≪漢字について その3≫
(2021年3月18日投稿)
前回までのブログでは、冨田健次先生の本(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年)に刺激を受けて、魚にまつわる漢字をみてきた。
次に、もう少しテーマを広げて、言語や漢字について考えてみたい。とりわけ、日本語の歴史や漢字の歴史に焦点をしぼって、まとめてみた。
【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】
フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
言語は決して言語のみで成立しているものでない。それを語る「人」がある。その「人」は着物を着、物を食い、結婚し、死んで葬られる存在であり、慣習の絆にしばられている。だから、言語は文化と複合して共存しているといえる。
日本語の歴史を文献的にたどった場合、さかのぼって8世紀まで、断片的には3世紀半ばまでの記録があるにすぎない。隣国朝鮮は、15世紀になって初めて自分たちの言語を自分たちの文字で記すことを始めた。蒙古語も13世紀の記録が古いとされる。琉球語は12世紀の資料までしかさかのぼれないといわれる。何千年の古さをもつ中国語は、日本語とは性格の異なる言語であるから、比較してもあまり意味がないとされる。
大野晋は、日本語の特徴として、次の事実を挙げている。
①日本語はアルタイ語(トルコ語、蒙古語、満州語、朝鮮語など)と文法的構造はかなりよく似ている。
②朝鮮語とは単語の上でも対応するらしいものがある。しかしそれは、200語前後である。
③古代日本語には、アルタイ語と共通な母音調和と呼ばれる現象がある。しかし、単語の上の対応は日本語とアルタイ語との間では極めて少ない。
④琉球語は日本語と同じ系統である。
⑤南方の言語には、日本語と文法的構造の非常に異なるものが多く、日本語と親戚関係にあると思われるものは、まだ見出されない。ただ、日本語と同じような、完全な母音終りを持ち、また、簡単な頭子音組織を持つ言語として、ポリネシア語・パプア語などがある。
⑥チベット語・ビルマ語は語順が日本語と似ている。しかし単語の対応は見出されない。
日本の最古の文献時代である8世紀の歌謡や、それ以後の物語によれば、日本は母系的な結婚の習俗が根強く行きわたっていた。また、女王や女の巫子(みこ)、太陽神の崇拝、神話の内容、神の観念において、古代日本文化に見られる南方的要素は時代をさかのぼるほど濃くなってくる。ところが、古墳時代以後、日本に対して優勢だったのは、北方シベリア的遊牧民族の文化である。そこには母系的な文化を見ることがない。すると、母系的な文化、つまり南方的文化要素はいつ日本に入って来たのかが問題となる。
この点、国語学者の大野晋は、弥生式文化期に入ったものと想定している。つまり、南方的な文化は、水田稲作や金属器、機織(はたおり)を持った弥生式文化によって圧倒され、下敷きにされ、やがて社会の下層へと追いやられたものと推測している。
弥生式文化の時代は、西暦紀元前3世紀くらいに始まり、紀元後3世紀まで続くが、この弥生式文化は、縄文式文化の生活を一変させる。大野は、この弥生式文化の時代に、それ以前の日本語がアルタイ語的な文法組織を持った言語に代えられると推測している。つまりこのように想定すると、文化史上の事実と言語の上の事実とが、よく調和するというのである(大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]、228頁~231頁)
【大野晋『日本語の年輪』新潮文庫はこちらから】
日本語の年輪 (新潮文庫)
漢字の歴史を辿ってみると、甲骨文字→金文→篆書→隷書→楷書という変遷がある。
殷代には、亀の甲や牛の骨に、占いに立ち会った巫(ふ)または史(し)(記録係)が小刀でその表面に甲骨文字を刻みつけた。今から3000年も前のことである。中国に生まれた漢字もまた、初めから神格化された性質を持っていたといわれる。つまり文字を介して、人間は神々と言葉を交わした。その意味で、文字は神からの使者である。神のお告げを聞くのに、古代中国の人々は、亀甲や獣骨を火で焼き、それによりできた割れ目を天意として文字に刻んだ。それが一般に甲骨文字と呼ばれる漢字の最初の姿であった。
紀元前11世紀の周代から春秋戦国時代にかけて青銅器に「金文」が刻まれた。その金文は甲骨文字を継承したものであった。紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一したとき、金文を継承して、標準の字体として「小篆(しょうてん)」(=篆書)を定めた。そして漢代に、篆書が直線化して隷書となり、後漢末から東晋にかけて、簡素化した楷書となったといわれる(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、4頁~6頁。鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、12頁)。
