歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-08-25 17:14:01 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年8月25日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


  今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第二部に相当する【第二の回廊 レオナルド流転の生涯】、第七章から第十章までの内容を紹介してみたい。
 「第七章 処女懐胎の子」では、晩年のレオナルドが、『モナ・リザ』にいかなる思いを託していたか。このことを知るために、レオナルドの女性観を、生い立ちから探りつつ、その流転の生涯を眺めている。
たとえば、画家と女性モデルの問題について、西岡文彦氏は興味深い論を展開している。レオナルドの女性観と女性モデルの関係について、絵画を通して、具体的に解説している。
レオナルドが“女嫌い”であったことはよく指摘されるが、『貴婦人の肖像』(1495年頃)は、女性に対するレオナルドの冷淡な視線を雄弁に物語る作品である。
ところが、レオナルドの描く聖母像となると違ってくる。『岩窟の聖母』(1486年)は、慈愛に満ちた聖母の表情であり、理想化された母性への極端な憧憬が見られる。そこには、レオナルド自身の出生の事情が反映していると西岡氏は推測している。

レオナルドの場合、「聖なる母」「処女懐胎」のイメージから生涯、訣別することができなかったと西岡氏は解している。レオナルドの描く聖母像は、少年の抱く理想の母のイメージの域を出ていない。一方、ラファエロの聖母が、愛人の肖像と噂されるのとは、あまりに対照的である。ちなみに、ラファエロの『小椅子の聖母』(1514年 ピッティ宮 フィレンツェ)において、聖母のモデルはラファエロの伝説的な愛人フォルナリーナといわれる。

 「第八章 少年愛のルネッサンス」においては、レオナルドとミケランジェロの比較論が興味深い。母性を理想化したレオナルドに対して、ミケランジェロが父なる神のイメージを追求したと主張する。ミケランジェロの作品は、その後のキリスト教文化圏における、父性の理想像を決定し、現代の映画に至るまで参照され続けているようだ。また、レオナルドの男性像は、この迫真のミケランジェロの描写の対極にあると評し、レオナルドの『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)の半裸の肉体は、むしろ女性的な恥じらいに満ちている。聖ヨハネ像に、ミケランジェロとレオナルドの男性像の対比が如実に表わしている。前者は、神の子の洗礼者としての父権的なイメージの、ミケランジェロ的な風貌の俳優による体現である。一方、後者は、古代ギリシアの神を思わせる官能的な両性具有性の、レオナルド的な男性像による絵画化であると西岡氏は考えている。これらの事例は、二巨匠の男性像の理想の対比を示している。
このように、作風は両極端を示しているが、ただ、女性との関係を忌避した点で、レオナルドとミケランジェロは共通している。
 
 「第九章 失われた『最後の晩餐』」において、『岩窟の聖母』の10年後に手がけた『最後の晩餐』(1497年)を、ヴァザーリの列伝などをもとに解説している。ここでも、ミケランジェロとレオナルドの絵画・壁画の技法の違いに焦点をあてて、説明している。
 ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井と壁画の大画面は、フレスコという伝統的な壁画の技法で描かれている。耐水性は、壁画には不可欠のもので、これがないと、室内の湿気や人間の肌との接触が色落ちや汚れの原因となり、耐用年数が短くなってしまうようだ。フレスコの画面は、耐水性を得るために、漆喰の乾燥前に描き上げなくてはならず、往々にして、その筆致は大雑把なものになる。このフレスコの制作工程や筆致は、レオナルドの絵画の理想からは、ほど遠いものであった。
だから、レオナルドはこの技法を嫌い、新技法を試みる。レオナルドは、『最後の晩餐』を描くにあたって、樹脂を混入した漆喰で壁面を下塗りし、鉛白(えんぱく)という白い顔料をひいた上に、テンペラ絵の具で描いている。しかし、この新技法は絵の具を壁面に定着させることができないという欠点があり、失敗してしまう。完成後10数年を経ずして、絵の具が砕片となって、壁面から剥落し始めた。

 「第十章 万能の悲劇」において、西岡氏が「レオナルド流転の生涯」を解説している中で、レオナルドは、一時期、ロマーニャ公チェーザレ・ボルジアの軍事顧問を務めたことがある点にも言及している。チェーザレは、聖職者から軍人政治家に転身し、蛮勇で聞こえた冷酷非情の暴君であり、マキャヴェリの名高い政治哲学『君主論』のモデルでもあった人物である。チェーザレの幕営で知り合ったマキャヴェリとレオナルドは、互いの知性に魅かれ、意気投合したようだ。フィレンツェ市庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の依頼の背景には、市の要職にあったマキャヴェリの尽力があったとみられている。

レオナルドの『モナ・リザ』と、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井に、フレスコで描いた旧約聖書『天地創造』とを比較している。ミケランジェロの方は、「光の創始」から「ノアの洪水」に至る、その総面積は、約520㎡であるのに対して、油彩の『モナ・リザ』の面積は、わずか0.4㎡であり、1300分の1の大きさである。しかし、この小画面にレオナルドは、その巨大な思索を結集し、まさしく『天地創造』のスケールを上回る、遠大な宇宙観と深淵な人間観を濃縮し、自身の哲学の縮図であると西岡文彦氏はみている。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


【第二の回廊 レオナルド流転の生涯】
第七章 処女懐胎の子
・レオナルドの女性観と『貴婦人の肖像』
・レオナルドの『岩窟の聖母』に関連して
・レオナルドの『モナ・リザ』に関連して

