似音の他の単語の記号として用いることがある。これは一つの文字をそれとは全く異なった意義の他の単語の記号として借用することであるから、この類を仮借とよぶ。例えば、後の「隹(すい)」にあたる字は、もともと尾の短い鳥類の総名であった。その字が承諾・同意を表わす類似音の単語、のちの「唯(い)」に借用された。この日本語の応答の「ハイ」に当る語に対して後世、口の字を加えて「唯(い)」が造られたが、その専用字が造られる以前には「隹(すい)」の一字が一方では鳥類の本義を表わすほかに、仮借として「ハイ」の意味の借用義をももっていた。
仮借は借用である以上、新たに文字を造ることなく、既製の文字をそのまま使って別の単語を表記すること、つまり別義をもたせることであるから、変態的な造字法といえないこともない、いわゆる「字を造らざる造字」である。
④第4の段階~形声
仮借の文字が多くなってくると、一字が2つ以上の全然異なる意義に用いられ、どちらの意義で使われているか見分けにくくなる。この不便を除くため、新たな方法が考え出された。それはすでに仮借として用いられている文字に、別の構成部分(おおむね独立の既製文字)を付け加えて、意義を明らかにすることである。
故にこの種の文字は常に合体であって、これを分解すれば一部分は必ず新しい文字全体の表わす語と同音(または類似音)であり、したがってその部分は音声の符号(声符)となるわけである。他の部分は文字全体の表わす単語の意義を限定する役割をもつ符号(義符)となる。この方法で組み合わせた文字を形声とよぶ。仮借のところであげた例、「隹」の借義を区別するために造られた「唯」は形声字である。
以上が構造法からみた漢字の発達のあらましである。象形および指事の段階から会意、仮借の段階を経て、形声の段階まで来ると、もはや純粋の絵文字でなく、表音の機能をも有するようになる。形声字は殷代の甲骨文にもすでに出現するが、その数は少なく、約1500字の甲骨文のうちで、形声字は半分に達しない。次の周代(その資料は金文)に入ってやや多くなり、戦国時代(前5-前3世紀)に急激に増加した。それ以後二千数百年の間に、漢字はたえず数を増したが、二千年間の新造字はほとんど形声の方法で造られたものばかりである(清朝になってできた字書『康煕字典』にはおよそ4万字余り(47000字余り)が収められているが、その90%以上は形声字である)。
次に、小川環樹は中国の字書の歴史について、とりわけ『説文解字』を中心に解説している。中国の字書の始めは「史籒(しちゅう)篇」で戦国時代の作といわれる。秦(前3世紀)に入って李斯の「蒼頡篇」、漢代では司馬相如(しょうじょ)(前2世紀)の「凡将篇」、史游(しゆう)(前1世紀)の「急就(きゅうしゅう)篇」その他が出たが、それらはみな字書といっても字引ではなく、初学者のための暗誦用教科書で、後世の「千字文」、「三字経」、「百家姓(ひゃくかせい)」に似た組織のものであった。
文字をその構造によって分析し、分類排列した字書は、後漢の許慎(きょしん)の『説文解字』15篇(略して説文とよぶ)に始まる。この書は後漢の和帝、永元12年(100)に成った。
説文にはすべて9353字を収めているが、その文字全部に字義を注し、その文字の構造について解説を加えた。すなわちこの字書は主として文字の構造を示すためのものであった。もともと漢字の構造法については、前漢末から古文家の経学者の間で六書(りくしょ)という名で知られていたが、許慎の考えの六書とは次のものを指す。
一、指事。二、象形。三、形声。四、会意。五、転注。六、仮借。
この6種のうち、転注以外の5種については、上述したとおりである。ここにかかげた許慎の六書の順序は、漢字の発達の順序とは必ずしも一致しないことは注意すべきであるという。もちろん形声は最後に発達したにちがいないが、形声字がすでに造られた後でも、象形や会意の字が新たに造られることもありうる。
六書については許慎は説文の後序で定義を下し例字を2字ずつ、象形では「日」「月」、指事では「上」「下」という風に挙げている。この定義および例字の示している意義は第5の転注をのぞくほかは明白であるが、ただ転注の解釈のみは古来まちまちである。
その中で、主要な説は3つに分かれるという。
①戴震(1723-1777)の互訓説
段玉裁(1735-1815)の名著『説文解字注』はこれに従っている
②江聲(1721-1799)と許宗彦(1768-1818)の字原分有説
説文の各部に属する字がその部首の字の意義を分有することであるとする
③朱駿聲(1788-1858)の引申説
ある字の原義が変化して異なった意義に用いられるようになった時、なおもとの字をそのまま用いるのが転注で、引申すなわち派生した意義に用いることであるとする。これに対して本義は全く異なり、単に同音語として借用されるのが仮借であるとする。
清朝から近年までの学界で、最も勢力があったのは、上記の戴・江・朱三家の説であるが、各説には一長一短があり、許慎の考えを完全に解きえたとは小川は認めない。
専門の文字学者ではないが、曽国藩(1811-1872)の見解は小川にとって最もすぐれていると考えており、その要点を紹介している。
曽国藩は「朱太学孔揚に与えて転注を論ずる書」という題の書簡において、転注と形声とを対比しつつ、その異なる点を論じている。形声も転注も、義符と声符から成る合体字であるが、形声字の義符はその原字の形を省略することがない。これに反し転注の字は義符の部分が原字の形を幾分とも省略している点が相違するという。
転注ではもとの字を省略するが形声では省略しないのがこの2つの相異なる点であって、つまり転注は形声の変種だということになる。もっとも曽国藩は会意字の場合にも、その構成部分である一つの字が原字よりは省略された形のものは、やはり転注の内に数えているから、正確にいえば転注は合体字の特殊な変種であると小川は理解している。
この考えによると、転注は純粋に文字の構造法の一種として理解することができ、戴震の互訓説、朱駿聲の引申説のような文字構造論の範囲から逸脱したような説よりはまさっていると小川は考えている。
そこで六書がすべて明らかになれば、説文に収めた9300字の中で最大多数をしめるのは形声字で7600字以上ある(ただしこの数字は朱駿聲によったから、曽国藩の説に従って転注字をその中から除かなければならないという)。
これらの形声字は必ず義符を有するから、義符を同じくするものごとに一群にまとめる。
次に、会意の字はいわば2つまたはそれ以上の義符から成るわけであるから、形声字の義符と同じものがあれば、その群へ入れる。こうしてできた文字の群を部とよび、各部には義符となった原字を立てて部首とする。部首の字は同時に一群すなわち部の名称ともなる。こうして説文に収められた総計9353字は540の部に分かたれる。
部首は単体すなわち象形と指事の字が大半であるが、合体の字である場合も少しはある。例えば、木部の部首は単体で、林部の部首は合体であるなどがそれである。部首すなわち540部の排列の方法においては、この書にはまだ一貫した原理はみられない(字画の少ないものから多いものの順にならべる方法は後の宋代に始まった)。