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漢字の話〈下〉 (朝日選書)
【鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書はこちらから】
百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)
漢字の読みには、呉音と漢音がある。例えば、「木」(き)という漢字は、樹木の形を簡単に描いた象形文字である。呉音読みの「モク」と、漢音読みの「ボク」がある。呉音は、6世紀、中国の南北朝時代に江南の宋王朝から日本に輸入された中国語である。それに対して、漢音は、7、8世紀になって洛陽や長安からはいってきた北方式の発音である。当時の長安では、本来mであったのをmbのように発音したそうだ。そのため、呉音と漢音の間に、例えば、木・目・米をモク・モク・マイ→ボク・ボク・ベイと発音する差が生じた(藤堂、1986年[1989年版]、65頁)
中国語学者藤堂明保(とうどうあきやす、1915-1985)は中国音韻学の権威であった。藤堂は、先の加納喜光の大学院時代の指導教官であり、加納はその弟子筋にあたる。藤堂は中国での上古音(『詩経』の時代の漢字の発音)の研究成果を利用して、漢字の字源の研究に進んだ。
その漢字研究の特質は、「単語家族(word family)という考え方にある。
これは、スウェーデンの言語学者B. カールグレン(Bernhard Karlgren)が最初に提唱した考え方である。つまり、古代の漢字の発音の研究成果を利用して、発音の似た語彙同士をいくつかのグループに分け、その核心に共通して存在する意味を抽出して、そこからそれぞれの文字の本義を系統的に考えていこうという方法である。
藤堂は、「字形はあくまで影法師」で、漢字の字源を考えるには、まず漢字の字音を整理して、文字の元となったことばの次元にまで戻らなければならないと考えた。
そして、ことばの系列ごとに共通する基本的な意味を抽出して、そこから各字の字義を考えなければならないというのである。つまり、藤堂の考え方は形声文字で同一の音符をもった文字群には共通する基本的な意味が想定できることがあるという「右文説(ゆうぶんせつ)」を発展させたものである。音符は通常では文字の右半分に配置されていることが多いことから、「右文説」といわれた。
たとえば、淺(水量が少ない)、錢(額面の小さなカネ)、賤(財産の少ない者)、殘(わずかに残った部分)の4字はいずれも「戔」を音符とする形声文字であるが、この一群のグループにはすべて「少ない、わずか」という共通の意味が見てとれると「右文説」では考える(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年、243頁~245頁)。
さて、藤堂明保は、『漢字の話 下』(朝日選書、1986年[1989年版])の「あとがきに代えて 漢字と日本語」(249頁~265頁)において、この呉音と漢音、そして宋音について、再度、まとめているので、それを紹介しておこう。
仏法や中国の制度とともに日本に伝わった6世紀の中国語は、揚子江の下流(かつての呉の地)の方言であったので、俗にそれを「呉音」と呼んだ。その後、630年から894年までに、延べ1000人を越える学生や僧侶が遣唐使として洛陽や長安に向かい、唐土の文物を吸収して戻ってきた。
ところが、洛陽は中国の北寄りの地、長安ははるか西北に偏していて、いわゆる「西北方言」が話されていた。それが唐代の都ことばとなったので、漢人の標準語という意味で「漢音」と呼ばれていた。南の呉音―北の漢音という異質な中国語が、二つの層となって日本に押し寄せた。呉音は6世紀の南の漢語をまね、漢音は7世紀以降9世紀までの西北漢語の発音をまねたものであった。
両者の発音はかなりの差があり、呉音では帯(t)タイと太(t’)タイ―大(d)ダイのように、漢語のdを日本語の濁音に訳している。ところが唐代長安では、この濁音が消えて清音に合流したので、遣唐使は清音を伝えた。大国(タイ)のように、澄んで読むのは漢音である。
遣唐使の伝えた漢音は、それ以前の呉音に比べて、大きな違いがある。例えば、
文=モン→ブン、美=ミ→ビ、万=マン→バン、男女=ナムニョ→ダムヂョ、人=ニン→ジン、然=ネン→ゼンで、前者が呉音で、後者が漢音である。また、二・爾・児は、呉音ではニ、漢音ではジと読む。
