歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小説『レ・ミゼラブル』と英語≫

2021-12-21 18:13:59 | 語学の学び方
≪小説『レ・ミゼラブル』と英語≫
(2021年12月21日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、小説『レ・ミゼラブル』と英語について考えてみる。


【Victor Hugo, Les Misérablesの英語版はこちらから】

Les Miserables (Signet Classics)

【Victor Hugo (Translated by Norman Denny), Les Misérables, Penguin Booksの英語版はこちらから】

Les Miserables (Penguin Clothbound Classics)



『レ・ミゼラブル』という小説


ユゴーはフランスのロマン派で最も偉大な詩人として評価されている。
『レ・ミゼラブル』(1862年)は、人道主義的立場で書かれたユゴーの大河小説である。
400字詰め原稿用紙にして実に5000枚に及ぶ大作であった。
当時は文学といえば、戯曲ないし詩であった。小説はまともな文学とは見なされていなかった。その地位が上がったのは、1820年代から30年代のことであった。
1820年代にイギリスからウォルター・スコットの歴史小説が入ってきた。ユゴーはスコットから小説作法を学んだ。その歴史小説の方法とは、出来事が起こったのにできる限り追い時間を経過させて場面として語るものである。つまり現実の時間と空間を忠実に再現する作法である。これを「演劇的小説、ロマン・ドラマチック」と呼んだ。この方法を『レ・ミゼラブル』でも忠実に実行した。そしてその骨格は、演劇の筋にならって、起承転結がはっきりしており、単純明快なものであった。そのため、ミュージカルに脚色したり、ダイジェスト版の筋立ても辻褄を合わせやすかったといわれる(稲垣直樹『サドから『星の王子さま』へ――フランス小説と日本人』丸善ライブラリー、1993年、100頁~101頁)。

【稲垣直樹『サドから『星の王子さま』へ』丸善ライブラリーはこちらから】

サドから『星の王子さま』へ―フランス小説と日本人 (丸善ライブラリー)

ユゴーは政治的には共和主義者であったので、第2帝政を否定した。
この点について、『レ・ミゼラブル』を英訳したデニィーは、導入の中で次のような解説を加えている。

ユゴーの政治思想について
He was first and foremost, by nature
as well as by conviction, a romantic. It was an attitude to life
expressing itself in all life’s activities, above all in the arts but also in
politics, where it bore the name of liberalism. As time went on and
he outgrew the Bonapartism inherited from his father and the
royalism inherited from his mother, this liberalism took the form of
outspoken republicanism. Universal suffrage and free (compulsory)
education were to become the basic tenets of his political creed.
(Denny, Introduction, Les Misérables, Penguin Books, 1982, pp.7-8.

Hugo は、ロマンチックで、リベラル主義であった。
父親は、ボナパルト主義、母親は、王政主義であったのだが、ヴィクトル・ユゴーのリベラル主義は率直な共和主義の形態をとった。

1843年に娘のLéopoldineの死亡はかなり影響した。

ルイ=フィリップとは仲が良かったが、1848年の革命で、the Constituent Assemblyになる
1851年、ルイ=ナポレオンの第2帝政にがまんできず、亡命した
14年間、家族とともにガーンジー島へ暮らした。女優で終生の愛人Juliette Drouetもそばに住んだらしい。ここで『レ・ミゼラブル』が書かれ、1862年に出版された。

フランスは、普仏戦争に敗れて、1870年に第2帝政が崩壊する。ユゴーは凱旋将軍のように群衆の歓呼に迎えられ、パリに帰る。そして1874年には、小説『93年』を発表する。これはフランス革命の頃に主題をとった歴史小説の集大成であった。

ユゴーは共和主義者であったので、ナポレオン3世の第2帝政に反対した。そしてオジの第1帝政にも批判的であった。

このことは、『レ・ミゼラブル』でも窺い知ることができる。
ジャン・ヴァルジャンとナポレオン1世とは対比的に描かれている。2人の運命を辿る上で、1769年と1796年、そして1815年という3つの年号が重要な鍵である。つまり1769年→1796年→1815年は物語の重要な軸となる。