しかし似た意義のもの、字義に連絡のあるものをなるべく近くにおくようにしている。字数の多い部では具体的な字義のものをはじめに、抽象的な観念を表わす字を後においていることが多い。
次に、個々の文字については、篆書(小篆、秦の李斯が定めたといわれる字体)でまず見出しとし、それに隷書(のちの楷書のもとになる字体)を用いて解説を下し、別体があればそのあとに載せ、古文、籒文(戦国時代の書体、この2つは王国維によれば地方的相違だという)の各字体が篆書と異なるときには、さらに次に載せる。そのほか、文字の構造の説明にも一定の凡例がある。
現在行われている説文のテクストは、宋代に徐鉉(じょげん)が校定し、太宗の雍熙3年(986)に刊行されたものから出ていて、説文は組織的な字書の最古のものである。したがって長い間字書の最高権威の地位をしめ、漢字の字体の正しいか否かを決定する際にも、説文が根拠とされた。但し、清朝以来、古い文字研究が盛んになってからはその手掛りがこれに求められ、20世紀に入って金石文から甲骨文の研究へと進むに至り、説文はそれら最古の遺文よりは幾分新しい字体である小篆を基礎としたため、その解説・分析に多少の誤りがあったことがわかったが、その価値を失ったわけではなく、古文字研究者の参考すべき字書であると小川はみなしている(小川、7頁~12頁)。
甲骨文と金文の書体 貝塚茂樹
甲骨文と金文とは、中国の古代の書道を知る重要な資料である。金文が学問的に研究され始めたのは北宋の真宗時代(998-1022)からであった。これに対して、甲骨文が発見されたのは清朝の末葉、光緒25年(1899)である。宋代に基礎をおかれた金文学は清朝の中期(1800年頃)考証学派の阮元の保護のもとに再興されたが、経書注釈学の補助学として言語学的な研究に力を注いでいた。
ところが清朝末期になって、金文学を独自の学として研究しようとする学風が生まれてきた。つまり金文を経書の本文をよむための資料としてではなく、それ自体において解釈しようとする自由な学風が起こってきた。この傾向を創った呉大澂(ごだいちょう)は、説文に載せられた古文という書体が金文とは差違しているので、むしろ周末の戦国時代の書体と見るべきであろうとの見解に達した。金文こそ、周の盛時に書かれ、孔子によって編纂された経書の文字に近いものと考え、これによって説文を補うとした。また呉大澂は独特の篆文体の名筆を振るって、清末書道界に異彩を放った。
呉大澂とほとんど同時代の孫詒譲(そんいじょう)は精密な金文解釈を示し、呉とともに清朝金文学を大成したが、この孫詒譲の晩年に甲骨文の発見という金文学に大きな影響を与える事件が起こった。
光緒25年(1899)、著名な金石学者だった王懿栄が、北京の薬屋で買った竜骨と称した骨の上に、古代の文字が刻されているのを見つけたのが機縁となって、甲骨文字が初めて学界に紹介された。王氏の死後、その幕下の劉鶚(りゅうがく)がその蒐集を継続し、拓本「鉄雲蔵亀」を公刊した。
ところでこの奇古の文字に注目した孫詒譲は、この中に十干を名とした殷王朝の王名を見つけだし、これを殷王朝が占いに使った亀甲牛骨の上に刻した卜辞であろうと推定した。文字学の造詣を傾け、この新発見の文字と金文とを比較研究して、ある程度まで解読した。
この間、「鉄雲蔵亀」を手にした日本の漢学者林泰輔は、この未知の文字を解読し、論文を発表し、殷代の遺物であろうと論じた(1909年)。この論文を読んで刺戟を受けた羅振玉は、卜辞中に殷帝王の名謚十余を発見するとともに、出土地が殷都の遺跡といわれた河南省安陽県であることをつきとめた。その後、全面的な甲骨文字の解読を試み、甲骨文資料の集成刊行と解読との基礎をおくことに成功した。
羅振玉の助手であった王国維は、さらに甲骨文の中から殷の祖先および帝王の世系について、既存の『史記』などよりは正確な知識をもっていることを明らかにし、殷王朝末期の王室所属の卜師の司った卜辞であることが確証されるようになった。
このように新興の甲骨学は清朝後期の金文学を基礎として出発したが、やがて逆に従来の金文学に刺戟を与えて、その進歩を促した。そして両者が一体となって、殷周の古代文化の解明につとめている。
古文字学の解読という言語学的研究から、殷周時代の政治社会文化の全面にわたった多面的な研究が行われている。甲骨文、金文資料の時代を確定することは、史学的な考証とならんで、書体の鑑別が重要視される。甲骨文、金文にどんな漢字の書体が現われ、どんな経路をたどって変化したか、漢字書体の発展史を貝塚茂樹は略述している。
貝塚は、甲骨文、金文を通じて漢字の書体の変遷を追求する際に、注意すべき点として次の点を指摘している。つまり甲骨文と金文とは残存する漢字の中でもっとも古いものであるが、漢字が初めて創造されたときの原始文字そのものではないことである。
金文の中には10字以上の字数をもち、まとまった文章をなしているものがあるが、一方において、字数の少ない金文も多数存在する。そこには人間を中心として、生活に密接な連関をもっている事物や、たとえば動物、器物、また戦争、経済などの社会的現象を絵画的に表現した、いわゆる図象文字を組合わせた例が多い(図13-19)。
宋代の優れた金文学者呂大臨(りょたいりん)は、このような金文中の図象文字を漢字の原始的な字体とみなすべきだと考えた。この図象文字を要素とした金文には、また父丁、父乙(図13)のような名が現われた例が多い。呂大臨は殷代帝王の祖丁、祖乙などのように、十干を名とした慣習と結びつけ、これらの金文を殷代金文と推定し、これに類した銘文をもつ銅器を商器すなわち殷代の製作にかかるものと見なした(1092年)。
宋代の金文学創始期の学者が図象文字と十干をふくむ人名とを標準として立てた殷代金文の分類法は800年後に至って、殷代の同時代史料である甲骨文字の出現によって実証されるようになった。甲骨文字を初めて研究した羅振玉などは、これが事物の形を絵のように書くことによって意味を表わした象形文字で、後世の漢字のように、筆画が固定していないで、その点では不定形であることを指摘した。
「馬」や「羊」といった動物を表わした文字のように筆画が一定していない特殊の象形的文字のほか、一般にはかなり筆画が固定した文字があるのも事実だが、ただ、甲骨文字の筆画が一定せず、繁簡、方向が自由であることは漢字が殷代においてまだ創造過程中にあったので、この混乱した複雑な様相を示すものと解釈された。
羅振玉が甲骨文字を始源的な漢字とした見解は、前述の宋代金石学者の図象文字を漢字の始源的形態とし、これを要素としてもっている金文を殷代金文と定めた説と一致するように見える。殷墟は殷代末期の武乙、大丁、帝乙の三王の帝都と信じていた羅振玉は、この殷末の短期間の遺物である甲骨文の字形の不定で、複雑な形を示しているのは、当時の漢字がまだ始源的な過程にあったからであると解釈した(このことは当時としては当然な解釈であったのだが)