そして、聴聞=チャウモンは呉音だが、新聞=シンブンは漢音、老若=ラウニャクは呉音で、若少=ジャクセウは漢音である。小児=セウニは呉音、幼児=エウジは漢音である。
朝廷では、学生や僧侶に対して、「これより後は漢音を習え」と求めたが、すでに仏教語や生活用語として根をおろしていた漢語が存在した。例えば、地獄極楽(漢音ならチガクキョクラク)、毒(漢音ならトク)、肉(漢音ならジク)などは、にわかに変わるわけにはいかなかった。そして呉音と漢音は、日本語の中で長年にわたって星のつぶし合いを演じてきた歴史がある。
呉音―経文=キャウモン、成就=ジャウジュ、兄弟=キャウダイ、天井=テンジャウ
漢音―経籍=ケイセキ、成功=セイコウ、兄弟=ケイテイ、井田=セイデン
片や呉音は仏教語および古くから日本語にとけこんだ物の名、他方漢音はかたい漢文用語である。
これらに、更に、宋音が伝来した。遣唐使が中止になったのちにも、日本の僧たちは、北宋(都は開封)を訪れた。例えば、984年には東大寺の奝然(ちょうねん、?-1016)らが日本年代記をたずさえて北宋の太宗に謁見した。僧侶が伝えた中世の漢語は、今の北京語に似ており、それを「宋音」という。それは舶来の便利な道具の名や禅宗のことばに多いといわれる。
例えば、火榻(コタツ)の火=コ、和尚(ヲシャウ)の和=ヲ、庫裏(クリ)の庫=ク、栗鼠(リス)の鼠=ス、都合(ツゴフ)の都=ツが宋音として挙げられる。
宋音のもとになったのは今日の杭州や寧波あたりの「南宋官話」であって、そこでは漢音の「h濁音」を、母音のように発音したという。行という字は、呉音(濁ってギャウ)―漢音(清音でカウ)―宋音(母音的な響きをもち語尾をンと訳する→アン)のように三者三様の発音となって輸入された(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、250頁~255頁)。
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漢字の話〈下〉 (朝日選書)
【阿辻哲次『漢字の字源』はこちらから】
漢字の字源 (講談社現代新書)
中国と日本の漢字をくらべた際に、日本の漢字にはヤヌス性という特性がみられると、言語学者の鈴木孝夫は主張している。つまり、日本の漢字には、音と訓という二つの顔をもつというのである。このことは、鈴木孝夫の講演「漢字のあまり知られていない特性について」(昭和49年[1974年]第16回国語問題講演会)において述べたことであった(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、192頁~214頁に所収)。
日本語の中で使われている漢字というものはヤヌス性を持っていると鈴木が言う際に、そのヤヌスとは何か。
ヤヌスというのはローマの神様で、前と後に二つ顔がある不思議な神様である。なぜ一つの神様で二つの顔があるのか。その理由の一つに月の名を考えてみるとよくわかる。例えば、1月、2月というときに、1月がジャニュアリーと英語でいうのは、実は1月という月が、半分は今年を向いているけれども、半分は去年を向いていて、丁度境目だからヤヌス(Janus)の神の月だというのでつけられたことを想起すればよいと鈴木は解説している。
日本語にはいっている漢字はヤヌス的二重性がある点で、中国の漢字とはっきり違っていると鈴木はいう。中国の漢字にはそれがなく、一つの漢字は一つの字体、意味を持っていて、原則として一つの音しかない。
ところが、日本語では、一つの漢字を取ると、それに原則として一つの訓が対応する。もちろん音しかないものや訓しかないものも数は少ないけれどもある。しかし訓と音がある普通の日本人が使う漢字が2000もある。これが日本人の概念の二重音声化と鈴木が称している特徴である。
漢字の音とは、音声だけでは自立していない。日本語の漢字の音というのは、音声と文字とを融合して初めて日本人の意識の中で成り立つ。ケンと言っても、犬と書けばイヌだとなるわけである。そうでなければケンは剣でもあるかもしれず、色々な選択がある。ところがイヌは文字がなくてもイヌなのである。しかし、ケンは犬という文字と結びついて初めて意味がある。大事なことは、犬と書いて、それをイヌともケンとも読むことである。この漢字をつなぎとしての音と訓の融合関係を切ってしまったら大変なことになる。日本語において漢字を廃止したとすると、ケンとイヌは意味の上では犬に対応するけれども、日本人の日常の言語意識の中では、ケンはすなわちイヌという相通関係、融通性がとぎれてしまう。
そうすると、ヨーロッパにおける高級な言葉と、ほぼ同じ構造になってしまうという。ヨーロッパ語においては、新しい概念的な言葉を作るときに、ギリシャ語やラテン語を、日本語が中国の古典語を使うように、使う。例えば、hydrogenという水素を意味する単語がある。新聞にも出てくるので、イギリスやアメリカの、特別教養のない人でも、ハイドロジェンは水素だと知っている。同じような意味で、日本人も水素が何であるかは知っているという。