第八章 少年愛のルネッサンス
・レオナルドの美貌
・レオナルドとミケランジェロ

第九章 失われた『最後の晩餐』
・フィレンツェからミラノへ
・ミラノの『最後の晩餐』
・フィレンツェ帰還後のレオナルド

第十章 万能の悲劇
・絵画という「学」
・レオナルドの『絵画論』
・レオナルドの万能
・『モナ・リザ』 に関する評言

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。






第七章 処女懐胎の子


レオナルドの女性観と『貴婦人の肖像』


絵画史上最も著名な女性像の作者でありながら、レオナルドは、女嫌いであった。
これは、画中の女性像に明白であると西岡氏は主張している。
ルーヴル、サロン・カレで、『岩窟の聖母』の右側に掛かる『貴婦人の肖像』(1495年頃)は、その典型であるという。その画面は不機嫌としか言いようのない表情を描いている。つまり、それは女性に対するレオナルドの冷淡な視線を雄弁に物語る作品である。

ところで、元来、画中の女性というものは、画家との間にあらぬ噂を立てられがちであるといわれる。
例えば、ラファエロの聖母がそうである。
〇ラファエロ『小椅子の聖母』(1514年 ピッティ宮 フィレンツェ)
聖母のモデルはラファエロの伝説的な愛人フォルナリーナといわれる。のちに、アングルは、このラファエロの恋物語を作品として残している。
〇アングル『ラファエロとフォルナリーナ』(1814年 ハーバード大学美術館)

そして、ゴヤの着衣と裸体の『マハ』もそうであった。モデルは画家の愛人と噂される。
〇ゴヤ『着衣のマハ』(1805年頃 プラド美術館 マドリッド)
〇ゴヤ『裸体のマハ』(1805年頃 プラド美術館 マドリッド)

なぜ、このような噂が生まれるのか。この点について、西岡氏は次のように答えている。
モデルの最良の部分を写し取るために画家が注ぐ、熱く執拗な視線に反応してか、モデルも熱い視線で画家を見返すことになり、この視線がそのまま画面に定着されるからであるという。これは、そのまま現代のカメラマンとモデルの関係にも当てはまるとする。
そして、一時的な、疑似-恋愛関係に入らないことには、「いい絵」は生まれないらしい。

ところが、レオナルドの描く女性像には、『モナ・リザ』をのぞけば、画面にその種の画家とモデルの共感がいっさい感じられず、視線は決まって冷淡そのものである。
なかでも、『貴婦人の肖像』は、モデルに対する視線の冷淡さが顕著である。この視線に反応してか、画中の女性も敵意に近い眼差しを見せている。
(肖像画というより、手配写真のような顔に仕上がっている)
モデルは、『最後の晩餐』の発注者ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの愛人、ルクレツィア・クリヴェリといわれる。

この作品に先立ち、レオナルドはルドヴィコの別の愛人、チェチェリア・ガッレラーニを描いている。このチェチェリアの肖像が『白テンを抱く婦人像』(1490年 ツァルトリスキー美術館 クラクフ[ポーランド])である。
同じく冷淡な筆致ながら、こちらには、ルクレツィアのような敵意めいた表情はない。スフォルツァ家を意味する白テンを抱く手にも、それなりに情愛がこもっている。
チェチェリア自身も、この絵が気に入っていたらしく、イザベラ・デステへの手紙では、作品に比べて自分の容色があまりに衰えていることを嘆いているそうだ。
絵を見て感嘆したイザベラ・デステが、レオナルドに肖像画を依頼し続けた。

ところで、最初に描いたチェチェリアに義理立てしたわけでもなかろうが、レオナルドがルドヴィコのために描いた2点目の愛人の肖像は、うってかわって不機嫌な顔に描かれている。しかし、皮肉なことに、絵の出来は、情愛よりは敵意のただよう『貴婦人の肖像』の方が格段に上であると西岡氏は評している。
ともあれ、レオナルドはよほど女性が嫌いであるらしい。
(西岡、1994年、98頁~101頁)

レオナルドの『岩窟の聖母』に関連して


次に、サロン・カレで、不機嫌な表情の『貴婦人の肖像』から、隣の『岩窟の聖母』(1486年)に目を移してみよう。
こちらは、慈愛に満ちた聖母の表情である。だから、そのギャップに驚かされる。
この理想化された母性への極端な憧憬と、現実の若い女性への拒否的な感情には、精力的だった父親と、レオナルド自身の出生の事情が反映していると西岡氏は推測している。

ここで、西岡氏は、レオナルドの生い立ちについて解説している。
レオナルドは、1452年、フィレンツェ近郊ヴィンチ村に、公証人セル・ピエロ(26歳)の私生児として生まれている。
生みの母カテリーナは、この時、25歳である。父はまもなく、フィレンツェの良家の娘アルビエーラ・アマドーリ(16歳)と結婚し、レオナルドは4歳まで、生母と共に暮らす。父とアルビエーラとの間に子供ができなかったため、レオナルドは5歳の時に、父の家に引き取られる。
この年齢での生母との離別は、心理的には痛手であったに違いないと西岡氏はみている。
レオナルドの聖母像には、わが子との死別を予見した、哀しいあきらめのにじむ微笑が見られ、レオナルド特有のものである。その聖母像の微笑は、レオナルドのこの生い立ちと無縁ではないとする。