羅振玉は安陽小屯の殷墟を実地踏査したが、まだ科学的な発掘とはいえなかった。1928年から中国国立中央研究院歴史語言研究所が、科学的な発掘を進め、甲骨文の研究は新しい段階に入った。
甲骨学者董作賓はその発掘を主宰したが、亀甲の大版に刻まれた卜辞を解読するうちに、数十の卜辞が数人の卜人が卜った文を記したものであることを見出した。董作賓はこれらの卜人を天に卜いの疑問を問いかける貞問を司る人という意味で、貞人と呼んだ。卜辞の貞人の組合せと殷の祖先王の称号を手掛りとして、貞人を第1~5期の各期に属するものであり、卜辞はこれを司った貞人の署名をもととして、製作年代をおおよそ決定することができることを論証した。
さらに、殷墟が盤庚の遷都から紂の滅亡までの約270余年といわれる殷王朝後半期の帝都の遺跡であるとして、この期間に文字の書体が変化し、複雑な形を示すことは自然の勢いであって、それだけをとらえて殷代の字形が不定で、原始的象形文字ときめることはできないとする。
第1から5期までの各時代に、それぞれ定まった字形があった。中国の漢字は起源以来殷時代に至るまで相当の長期を経過し、いわゆる図象文字から、一定の字画をもった符号文字となっていたと考えた。
甲骨文字は原始的な図象文字でないと論断するとともに、同時代の殷代金文に、人間、動物、器物、社会、生活を絵画的に表わした原始的な図象文字が多く現われるのは、高度の発展をとげた青銅器の美術的な文様と調和させるため、この上に鋳刻する金文を普通の甲骨文字のような書体ではなく、原始的図象文字の書体でえがこうとした。殷代金文は、このような美的要求から生まれた殷代の「古文」にほかならないと主張した。
董作賓は、殷代の後半期においては甲骨文と並行して、絵画的で筆画の一定しない原始的文字が、銅器の銘文として用いられたことは、殷代における書体の分化という現象を示すものであると解釈する。
また戦国時代の装飾化した鳥書と称する書体(図100-102, 105, 106)もまた殷代に起源すると論じているように、殷代における甲骨文のようないわば実用的な書体と、金文の装飾的書体とが分化していたことを力説している。
ただ殷代金文というものには、このような図象文字だけでできているのではなく、父乙、父丁などという甲骨文字と共通な、字形の安定した実用的文字と組合って、文章をなしているものが少なくない。つまり、殷代金文そのものの中でも、絵画的文字と符号的文字とが並存している。殷代金文に現われる図象文字の多くは、このような殷代の氏族標識であったと考えられる。多子族の析子孫形はこの氏族が殷王朝の祖先の祭祀に、祖神の代りに祭肉をうける尸(し)をつとめることを示している。
馬や羊などの動物を表わした金文は、これらの獣を飼育する職業を示したものであり(図13)、旗、盾(図15)、戈、車(図14)は、軍旅に奉仕するのが氏族の任務であることを意味している。挙氏の挙という字は四手網の象形で、漁業を世襲する部族の標識であった(図17)。いわゆる図象文字はこのような氏族標識という特殊な性質に限られ、一般的な文字ではない。殷氏族が抱いていた呪術的な世界観の中で、各氏族の世襲する職業が決定され、部族はこの職分を神聖なものとして伝承していたので、氏族標識を示す文字だけは、原始的な呪術信仰が生き生きとして保持されていた。素朴、新鮮で生命力に溢れた殷代図象文字の特性はこの呪術力にあるといってもよいと貝塚はみている。
董作賓は、殷代における金文の装飾体と甲骨文の実用体との2種の書体の分化を主張したが、このいわゆる装飾体は、殷代金文の一般的書体ではなくて、特殊の氏族標識にのみ限定して使用された書体である。一般の殷代金文ではなくて、特殊の殷代金文であったとしても、そこに甲骨文とは著しく違った字体が残っていることは注目すべき現象であり、董作賓は少なくともこれによって殷代における書体の分化を認めた。この書体の分化は、金文だけでなく、甲骨文の中においても、もっと普遍的に見られるのである。
董作賓は殷代の卜辞を貞人の群によって5期に時代区分し、甲骨文の字形の変化、書体の変遷を時代的に跡づけようとした。十干十二支のような常用字を例にとって、これらの字形の第1期から5期に至るまでの間に変化して行く過程を明らかにした。
次に各期甲骨文が差違のある書風を示していると称えて、次のように特徴づけた。
①第1期の書風は雄偉と評する
甲骨大版の大字がその代表的作品であって(図2)、これらの大字はしばしば強く、太く彫った筆画を、さらに朱で埋めて飾っている(図5 a b)。そのほかに小字でも工整秀麗な作品も少なくない(図3 a b)。これらはすべて中興の英主武丁の風をうけていて、その気魄の宏放とその技術の熟練は驚くべきものがある。
②第2期の書風は謹飭であった。
第1期武丁をついだ祖庚、祖甲の兄弟は守成の賢主で、当時の卜師も規則を厳守して変らなかったので、厳飭工麗の書風をなした(図6)。
③第3期の書風は一転して頽靡に陥った。
前期の老書家が世を去った当期の書家の筆力は概して幼稚軟弱で、筆画の誤りも少なくないといわれる(図7a)。1期、2期の豪放な書風が地を掃って、もっとも堕落した時期といわれる。
④第4期
この第4期の貞人は卜辞に署名していないが、この武乙文丁時代の新興書家は前期の弊を一洗して、作品は勁峭で生動し、時には放逸不羈の趣を呈することすらある(図8, 9, 10)。
⑤第5期
厳整と評されるのは、各卜辞は段、行、字並びすべて正しく、文字はごく小字で「蝿の頭のような小楷」といった調子で、厳粛で整った書風で書かれている(図11, 12)。ただ、獣頭骨上の大字の刻辞はちょっと例外をなしている。
これが董作賓の甲骨文字の書風論であった。その後、殷代の占いを司る貞人を旧派、新派との2群に分け、第1期を旧派、第2期、第3期を新派とし、第4期に旧派が復活し、第5期に新派が復興するというように、この二派の勢力の消長によって卜辞の卜問の性質が異なり、字体書風も変わってくると考えた。甲骨文の字形、書風などの変遷は、一元的な書体の時代による発展ではなくて、新旧2つの貞人の流派という二元的な要素の角逐として説明しようとした。
一方、殷墟第1期の武丁時代の卜辞としては、董作賓のあげた雄偉な大字を書いた25名の貞人集団の卜辞のほかに、細小な字を繊弱な書風でえがいた卜辞が発見された。この類の卜辞は、一般の第1期卜辞が殷王朝の公的な占卜の機関にぞくする貞人の占ったものであるのに対して、これは多子族という部族の私的な占卜機関で占ったものであるという。
さらに、第1期にはいる一群の卜辞には、その書風によって、一般の貞人集団卜辞と多子族の卜辞の中間に位するものが存在した(図3g, 図5e)。これは多子族と並んで殷王朝の有力な部族だった王族にぞくする私的な占卜機関の占った卜辞であることが貝塚らによって明らかになった。
董作賓によって第1期卜辞の典型とされた25貞人、貝塚らのいう殷王朝公式の卜辞の書風を、多子族と王族との私的な卜辞の書風とを比較してみると、対蹠的であるという。公式卜辞の筆画が主として直線、折線によって成り、曲線を用いることが少ないのに対して、私的卜辞の方の筆画は、主に曲線を用いて、直線、折線を好まない。