ところが漢字のヤヌス的二重性によって、日本人はそれが「水(みず)の素(もと)」だというように翻訳することができる。だから、水素という言葉を知らなかった人も、これは水の原料だと察することができる。
ところが、ハイドロジェンという言葉を初めて見たイギリス人やアメリカ人は、その意味を察することもできないという。これは一種の気体で、火をつけると爆発する危険なものだと教えられて、全体としてハイドロジェンと呼ぶことができるのだということしか解らないそうだ。ハイドロとは、ギリシャ語で「水」、ジェンというのは「生む」という意味であるから、例えば、英語でウォーター・ベアリングというように、普通の人が読めれば「水の素」と同じレヴェルにくるのだが、日本人が水素を水(みず)の素(もと)と読めるのに対し、イギリス人やアメリカ人はハイドロジェンは飽くまでハイドロジェンであって、一部の高等教育を受けた人のみが、ギリシャ語で、ハイドロは水のことで、ジェンは「生まれるに関係した」というようなことが解るのだと鈴木は解説している。
だから、ヨーロッパにおいては、難しいギリシャ語やラテン語から由来した高等な語彙は、町の人には縁が遠いという。It’s Greek to me.(それはギリシャ語だ)という表現があり、これは「私には解らない」という意味である(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、201頁~204頁)、
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ことばの人間学 (新潮文庫)
「あとがきに代えて 漢字と日本語」と題して、藤堂は借用された漢語のうち、とくに仏教用語は、日本ふうにおもしろい意味に転用されたものが多いという。たとえば、次のような例を挙げている。
①僧の袈裟=ケサ→大げさな話
②密教の行者の吹く法螺→ほら吹き
③本堂のわきの坊に住む僧侶(坊主)→小ぼうずめ
④摩訶不思議→ばかなはなし
⑤客人を接待するため馳せまわる→ご馳走
⑥禅僧が寺門で押し問答する=挨拶→ごあいさつ
⑦寺を建てるため、あまねく寄金を請う=普請、宋音でフシン→家を普請する
中国人の漢語常識から見ると、おもしろい転用だと思われるようだ。ちょっと漢語とは思われないことばにも、漢語から借用されたものがある。
①「チャキチャキの江戸っ子」という言い方は、嫡流・嫡子の嫡(本すじ・直系)という漢語の呉音読みである。
②「アダっぽい女」という言い方は、漢語では、『詩経』の時代から隋唐にかけて、委蛇・委移・阿那などと書かれる形容詞であった。上古には、委をア(ワ)、蛇や移をダと読んだから、委蛇は阿那(アダ)と書くのと同じことで、「くねくねしてしなやかなさま」を表した。それを受けたのが、日本語に借用されたアダであり、平安朝の人が唐代の軟文学から借用したものであるという。
③「モッタイナイ」は、「物体(または物態)なし」という漢語から来たもので、もとは「物のあるべき姿もない、さまにならない」という意味である。「そうなっては惜しい」と、いうことから、日本で意味をずらせたものである。
④「ケッタイなこと」は、漢語の怪態(呉音でケタイ)から来たものである。
(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、259頁~260頁)。
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漢字の話〈下〉 (朝日選書)
日本語の漢字の読みの難しさは、「沈丁花」一つとってみてもよくわかる。これは難読漢字の部類に属するようである。正しくは「じんちょうげ」であり、「沈没」「沈黙」のように「沈」を「ちん」と読んで、「ちんちょうげ」と読むのは誤りである。
こともあろうに、ユーミンがこの誤読をやってしまった。わが尊敬すべき“ニューミュージックの女王”が“弘法にも筆の誤り”のような間違いをしてしまった。しかもあの名曲「春よ、来い」の中で、「ちんちょうげ」と歌詞で使っている。これも、漢音「ちん」と呉音「じん」の違いから生じた誤読である。
ともあれ、ユーミンの「春よ、来い」は文語調で日本の情緒を描き出した名曲であるが、日本的情緒を歌った名曲として、山口百恵の「いい日旅立ち」という、アリスの谷村新司の作詞・作曲の歌がある。
「雪解け 間近の 北の空に向い
過ぎ去りし日々の夢を 叫ぶ時」という歌いだしである。この名曲も「過ぎ去りし日々」と文語調の歌詞を用いている。