アルビエーラが難産で死亡したのが、1464年であった。レオナルドが13歳の時のことである。自分の子供に恵まれなかったこともあり、この若い継母はレオナルドを可愛がったといわれる。彼女の死はレオナルドにとっては、2度目の「母」の喪失だったようだ。
精神分析の父フロイトは、この「2人の母」の面影を、『聖アンナと聖母子』に描かれた、聖母とその母である聖アンナの慈愛に満ちた姿に見出そうとした。『聖アンナと聖母子』は、レオナルドが終生手離さなかった3点の作品のひとつでもある。

さて、継母アルビエーラの死の翌年、父が後妻に迎えた名門ランフレディーニ家の娘は、レオナルドとはわずか3歳違いであった。
辛辣な事業家だったレオナルドの父は、大変な精力家であった。78歳で死亡するまでに4度結婚し、3番目と4番目の妻との間に11人の子供をもうけた。
(最後の子供は、彼の死後に誕生している。当初、姉ほどの年齢であったレオナルドの「母」たちは、父の再婚と共に、徐々に妹や娘にあたる年齢へと若返った。レオナルドの24歳下の弟から始まって52歳下の末弟に至る、11人の子供を産んだことになる。この12人兄弟姉妹のうち、長男レオナルドのみが私生児であった)

当時、大家族が珍しくなく、私生児もさして特異な存在ではなかったが、こうした経緯には、レオナルドなりに複雑な心境があったに違いないと西岡氏は想像している。
そして、レオナルドの手記にある「肉欲を抑制しない者は獣の仲間になれ」という言葉と結びつけて解釈している。

また宮廷での座興に創案したクイズには、「最も美しきものの、最も醜悪なる部分を求めて狂奔した後に、わざわいと後悔のうちに正気にかえり、われながらあきれる」ものが、肉欲であるとしている(「最も美しきもの」は女性を指すという)。
このレオナルドの性に対する嫌悪感には、少なからず父親の影が差していると西岡氏はみている。そして、聖母以外の地上の若い女性に対して、レオナルドが示した一貫した冷淡さには、父に嫁いできた若き「母」たちへの複雑な思いが、投影しているとする。

レオナルドは、ルドヴィコ宮廷の通俗性と性的な頽廃を、軽蔑と冷淡をもって日記に書き残した。そのルドヴィコのために描いた2点目の愛人の肖像に、冷淡な筆致を示したのは無理からぬことと西岡氏は説明している。
(西岡氏は、巨匠デヴィッド・リーンによる『ライアンの娘』(1970年)という白眉の作品を例に挙げつつ、若い女性の恋愛問題について言及している)
(西岡、1994年、102頁~105頁)

レオナルドの『モナ・リザ』に関連して


すべての子供は潜在的に、母親が自分を妊娠した事実を「処女懐胎」とみなしているといわれる。レオナルドの場合、この「聖なる母」のイメージから生涯、訣別することができなかったと西岡氏は解している。
だから、レオナルドの描く聖母像は、少年の抱く理想の母のイメージの域を出ていないという。そしてラファエロの聖母が、愛人の肖像と噂されるのとは、あまりに対照的である。

ところで、レオナルドの手記には、個人的な記述の少ないことを知られているが、例外的に、ミラノ宮廷滞在時代の1493年7月16日、「カテリーナ来る」との一行が書き込まれている。
これが、生母カテリーナの来訪を意味するものか否かは不明である。しかし、後日の手記に、このカテリーナの葬儀の費用がこと細かに書かれている。そのことから、彼女が死の日までレオナルドの身近にいたことがわかる。レオナルドの生涯中、身近に女性の姿が見えるのは、この時だけである。

生涯にわたって、女性と無縁であったレオナルドが、生母の面影を宿した聖母以外に、共感をもって描いた、ただひとりの「地上の女」が『モナ・リザ』であるという。

ただ、レオナルドが、なにゆえに、この『モナ・リザ』のみに心を開いたのか。
この疑問については、明快な解答は示されていない。
西岡氏は、この疑問に2つの解答が考えられるとする。
① 母にまつわる解答
② 父にまつわる解答

① 母にまつわる解答の説明
『モナ・リザ』が、聖母とは別の意味で、やはり生母の面影を宿している可能性はあるとみる。理由は、推定されるモナ・リザの年齢と境遇である。
ヴァザーリ説をとれば、モデルのリザは、当時、20代の後年ということになる。この年齢は、幼少のレオナルドが共に暮らした時期の生母の年齢と一致している。
加えて、モナ・リザは、この数年前に幼い娘を亡くしている。生別、死別の違いはあるものの、わが子との離別の哀しみに沈んでいる点と、その年齢において、モナ・リザはレオナルドの生母に重なる部分が、きわめて大きいといえる。
その哀愁を帯びた微笑に、レオナルドは、生母カテリーナの面影を託したのかもしれないという。となれば、この女性像に、レオナルドに特有の冷淡な視線がないのは当然である。これが、『モナ・リザ』とレオナルドの共感の謎を解く、解答の第一である。