公式卜辞は直線、折線の筆画を用いて字を左右対称的に構成してゆくのに対し、私的卜辞は曲線的筆画によって見かけ上は厳密な左右対称を破って、自然な線の流動のリズムのなかに調和を見出している。
第1期公式卜辞は厳密な左右相称の均衡美を求めるばかりでなく、大版の卜辞の配列にもこれを重視している。卜辞には、甲骨大版の左右相称の位置で同一の占いを、肯定形、否定形で2度繰り返して占うことがある。これを対貞という。
第1期公式卜辞はとくに対貞の原則を忠実に用いて、卜辞を左右に配置している例が多い。(図1の大版はこの典型的な厳密な左右相称配置を示すものである)。これに対して私的卜辞でも原則として左右相称的に配置しているけれども、あまり厳格には守られない。この対立は公式卜辞を司る専門の卜人の一定の形式技法を固守するのに対して、私的卜辞の非専門卜人の自由な態度との相違から生まれたと貝塚はみている。
ところで文字を筆墨で竹木などの上に書く習慣があったと想像されていたが、中央研究院によって朱墨で文字を第1期甲骨上に書いたものが発掘された。白色陶器の破片上の墨書や玉器上の朱書も見つけられた。殷墟第1期においてすでに文字が筆写されていたことが実物によって証明された。
第1期の公式卜辞の書体の筆画が直線的であることは筆によって書く文字ではなくて、刀によって彫りこむのに適しているので、この書体を契刻体の書と見なすことができる。これに対して、私的卜辞の曲線を愛用した書体は、筆で写した文字にふさわしいのであるから、筆写体をもととして、これを刀で彫ったと見ることができる。このように、殷墟第1期における公式卜辞と私的卜辞との異なった書体は、契刻体と筆写体の分化として解釈すべきものであろうと貝塚は理解している。
甲骨文字の書風の変化はこの殷墟第1期における契刻体と筆写体の2つの書体が相互に働きかけ合いながら、発展した結果であろうという。この発展は契刻体よりも筆写体への転化の方向をとったので、第5期の小字は甲骨文における筆写体の最後の勝利を意味する。
卜辞以外に、殷代後期の金文には、より筆写体の原物に近い力強い筆致を見せたものがある。殷代後期金文中にもより細い曲線的で流動的で柔媚な趣をもった書風も認められる(図28, 29, 33)。だから殷代後期の書体は筆写体をもととしながら、さらに細かい分化が現われていたとみられる。
周王朝は西辺の陝西省の本拠から東征して、中原の殷墟に都した殷王朝を征服した王朝である。周王朝の歴史は西周時代と東周時代に区分される。つまり周室が宗廟のある陝西西安付近の鎬京を宗周と呼んで、常時はここに居住しながら、河南省の洛陽を成周と呼んで政治的首都として、時々中原の諸侯を来朝させ大会議を開いていた。前1100年頃から前770年までのこの期間が西周時代である。一方、周室が西の戎狄によって宗周の都を失陥して、東方の洛陽の成周に移って以後、秦の統一までの約5世紀、すなわち前770年から前256年までを東周時代と呼んでいる。
西周時代の金文は、宗周、成周の二都名がよく現われるので、容易にこれを分類できる。そして東周時代の金文は周王朝の中央集権が破れ、諸侯が地方に割拠したので、金文もまたこれらの諸侯の国で作られたもので、西周金文とたやすく区別できる。
ここで貝塚は西周金文における史官の書体について解説するにあたり、郭沫若の見解に基づいて論じている。
まず郭沫若は西周の金文について、金文に出てくる銅器の作者や、宰相史官などをもととして群に分類し、それを綜合して西周金文の編年化を試みている。この金文の群分類によると、西周時代では前期、中期、後期の3大群に分れるから、西周金文をさらに3期に分けて、その書体を貝塚は特徴づけている。
西周前期金文は、武王、成王、康王の3代の治世にわたるものである。周王朝は殷墟第1期・武丁時代卜辞に、周侯の名の下に、殷の都に来朝していることが書かれているが、殷の文化に接触して以来征服まで3世紀に近い期間が流れている。中原の進んだ殷王朝の文化は周氏族にかなり摂取されていたと想像されるが、西周金文中最古の武王時代の器である「大豊𣪘(たいほうたい)」(図34)の字形は、殷末期の金文、甲骨文のいわゆる筆写体の字形を踏襲してはいるが、書としては稚拙の感を免れない。
殷王朝を征服した武王についで即位し、成周の王都を建設した成王時代の金文に至って初めて独自の書風を形成しかけた。洛陽から出土した「令𣪘(れいたい)」(図35)、「令彝(れいい)」(図36)はこの地に居住し、名相周公旦に仕えた周の史官が鋳造した器である。「令𣪘」の鋭い筆致は成王東征中の器であるにふさわしく、「令彝」の整った書体は洛陽で開いた周の大朝会に際した器であることを思わすものがあるという。両器ともに周公旦の創設しつつある周の新しい政治社会の制度の表現であったと貝塚はみている。
ところで『礼記』表記には、「殷人は神を尊び、民をひきいて神に事(つか)え、鬼を先にして礼を後にす」るのに対して、「周人は礼を尊び、施しを尚ぶ。鬼に事え神を敬して遠ざく」という。殷代は超人間的な神を信じ、亀卜による神意によって政治を行った。周代でも亀卜は行われはしたが、漸次権威がなくなってきた。鬼神すなわち祖霊の祭祀は大切に行うが、鬼神の意によって政治を決定することはすたれ、礼を尊び祭祀を中心として周民族の各部族の団結を強固にすることに力を注いだ。西周の金文は、このような政治的社会的な意味をもった祭祀に使用される銅器の製作銘文である。
銅器自身と同じように、この金文も周公によって創作せられたという礼を具体的に表現したものである。殷代金文は鬼神という呪術力の生き生きとした表現であったのに対し、西周金文は礼という厳粛な儀礼の重苦しい表現であった。殷代の金文は素朴で新鮮で、ときに流麗な書風を示しているのに対して、西周の金文は厳格で人工的であり、形式化する傾向を内包している。
その間において、東方の山東省地方で製作された「禽𣪘」(図40)や「大保𣪘」(図46)には、殷代の多子族卜辞と金文を特徴づけていた流麗な曲線的な書体がまだ少し残存していた。西周前期の金文の代表作と見るべき「周公𣪘」(図50)では筆画は始と終とは鋭く尖り、中ほどは太く肥え、いわゆる肥筆であった。そこには殷代金文の特徴である生命の躍動した強い筆力がまだ残り、整った字の結構とよく調和して独特の厳粛な気分を出している。
成王につぐ康王の時代に入ると、史官令の子である「作冊大」の器文(図47)は、父令の器よりは字形だけは整っているが、その気魄は失われ、「庚贏卣(こうえいゆう」(図57)になると、その形式化はさらに進んでいった。その中で「大盂鼎」(図54、55)の文字は独自の雄健な筆意を発揮している。
西周中期の昭王、穆王の治世に入ると、「静𣪘」(図64)のように、金文の筆画に肥筆は減って、一般に細く変化が乏しくなり、一層生気が欠けてくる。西周中期の金文は器数も少なく、わずかに前期から後期への過渡期をなしているにすぎないので、書体として重大な意味をもっていない。