これらの年で、2人の運命は鮮明なシンメトリーを形造る。
つまりナポレオン1世は1769年に生まれたが、ジャン・ヴァルジャンも同年に生まれたことになっている。
そして運命を変える出来事が1796年に起きた。
ナポレオンはイタリア遠征軍総司令官として戦功を収めて、その後19年に及ぶ栄達の足がかりがつく。それに対して、同年1796年、ジャン・ヴァルジャンは最初の有罪判決を受ける。以後、19年間徒刑場で苦難の生活を始める。こうユゴーは物語を設定した。
そして19年後の1815年にどうなったのか。
ディーニュの町で交差し、その運命を入れ替える。その際、ユゴーは小説で次のように周到な記述をしている。
ディーニュの町に入るのに、ジャン・ヴァルジャンは「7か月前カンヌからパリに向かう皇帝ナポレオンが通ったのと同じ道をたどってきた」。
2人の運命がディーニュで出会う1815年という年号にユゴーは執着した。
また小説の書き出しでも、「1815年、シャルル=フランソワ=ビヤンヴィニュ・ミリエル氏はディーニュの司教であった」とする。
壮大な小説は、1815年という年号から始まっている。
ユゴー自身、草稿の中で第1部第2編第1章(ジャン・ヴァルジャンがディーニュの町に到着する場面)を一番早く書いたという。つまり草稿の一番古い日付が付されている(稲垣、1993年、110頁~111頁)。


小説『レ・ミゼラブル』の構成


『レ・ミゼラブル』は、次のように、五部から成っている。
第一部 ファンチーヌ
第二部 コゼット
第三部 マリユス
第四部 プリュメ通りの牧歌とサン=ドニ通りの叙事詩
第五部 ジャン・ヴァルジャン
各部は、篇に分かれ、さらに各篇が章に分かれる。第一部から第三部までは八篇、第四部は十五篇、そして第五部は九篇ある。そして全巻で、計三百六十三章になる。

『レ・ミゼラブル』のあらすじ


小説『レ・ミゼラブル』を各部ごとに、あらすじを記しておく。

第一部「ファンチーヌ」のあらすじ


枝打ち職人だった25歳のジャン・ヴァルジャンは、寡婦の姉とその7人の子供を養い、貧困の日々を送っていた。厳しい冬が来たのに仕事にもありつけず、しかたなくパンをひとつ盗もうとして、取り押さえられてしまう。
そのため、5年の徒刑を言い渡されたが、服役中に脱走を試みたために、刑が加重されて、19年間トゥーロンの徒刑場で過ごすことになった。

1815年10月に釈放され、ディーニュの町にたどり着く。しかし、前科者の黄色い旅券のために、どこでも追い返され、寝食もままならない。そんな彼を迎え入れてくれたのが、ディーニュの司教ミリエル氏だった。しかし、その翌日、司教館の銀の食器を盗んで逃亡し、憲兵に捕まるが、司教は、それらはジャン・ヴァルジャンにあげたものと明言して、かばう。彼は感謝したが、そのあと煙突掃除の少年から、40スーを奪ってしまう。自責の念に駆られ、良心にめざめて改心し、以後ミリエル司教を崇めつつ、贖罪に努めることになる(ただ、この小さな事件でも余罪になり、終身懲役以上の刑罰になることから、以後、ジャン・ヴァルジャンは名前を変え、身分を隠すことになる)。

ファンチーヌはモルトルイユ・シュル・メールの孤児で、15歳のときにパリに出て、お針子になった。学生と恋仲になるが、捨てられて、女児コゼットを生む。パリを離れて、故郷に帰ろうとするが、その途中、旅籠兼料理屋を営んでいるテナルディエ夫婦に出会い、養育費を払って、コゼットを預かってもらうことにする。
久しぶりに故郷に帰り、黒ガラス装飾品を製造する工場で働く。その工場はマドレーヌ氏(ジャン・ヴァルジャンの変名)が経営する工場だった。ファンチーヌの美貌が工場の同僚の嫉妬を招き、「未婚の母」だと密告されて、工場を解雇される。