② 父にまつわる解答の説明
第二の解答は、『モナ・リザ』の着手時期と、父親の死の時期の一致にある。
父の死は、1504年7月9日である。
「わが父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ死す。奉行庁づき公証人。八十歳なり。十男二女を残す」と、手記にあっさりと記す。
信じがたいことだが、万能のレオナルドは、この父親の世俗的な能力に根深いコンプレックスを抱いていたという。
(事業家として活躍する世知にたけた父の世俗の権力と精力は、学究肌の芸術家としてのレオナルドを圧倒していたようだ)
この父の死が、レオナルドを支配していた抑圧の解消となったのではないかと西岡氏はみている。
興味深いことに、確認されるレオナルド唯一のヌード『レダ』は、父の死の数年後に描かれている。模写のみが残るこの絵は、レオナルドの作品とも思えぬ官能的な裸婦が、白鳥に化身したゼウスと交わって産んだ卵から、二組の双子が生まれる場面を描いている(レオナルド『レダのための習作』1515年頃、デヴォンシャー・コレクション・チャッツワース[イギリス])。

この作品に、わずかに先行して着手されたのが、『モナ・リザ』である。
その画面が、レオナルドの女性観の変貌を反映し、それまではレオナルドの作品には見られなかった女性との共感を示していても、時期的には不思議はないとする。
これが、西岡氏の解答の第二である。

いずれを取るか、あるいは双方を斥けるか、その判断は読者にゆだねている。

また、『モナ・リザ』と『聖アンナと聖母子』と共に、レオナルドが終生手離さなかった作品に、サロン・カレで『岩窟の聖母』の左側に掛かる『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)がある。

『モナ・リザ』にも似た不可思議な微笑を浮かべつつも、画中の半裸の男性像は、官能性において、女性の『モナ・リザ』をはるかに上回っているという。
(この作品を、同性愛者としてのレオナルドの告白的自画像と見る解釈があるのは、そのためである。事実、20代の初めに男色のかどで告発された)
(西岡、1994年、106頁~110頁)

第八章 少年愛のルネッサンス


レオナルドの美貌


「フィレンツェの悪徳」という言葉があるそうだ。
ルネッサンス期のフィレンツェ市における同性愛の蔓延にちなんで、フランス人が命名した。人口7万人のフィレンツェで、1432年から1502年までの70年間に、男色の罪で告発された者の数は1万人を超えたという。

レオナルド自身も、1476年の4月と6月の2度にわたって告発を受けている。17歳の金銀細工師ヤコポ・サルタレッリの男色の相手をしたとされる4人の人物に、24歳のレオナルドの名が挙げられた。その後、容疑者4人は証拠不充分で釈放された。
もともとレオナルドの入門したヴェロッキオ工房そのものが、独身の同性愛者の小共同体であったといわれる。同門の先輩ボッティチェルリも、2度にわたって、男色の罪で告発されている。

ところで、レオナルドの美貌は、生前すでに伝説化していた。ヴァザーリは「列伝」の中で、次のように書いている。
「彼は、この上なく美しい容貌と精神の輝きによって、どのような陰気な人の心をも晴れやかにした。また、その言葉によって、どのような頑迷な人の心をも和らげた」

他にもレオナルドの美貌を伝える文献は残っており、少年期のレオナルドをモデルにしたといわれる作品も2点残されている。
〇ヴェロッキオ『ダヴィデ』(1475年、バルジェロ美術館、フィレンツェ)
〇ボッティチーニ『トビアスと三人の天使』(1470年頃、ウフィッツィ美術館、フィレンツェ)~ヴェロッキオの影響を受けた画家ボッティチーニの描いた天使像

いずれ劣らぬ美少年ぶりである。後者のボッティチーニの描く天使の繊細な顔の輪郭、くっきりとした目鼻だちは、むしろ美少女というにふさわしい。
少年期の美貌の常として、レオナルドの風貌にも、両性具有的な天使性が強かったようだ(レオナルドの同性愛者としての風聞を裏付けている)。
哀愁を含んだ美貌である点は、2作品とも共通していると西岡氏は評している。
(西岡、1994年、111頁~113頁)

レオナルドとミケランジェロ


レオナルドをモデルにしたというヴェロッキオの『ダヴィデ』(1475年頃)の4半世紀のち、ミケランジェロの『ダヴィデ』(1504年、大理石、高さ410㎝、アカデミア美術館、フィレンツェ)が登場する。
レオナルドが『モナ・リザ』に着手したのが、この頃であった。
この2作品は、期せずして、同時期に制作されたことになる。それらは、絵画と彫刻の描写技術の極限を示している。
この2作品以前に、ここまで精緻な写実描写をきわめた絵画も彫刻も存在せず、また、今後の美術史がこの2作品を凌駕する表現を生み出す見込みもないと西岡氏はみている。
(この『ダヴィデ』にも、少なからず、「フィレンツェの悪徳」の香りは、ただよっているようだ。ルネッサンス期のフィレンツェは、古代ギリシアから、その理想主義的な人体造形と共に、「ギリシア風の愛」すなわち少年愛をも復興させていたらしい)

現在、フィレンツェで見られるミケランジェロの『ダヴィデ』は3点ある。
アカデミア美術館にあるのが、巨匠ミケランジェロが手ずから彫ったオリジナル作品である。あとの2点は模刻(原寸大の複製)である。シニョーリア広場のヴェッキオ宮前と、アルノ河対岸のミケランジェロ広場に置かれている。
まったく同じ大きさ、同じ形でありながら、模刻とオリジナルの仕上げはまさに雲泥の差がある。オリジナルにおいては、筋肉や肌の精妙緻密な美しさは想像を絶している。『ダヴィデ』像の見どころは、腹部と太股の境目に深々と刻まれた溝にあるとされる。

