歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪大学受験の国語の小説問題~石原千秋氏の著作より その1≫

2022-12-19 19:19:02 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪大学受験の国語の小説問題~石原千秋氏の著作より その1≫
(2022年12月19日投稿)

【はじめに】


 以前のブログでは、石原千秋氏の著作『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]をもとに、大学受験国語の国語力、評論問題を考えてみた。
 今回のブログでは、石原千秋氏の次の著作をもとに、大学受験国語の小説問題を解いてみたい。
〇石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]
 著者によれば、同じ文章でも、小説と評論とでは、読み方が違うという。評論は書いてあることが理解できれば読めたことになるのに対して、小説は書いてないことを読まなくては読めたことにならない。評論の読解では、「頭の良さ」だけが問題となるが、小説の読解では、「想像力」が問題となる。「行間を読むこと」が、小説には求められる。「行間を読む」ことが求められるのが、大学受験の小説であるそうだ。
 この本では、まずセンター試験の小説を、五つの法則を使いながら4題解いて、受験国語の小説の解き方を研究している。その方法は大学受験小説一般に通用する。だから、国公立大学の二次試験にも応用が利く。その方法とは、メタファーで解くということであるようだ。



【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。





【石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)はこちらから】
石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)





〇石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]

【目次】
・はじめに
・序章 小説は何を読むのか、あるいは小説は読めない
・第一部 小説とはどういうものか――センター試験を解く
・第一章 学校空間と小説、あるいは受験小説のルールを暴く
     過去問① 学校空間の掟――山田詠美『眠れる分度器』
・第二章 崩れゆく母、あるいは記号の迷路
     過去問② メタファーを生きる子供――堀辰雄『鼠』
・第三章 物語文、あるいは消去法との闘争
     過去問③ 女は水のように自立する――津島佑子『水辺』
     過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』

・第二部 物語と小説はどう違うのか――国公立大学二次試験を解く
・第四章 物語を読むこと、あるいは先を急ぐ旅
     過去問⑤ 血統という喜び――津村節子『麦藁帽子』
     過去問⑥ 貧しさは命を奪う――吉村昭『ハタハタ』
     過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』
・第五章 小説的物語を読むこと、あるいは恋は時間を忘れさせる
     過去問⑧ ラブ・ストーリーは突然に――三島由紀夫『白鳥』
     過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』
・第六章 物語的小説を読むこと、あるいは重なり合う時間
     過去問⑩ 母と同じになる「私」――梅宮創造『児戯録』
     過去問⑪ 父と同じになる「私」――横光利一『夜の靴』
・第七章 小説を読むこと、あるいは時間を止める病
     過去問⑫ 自然の中で生きる「私」――島木健作『ジガ蜂』
     過去問⑬ 人の心を試す病――堀辰雄『菜穂子』
     過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』

・あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小説と評論
・本書の構成
・小説の何が読めないのか
・小説と物語
・「隙間の名手」川端康成の『千羽鶴』
・受験小説を解くための五つの法則

その2
・過去問④太宰治『故郷』
・過去問⑦志賀直哉『赤西蠣太』
・過去問⑨野上弥生子『茶料理』
・過去問⑭横光利一『春は馬車に乗って』






小説と評論


「はじめに」において、著者は次のようなことを述べている。
・受験国語で、評論なら解けるのに、小説だとからきし解けない人がいる。
 小説が読める読めないという言い方には、たとえば評論が読める読めないという言い方とはまた違った響きがある。
 評論が読めない人は単に読解力がないか、もっと悪い場合でも、単に頭が悪いというほどの意味しか持たない。それに対して、「小説が読めない」となると、人生の機微のわからないつまんない人、人の気持ちがわからない朴念仁(ぼくねんじん)という微妙なニュアンスが伴うものらしい。
(人格まで否定されるほどの感じはなくとも、人間として感情の方面に大きな欠陥があるように感じさせられるところがある)