そして、コゼットを預けたテナルディエからは、養育費・架空の医療費などを催促され、不幸に追い打ちをかける。ファンチーヌは、コゼットのために髪を売り、歯を売り、最後に体を売ることになってしまう。公娼としてすさんだ日々を送ることになるが、ある男に背中に雪を入れられるという悪ふざけをされて、もめ事になり、警部ジャヴェールに監獄行きを命じられる。そこに居合わせたマドレーヌ氏が介入し、ファンチーヌは釈放される。

この町の市長になっていたマドレーヌ氏は、自分の知らないところで、ファンチーヌが工場を解雇された事情を初めて知り、重病の彼女を看護室に入れ、テナルディエの手から娘のコゼットを取り戻したいという最後の希望を叶えると約束する。

こうした中で、ジャヴェール警部から、マドレーヌ市長は、ある報告を受ける。ジャン・ヴァルジャンと思われる男が、リンゴを盗んだ廉で裁判にかけられるというのである。ジャン・ヴァルジャン本人(マドレーヌ市長)は、その男が全くの別人だと誰よりも知っていたので、煩悶する。つまり、その男にトゥーロンで終身懲役に服従してもらって、自分は尊敬できる市長のままとどまるか、それとも良心に従って、みずから名乗り出て、その哀れみ男を救うかの選択を迫られる。その結果、後者を選び、ファンチーヌとの約束を果たせないまま、再び警察に追われる身になり、逮捕され、徒刑場に送られる。

その逮捕前に、ジャン・ヴァルジャンは、黒ガラス装飾品の製造工場の経営で稼いだ60数万フランの現金を、モンフェルメイユの森に隠すことに成功した。他方、ファンチーヌはコゼットに再会できないまま、絶望のうちに死んでしまう。

第二部「コゼット」のあらすじ


8年ぶりにトゥーロンの徒刑場に連れもどされ、囚人に逆戻りしたジャン・ヴァルジャンは、
軍艦の水夫が海に落ちようとしているところを助け、その際に海に飛び込んで脱獄に成功する。身元を隠してパリに出てきて、「ゴルボー屋敷」に住まいを借り受ける。その後、ファンチーヌとの約束を果たすために、モンフェルメイユのテナルディエの所にいるコゼットに会いに出かける。

まだ8歳にもならないコゼットは、女中代わりに、こき使われ、痛ましい境遇にあった。ジャン・ヴァルジャンは、テナルディエに手切れ金を渡して、コゼットをパリの「ゴルボー屋敷」に落ち着く。しかし、老女の通報で、パリに転任していたジャヴェールの知るところとなり、ふたりは夜陰に紛れて逃げ出し、プチ・ピクピュス修道院に忍びこむ。

ジャン・ヴァルジャンは、その修道院の庭で、かつて命がけで救ってやったフォーシュルヴァン老人に出会い、この老人の忠告のおかげで、ジャン・ヴァルジャンは庭師として、コゼットは寄宿生として、正式の許可を得て、その修道院に5年間、穏やかに暮らすことができた。

第三部「マリユス」のあらすじ


この第三部で初めて登場するマリユス・ポンメルシーは、ワーテルローに参戦したナポレオン軍の大佐の息子だった。大佐がナポレオン軍の残党として貧しい暮らしをしていたので、王党派の祖父ジルノルマン氏の手で育てられた。しかし、マリユスは、父親の死などをきっかけに、徐々にボナパルト主義にめざめて、祖父と対立し、家出してしまう。「ゴルボー屋敷」で貧しい学生生活を送るうちに、アンジョルラスら革命派の秘密結社≪ABCの友の会≫のメンバーと知り合いになる。