ちなみに、大半の美術書には、正面から撮った『ダヴィデ』の写真が載っている。しかし、これでは、真の魅力は決してわからないと西岡氏は強調している。
つまり、4メートルをゆうに超えるこの作品は、もともと見上げられることを前提に造形されている。上半身は大きめに、下半身は小さめに作られており、下から見上げなくては、上半身と下半身のバランスがとれないようになっている。
柔和な股の部分と、腹部と胸の隆々たる筋肉の描写の対比が真価を発揮するのも、下から見上げた時であるという。この角度で眺めるダヴィデの肉体は、臨場感に満ちている。
肌の仕上げも絶妙で、湿り気を帯びた粘着感を錯覚させるほどに精妙緻密である。迫真の写実的技量が『ダヴィデ』像にはみなぎっているという。

一方、レオナルドの男性像は、この迫真のミケランジェロの描写の対極にあると評している。例えば、レオナルドの『聖ヨハネ』の半裸の肉体は、むしろ女性的な恥じらいに満ちている。

このように、作風は両極端を示している。ただ、女性との性的な関係を忌避した点で、レオナルドとミケランジェロは共通している。
壮年期以降のレオナルドの身辺に、常に美少年の姿があった。なかでも美貌で知られるのは、サライ(小悪魔)とあだ名された弟子ジャン・ジャコモ・カプロッティである。38歳のレオナルドに弟子入りした時、この美少年は10歳であった。レオナルドの手記には、「泥棒で、嘘つきで、強情で、大食い」とある。以降、サライは盗癖にもかかわらず、レオナルド晩年に至るまで20余年にわたり、寛大な保護を受けている。
(晩年のアンボワーズ行きの途中でサライは行方をくらます。この不実にもかかわらず、レオナルドは遺言で葡萄園の権利を与えている)

女性に冷淡であったレオナルドとは逆に、激情家のミケランジェロは女性を理想化するあまり、かえってプラトニックな恋慕に走る性分があったようだ。
美少年を身辺に置いた老レオナルドに対して、晩年のミケランジェロが生涯ただ一度の恋愛に選んだ相手は、なんと尼僧であった。
(この二人に限らず、巨匠と呼ばれる芸術家に、恋愛運や家族運に恵まれた人物はほとんどいないといわれる。芸術上の成功と個人的な幸福とは、両立しないのが普通なのであると西岡氏はみている)

母性を理想化したレオナルドに対して、ミケランジェロが父なる神のイメージを追求した。
例えば、次の作品は、その後のキリスト教文化圏における、父性の理想像を決定し、現代の映画に至るまで参照され続けている。
〇彫刻の代表作『モーゼ』(1515年、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会、ローマ)
〇システィナ礼拝堂の大天井画『天地創造』に描かれた神の姿「太陽と月を創造する神」(ヴァティカン宮殿内システィナ礼拝堂、ローマ)

現代の映画では、その典型例として、トーキー初期のハリウッド映画『十戒』(1956年)が挙げられる。主役のチャールトン・ヘストンは、ミケランジェロの『モーゼ』に似ているということで抜擢され、この一作で大スターとなった。
そのヘストンが、ハリウッド最後のオールスター大作『偉大な生涯の物語』(1965年)で、髭面の男性的イメージを強調して、聖ヨハネを演じている。
聖ヨハネ像に、ミケランジェロとレオナルドの男性像の対比が如実に表わしていると西岡氏は強調している。すなわち、男性的な映画版『聖ヨハネ』と、女性的なレオナルド版『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)のイメージの対比においてである。
前者は、神の子の洗礼者としての父権的なイメージの、ミケランジェロ的な風貌の俳優による体現である。一方、後者は、古代ギリシアの神を思わせる官能的な両性具有性の、レオナルド的な男性像による絵画化であると西岡氏は考えている。
これらの事例は、二巨匠の男性像の理想の対比を示している。

ところで、ミケランジェロの実際の父親ロドウィコは、名門意識の高い執政官であった。利己的で虚栄心の強い、理想からはほど遠い父親であった。
息子の才能にも無理解で、ミケランジェロの才能を見込んだロレンツォ・デ・メディチの説得で、やっと息子が彫刻家ギルランダイオに入門することを許した。
(フィレンツェでの政治力を生かして、息子のために作品の受注を斡旋したという、レオナルドの父とは対照的である)

ところが、この父親は、ミケランジェロが成功した後は一転して、その名声と富を利用することしか考えなかった。はては息子に嫉妬するかのように誹謗中傷して歩き、父子の間には確執が絶えなかった。ミケランジェロが父に宛てた手紙には、哀願にも近い苦情が綴られているという。
ミケランジェロもまた、レオナルドの母とは別の意味で、父を「喪失」している。

この第八章の最後に、西岡氏は、レオナルドの聖母像とミケランジェロの神の像について、次のように述べている。
母を喪失したレオナルドが傾斜した少年愛は、みずからが永遠の少年となって、母に愛された日々を哀惜する試みでもあったのかもしれないと想像している。レオナルドの描く聖母像が、永遠の少年の理想の母としての慈愛に満ちているのも不思議ではない。
一方、ミケランジェロの描く父なる神の像が、永遠の少年の理想の父としての威厳に満ちているのも自然であるという。
芸術とは、つまるところ、失われたものを奪い返す試みなのであろうと、西岡氏は考えている。
(西岡、1994年、114頁~122頁)