西周後期に入ると肥筆は全く消滅してしまう。筆画は一定の幅をもった線となって、肥筆のような変化が失われた。しかし字形もこれに伴って単体字が減少し、扁旁をもって構成する形声字が増加してきた。形声字では義符と声符との要素を組合せるにあたって、会意的な配列がおおく、上下左右自在であった。後期に入って、扁旁として左右に組合せ、緊密な平衡を保つように布置されてきた。西周後期の中では、早い作品である「史頌𣪘」(図65)、頌鼎はこの傾向を代表する優秀な作品で、頌、徳などの諸字について扁旁化を見ることができるという。
殷から西周および東周前期までの金文は、すべて鋳造銘である、いわゆる鋳款であった。
字を原型に刻みこんで、これにかぶせて鋳型を作って、銅を流し込んだ。字を原型に刻み込むことを琢と称したが、墨子が「これを盤盂に琢す」といったのは、これに当る。琢と篆とは音通であるから、このようにして金石に刻まれた文章を篆文と称するようになったといわれる。
字を原型に刻みこむにあたって、方格を作ってそこに一字ずつほりこむ方法が西周後期から行われ出した。方格の中に字をはめることは、繁簡さまざまな字画で構成された字を無理に一定の大きさに統一することであり、あたかも活字で組んだように、字としては不自然な書き方を強制することになる。方格の使用と、扁旁の固定とは、のびのびと書いていた文字の動きを制限する結果となった。現在の漢字の直接の祖先である大篆は、このような西周後期の金文をもととして、このころ発生した。
金文の文字字体はこのようにして形式化し、固定して、一字の書としての妙味を喪失したが、金文の内容は後期に入って長文となってきた。とくにこの期の金文は周の天子が臣下を官職に任命し、車服などの多くの恩賜品を与えた辞令書を記録したものが多くなった。周室と家臣との封建的な関係を永遠に書き残す記録的な意味を荷うようになってきた。「大克鼎(だいこくてい)」(図76, 77)、「毛公鼎」(図82, 83)はこのような封建的策命の金文の代表である。「毛公鼎」は総計497字に上る現存金文中の最長の金文であり、西周後期に慣用された普通の策命文ではなくて、西周前期の「大盂鼎」などの文体を模した擬古的な文章である。
これに対して、「大克鼎」は西周後期の策命文の前段に作器者の克の祖先の功業を述べた文章を付し、西周後期の温雅な文体の典型と見られる。字体はやや長目な方格の中に収められ、書体も整然として一糸乱れず、西周後期の最上の傑作とすべきであると貝塚はみなしている。
記録的な文章としては、奴隷の売買を述べた「忽鼎(こつてい)」(図70, 71)、荘園の譲渡の誓文である「散氏盤」(図80, 81)など、法律文書として異彩を放ち、書体も独特である。
ところで東周時代は歴史的には春秋時代(770-481B.C.)と戦国時代(481-221B.C.)とに分れたが、金文に関する限りでは、この2つの時代の金文を厳密に分類することは困難であるという。例えば、郭沫若は東周時代の金文を列国的に編纂し、西周時代のように年代的に配列しなかったのは、列国が独立して周王の紀年を載せた金文がほとんど見当らなくなったからであった。
さて春秋時代に属するとされる金文について見ると、西周後期金文を継承して、やや地域的特色を示し始めたことだけは指摘できるようだ。西周後期の金文として代表的な「大克鼎」、「毛公鼎」などは史官の記録として固定化した書体が成立したが、これらは関中の西安を中心とした金文であった。だがすでに地方的には西周の統治権の失墜に伴って、西周後期金文の典型の崩壊および堕落と、その地方化が進行していた。
「師袁𣪘」(図85)は南方淮夷の叛乱について記述しているが、その書体は地方化した金文の一型を示している。この意味においても春秋時代の列国金文の地方的分化も西周後期金文の傾向をついで推進したにすぎないといえる。
春秋前期と中期との境目にあたる頃の斉の「国差儋(こくさたん)」(図89)と「秦公𣪘」(図91)とを比較してみると、東方と西方の極端では相当に異なった書体に分化してきた傾向を看取できる。「秦公𣪘」は説文に籒文として登載された書体に類似していて、西周後期の書体を踏襲した斉の諸器との差は、同時代の器と信じがたいほど著しい。
春秋中期から後期にかけての東方列国の金文を見ると、各国の地方色を強く出してきている。陳夢家は列国の器を5系統に分類したが、中でも注目すべきは南土系(呉、越、徐、楚)中の呉越に発生した鳥書と称した、文様化した文字であった。
春秋後期から戦国の初期にかけては、このような金文の地方差が最も顕著に現れた時期である。やがて各国の金文独特の書体が、列国間の交通の頻繁化に伴って、次第に他国にも浸潤し始めた。戦国後期の「曽姫無卹壺(そうきぶじゅつこ)」(図101)の書体は、「秦公
𣪘」(図91)の籒文体を模して、やや時代的に晩期の特色を加えているにすぎない。
戦国後期に入ると、このような列国書体の伝播、相互影響が出てくるので、金文の書体の編年的な研究は一層難しさを加えてくる。春秋戦国時代の金文書体の編年的研究は、このように未発展の状態である(貝塚、13頁~23頁)。
古銅器の形態 梅原末治
中国の古代にさかんに鋳造された青銅の容器はその形態が多様かつ複雑であり、また重要な文字が印されている点で、他の古代文化圏にその例をみない特色をもっている。日常の容器とかなりかけ離れた面の多いその形態は古典に伝えられている礼の器であることが考えられる。またその文字が中国でもっとも古い時代の貴重な史料であることから、これらの器が重視され、その研究が一方では経学の一つの部門となり、他方では金文の学として唐・宋代から特殊な発達を遂げた。
すでに宋代においてそれらの器形を古典にみえる礼楽の器の名称と較べ、その用途を考えてきた。そして20世紀になると、王国維が『古礼記略説』を書いて、伝統的な解釈を再検討した。ただ、古銅器自体に即した形態の観察という面になると、中国ではそれへの関心が欠けていたが、20世紀とりわけ1928年以降、考古学的に遺跡の調査が進められ、多数の古銅器が見出された。従来単に三代の古銅器と汎称されてきたが、器形の上からそれぞれのもつ性格を推定し、また新たな年代観が組み立てられるまでになった。
古銅器の形態はもともとそれが容器であるから、鉢、壺などの類が目立っている。また中国史前の土器を特色づける三足の器の系統をうけた鼎や、豆とよばれる高杯なども見うけられる。しかしそれにもかかわらず、多くの古銅器は世界各地でみられる古代容器と形の上で著しく趣を異にしたものが多い。このことは𣪘(たい、本来は物を盛る鉢)や、三器一具の盉(か、注口器)にみられるような奇態な形の上に端的に表われている。そしてこのような器で容庚がその著『商周彝器通考』に載せているものは食器、酒器、水器に一部の楽器を加えると、50種を超えている。
そのような特徴をもった古銅器の各形態は、基本となる器体にすべて器台なり、脚が作られて安定した形をとっているほか、様々な余分な部分を作り添えて複雑な様相をしている。形態の上での通性からすると、古銅器は一般に常用された容器とは趣を異にしていて、装飾的な面の多いものである。そして日常の器からこのような器形ができあがるまでには長い発達の過程をへてきたことがわかる。器自体が中国の古典に伝えられる礼楽の器であることも知りうる。