それはそれとしても、歌詞の内容を吟味してみると、疑問に思える点がある。それは2番の歌詞の「いい日旅立ち 羊雲(ひつじぐも)をさがしに 父が教えてくれた 歌を道連れに」という部分である。
この部分は1番の歌詞の「いい日旅立ち 夕焼けをさがしに 母の背中で聞いた 歌を道連れに」の部分に対応し、いわば対句的に綴られている箇所である。この2番の歌詞のどこが疑問かといえば、「羊雲をさがしに」という部分である。
作詞した谷村新司は羊雲の天候的予兆について果たして知っていたのであろうかという疑問がわく。つまり羊雲は、高積雲の別名で、一つ一つの雲が牧場で群れる羊のように見える雲のことで、「羊雲が出ると翌日は雨」ということわざがある。わざわざ雨が降るような地方を探し求めて、一人の女性が旅をするのであろうか。もちろん、雨の風情が似合う地域もある。たとえば京都や長崎がその代表であろうが、それにしても雨が降ることを期待して、それを探しにゆく旅というのは、どうも腑に落ちない。
ともあれ、百恵ちゃんに教えてあげたい。「羊雲が出ると翌日は雨」ということわざがあり、羊雲は天気が下り坂に向かうことが多いので、旅行には向きませんよと。どうしても旅に出るというのなら、傘を持っていってと。
もっとも、この歌が流行したのは1978年で、今からもう43年も前のことであるが。
漢字の読みや日本語のことを述べているうちに、横道に逸れてしまったので、本題に戻ろう。
(2021年3月18日投稿)
【はじめに】
前回までのブログでは、冨田健次先生の本(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年)に刺激を受けて、魚にまつわる漢字をみてきた。
次に、もう少しテーマを広げて、言語や漢字について考えてみたい。とりわけ、日本語の歴史や漢字の歴史に焦点をしぼって、まとめてみた。
【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】
フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
<その3>
・日本語の歴史について
・漢字の歴史について
・漢字の呉音と漢音について
・藤堂明保の漢字研究について
・日本の漢字のヤヌス性について
・借用された漢字について
・呉音と漢音について―その2―
・日本の風土と勘違いの歌詞について
日本語の歴史について
言語は決して言語のみで成立しているものでない。それを語る「人」がある。その「人」は着物を着、物を食い、結婚し、死んで葬られる存在であり、慣習の絆にしばられている。だから、言語は文化と複合して共存しているといえる。
日本語の歴史を文献的にたどった場合、さかのぼって8世紀まで、断片的には3世紀半ばまでの記録があるにすぎない。隣国朝鮮は、15世紀になって初めて自分たちの言語を自分たちの文字で記すことを始めた。蒙古語も13世紀の記録が古いとされる。琉球語は12世紀の資料までしかさかのぼれないといわれる。何千年の古さをもつ中国語は、日本語とは性格の異なる言語であるから、比較してもあまり意味がないとされる。
大野晋は、日本語の特徴として、次の事実を挙げている。
①日本語はアルタイ語(トルコ語、蒙古語、満州語、朝鮮語など)と文法的構造はかなりよく似ている。
②朝鮮語とは単語の上でも対応するらしいものがある。しかしそれは、200語前後である。
③古代日本語には、アルタイ語と共通な母音調和と呼ばれる現象がある。しかし、単語の上の対応は日本語とアルタイ語との間では極めて少ない。
④琉球語は日本語と同じ系統である。
⑤南方の言語には、日本語と文法的構造の非常に異なるものが多く、日本語と親戚関係にあると思われるものは、まだ見出されない。ただ、日本語と同じような、完全な母音終りを持ち、また、簡単な頭子音組織を持つ言語として、ポリネシア語・パプア語などがある。
⑥チベット語・ビルマ語は語順が日本語と似ている。しかし単語の対応は見出されない。
日本の最古の文献時代である8世紀の歌謡や、それ以後の物語によれば、日本は母系的な結婚の習俗が根強く行きわたっていた。また、女王や女の巫子(みこ)、太陽神の崇拝、神話の内容、神の観念において、古代日本文化に見られる南方的要素は時代をさかのぼるほど濃くなってくる。ところが、古墳時代以後、日本に対して優勢だったのは、北方シベリア的遊牧民族の文化である。そこには母系的な文化を見ることがない。すると、母系的な文化、つまり南方的文化要素はいつ日本に入って来たのかが問題となる。
この点、国語学者の大野晋は、弥生式文化期に入ったものと想定している。つまり、南方的な文化は、水田稲作や金属器、機織(はたおり)を持った弥生式文化によって圧倒され、下敷きにされ、やがて社会の下層へと追いやられたものと推測している。