第九章 失われた『最後の晩餐』


フィレンツェからミラノへ


レオナルドの画歴は、そのまま未完成作品の歴史であるといわれる。
美術史上最も高名な画家でありながら、今日残されたレオナルドの作品は驚くほど少ない。現存する作品はかろうじて20点を数えるに過ぎない。しかも代表作『モナ・リザ』を含めて、その大半は未完成のままである。
(ただし、この極端に完成品が少なく、移り気とも見える制作歴は、職業画家としては致命的な欠陥であった)

最初の大作となるはずであった『東方三博士の礼拝』(1482年、ウフィッツィ美術館)の受注が、レオナルド29歳の時である。
30か月の制作期限を限定した代金を受け取っていたにもかかわらず、レオナルドは7か月後にミラノへ旅立ち、作品は未完のまま放置される。

このミラノ行きは、ロレンツォ・デ・メディチが、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァが構想中の騎馬像の作者に、レオナルドを推したためとも、竪琴の演奏の腕を買われたためともいわれる。
ただ、この少し前、メディチ家が法王に推挙した芸術家の選に洩れていたことから、フィレンツェでの未来に希望が持てなくなっていたらしい。

しかし、この転進の地ミラノで、レオナルドは、ルドヴィコに依頼された青銅製の巨大騎馬像の、習作と技術研究に15年余を費やし、なお完成することができなかった。
着手より10年、ようやく作られた粘土製の原寸模型は、スフォルツァ家の婚礼祝典に公開され、その威容で人々を圧倒する。しかし、数年後ミラノに侵攻したフランス軍が射手の標的にしたため破壊されてしまう。騎馬像としては、美術史上最大の作品であった。
騎馬像と同時期に着手した『岩窟の聖母』は3年で完成する。しかし注文主の教会の意向に合わず、20年余の訴訟の後に、レオナルドの弟子による改作の納品でやっと落着する。
(西岡、1994年、123頁~124頁)

ミラノの『最後の晩餐』


この『岩窟の聖母』の10年後に手がけたのが、『最後の晩餐』(1497年)である。
『最後の晩餐』は、サンタ・マリア・デル・グラーツィエ修道院の食堂の壁に描かれた。この作品の制作風景は、同時代の説話作家マッテオ・バンデッロによって記録されている。
これによれば、レオナルドは、ある時は、終日、食事も忘れて描き続けるかと思えば、ある時は、何日も作品に手をつけようとせず、画面を子細に点検し、自分の描いた人物を論評していたという。
騎馬像の制作中に、突然、修道院に向かい、画面に2、3のタッチを加えて、すぐに立ち去ってしまうというようなことも、再々であったらしい。

他方、ヴァザーリは、次のように書いている。
修道院長は、レオナルドが時に半日、作品の前で沈思黙考する姿に業を煮やして、ルドヴィコに苦情を申し立てた。庭師が庭を掃く箒の手を休めぬように、画家も絵筆を休めず、仕事に励むべきだと院長は言った。
レオナルドは、督促するルドヴィコに、真の才能は、なにもしていない時にこそ、より多くの仕事をしているものだと説いたそうだ。
頭の中に完全な構想が描けぬ限り、手は動かせるものでないと説き、イエスとユダにふさわしい顔がみつからないのも遅延の原因であると説明した。切羽詰まった折りには、ユダには頑迷な修道院長の顔を参照したいと言って、ミラノ公を笑わせたとある。
以後、修道院長は、庭師の仕事の催促に専念するようになったという。

ルドヴィコの督促が功を奏してか、『最後の晩餐』は3年という例外的な短期間で完成された。
しかし、レオナルドはフレスコという伝統的な壁画の技法を嫌い、新技法の試みが失敗してしまう。完成後10数年を経ずして、絵の具が砕片となって、壁面から剥落し始めた。

ところで、フレスコは、2000年来の伝統を持つ壁画の技法である。ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井と壁画の大画面は、この技法で描かれている。『天地創造』は、ヴァティカン宮殿内システィナ礼拝堂天井に描かれたミケランジェロ畢生の超大作である。その中でも、『アダムの創造』は最も知られた場面である。
塗りたての生乾きの漆喰に水性の絵の具で描かれ、漆喰の乾燥と共に画面の耐水性を得るところから、英語の「FRESH(新鮮な)」にあたるイタリア語「フレスコFRESCO」の名がついた。

耐水性は、壁画には不可欠のもので、これがないと、室内の湿気や人間の肌との接触が色落ちや汚れの原因となり、耐用年数が短くなってしまうようだ。
フレスコの画面は、耐水性を得るために、漆喰の乾燥前に描き上げなくてはならず、往々にして、その筆致は大雑把なものになる。このフレスコの制作工程や筆致は、レオナルドの絵画の理想からは、ほど遠いものであった。

さて、レオナルドは、『最後の晩餐』を描くにあたって、樹脂を混入した漆喰で壁面を下塗りし、鉛白(えんぱく)という白い顔料をひいた上に、テンペラ絵の具で描いている。
漆喰の乾燥に急かされずに描くために、壁画に板絵の技法を応用しているものらしい。
ただ、この新技法は絵の具を壁面に定着させることができないという欠点がある。だから、画面は完成後十数年で無数の亀裂を生じ、絵の具の細片を剥落させてしまう。
(絵の具の層を分析した結果、原画はフレスコでは不可能な、驚くべき色彩の鮮度と透明感を示していたことが確認されたという)
『最後の晩餐』は、完成直後から神格化された評価を確立したといわれる。フランス国王ルイ12世に至っては、修道院を壊し、壁を切り取ってでも持ち帰りたいと望んだという。しかし、『最後の晩餐』は、この技術的な失敗によって、画面に定着されることなく終わる。