・同じ文章でも、小説と評論とでは、読み方が違うようだ。

 評論は書いてあることが理解できれば読めたことになるのに対して、小説は書いてないことを読まなくては読めたことにならない。
 受験国語であれば、評論は書いてあることを別の言葉で説明し直せば答えたことになるのに対して、小説は書いてないことに言葉を与えなければ答えたことにならない。

・人生の機微をくどくど説明した小説は二流だし、人の気持ちは書き込むものではなく読み取るものである。そういうことは読者の仕事なのである。
だから、評論の読解では、「頭の良さ」だけが問題となるが、小説の読解では、「想像力」が問題となる。
 俗に言う「行間を読むこと」が、小説には求められる。
 それの出来る人が「小説が読める人」である。
※「行間を読むこと」に才能が関わることは、著者は否定しない。
 たしかに、「読める」人ははじめから「読める」ようだ。
 しかし、「想像力」の働かせ方をきちんと学べば、多くの人は「読める」ようになるという。
⇒ことに受験国語の小説であれば、問われることは限られているから、勉強の仕方さえ間違えなければ、多くの人は「読める」ようになるそうだ。
 小説の読解が「もともと出来る人は勉強しなくても出来る」のは事実だが、コツさえ摑めばそうでない人も「出来る」ようになる。

※大学受験の小説こそが「書いてないこと」を聞いている。
 なによりも「行間を読む」ことが求められるのが、大学受験の小説である。
 だから、「書いてないこと」にどうやって言葉を与えればいいのか、その基本を学ぶことが出来る。
 しかも、国公立大学の二次試験では、設問のほとんどがあらかじめ読み方を指定してしまっている記号式ではなく、読むポイントだけが指定してある記述式で問われているために、ゼロに近い地点から言葉を紡ぎ出さなければならない。それは、「想像力」の仕事である、と著者は強調している。
 
・センター試験の小説は、多くの場合かなり強い思いこみによって設問が作られているから、いったん出題者と読みの枠組がズレてしまうと、全問不正解の憂き目に会うことさえあるようだ。
 そんなことにならないように、この本では、まずセンター試験の小説を、五つの法則を使いながら4題解いて、受験国語の小説の解き方を研究している。
 その方法は大学受験小説一般に通用する。だから、国公立大学の二次試験にも応用が利く。
 その方法とは、メタファーで解くということ、と著者はいう。
 書いてあることをなにかにたとえて読むことである。
(「もともと小説が読める人」とは、ほとんど意識せずにそれが上手に出来てしまう人のことであるという。「小説が読めない人」はそれが自覚的に出来るようになればいい。この本では、そのためのアドバイスをしたいそうだ。)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、7頁~11頁)

本書の構成


 また、「はじめに」において、本書の構成についても触れている。
・序章「小説は何を読むのか、あるいは小説は読めない」は全体の序章も兼ねていて、少し理屈っぽいが、最後に読んでもかまないから、必ず読んでほしいという。

・第一部では、センター試験の小説を解くレッスンをする。
 4題の問題にじっくり取り組んで、小説の読み方の基本を学ぶ。
 それは、「小説」からいかに「物語」を取り出すかということにつきる。
 (これは決して難しい作業ではない)
 また、ここでは、五つの法則の使い方をしっかり身につけることにもしたいという。

・第二部では、国公立大学二次試験の小説を解く。
 ここでは、「物語」と「小説」の違いについても講義している。
 ここで言う「物語」と「小説」は第一部で言うそれとは微妙に重なっていて、また微妙にズレてもいるようだ。
 では、「物語」と「小説」はどう違うのか。
 それは書き方の違いであり、また読者のかかわり方の違いでもある。
全体としては、第二部では、アンソロジー風に小説を楽しみながら、読んでほしいという。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、11頁~12頁)