その「ゴルボー屋敷」には、すでにジョンドレットと名前を変えたテナルディエ一家が、モンフェルメイユからパリに引っ越して、極貧の生活をしていた。そこで一攫千金をもくろんで目をつけたのは、若い娘(コゼット)を連れて教会にくるルブラン氏という慈善家(ジャン・ヴァルジャン)だった。
じつはジャン・ヴァルジャンは、コゼットの将来を思って修道院を出て、プリュメ通りの家とアパルトマンを借りて、「年金生活者」としてひっそり暮らし、コゼットを時々散歩に連れ出していた。

マリユスは、リュクサンブール公園でこの美しい少女を見かけ、激しく恋するようになる。身元を知ろうと追いかけ回し、アパルトマンにまで付いてくるので、ジャン・ヴァルジャンは不安を覚え、アパルトマンを引き払って、プリュメ通りの家に移ってしまう。行方をくらまされたマリユスは、悶々とした日々を過ごす。そんな時、隣人のジョンドレット一家の姉娘(エポニーヌ)が無心の手紙をもってくる。その姿が哀れだったため、マリユスは一家の貧困に同情を寄せる。

ある日、慈善家のルブラン氏が娘をつれて、ジョンドレットのあばら屋に姿を現し、冬場をしのげる衣類を届ける。マリユスはあの美しい少女を見つけ、あとを追ったが無駄に終わる。
その後、マリユスは壁の穴から、隣家のジョンドレット一家を窺っていると、話の様子から、ジョンドレットがじつはテナルディエという名前であり、マリユスの父親から、「ワーテルローで命を救ってくれた恩人だから、よくしてやってくれ」と遺言されていた当人だと知って驚く。また、テナルディエが盗賊団に助力を頼んで、ルブラン氏を待ち伏せし、恐喝する準備をしているのを見て仰天し、警察に通報する。
ルブラン氏はテナルディエの一味の捕虜にされ、殺されようとしていたところ、マリユスのとっさの機転のおかげで、ジャヴェールが率いる警察に踏み込まれ、一味の大半は逮捕される。ただ、ルブラン氏は逃亡し、ジャヴェールを悔しがらせる。

第四部「プリュメ通りの牧歌とサン=ドニ通りの叙事詩」のあらすじ


ジャン・ヴァルジャンは最愛のコゼットがだれかを愛しはじめ、自分から離れていくのではないかと心配していた。リュクサンブール公園近くに別に借りていたアパルトマンから、急にプリュメ通りの庭付きの家に移ったのも、その危惧からだった。それでも、マリユスが、エポニーヌの手引きでついにコゼットと再会し、夜の庭で逢瀬を重ねることを妨げられなかった。

一方、ジャン・ヴァルジャンは、一家でイギリスに移住する計画をたてるが、そのことをコゼットから聞かされたマリユスは窮余の一策を講じる。それは、久しぶりに祖父のジルノルマン氏に会いに行って、コゼットとの結婚の許可を求めることであった。25歳前だと結婚には親権の許可が必要だったが、祖父ジルノルマン氏は身分の違いを理由に反対した。
 
絶望したマリユスは、民衆蜂起を主導する≪ABCの友の会≫の仲間に会いに、バリケードのあるサン=ドニ地区に向かう。バリケードの中で、別れの手紙をコゼットに書いて、蜂起に参加していた少年ガヴローシュに託す。しかし、ガヴローシュの失策のため、この手紙がジャン・ヴァルジャンの手に渡る。ジャン・ヴァルジャンは、この手紙を見て内心喜び、憎きライバルのマリユスの最期を見届けようと、バリケードのある所に赴く。
ところで、ガヴローシュは、両親のテナルディエ夫婦から愛されず、パリの浮浪児になっていたが、優しく快活な少年だった。路上で寒さで震えている少女に自分のショールをやったり、里親に見捨てられたふたりの子供(実は彼の弟たち)の面倒を見てやったり、バリケードの外にある敵の弾丸を集めてきたりして、仲間から信頼されている。