結局、世紀の名画『最後の晩餐』は、性急なフレスコの制作過程を嫌ったがゆえに誕生し、まったく同じ理由によって、失われることになったと西岡氏は説明している。
(西岡、1994年、124頁~128頁)

フィレンツェ帰還後のレオナルド


フランス軍のミラノ侵攻で、ルドヴィコが失墜し、レオナルドはミラノを去る。
そして、17年ぶりに故郷フィレンツェに帰還する。
騎馬像と『最後の晩餐』で、巨匠の名声は故郷にも届いていた。少し後、ある修道院でレオナルドが公開した『聖アンナと聖母子』の素描(1499年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)には見物客が殺到している。素描にもかかわらず、この絵を展示した部屋は、レオナルドの神業をひと目見ようという老若男女であふれ、祭礼のようであったという。
(しかし、盛況に気をよくした修道院側の思惑をよそに、本番の絵の方は完成することなく終わる)

また、フィレンツェ市からの依頼で、市庁舎の向かい合わせの壁面にミケランジェロと競うことになる。それが壁画『アンギアーリの戦い』(1503年頃)である。
(なお、この作品にはルーベンスによる模写がよく知られている)
この壁画も、技法的な失敗から、制作は続行不能となる。またもやフレスコを嫌ったレオナルドの新工夫から、画面が中途で溶解してしまったようだ。
フィレンツェ市はレオナルドに、代金を返還するか、画面を修復するかの選択を迫る。しかし、ルドヴィコを放逐したミラノのフランス総督ダンボワーズの丁重な招きを受け、フランス国王の後ろ楯を得て、レオナルドはこの訴訟を逃れることができた。そして再びミラノに発つ。
(ヴァザーリ説によると、『モナ・リザ』の着手時期が、この少し前の時期にあたる。油彩によって描かれた画面は、晩年の15年余りにわたって加筆され続けることになる)

10年を経ずして、ダンボワーズも失墜する。そして今度はレオナルドは、法王となったロレンツォ・デ・メディチの息子を頼って、ローマに旅立つ。しかし、意気込んで、ローマ入りしたレオナルドの予想に反して、待っていたのは冷遇の日々であった。つまり、ジュリアーノ・デ・メディチの庇護を得て、小額の給金とヴァティカン宮殿内の居室は保証されるが、レオナルドの期待したような仕事が依頼されることはなかった。
これまで見てきたように、レオナルド・ダ・ヴィンチは契約の日限を守らず、技術上の実験から画面を損ない、しばしば中途で作品を放棄した。もはや壮大な失敗作と未完の作品の作者として、過去の人となっていた。

ここで西岡氏は、レオナルドの絵画観について付言している。
レオナルドにとって、絵画とは、人間と自然のあり方を解き明かすものであり、画家のすべての知識と技術を投入すべきものであった。手記には、絵画は、画家が知識を持てば持つほど称賛に値するものになると記す。
しかし、この考え方が、1点の絵画の完成への道のりを遠いものにしてしまったらしい。というのは、人体の描写のために解剖学をきわめ、樹木の描写のために植物学をきわめ、
風景の描写のために、地質学から気象学までをきわめることが要求されるからである。
(西岡、1994年、128頁~132頁)

第十章 万能の悲劇


絵画という「学」


レオナルドは、「完全」を求めるがゆえに、「完成」を拒否し続けた。
その姿勢は、芸術的な創造よりは、むしろ学問的探究にこそふさわしいものであったと西岡氏はみる。つまり、万能の科学者でもあったレオナルドの関心は、個々の作品の完成よりは、絵画という「学」の完成にあったと推測している。レオナルド以前、絵画は「技」ではあっても、「学」ではなく、さらに驚くべきことには、「創造」とさえみなされていなかった。

ところで、美術館や博物館のことを「ミュージアム MUSEUM」という。「ミューズ MUSE」は、詩的霊感と創造の女神である。この女神の住む館がミュージアムであり、ミューズのなせるわざがミュージックである。
意外なことに、古代より伝わる9人のミューズに、絵画の女神は含まれていないそうだ。9人のミューズの担当は、音楽、舞踏、叙事詩、叙情詩、悲劇、喜劇、歴史、天文、英雄詩の9分野である。つまり、絵画の女神も、彫刻の女神もいない。絵画も彫刻も、単なる手技とみなされ、「学」たり得なかった。

古代以来、ヨーロッパの知的伝統は、「学」と「技」を区別している。「学」の領域は、「自由七学芸」すなわち、文法、修辞学、論理学、天文学、数学、幾何学、音楽に限られていた。「自由七学芸」の「自由」は、奴隷的な肉体労働から解放された自由人にふさわしい教養を意味していた。絵画や彫刻は、しょせんは職工的な熟練による「技」であり、自由人にはふさわしからぬ、奴隷的な技能とみなされていた。
例えば、『最後の晩餐』を督促した修道院長が、画家も庭師を見ならうべきだという言い分は、当時のこうした絵画観の反映でもあろうといわれる。
(西岡、1994年、133頁~134頁)