弥生式文化の時代は、西暦紀元前3世紀くらいに始まり、紀元後3世紀まで続くが、この弥生式文化は、縄文式文化の生活を一変させる。大野は、この弥生式文化の時代に、それ以前の日本語がアルタイ語的な文法組織を持った言語に代えられると推測している。つまりこのように想定すると、文化史上の事実と言語の上の事実とが、よく調和するというのである(大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]、228頁~231頁)
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日本語の年輪 (新潮文庫)
漢字の歴史について
漢字の歴史を辿ってみると、甲骨文字→金文→篆書→隷書→楷書という変遷がある。
殷代には、亀の甲や牛の骨に、占いに立ち会った巫(ふ)または史(し)(記録係)が小刀でその表面に甲骨文字を刻みつけた。今から3000年も前のことである。中国に生まれた漢字もまた、初めから神格化された性質を持っていたといわれる。つまり文字を介して、人間は神々と言葉を交わした。その意味で、文字は神からの使者である。神のお告げを聞くのに、古代中国の人々は、亀甲や獣骨を火で焼き、それによりできた割れ目を天意として文字に刻んだ。それが一般に甲骨文字と呼ばれる漢字の最初の姿であった。
紀元前11世紀の周代から春秋戦国時代にかけて青銅器に「金文」が刻まれた。その金文は甲骨文字を継承したものであった。紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一したとき、金文を継承して、標準の字体として「小篆(しょうてん)」(=篆書)を定めた。そして漢代に、篆書が直線化して隷書となり、後漢末から東晋にかけて、簡素化した楷書となったといわれる(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、4頁~6頁。鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、12頁)。
【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】
漢字の話〈下〉 (朝日選書)
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百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)
漢字の呉音と漢音について
漢字の読みには、呉音と漢音がある。例えば、「木」(き)という漢字は、樹木の形を簡単に描いた象形文字である。呉音読みの「モク」と、漢音読みの「ボク」がある。呉音は、6世紀、中国の南北朝時代に江南の宋王朝から日本に輸入された中国語である。それに対して、漢音は、7、8世紀になって洛陽や長安からはいってきた北方式の発音である。当時の長安では、本来mであったのをmbのように発音したそうだ。そのため、呉音と漢音の間に、例えば、木・目・米をモク・モク・マイ→ボク・ボク・ベイと発音する差が生じた(藤堂、1986年[1989年版]、65頁)
藤堂明保の漢字研究について
中国語学者藤堂明保(とうどうあきやす、1915-1985)は中国音韻学の権威であった。藤堂は、先の加納喜光の大学院時代の指導教官であり、加納はその弟子筋にあたる。藤堂は中国での上古音(『詩経』の時代の漢字の発音)の研究成果を利用して、漢字の字源の研究に進んだ。
その漢字研究の特質は、「単語家族(word family)という考え方にある。
これは、スウェーデンの言語学者B. カールグレン(Bernhard Karlgren)が最初に提唱した考え方である。つまり、古代の漢字の発音の研究成果を利用して、発音の似た語彙同士をいくつかのグループに分け、その核心に共通して存在する意味を抽出して、そこからそれぞれの文字の本義を系統的に考えていこうという方法である。
藤堂は、「字形はあくまで影法師」で、漢字の字源を考えるには、まず漢字の字音を整理して、文字の元となったことばの次元にまで戻らなければならないと考えた。
そして、ことばの系列ごとに共通する基本的な意味を抽出して、そこから各字の字義を考えなければならないというのである。つまり、藤堂の考え方は形声文字で同一の音符をもった文字群には共通する基本的な意味が想定できることがあるという「右文説(ゆうぶんせつ)」を発展させたものである。音符は通常では文字の右半分に配置されていることが多いことから、「右文説」といわれた。
たとえば、淺(水量が少ない)、錢(額面の小さなカネ)、賤(財産の少ない者)、殘(わずかに残った部分)の4字はいずれも「戔」を音符とする形声文字であるが、この一群のグループにはすべて「少ない、わずか」という共通の意味が見てとれると「右文説」では考える(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年、243頁~245頁)。