そして小説は、最大の山場、1832年6月5日、共和派のラマルク将軍の葬儀の途中で勃発した蜂起の悲劇を語ることになる。この戦闘の中で、エポニーヌは密かに愛していたマリユスをかばって命をおとす。マリユスは戦いに参加し、ガヴローシュ等が危ういところを救う。しかし、大軍に取り囲まれた蜂起者たちは孤立し、追い詰められていく。

第五部「ジャン・ヴァルジャン」のあらすじ


民衆の苦しみを見かねて立ち上がった≪ABCの友の会≫のメンバーは、バリケードに立てこもって、劣勢の中で戦っていた。ジャン・ヴァルジャンは最初戦いを傍観していたが、敵の歩哨の鉄兜を撃って退散させたりして、アンジョルラスらに信頼されるようになり、捕虜となっていたジャヴェールの処刑を任される。ところが、空砲を放ってジャヴェールを殺さず、こっそりと解放してやる。そして、重傷を負い、気を失いかけているマリユスを背に担い、暗い下水の地下道にもぐりこみ、死の危険を冒しながら、なんとか出口をみつける。

ようやく外に出ると、ジャヴェールが待っていた。ジャンは逮捕を覚悟したが、その前に担いでいる青年マリユスを自宅に戻したいと頼んで、ジルノルマン氏のもとに運んでいく。それから、コゼットに事情を説明し、家の整理をするために帰宅することを願った。ところが、ジャヴェールはジャン・ヴァルジャンを家に残したまま立ち去り、逃亡犯を逮捕すべき義務を果たさなかった自分を責めて、セーヌ川に身を投げる。

運良く回復したマリユスが、コゼットとの結婚の許可を祖父に求めると、今度は認めてくれた。またジャン・ヴァルジャンも、内心の葛藤を克服し、60万フランほどの持参金をコゼットに用意してやる。ただ、ジャン・ヴァルジャンは結婚の祝宴にも出席せず、コゼットとマリユスが同居を申し出ても固辞する。

そして結婚式の翌日、自分はフォーシュルヴァンではなく、ジャン・ヴァルジャンという名の元徒刑囚であるという秘密をマリユスに打ち明ける。マリユスは衝撃を受け、義父を遠ざけるようになる。コゼットを失ったと知ったジャン・ヴァルジャンは急速に衰えていき、死を覚悟する。マリユスは、テナルディエの口から、地下道を通って瀕死の自分を助けてくれた恩人こそ義父だったと知り、コゼットとともに駆けつける。こうして若いふたりに看取られて、ジャン・ヴァルジャンは64年の生涯を安らかに終える。
(西永良成『『レ・ミゼラブル』の世界』岩波新書、2017年、5頁~17頁)。


【西永良成氏の『レ・ミゼラブル』分析―小説の執筆の経緯について】


西永良成氏は『『レ・ミゼラブル』の世界』(岩波新書、2017年)において、この作品の成立の過程を辿り、歴史的背景を参照しつつ、作品に込められたユゴーの思想を読み解いている。
ユゴーはこの小説を執筆する前に、ミリエル司教のモデルとなったディーニュの司教ミリオス、主人公ジャン・ヴァルジャンが19年間を過ごすトゥーロンの徒刑場の元徒刑囚ピエール・ラモン、あるいはリールの貧民窟やビセートル監獄の実態についての資料を収集し準備をした。
実際に、『レ・ミゼラブル』を書き始めたのは、1845年11月からである(ただ、この時の題名は『レ・ミゼール』Les Misères(貧困)であり、主人公もジャン・トレジャンという名前)。この小説を1848年まで執筆したが、同年の「2月革命」「6月暴動」の影響で一時中断した。
1854年に『レ・ミゼール』を『レ・ミゼラブル』に改題した後、12年ぶりにトランクから旧稿を取り出して、再びこの畢生の大作に取り組んだのは1860年4月で、一応の完成を見たのは1861年6月である。その間、「哲学的な部分」を書き足して、分量を『レ・ミゼール』の倍にふやし、主人公の名前もジャン・ヴァルジャンに変えた。そしてようやく1862年4月~6月、公刊された。ユゴー60歳の時のことである
(西永良成『『レ・ミゼラブル』の世界』岩波新書、2017年、26頁~27頁)