レオナルドの『絵画論』


レオナルドが、絵画の技術と思想を大成した『絵画論』は、死後、手記より編纂され、19世紀までに、ヨーロッパの国々で、60回以上にわたって出版されているそうだ。
その冒頭で、絵画と音楽や文芸とを比較し、詩や音楽に対する絵画の優位を論証し、「自由七学芸」を超える「学」の地位を与えようとしている。
(そうでないと、画家は奴隷の身分から脱却できず、絵画は「学」としての「自由」を得ることができなかったから)
絵画が画家の哲学の表明であることは、今日では自明であるが、この絵画観も、レオナルドの論考なくしては、今日ほど自明になり得なかったであろう。

『絵画論』は、万能を画家の必須の素養としているという。装飾工芸から軍事にまで及んだ当時の芸術家の万能性は、職工の身分ゆえの雑役性の反映でもあったと西岡氏は考えている。この職業的な雑役性と、画家の素養としての万能性は、レオナルド自身においても、多分に未分化の状態にあった。レオナルドは、宮廷の余興に舞台装置をデザインし、音楽家までを演じ、軍事技術、機械工学、建築、数学、解剖学など、あらゆる領域に興味を拡げ、飛行機、ヘリコプターなどの発明に没頭した。

万能のレオナルドが、画家を画中の造物主として、宇宙の君主に任じた書物が『絵画論』であった。『絵画論』は、画家と作品の関係を、神と自然の関係に等しいものとしている。
絵画は、神聖なる「学」であり、画家は、気象、地形から、鉱物、動植物に至る、世界の全様相を描くことで、その主になるという。
これは、画家に限りなく神に近い座を与えると同時に、限りなく神に近い全知全能を要請するものであった。レオナルドの慢性化した未完成は、この神に近づくための遠い道程を、あまりにも真摯に歩んだがゆえの、必然的な結果であったと西岡氏は考えている。
(西岡、1994年、134頁~135頁、138頁~139頁)

レオナルドの万能


レオナルドは、一時期、ロマーニャ公チェーザレ・ボルジアの軍事顧問を務めたことがある。チェーザレは、ローマ法王アレクサンデル6世の息子で、聖職者から軍人政治家に転身し、蛮勇で聞こえた冷酷非情の暴君であった。またマキャヴェリの名高い政治哲学『君主論』のモデルでもある。

従軍中、チェーザレの幕営で知り合ったマキャヴェリとレオナルドは、双方、互いの知性に魅かれ、意気投合したようだ。
フィレンツェ市庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の依頼の背景には、市の要職にあったマキャヴェリの尽力があったともいわれる。

また、1485年、ミラノで人口の半分を奪う疫病が発生した折り、レオナルドは、ゴミ収集システムから街路敷設の規制法案までも含む都市計画を提案している。しかし、ロドヴィコはこの案に関心を示さなかった。
(ただ、数世紀後のロンドン議会で、街路設計の理想として、この案は認定され、近代ロンドン都市計画の基本を成す法案に取り入られているそうだ)
そして、発明マニアでもあったレオナルドは、ミラノの産業に貢献する種々の工業機械を提案するが、これにもルドヴィコは関心を示さなかった。

ただ、人間であるには万能に過ぎたとはいえ、やはりレオナルドは能力も寿命も限られた人間には違いない。そこに、「学」としての絵画を追求するレオナルドの孤独と焦燥があったと西岡氏はみている。
知のほとんど全領域を網羅し、2万ページにも及んだ手記は、この居ても立ってもいられぬ焦燥の刻印でもあるという。
(西岡、1994年、136頁~139頁)

『モナ・リザ』 に関する評言


ウィーンの美術史家マックス・ドヴォルシャックは、『モナ・リザ』について次のように評した。
『モナ・リザ』は、レオナルドの創作の頂点であると同時に、中世以降300年にわたるヨーロッパ芸術の総決算である。
ドヴォルシャックは現代の美術史学のパイオニアのひとりで、美術史を精神の表出の歴史として説いた。
西岡氏も、『モナ・リザ』の画面を見ていると、これに先立つ絵画史の歩みが、あたかもこの一点の高みに至ることを目指していたかのような感慨をおぼえるという。そして以降の絵画史が、この高みからの下降、ないしはその成果の否定でしかなかったことも事実である。

したがって、この高みに立って、絵画の足どりを眺めることは、全絵画史を展望することにも通じている。謎の微笑のスフマートに、過去数世紀の絵画技術の精華を見出し、遠景の峩々たる山脈のインパストに、はるか未来の絵画の革新を予見することに通じている。

ところで、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井に、フレスコで、旧約聖書『天地創造』を描いた。「光の創始」から「ノアの洪水」に至る、その総面積は、約520㎡であるそうだ。
これに対して、油彩の『モナ・リザ』の面積は、わずか0.4㎡であり、1300分の1の大きさである。
しかし、この小画面にレオナルドは、その巨大な思索を結集し、まさしく『天地創造』のスケールを上回る、遠大な宇宙観と深淵な人間観を濃縮し、自身の哲学の縮図とした。
この壮観を画中に見出し、その幽玄の絵画空間を探索するために、フィレンツェに足を運ぶ必要があると西岡氏はいう。フィレンツェは、「絵画史の回廊」ウフィッツィ美術館のある街であり、そしてレオナルドの故郷でもある街である。
(西岡、1994年、139頁~140頁)


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