さて、藤堂明保は、『漢字の話 下』(朝日選書、1986年[1989年版])の「あとがきに代えて 漢字と日本語」(249頁~265頁)において、この呉音と漢音、そして宋音について、再度、まとめているので、それを紹介しておこう。
仏法や中国の制度とともに日本に伝わった6世紀の中国語は、揚子江の下流(かつての呉の地)の方言であったので、俗にそれを「呉音」と呼んだ。その後、630年から894年までに、延べ1000人を越える学生や僧侶が遣唐使として洛陽や長安に向かい、唐土の文物を吸収して戻ってきた。
ところが、洛陽は中国の北寄りの地、長安ははるか西北に偏していて、いわゆる「西北方言」が話されていた。それが唐代の都ことばとなったので、漢人の標準語という意味で「漢音」と呼ばれていた。南の呉音―北の漢音という異質な中国語が、二つの層となって日本に押し寄せた。呉音は6世紀の南の漢語をまね、漢音は7世紀以降9世紀までの西北漢語の発音をまねたものであった。
両者の発音はかなりの差があり、呉音では帯(t)タイと太(t’)タイ―大(d)ダイのように、漢語のdを日本語の濁音に訳している。ところが唐代長安では、この濁音が消えて清音に合流したので、遣唐使は清音を伝えた。大国(タイ)のように、澄んで読むのは漢音である。
遣唐使の伝えた漢音は、それ以前の呉音に比べて、大きな違いがある。例えば、
文=モン→ブン、美=ミ→ビ、万=マン→バン、男女=ナムニョ→ダムヂョ、人=ニン→ジン、然=ネン→ゼンで、前者が呉音で、後者が漢音である。また、二・爾・児は、呉音ではニ、漢音ではジと読む。
そして、聴聞=チャウモンは呉音だが、新聞=シンブンは漢音、老若=ラウニャクは呉音で、若少=ジャクセウは漢音である。小児=セウニは呉音、幼児=エウジは漢音である。
朝廷では、学生や僧侶に対して、「これより後は漢音を習え」と求めたが、すでに仏教語や生活用語として根をおろしていた漢語が存在した。例えば、地獄極楽(漢音ならチガクキョクラク)、毒(漢音ならトク)、肉(漢音ならジク)などは、にわかに変わるわけにはいかなかった。そして呉音と漢音は、日本語の中で長年にわたって星のつぶし合いを演じてきた歴史がある。
呉音―経文=キャウモン、成就=ジャウジュ、兄弟=キャウダイ、天井=テンジャウ
漢音―経籍=ケイセキ、成功=セイコウ、兄弟=ケイテイ、井田=セイデン
片や呉音は仏教語および古くから日本語にとけこんだ物の名、他方漢音はかたい漢文用語である。
これらに、更に、宋音が伝来した。遣唐使が中止になったのちにも、日本の僧たちは、北宋(都は開封)を訪れた。例えば、984年には東大寺の奝然(ちょうねん、?-1016)らが日本年代記をたずさえて北宋の太宗に謁見した。僧侶が伝えた中世の漢語は、今の北京語に似ており、それを「宋音」という。それは舶来の便利な道具の名や禅宗のことばに多いといわれる。
例えば、火榻(コタツ)の火=コ、和尚(ヲシャウ)の和=ヲ、庫裏(クリ)の庫=ク、栗鼠(リス)の鼠=ス、都合(ツゴフ)の都=ツが宋音として挙げられる。
宋音のもとになったのは今日の杭州や寧波あたりの「南宋官話」であって、そこでは漢音の「h濁音」を、母音のように発音したという。行という字は、呉音(濁ってギャウ)―漢音(清音でカウ)―宋音(母音的な響きをもち語尾をンと訳する→アン)のように三者三様の発音となって輸入された(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、250頁~255頁)。
【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】
漢字の話〈下〉 (朝日選書)
【阿辻哲次『漢字の字源』はこちらから】
漢字の字源 (講談社現代新書)
日本の漢字のヤヌス性について
中国と日本の漢字をくらべた際に、日本の漢字にはヤヌス性という特性がみられると、言語学者の鈴木孝夫は主張している。つまり、日本の漢字には、音と訓という二つの顔をもつというのである。このことは、鈴木孝夫の講演「漢字のあまり知られていない特性について」(昭和49年[1974年]第16回国語問題講演会)において述べたことであった(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、192頁~214頁に所収)。
日本語の中で使われている漢字というものはヤヌス性を持っていると鈴木が言う際に、そのヤヌスとは何か。
ヤヌスというのはローマの神様で、前と後に二つ顔がある不思議な神様である。なぜ一つの神様で二つの顔があるのか。その理由の一つに月の名を考えてみるとよくわかる。例えば、1月、2月というときに、1月がジャニュアリーと英語でいうのは、実は1月という月が、半分は今年を向いているけれども、半分は去年を向いていて、丁度境目だからヤヌス(Janus)の神の月だというのでつけられたことを想起すればよいと鈴木は解説している。