【西永良成『『レ・ミゼラブル』の世界』岩波新書はこちらから】

『レ・ミゼラブル』の世界 (岩波新書)

【小説の時代設定】


『レ・ミゼラブル』の時代設定は、ジャン・ヴァルジャンがトゥーロンの徒刑場から釈放される1815年10月から、死亡する1833年6月までである。
フランス史に即していえば、エルバ島に流刑になったナポレオンの「百日天下」(1815年
3月20日~6月22日)のあと、ブルボン王家のルイ18世の第二次王政復古、「栄光の三日間」と呼ばれる1830年の「7月革命」によるルイ・フィリップの「7月王政」の成立、そしてこのブルジョワ的政体に不満なパリ民衆の1832年6月蜂起といった政変が相次いだ時期の翌年までである。
そしてこれはユゴーの生涯でいえば、13歳から31歳までの時期にあたり、この時期の雰囲気、主な出来事などを体験していた
(西永良成『『レ・ミゼラブル』の世界』岩波新書、2017年、31頁)

【『レ・ミゼラブル』という小説と時代背景】


ユゴーは『レ・ミゼラブル』の中で、ルイ・ナポレオン(皇帝ナポレオン3世)の第二帝政の時期は19世紀に痕跡を残すことはないであろう時期であるとしている(2-7-8)
『レ・ミゼラブル』はユゴー文学にとっての分岐点、いわばワーテルローであったと西永良成氏はみなしている。
ナポレオン3世の帝政に代わる共和政の復活を予告し、文学の政治にたいする勝利を意味し、小ナポレオンにたいするユゴーの積年の怨念を晴らす復讐でもあったという。この小説はバルザックの「わたしはナポレオンが剣で成しえなかったことを筆で成しとげる」という座右の銘があてはまる作品であると西永氏は捉えている。
この『レ・ミゼラブル』の発表から8年後、1870年にナポレオン3世は普仏戦争で捕虜になり、退位する。そのあとユゴーは、「ユゴー万歳! 共和国万歳!」という歓呼を浴びながら、預言者のように祖国に迎えられ、1871年に成立した第三共和政の時代には、共和国を象徴する偉人と見なされるようになった。そして1885年5月に世を去ったとき、国葬によってパンテオン(偉人廟)に送られ、その葬列には200万人近い人びとが加わったといわれる
(西永、2017年、97頁~99頁)。

【ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』と時代背景】


ユゴーの世代は、ナポレオン戦争に間に合わかなかった「遅れてきた青年」の世代でもあった。ちょうどユゴーの世代が学齢に達するくらいから、軍歴より学歴の社会になり、地方の名士の子弟をはじめとする多くの若者が学生となってパリに溢れた。またこの頃には農村からパリにやってきた若いお針子たちがパリに溢れていた。
ルイ18世の王政復古で、突如気が抜けたような平和が訪れたが、そうした平和の訪れとともにファッション・ビジネスが盛んになった。縫製アトリエでは大量のお針子が必要とされ、彼女たちは親元を離れてパリの屋根裏部屋に一人暮らしを続け、野外のダンス場で知り合った学生と恋人関係になることが多かったようだ。
のちに、プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』では、そのようなお針子と学生との恋の悲劇が神話化される。1896年の初演だが、原作はフランスの作家ミュルジェールの『ボヘミアン生活の情景』(1849年)である。19世紀(1830年頃)のパリの学生街カルチェ・ラタンを舞台とし、お針子ミミと詩人ロドルフォとの純愛・悲恋を中心に、ボヘミアン生活を送る人々を描く。
そして、ユゴーの『レ・ミゼラブル』では、1815年~33年のフランスが舞台とされているが、やはりお針子であるファンチーヌが、パリで青春の猶予期間(モラトリアム)を謳歌する学生トロミエスと恋に落ち、妊娠して、結局は地方の親元に帰るトロミエスにすてられたあげく、孤独のうちにコゼットという娘を産み落とすのである。
付言すれば、ユゴー自身も、1818年から21年(16歳から19歳まで)、弁護士の資格を取ると称して法学部に籍を置いたが、学校には行かず貧しい屋根裏部屋にこもって詩作に励んでいた。というのも、寄宿学校にいた14歳のときにはすでに「シャトーブリアンのようになりたい。さもなくば無だ」とノートに書きつけるほど、ユゴーは文学に熱中して文学的栄光のみを欲していたからである。そしてアデルとひそかに結婚の約束を交わしていた(鹿島茂『100分de名著 ノートル・ダム・ド・パリ』NHK出版、2018年、20頁~21頁)。