このような特色を具えた銅器が殷の後半の時代に盛んに作られていて、銅器としての頂点を示しているものがあることが殷墟の学術発掘により確かめられた。もっとも発達した銅
容器の類が殷代において完成を示し、次の周代ではその伝統がうけつがれたと見るほかなくなった。このことは中国古代の文化を考える上に極めて注目すべき事実といわなければならない。
中国の学者が古典に散見しているものから食器、酒器、水器などに分けてあげている様々な器形のほとんどすべてがこの時代に存在している。すなわち食器では、鼎(てい)、𣪘(たい)、酒器では角(かく)、爵、斝(か)、觶(し)、觚(こ)などが飲酒の器とされ、尊、卣(ゆう)、盉、觥(こう)、罍(らい)、瓿(ほう)、壺、彝(い)などが貯蔵の器、さては水器として盤などがそれである。
まず鼎では、款足の形をおそったもののほかに、両耳の器に棒状の脚が付けられて整った形をなすものが多い。それらと並んで、四脚の方鼎もあり、また脚が禽獣の形をしたものも見受けられる。器台(圜足)を具えた鉢の形をして穀物などを盛った𣪘の方はこの基本形態のほかに左右に大きな獣首飾りの把手をつけているのが特色である。
角と爵は縦長丸底の器体に、もと動物の角から導かれてきた器の名残りをとどめながらも、三つの尖刀状の脚を付して器の安定に備え、側面に把手をつくり容器としてはすこぶる変わった形である。
斝は爵と相似した二柱一把手であるが、背の低い器体の上縁が一文字で注口などなく、かつ形も大きい。またコップに似た断面長楕円形をなす觶に較べると、觚の方は細長い器体の上縁が朝顔形に大きく開いて、それに高い器体を作り添えた目だった形をしている。殷代の器に多い尊はどっしりとした大きな器台(圜足)の上に横張りの器体があり、それの括れた上に外開きの口頸部をつけた形をとる。また罍は同じく上辺の括れた縦長の壺形を基本形とするが、一対の耳と一個の引手をつくり添えたところに特徴がみられる。
瓿もまた大型の背の低い壺形の器である。彝は上げ底の断面矩形の箱に屋根形の蓋を加えた形態によって他と区別される。また、尊と並んで遺品の多い卣は圜足を具えたすわりのよい器体に蓋がつき提梁を架けた形である。そして盉と觥とは液体を貯えて、それを他に移すための器で、今の土瓶とか片口に相当するものである。
以上略述した個々の古銅器は、文様によって特殊な趣を加えているが、その文様のほとんどが奇異な禽獣文である。禽獣文のうちで、もっとも目だつのは饕餮(とうてつ)とよばれるものである。それと並んで虺龍、夔鳳から象、蝉、魚など様々なものに及んでいる。またこれらの器の銘文となると、それを欠いた器があるばかりでなく、その多くは象形の記号ないしは祖先名を組合わせた簡単なものが多い。
銅器は上述したように殷代後半に完成形を示していたが、ひきつづいて周代においても盛んにつくられた。ただ両者の間に俄かに区別しがたいものがあったので、これを殷周期とに総括した年代観もみられたほどである。
しかし器にある銘文を考えてみると、周初の記録的な銘文から、それに文飾を加えながら、次第に整った形をとって中周に続いていることがわかる。また形態の上でも鼎をはじめ𣪘、壺、卣、尊の器形や装飾などが古いそれを継承しているようにみえても、時代の進展にともなって、東周に入ると古銅器と不離の関係にある礼の衰退が現われ始め、変化が生じてきたと解釈されている。
周の中期には銘文におのずから差異があり、器形においても、盨、簠など新しい器形が見られる。注口の器である匜も、基本の形態では兕觥の系統をうけながら怪異な蓋などはなく、実用的な形に近づいたものになっている。壺の類にあっても、古い罍、瓿などに代わって両側の上部に遊環をつけた別個な趣を呈するものを主とするようになったし、殷代の器形に目だって見うけられた角、爵、觚、斝などの諸器や、禽獣形の器などで当代の文字のあるものは存在しないようであるという。
これを装飾文についてみれば、饕餮文を主とした禽獣文が殷代の器とくらべ、かなりの便化が認められるほか、別個な装飾文の要素(例えば羽状とか鱗状とかいわれる帯文など)が目立つ。このような要素を辿ってゆくと、周の初期にまで遡れると梅原は推測している。そうであるならば、この時代の器に周初と同様に、史官の書いた辞令の文章を刻している事実と並んで、周の古銅器が殷周初の伝統をうけながらも、それ自体の特色を示すものといってよいと梅原はみている。
次に戦国時代の古銅器についてであるが、秦銅器とよばれた遺品は、その形態や装飾文の上で殷周の古銅器と趣を異にするところがあり、それまでの古銅器観に新たな展開をもたらすことになった。これを形態についていえば、器の種類では、鼎、豆、𣪘などから盤など、周代中期のものと大差はないが、しかしこれらの器形は従来の古銅器が厚手につくられて、個々の形の上に超現実的な面の多いものであったのに対して、薄く仕上げた軽快な趣を呈し、実用の容器としてふさわしい形をしている。この点で、これまで礼楽の器としての夏・殷・周三代の尊彝と区別されてきた漢代のいわゆる服御之器と近いものがある。
器形にも変化がみられたように、文様にもまた差異を生じて、外観を一層別個なものとしている。装飾文の要素は著しく細緻に平面的になり、表出が地文化し、より古い時代の古銅器のような怪異さがなくなっており、これを一定の単位文を型で繰り返すというメカニカルな表出法によったところにその特色がある。
次に、器の銘文では、概して簡単な刻文で、郭沫若が『周代彝銘進化観』の中で、「簡単に自己の名をしるす方法にかえり、あるいは工人の自由にまかせて、銅器にはつくった工人の名を署するという風を生じた」としている。このように戦国時代の古銅器は古い系統を受けながらも、むしろそこでは新しい多くの面をもっている点で、次の漢代の器に近いという。
以上、古銅器の形態観にあって認められる点は、時代による変遷があるとともに、もっとも古い殷の時代において、形態の上で一つの頂点を示している。もともと古銅器が容器を主としたものなので、その形態の基づくところが普遍的な土器や骨角製容器などにある。しかし現実に古銅器の示す形態から直ちにそういうものとの連繋をたどるとなると、間隙が大きすぎるので、両者の間に中間形式のあったことが想定されてきた。かねてそういう先行の容器が木器であると推測されてきたが、河南省の殷墓の学術発掘で現実に木器類の存在を物語る痕跡が見出されたことは大いに注目されるべきであるという。
古く日常の容器として作られた木製の容器類が、それ自体の材質から、形の上で土器などと差異を示すように進んでいったものが殷代になって青銅が豊富となり、鋳銅の技術が進んだ結果、それに移して作られるようになった。これが古銅器としてもっとも古い殷代の器に一つの完成形が示されているゆえんのものであろうと梅原はみている(梅原、24頁~31頁)。
近時出現の文字資料 梅原末治