小説の出典と出題大学


過去問① 学校空間の掟――山田詠美『眠れる分度器』~センター試験(1999年度)
過去問② メタファーを生きる子供――堀辰雄『鼠』~センター試験(2000年度)
過去問③ 女は水のように自立する――津島佑子『水辺』~センター試験(2001年度)
過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』~センター試験(2002年度)
過去問⑤ 血統という喜び――津村節子『麦藁帽子』~岡山大学(2002年度)
過去問⑥ 貧しさは命を奪う――吉村昭『ハタハタ』~福島大学(2000年度)
過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』~信州大学(2001年度)
過去問⑧ ラブ・ストーリーは突然に――三島由紀夫『白鳥』~大阪大学(2000年度)
過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』~広島大学(2001年度)
過去問⑩ 母と同じになる「私」――梅宮創造『児戯録』~大阪市立大学(2001年度)
過去問⑪ 父と同じになる「私」――横光利一『夜の靴』~東北大学(2002年度)
過去問⑫ 自然の中で生きる「私」――島木健作『ジガ蜂』~信州大学(2000年度)
過去問⑬ 人の心を試す病――堀辰雄『菜穂子』~香川大学(2000年度)
過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』~広島大学(1999年度)


小説の何が読めないのか


・「試験場で読む小説はどうも苦手だ」と思ったとしたら、それにはわけがあるそうだ。
 受験小説では、普通に趣味で読むのとは違って、「小説を読むこと」は「書いてないこと」を読むことだからである。
 (すなわち、「行間を読むこと」が「小説を読むこと」なのである。書いてあることならわざわざ設問で聞く必要がないのだから。)
 では、何が「書いてないこと」なのかと言えば、登場人物の「気持ち」である。
 だから、受験小説では、「気持ち」が問われることが圧倒的に多い。
 つまり、受験小説では、「気持ち」こそが「行間」に隠されていると考えられていることになる。 
 これには、リアリズム小説の本質に関わる二つの理由があるという。
①受験小説のほとんどが出題されているリアリズム小説の技法に関わることである。
 リアリズム小説とは、出来事がいかにも現実に起きたように書いてある小説で、目に見えるものだけを「客観的」な「事実」として書く技法によって成り立っている。
 しかしその実、リアリズム小説は目に見えないもの、すなわち登場人物の「気持ち」を読み取ることを重視した小説でもある。なぜ、そうなるのか、説明すればこうなる。
 リアリズム小説の書く「事実」はたしかに「事実」である。
 しかし、「事実」が人生にとってどういう意味を持つのかは人の「気持ち」が決めることである。「事実」が人生にとって持つ意味こそが、「真実」と呼ばれるものである。人間を外側から見たように書くその技法とは裏腹に、目に見えない「気持ち」こそ「真実」が宿っていると考えるのが、リアリズム小説なのである。ここに、受験小説で「気持ち」ばかりが問われる理由がある、と著者はみている。
②小説の言葉の本質に関わる事柄である。
 それは、小説の言葉はもともと断片的で隙間だらけのものだということである。
 小説の言葉が世の中のことを余すところなく書くことができるのなら、たとえ受験の小説でも、もう問うことは残されてはいないはずである。しかし、もともと小説の言葉には、そういうことは出来はしないのである。
 (石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、13頁~15頁)


小説と物語


・小説は形のない、得体の知れないものである。
 読者はそれを「物語」に変形させて、「小説を読んだ」気になっているらしい。
 たとえて言えば、小説は粘土のようなものであるという。 
 作者から読者に手渡されるのは、まだ形のない粘土なのである。
 この時、粘土は無限の可能性を秘めていて、どんな形にでも変えることができる。
 この可能性を秘めた粘土が小説である。
 ところが、粘土はひとたび子供(読者)の手に渡ると、魚になったりライオンになったりする。子供は粘土を「変形」させて、好みの作品を作る。この作品が、「物語」に相当する。 
 「小説にはいくつもの可能性がびっしり詰まっていて、読者がそこから好みの物語を引き出すのが、読書というものだ」というイメージでもある。
 つまり、読書とはさまざまな可能性を孕んだ小説からたった一つの物語を選ぶような、主体的な創造行為なのである。