【鹿島茂『100分de名著 ノートル・ダム・ド・パリ』NHK出版はこちらから】

ユゴー『ノートル゠ダム・ド・パリ』 2018年2月 (100分 de 名著)

【ジャン・ヴァルジャンとナポレオン】


稲垣直樹氏は、『サドから『星の王子さま』へ――フランス小説と日本人』(丸善ライブラリー、1993年)という本において、「ジャン・ヴァルジャンとナポレオン」と題して、興味深いことを述べているので、紹介してみたい。
作者ユゴーが『レ・ミゼラブル』でいちばん言いたい本質とは、一言でいえば、マイナスからプラスへのエネルギーの転換による、全宇宙の贖罪の到来をヴィジョンとして提示することであると稲垣氏は考えている。そしてこのエネルギーの宇宙的転換を起こす装置がジャン・ヴァルジャンであるというのである。
ところで、『レ・ミゼラブル』の作中で、ジャン・ヴァルジャンはナポレオン1世と頻々と対比され、ふたりの運命は驚くほど鮮明なシンメトリーを形造る(左右対称というよりも、上下対称というべきシンメトリー)。
ジャン・ヴァルジャンはナポレオンと同じ1769年に生まれたことになっている。それにこの1769年と対称の関係にある1796年がまさに、ジャン・ヴァルジャンとナポレオンのどちらにとっても運命を変える重要な年号となる。これは史実だが、この年、ナポレオンはイタリア遠征軍総指令官として華々しい戦功を収めて、このあと19年におよぶ栄達の足掛かりをつくる。この同じ年、ジャン・ヴァルジャンは最初の有罪判決を受けて、以後やはり19年にわたる徒刑場での苦難な生活を始める物語の設定になっていると稲垣氏は解説している。
相対する運命をたどったふたりは19年後の1815年、ディーニュの町で交差し、その運命を入れかえることになる。ディーニュの町に入るのに、ジャン・ヴァルジャンは「7か月前カンヌからパリに向かう皇帝ナポレオンが通ったのと同じ道筋をたどってきた」とユゴーは周到に書きこんでいる。
ナポレオンとジャン・ヴァルジャンの運命がこうしてディーニュで出会う1815年という年号に、ユゴーは異常な執着ぶりを示した。『レ・ミゼラブル』という小説全体の書きだしが「1815年、シャルル=フランソワ=ビヤンヴニュ・ミリエル氏はディーニュの司教であった」(En 1815, M. Charles-François-Bienvenu Myriel était évêque de Digne.)となっている。 この壮大な小説自体が、「1815年」という年号を表す言葉で始まっているのである。
また、この小説のユゴー自筆原稿の研究によると、草稿の中でいちばん古い日付をもつのは、第1部第2編第1章、ジャン・ヴァルジャンがディーニュの町に到着するところを物語る部分だそうだ。この部分の書きだしは、「1815年10月の初めのことであるが」となっており、やはり「1815年」を含む文で始まっている。このように、ユゴーは大変にこだわっているようだ。
こだわった理由は、1815年がワーテルローの戦いの年であるからだと稲垣氏はいう。この戦いにナポレオンが敗北を喫した結果、ナポレオンの時代が完全に終わりを告げる。このワーテルローの戦いについては、明治35年(1902)から翌年にかけて新聞に連載された、黒岩涙香の『噫無情』(『レ・ミゼラブル』のダイジェスト版)、そしてミュージカル『レ・ミゼラブル』も、容赦なく切り捨ててしまっている。
しかし、『レ・ミゼラブル』第2部の冒頭には、ワーテルローの戦いについての長大な描写と考察が挿入されている。この戦いの本質をユゴーがどうとらえたかが、『レ・ミゼラブル』全体を読みとく鍵になると稲垣氏はみている。
ユゴーはこの戦いについて次のように説明している。
「その日、人類の未来の見通しが一変した。ワーテルロー、それは19世紀の扉を開ける支える金具。あの偉大な人間の退場が偉大な世紀の到来に必要だったのだ。人間に有無を言わせぬある方のお力が働いたのだ。」
Ce jour-là, la perspective du genre humain a changé. Waterloo, c’est le gond du dix-
neuvième siècle. La disparition du grand homme était nécessaire à l’avènement du grand siècle. Quelqu’un à qui on ne réplique pas s’en est chargé.
(Victor Hugo (Édition par Yves Gohin), Les Misérables I, Édition Gallimard, 1973[1995].p.449.
ヴィクトル・ユゴー(石川湧訳)『レ・ミゼラブル 1』角川文庫、1998年、515頁
Victor Hugo (Translated by Norman Denny), Les Misérables, Penguin Books, 1976[1982], p.310.も参照のこと)
「あの偉大な人間の退場」すなわちナポレオンの歴史からの退場が1815年のワーテルローの戦いであり、ナポレオンからバトンタッチを受けるようにして、そのあと登場し、人類の未来を担うのがジャン・ヴァルジャンだというわけであるという。時代の主人公の交替が起こる1815年から『レ・ミゼラブル』は始まらなければならなかったのもうなずける
(稲垣直樹『サドから『星の王子さま』へ――フランス小説と日本人』丸善ライブラリー、1993年、109頁~112頁)