中国において漢以前に遡る文字の資料としては、古銅器の款識すなわち金文のほかに、19世紀の末年に殷墟から出た亀版獣骨に刻された貞卜の文字がある。甲骨学として、金文学と並び一部門をなすようになった。これを書道史の立場からみれば、例えば董作賓のいわゆる甲骨文の断代研究によって、この最古の文字の上に発達の段階をたどることができる。
ここでは20世紀、中国における先秦遺跡の考古学上の発掘(殷墟の発掘が中心)の結果によって知られだした甲骨文以外の資料を梅原は紹介している。
1920年代の終わりから着手された殷墟の発掘により、利器においても重要な知見が示されることになった。それら利器は勾兵とよばれ、特色のある形をなしており、常用の利器としての性格から離れた、一種の儀表の器とみられている。
殷墟の発掘で知られた利器に刻された文字は、周になって銅容器に重要な銘文を印することになったことはやや趣を異にするようであるが、しかし儀仗的なその類が引き続いて行われたことは、周の後半の戈などに見られる銘文よりわかる。
ところで、周の後半戦国時代の利器類にあっては、豊飾化が著しくなり、新たに金銀象嵌の文様で飾られた器が少なくなく、文字もまた以前の鋳銘と並んで金象嵌のものがある。そして文字それ自体もこれにともなって装飾化した特殊な書体をなすようになった。つまり鳥書というのがそれで、書道史の上からも注意されている。このいわゆる鳥書の利器
は、1920年代の後半に、安徽省の寿県を中心とした淮河流域出土と伝えるものが世に現われ、さらに湖南省長沙古墓群の採掘によって一層著しくなった。ただこれらは殷墟の場合と違って、学術発掘の資料でないため、まとまった知見を欠くうらみがある。それでも銘文のある利器は狭義の戈をはじめ矛、銅剣の類にわたっていて、主として身の部分に金象嵌で表わされるといった目だったものである。例えば英国博物館に所蔵する戈(挿56)や、細川家に蔵される銅矛(図105)がそれである。この鳥書は銘文の意味と、出土地域(長沙)とから、戦国時代に南方の楚の地方で行われた書体の一つであることが認められている。
次に新しい資料として、前述した利器類とあい前後して出現した戦国時代の容器上の文字がある。金文は主として周の初期、中期の尊彝の類にあるが、それ以後の文字に至ってはある種の器に限られていて割合に乏しかった。
ところが、1920年代の終わりに洛陽郊外金村の古墓から遺品・遺文が発掘された。金村出土の金文のうちで、もっとも著しい存在は「驫氏編鐘」(図110)である。これは後の隷体を思わせるような整った書体の銘文で、その内容から年代を推定することのできるもっとも古い金文例である。もっともその実年代の比定については、出土の当初考えられていた周の霊王の22年(550B.C.)とする見方に対して、郭沫若は安王の22年(380B.C.)であるとし、また唐蘭は烈王の22年(404B.C.)とし、いまだ決していない(全集では、戦国初期とする。図版解説、205頁参照のこと)。
この編鐘以外の金村出土の金文として、「嗣子壺」とよばれる一器がある。また三脚を具えた漆器の奩の台金具に針書したものがある。その年次は周の顕王(332-329B.C.)あるいは赧王(278-275B.C.)のいずれかに当たるという。
これと同じ書体の文字は金渡金の銀盒や銀製の人物像にも刻されていて、その自由な刻字の全文の解読は困難であるが、新たな当代の文字例をなす。
この長沙の古墓から出土した銀象嵌の金具を付した「漆奩」(図126)の底裏に文字が刻されいるのも同じ類である。これは方形の区画内に4行に刻されていて、同じく廿九年の年紀がみられるのは現存する漆器の銘文のうち最古の例をなすという。
また湖南省長沙古墓の検出によって知られることになった布帛文書、竹簡の一群も、新たな文字資料である。20世紀初めから1930年にかけて、スタインやヘディンによる西域探検により、漢代の簡策、木札文書が発見され、画期的な文字資料を提供したが、この長沙の発見品は漢代以前に遡ることと、そのうちに布帛の文書が含まれていることで、一層重要視された。
長沙の古墓群は、1930年代後半、市街の発展に伴う土木工事により遺構が発見された。戦国時代の墓葬は、木室が厚く粘土で被われ、内部が浄化された湿気でみちていたことから、稀にみる完好な保存状態を保っていたようだ。出土した「楚帛書」(図127, 128)の文字は金文に似た篆書であり、しかも細密に墨書されたものである。録された文字は、神を祀る文であり、周辺の図像はその祀られた鬼神を描いたものと考えられている。香港大学の饒宗頤は、この「楚帛書」について、篆籒筆写の運筆法を知るに足る最古の資料として、中国書道史上の至宝と評している(図版解説、214頁参照のこと)。
次に竹簡(図129, 130)の類は布帛文書とちがって、中共の治下になって1951年より長沙遺跡の学術発掘で見出された。時代の違う2つの古墓の構造が明らかになり、上方に位置した漢代の墓室のあるものに木簡の類や、また下方の戦国時代の木造の室内に竹簡や古印が遺存することが認められた。竹簡に墨書された文字は漢代居延の木簡などとは違うが、しかも布帛の書と似ていながら、自由な筆致で書かれているところにまた別な趣があり、当代の文字の貴重な資料をなしている。
この長沙の資料は墓室が地表下深くに営まれて、これらの遺品が清浄な水気のうちにあったために幸いに保存された。この点からすると、乾燥のために保存された西域での織物や木簡類とは全く相反した環境であった。しかもこの相反する二者が、考古学上の調査によって新たにその存在が明らかにされたことは、20世紀における古代中国の文字学の上での大きな事実といえると、梅原は付言している(梅原、32頁~37頁)。
古印について 水野清一
中国の印章は古来もっぱら文字の印がおこなわれた。ただ中国でも周末から秦漢にかけては、かなり画像印がおこなわれ、「肖生印」の名で呼ばれている。画像が禽獣、人物を主にしているからである。
文字印は、陽文(朱文)にしても、陰文(白文)にしても、表面と溝の底との二段になる。中国ではもっぱら青銅印で、まま玉印があり、まれに骨印、陶印、ガラス印があり、湖南省長沙の発掘で、周漢の滑石印、松石(トルコいし)印、金印が知られている。
中国で印章が一般につかわれたのは、もとより東周以後であり、とくに戦国時代以後であるとされる。東周末、戦国のものは河南洛陽金村のいわゆる韓君墓、河北易県の燕の下都、湖南長沙の楚墓から発見されている。
燕の下都出土のものは白銅貨青銅印で、整った文字が深く鋳だされており、普通にみる古鉨の一種である。洛陽金村のそれは青銅印と玉印であるが、これらも古鉨中に普通にみる形式である。これに反し、長沙楚墓の古印は変化にとみ、印材も金、青銅、松石(トルコいし)、滑石の4種を含む。戦国印、秦印もしくは漢印とみられている。このように長沙の楚墓のものは、周鉨から秦印、漢印まで含み、その間における推移の方向がおのずから察せられる。