・ここで言う「物語」とは、小説のテーマのようなものである。
 一つの小説から読者の数だけテーマを引き出すことが出来るというイメージである。
 授業や入試で読む小説では、途中の設問の答えよりも、このテーマの方がずっとわかりやすいという。僕たちはほとんど意識しないほど、素早くテーマを手にするのがふつうなのである。
(ところが、国語ではふつう最後になって、「この小説のテーマを考えよう」などという設問があるものだから、「テーマは最後にしかわからない難しいもの」という誤解を与えてしまう)
・僕たちの小説の理解の仕方は、細部を積み上げてテーマにたどり着くのではない。
 直感的に全体のテーマを理解してしまうものらしい。
 それが、小説を物語として読むことである、と著者はいう。
(小説から物語を取り出せたら、教室や試験場では「勝ち」である)

【物語を一つの文に要約する】
〇自分なりの小説の読み方を自覚的に把握するために、小説から取り出した物語を、一つの主語とそれに対応する熟語一つからなる一つの文に要約する練習をしておくといい。

※フランスの批評家ロラン・バルトの<物語は一つの文である>という立場にならって(『物語の構造分析』みすず書房、1979年)、著者も大学の授業でも実践している方法であるそうだ。
 物語文の基本型は、二つある。
①一つは、「~が~をする物語」という型
 これは主人公の行動を要約したものである。
 たとえば、太宰治『走れメロス』を例にとるなら、「メロスが約束を守る物語」とでもなる。
 さらに、「人と人が信頼を回復する物語」でもいい。
②もう一つは、「~が~になる物語」という型
 これは主人公の変化を要約したものである。
 「メロスが花婿になる物語」とか、「メロスが一家の主人として自立する物語」といったもの。

※これらを「物語文」と著者は呼んでいる。
 物語とは、「はじめ」と「終わり」とによって区切られた出来事のことであって、「はじめ」から「終わり」に進むにつれて、主人公がある状態から別の状態に移動したり(これは「~が~をする物語」と要約できる)、ある状態から別の状態に変化したりする(これは「~が~になる物語」と要約できる)のである。
 その移動や変化を一文に要約したものが、「物語文」である。

・一つの小説に対して、いくつもの物語文を作れるようになると、その物語に意外な主人公が隠れていることが見えてくることがある。
 これも、小説を読む楽しみの一つである。小説を豊かに読む力を付けるためには、一つの小説に対していくつもの異なった物語文を作れるように練習するといい、とする。
(できれば、意識的に主人公を取り替えた物語文を作ってみること。小説がたくさんの物語の束から出来上がっていることがよく見えてくるそうだ)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、33頁~36頁)

〇過去問② メタファーを生きる子供――堀辰雄『鼠』について
 小説『鼠』の物語文は、「男の子が母親と結ばれる物語」となるという(120頁)
 センター試験では、日本の「母」に関する小説を出題し続けた時期があったそうだ。
 堀辰雄『鼠』や太宰治『故郷』は、憧れの存在としての美しき「母」や、死に行く存在としての優しき「母」を書いている。
 また、離婚した「母」を書く津島佑子『水辺』では、「娘」を抱えながらも一人の「女」として自立しようとする女性の心のあり方が「水」のイメージで語られている。
 太宰治『故郷』は、「「私」が家族への愛情を確かめる物語」である。
 津島佑子『水辺』は、「女が自立する物語」である。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、92頁、120頁、133頁、163頁)

・物語と小説とは、どう違うのか?
 この問題は、第四章でも、解説している。
 それは、先を急ぐ旅と道草の楽しみのように違うという。
 物語や小説といった散文芸術の二つの側面を説明するために、文学研究では、ストーリーとプロットという言葉を使う。
 フォスター(イギリスの小説家)は、ストーリーとプロットの関係について、次のように述べている。
「プロットを定義しましょう。われわれはストーリーを、時間的順序に配列された諸事件の叙述であると定義してきました。プロットもまた諸事件の叙述でありますが、重点は因果関係におかれます。<王が亡くなられ、それから王妃が亡くなられた>といえばストーリーです。<王が亡くなられ、それから王妃が悲しみのあまり亡くなられた>といえばプロットです。(中略)
ストーリーならば、<それからどうした?>といいます。プロットならば<なぜか?>とたずねます。」
(『小説とは何か』ダヴィッド社、1969年)