【稲垣直樹『サドから『星の王子さま』へ』丸善ライブラリーはこちらから】

サドから『星の王子さま』へ―フランス小説と日本人 (丸善ライブラリー)

ジャン・ヴァルジャンについて


さて、主人公ジャン・ヴァルジャンについて、英語では次のように述べてある。
Jean was out of work and there was no food in the
house. Literally no bread ― and seven children!
One Sunday night when Maubert Isabeau, the baker on the
Place de l’Église in Faverolles, was getting ready for bed, he heard
a sound of shattered glass from his barred shop-window. He reached
the spot in time to see an arm thrust through a hole in the pane. The
hand grasped a loaf and the thief made off at a run. Isabeau chased
and caught him. He had thrown away the loaf, but his arm was
bleeding. The thief was Jean Valjean.
This was in the year 1795. Valjean was tried in the local court
for housebreaking and robbery.
(Victor Hugo (Translated by Norman Denny), Les Misérables, Penguin Books, 1976[1982], p.93)

訳本
「ジャンには仕事がなかった。一家にはパンがなかった。パンがない。文字どおり。七人の子供!
 ある日曜日の晩、ファヴロールの教会広場のパン屋モーベール・イザボーは、寝ようとしていたとき、格子とガラスのはまった店頭で、はげしい物音がするのを聞いた。急いで行って見ると、格子とガラスを拳骨でたたき割った穴から、片手が出ている。その手は一本のパンをつかんで持ち去った。イザボーは大急ぎでとびだした。どろぼうは駆け足で逃げて行く。イザボーはあとを追いかけて、つかまえた。どろぼうはもうパンを投げすてていたが、手はまだ血だらけだった。それがジャン・ヴァルジャンであった。
 これは、1795年の出来事である。ジャン・ヴァルジャンは、「夜間、家宅に侵入して窃盗をおこなった故をもって」当時の裁判所に引きだされた。(ヴィクトル・ユゴー(石川湧訳)『レ・ミゼラブル 1』角川文庫、1998年、136頁)。


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