出土地のわかるものをいえば、上記の数例であるが、この他に陝西と山東と綏遠がある。これらは古印の出土する三大中心であるという。古くは陝西、すなわち関中の漢印が注意にのぼり、阮元、陳介祺になって、ようやく山東の古印が有名になり、さらに陳介祺、羅振玉になって綏遠の古印が注意されるようになった。これらの遺跡出土印によって、殷周から秦漢にいたる大勢がほぼ明らかになったと水野はみている。
文字については、陽文の殷金文から東周ふうの金文(古文)になり、ついにそれが整理されて、詔版文字の秦篆になり、ついで漢のいわゆる模印篆に変化した経路がほぼみとめられる(水野、38頁~43頁)。
古石刻について 神田喜一郎
石碑の国と中国を呼んで過言でないほど、中国には至るところ石碑が多い。碑林といって石碑が林のごとく立ち並んでいる場所さえもある。
その石碑は、何時ごろからどうして起こったか、すなわち石碑の起源という問題については学界に異説がある。中には、夏の岣嶁(くる)の碑という伝説上の石碑もある。これは夏の禹王が自ら治水の功を書きしるしたと伝えられるものである。岣嶁というのは、今の湖南省衡陽県にある名高い衡山のことであり、現に衡山の雲密峰には、その原石と称するものが存在している。しかしこれは全く後世の偽物である。
今日確かに信じ得る古石刻として原石の遺存しているのは、「石鼓文」と秦の刻石だけである。それから、その文字の摹本のみが伝わるものに、秦の「詛楚(そそ)文」というものがある。以下、神田喜一郎はこれらのものについて説明を試みている。
「石鼓文」については、北京の孔子廟の正門である大成門の左右に、大きな鼓状の石が5個ずつ硝子箱に入れて陳列されている。これがいわゆる石鼓で、それに刻されている文章が「石鼓文」(図131-134)である。
石鼓という名称は、その形状が鼓に似ているところからおこった俗称で、元来は碣と呼ぶべきものであるという。そして「石鼓文」の内容が多く狩猟のことに関しているので、これを「猟碣(りょうけつ)」と呼ぶ学者もある。しかし、唐の韓愈や宋の蘇軾のような大詩人が、いずれもこれを詠じた「石鼓歌」という大作を遺していて、一般には石鼓の俗称が広く用いられている。
この石鼓は、その年代について古来異説が多い。古くは周の成王時代のものとみる説があり、新しくは北朝の宇文周の時代のものとみる説がある。しかし普通に信じられているのは、周の宣王の時代のものとみる説である。これは石鼓に刻されている文章が、周の宣王の時代の製作と考えられている『詩経』の中の小雅車攻・吉日の諸篇と似ているということと、その字体が周の宣王の時代に製作されたと伝えられる籒文によく似ていることが大きな理由となっている。しかし、今日ではこれらの理由は全く理由にならず、この通説の支持者は少なくなってきていると神田はいう。
そして新たにその文字の字体や内容から考えて、石鼓を東周時代に秦で作られたものとする説が有力になってきている。秦刻としても、秦の何王の時代のものかという点になると、諸家の間に異説が多くて一致しない。唐蘭は「石鼓文」の字体と内容とを検討して、その年代を秦の霊公の3年、すなわち周の威烈王の4年(422B.C.)と決定している。神田はこの説をほぼ正鵠にちかいものとみなしている。
そして「石鼓文」の字体が小篆に似ながらも繁複なところがあり、また周の金文に較べては多少斉整されている。これらの点から察して、東周時代における秦の刻石であることだけは、ほぼ間違いなかろうと付言している。
さて、「石鼓文」の文章はかなり難解で、韓愈のような学者でも、「辞(ことば)は厳に義は密にして、読めども暁(さと)り難し」と嘆じている。しかし元の潘迪(はんてき)が「石鼓文音訓」を著して以来、解読が進み、狩猟のことを詠じた韻文であると解されている。
この石鼓は、唐初はじめて陳倉の田野から発見されたものといわれている。陳倉は、今の陝西省の宝雞県にあたる。ここは昔、秦の文公が狩猟したと伝えられる土地である。ここから発見されて、その後移されたが、宋の大観年間(1107-1110)に、国都汴京(べんけい、今の河南省開封)の大学に置かれることになり、ついで宮中の保和殿に移された。しかし金が汴京を陥れる(1126)に及んで、石鼓を燕京(今の北京)に運んだが、元代、これを孔子廟に置き、民国22年(1933)まで、同じ場所にあった。
秦の始皇は天下を統一した(221B.C.)後、各地を巡幸して、頌徳碑を建てた。それが秦の刻石と呼ばれているもので、次の7石である。
1.嶧山(えきざん)の刻石
秦の始皇治世の28年(219B.C.)、すなわち天下を統一して後の第3年、今の山東省兗州(えんしゅう)府にある鄒嶧山に建てた頌徳碑で、これが始皇の第1次の刻石である。
2.泰山の刻石(図137)
同じ年、山東の名高い泰山に建てた頌徳碑で、始皇の第2次の刻石
3.瑯邪台(ろうやだい)の刻石(図135, 136)
同じ年、今の山東省にある瑯邪山に建てた第3次の刻石
4.之罘(ちいふ)の刻石
その翌29年(218B.C.)、今の山東省福山県の芝罘に建てた第4次の刻石
5,之罘東観の刻石
之罘の刻石と同時に刻された第5次の刻石。東観とは東遊の意。
6.碣石(けつせき)の刻石
秦の始皇治世の32年(215B.C.)、今の河北省昌黎県の碣石山に建てた頌徳碑。
7.会稽の刻石
秦の始皇治世の37年(210B.C.)、今の浙江省紹興県の会稽山に建てた頌徳碑。
いわゆる秦の刻石は、以上の7石である。その本文は嶧山の刻石を除くほか、すべて『史記』の始皇本紀にみえている。ただ原石は大半亡佚して、現在は泰山および瑯邪台の両刻石の残片が存するにすぎない。刻石を後世模刻したものはいろいろ伝わり、中には真偽疑わしいものもあるが、宋の淳化4年(993)に鄭文宝の摹刻した嶧山の刻石などは信用してよいという。秦の刻石の文字は、すべて李斯が書いたといわれている。小篆の典型として古来尊重されているが、泰山や瑯邪台の刻石のわずかに残っている文字をみても、いかにも斉整した、品格の高い立派な書であると神田は評している。
詛楚文というのは、秦の恵文王が楚の懐王と覇を争った時に懐王を呪詛した文である。原石が現存しないが、その年代からいうと、秦の刻石よりも古く、東周の赧王の2年(313B.C.)すなわち秦の恵文王の12年に、秦で作られたものと考えられている。
原石は1.巫咸文(ふかんぶん)、2.大沈厥湫文(たいちんけっしゅうぶん)、3.亞駝文(あだぶん)の3石があって、これを併せて「詛楚文」と称した(3石ともに宋代にはじめて発見されたが、間もなく亡佚した)。
巫咸は巫神、大沈厥湫は厥湫という大きな淵、亞駝は河の名といい、これらの神に秦の恵文王が祈願した。宋の欧陽脩の著した「集古録」をはじめ、その記録が多く遺っている。その文章は難解だが、古代に行われた一種の宗教的儀礼を知る上にも重要な文献であるとされる。今伝わる「汝帖」所収の文字・字体は摹刻ではあるが、「石鼓文」や秦の始皇の刻石の文字と比較して、当時の字体を知るによい参考資料となるものである(神田、44頁~48頁)。
別刷附録 楚帛書
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