・<王が亡くなられた>と聞いて、出来事の続きを知りたい読者はこう問うだろう。
 <それからどうした?>と。答えはこうだ。<それから王妃が亡くなられた>と。
⇒<王が亡くなられ、それから王妃が亡くなられた>という文は、王が亡くなったことと王妃が亡くなったことという二つの出来事を時間的な順序に沿って書いたものだが、この一文には、<それからどうした?>という問いが隠されていた。
〇これが、先を急ぐ旅のような読み方、すなわち物語的な読み方である、と著者はいう。

・一方、<王が亡くなられ、それから王妃が亡くなられた>と聞いて、王妃が亡くなられた理由を知りたい読者はこう問うだろう。<なぜか?>と。
 答えは<悲しみのあまり亡くなられた>だ。
⇒<王が亡くなられ、それから王妃が悲しみのあまり亡くなられた>という文は、王が亡くなったことと王妃が亡くなったこととの時間的順序のほかに、この二つの出来事の因果関係までもがわかるように書かれている。
 この一文には、<それからどうした?>という問いだけでなく、<なぜか?>という問いも隠されていた。
〇これが、道草を楽しむような読み方、すなわち小説的な読み方である、という。

※「読書行為は迷路のようなものだ」という言葉があるが、この言葉は小説的な読み方のことを言っている。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、168頁~170頁)


「隙間の名手」川端康成の『千羽鶴』


「隙間の名手」川端康成の『千羽鶴』を例に、「行間を読む」について著者は解説している。

 文子は茶筅を上げる時に、黒い目を上げて、菊治をちらっと見たが、すぐに掌の上で唐津の
茶碗を廻す時は、そこに目を注いだ。
 (1)そして、茶碗といっしょに文子の目も、菊治の膝の前へ来た。
 文子が流れ寄って来るかと、菊治は感じた。
 今度は母の志野を前におくと、茶碗がかちかち縁にあたって、文子は手を休めた。
「むずかしいわ。」
「小さくて立てにくいでしょう。」
 と、菊治は言ったが、文子の腕がふるえるのだった。
 そして、一旦手を休めたとなると、もう小さい筒茶碗のなかでは、茶筅の動かしようがない。
 (2)文子はこわ張った手首を見つめて、じっとうなだれた。
「お母さまが、立てさせませんわ。」
「ええ?」
 菊治はつつと立つと、呪縛で動けない人を助け起すように、文子の肩をつかんだ。
 文子の抵抗はなかった。
                           (新潮文庫より)

【補足解説】
 文子の母は、菊治の父や菊治と複雑な関係を持ったようだ。 
「母の志野」とあるのは、文子の母が愛した形見の茶碗であるという。
 この場面は、菊治と文子がその茶碗でお茶を点てる場面である。大人の小説である。
 これが日本人初のノーベル文学賞作家の代表作の一つである。
※三島由紀夫は、川端の文学を「暗黒の穴だけで綴られた美麗な錦のようなもの」だと評した。
 最後の一文「文子の抵抗はなかった」は、まさにそういう一節らしい。
(川端が省略して書かなかったことを、解釈によって補う一文であるそうだ。)

☆この『千羽鶴』の一節は、省略の仕方も謎かけの仕方もある意味では常套的だし、解釈のぶれも少なくわかりやすい例である。受験小説では、こういうところこそが設問になりやすいと、石原氏はいう。
 つまり、ほどよい省略、ほどよい謎かけ、これがすぐれた小説の条件である。そして、それはまた受験小説の条件でもある、とする。
(あまりにも自由自在に解釈できるところは、恐くて設問を作れないようだ。)

<受験小説で問われる「気持ち」=「行間を読む」>
〇受験小説で圧倒的に問われるのが、「気持ち」である。
 それは、「気持ち」が書いてあるからではない。
 小説にとって、多くの場合「気持ち」を読むことは「行間を読む」ことを意味するからである。そして、「行間を読むこと」は物語文を働かせることだという。
(「気持ち」は個人差が大きいので、モノよりもさらに多くの読者の読みを試すことができる)

・しかし、多くの小説は、「気持ち」を直接書き込んだりはしない。
 リアリズム小説の読者が「気持ち」を読みたがっていることを知っている小説家は、安易に「気持ち」を書き込んで自分の小説の命を縮めるような愚を犯すことはしない。
 現代の小説にとっては「気持ち」こそが宝物だからである。
 いかにもそこに宝物が埋まっていそうな穴だけ掘っておく。
 そこで、ふつう受験小説では、「書いてない」からこそ、「気持ち」が問われるわけである。

 では、なぜ「気持ち」が「読める」のか。
 読者がそこに「書いてない気持ち」を読み取るまでのプロセスがあるという。
 先の『千羽鶴』の一節には、どこにも直接には「気持ち」は「書いてない」。
(ただ、茶を点てる場面が書かれてあるだけである。文子の「気持ち」など、どこにも書かれてはいない。「書かれてない気持ち」を「読む」ことは一つの奇蹟なのであるともいう。その奇蹟を求めるのが、受験小説というものらしい。)
 
 しかし、実際の受験小説なら、次のような設問が出る可能性がある、と著者はいう。

問一 傍線部(1)「そして、茶碗といっしょに文子の目も、菊治の膝の前へ来た」とあるが、この時の文子の気持ちはどのようなものか、二十字以内で説明しなさい。

問二 傍線部(2)「文子はこわ張った手首を見つめて、じっとうなだれた」とあるが、この時の文子の気持ちはどのようなものか、三十字以内で説明しなさい。

<解答>
問一の答え 「自分の恋心を菊治に伝えたい気持ち。」
 これは、傍線部(1)の次にある「文子が流れ寄って来るかと、菊治は感じた」という一文が重要な手がかりとなる。

問二の答え「自分はまだ母の呪縛から逃れられないという諦めの気持ち。」
 これもまた、次の「お母さまが、立てさせませんわ。」という一文が重要な手がかりとなる。

※「気持ち」の向こうには、いつも物語文が働いているという。
 「小説が読める人」とは、物語文の働きに意識的な人だそうだ。
 逆に「小説が読めない人」とは、物語文の働きに意識的になれないか、そもそも小説を物語文に変換することが出来ない人だという。
 そして、ここが重要なポイントであるが、受験小説で「気持ち」が問われがちなのは、第一に「書いてない」からであり、第二に受験小説が小説から物語文を作り出す能力を問うものだからである。
 そして、受験小説が「出来る人」とは、小説から物語文への変換の関数(小説をどんな風に物語文にするのか、その変形の度合いのこと)を出題者と共有できる人のことである。
 (石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、21頁~41頁)

受験小説を解くための五つの法則


・センター試験の小説のような記号式の設問を解くための五つの法則を記している。

①「気持ち」を問う設問には、隠されたルール(学校空間では道徳的に正しいことが「正解」となる)が働きがちである。
②そのように受験小説は「道徳的」で「健全な物語」を踏まえているから、それに対して否定的な表現が書き込まれた選択肢はダミーである可能性が高い。
③その結果、「正解」は曖昧模糊とした記述からなる選択肢であることが多い。
④「気持ち」を問う設問は傍線部前後の状況についての情報処理であることが多い。
⑤「正解」は似ている選択肢のどちらかであることが多い。
(ただし、五つ目の法則は、中学や高校の入試国語ではほぼそのまま使えるが、大学受験国語では裏をかかれることがある。)

〇物語文による読みを基本としながら、これら五つの法則と消去法とを組み合わせて解くのが、センター試験の小説の鉄則である。
(どうやら、石原氏の消去法との闘争は、半ば勝利し、半ば敗北したようだ、と記している)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、164頁~165頁)

・法則⑤について
 出題者は、「正解」を作ったあとに、それに似せたダミーをもう一つ作ってしまいがちである。
 (120頁)

【補足説明】
〇国語ではよく「読解力」という言葉を使う。
 同じ「読解力」という言葉でも、教室と試験場では異なるし、記述式の設問と記号式の設問とでも異なるそうだ。
 記述式の設問では、「出題者と説明の枠組を共有できる能力」と定義し、記号式の設問では、「本文と選択肢の対応関係を見抜く能力」と著者は定義している。
(センター試験では、後者の「読解力」)

 また、「間違い探し」、つまり消去法とは、本文と選択肢との対応関係を点検する方法だということになる。
(チマチマして創造性のカケラもない、実につまらない方法である、と著者は付言しているが)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、119頁)
 
〇「書いてない気持ち」(心情)は読めない。だが、設問に答える際に途方に暮れた場合は、三つの方法があるという。
 過去問③ 女は水のように自立する――津島佑子『水辺』の問4について
1完全な受験技術。選択肢の末尾だけを見る
2消去法
3物語文を使うこと

<「正解」は曖昧な記述の中にある~「受験小説の法則③について>
たとえば、1完全な受験技術。選択肢の末尾だけを見る
 ①「うれしく思っている」、②「痛快に思っている」、④「いじらしく思っている」、⑤「うれしく思っている」とあるのに、③だけがはっきり気持ちを書いていない。
 これだけが違う顔をしている。
 「うれしく思っている」でまとめた①と⑤も心引かれるが、目をつぶって③を「正解」にしてしまう手である、という。
 この方法の根拠について、著者は次のように述べている。
 選択肢は本文の暴力的な書き換えである。
 ところが、あまりに明確に言い切ってしまうとやはり本文とはズレが生じてしまう。
 そこで「正解」は、本文とのズレを出来るだけ少なくするために、明確な言葉を書き込まず、曖昧な記述でお茶を濁すことになってしまう。
 積極的な「正解」ではないが(それだとミエミエになってしまう)、間違いでもないという感じの曖昧な記述の中に「正解」が含まれることが多い。
(ほかに比べて曖昧な記述の多い選択肢が「正解」として残るケースは決して少なくないから、覚えておいてほしいという。選択肢は、キッチリ書くほどミエミエになるか、ぼろが出るか、するものらしい。)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、137頁~139頁)

〇大学受験の小説は、メタファー(隠喩)で解くものである。メタファーで読まなければ大学受験の小説は解けないものであるという(93頁)。
過去問② メタファーを生きる子供――堀辰雄『鼠』
問一では、語句は本文中でどのような意味に使われているか、を問うた問題である。
(ア)よい嗅覚 ①超自然的なものに対するすぐれた感受性 ②動物のような鋭い直感 ③群れを作るものに特有の防衛本能 ④弱者が身を守るためのすばらしい反応 ⑤子どもらしい柔軟な発想

この問いに著者は次のように解説している。
・子供たちは、「鼠」や「土竜」になったのだ。
 ⑤は決して間違いではないが、この小説のメタファー的世界を読めていれば、迷うことなく②を選べる。
 出題者は「「嗅覚」と表現するからには、子供たちは鼠や土竜になったのだ」と読んで、この設問を作っている。つまり、この設問は言葉の意味を聞いているのではない。使われ方を聞いているのだ。すなわち、「嗅覚」という言葉を動物のメタファーとして読めるかどうかだけを聞いているのだ。
 「本文中でどのような意味に使われているか」という指示は、そういう風に理解するしかない。そこで⑤が排除されるのだ。
(<センター試験の設問はある種の思い込みで作られている>という意味は、こういうところを指しているらしい)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、93頁、114頁)





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