日本語にはいっている漢字はヤヌス的二重性がある点で、中国の漢字とはっきり違っていると鈴木はいう。中国の漢字にはそれがなく、一つの漢字は一つの字体、意味を持っていて、原則として一つの音しかない。
ところが、日本語では、一つの漢字を取ると、それに原則として一つの訓が対応する。もちろん音しかないものや訓しかないものも数は少ないけれどもある。しかし訓と音がある普通の日本人が使う漢字が2000もある。これが日本人の概念の二重音声化と鈴木が称している特徴である。
漢字の音とは、音声だけでは自立していない。日本語の漢字の音というのは、音声と文字とを融合して初めて日本人の意識の中で成り立つ。ケンと言っても、犬と書けばイヌだとなるわけである。そうでなければケンは剣でもあるかもしれず、色々な選択がある。ところがイヌは文字がなくてもイヌなのである。しかし、ケンは犬という文字と結びついて初めて意味がある。大事なことは、犬と書いて、それをイヌともケンとも読むことである。この漢字をつなぎとしての音と訓の融合関係を切ってしまったら大変なことになる。日本語において漢字を廃止したとすると、ケンとイヌは意味の上では犬に対応するけれども、日本人の日常の言語意識の中では、ケンはすなわちイヌという相通関係、融通性がとぎれてしまう。
そうすると、ヨーロッパにおける高級な言葉と、ほぼ同じ構造になってしまうという。ヨーロッパ語においては、新しい概念的な言葉を作るときに、ギリシャ語やラテン語を、日本語が中国の古典語を使うように、使う。例えば、hydrogenという水素を意味する単語がある。新聞にも出てくるので、イギリスやアメリカの、特別教養のない人でも、ハイドロジェンは水素だと知っている。同じような意味で、日本人も水素が何であるかは知っているという。
ところが漢字のヤヌス的二重性によって、日本人はそれが「水(みず)の素(もと)」だというように翻訳することができる。だから、水素という言葉を知らなかった人も、これは水の原料だと察することができる。
ところが、ハイドロジェンという言葉を初めて見たイギリス人やアメリカ人は、その意味を察することもできないという。これは一種の気体で、火をつけると爆発する危険なものだと教えられて、全体としてハイドロジェンと呼ぶことができるのだということしか解らないそうだ。ハイドロとは、ギリシャ語で「水」、ジェンというのは「生む」という意味であるから、例えば、英語でウォーター・ベアリングというように、普通の人が読めれば「水の素」と同じレヴェルにくるのだが、日本人が水素を水(みず)の素(もと)と読めるのに対し、イギリス人やアメリカ人はハイドロジェンは飽くまでハイドロジェンであって、一部の高等教育を受けた人のみが、ギリシャ語で、ハイドロは水のことで、ジェンは「生まれるに関係した」というようなことが解るのだと鈴木は解説している。
だから、ヨーロッパにおいては、難しいギリシャ語やラテン語から由来した高等な語彙は、町の人には縁が遠いという。It’s Greek to me.(それはギリシャ語だ)という表現があり、これは「私には解らない」という意味である(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、201頁~204頁)、
【鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫はこちらから】
ことばの人間学 (新潮文庫)
借用された漢字について
「あとがきに代えて 漢字と日本語」と題して、藤堂は借用された漢語のうち、とくに仏教用語は、日本ふうにおもしろい意味に転用されたものが多いという。たとえば、次のような例を挙げている。
①僧の袈裟=ケサ→大げさな話
②密教の行者の吹く法螺→ほら吹き
③本堂のわきの坊に住む僧侶(坊主)→小ぼうずめ
④摩訶不思議→ばかなはなし
⑤客人を接待するため馳せまわる→ご馳走
⑥禅僧が寺門で押し問答する=挨拶→ごあいさつ
⑦寺を建てるため、あまねく寄金を請う=普請、宋音でフシン→家を普請する
中国人の漢語常識から見ると、おもしろい転用だと思われるようだ。ちょっと漢語とは思われないことばにも、漢語から借用されたものがある。
①「チャキチャキの江戸っ子」という言い方は、嫡流・嫡子の嫡(本すじ・直系)という漢語の呉音読みである。
②「アダっぽい女」という言い方は、漢語では、『詩経』の時代から隋唐にかけて、委蛇・委移・阿那などと書かれる形容詞であった。上古には、委をア(ワ)、蛇や移をダと読んだから、委蛇は阿那(アダ)と書くのと同じことで、「くねくねしてしなやかなさま」を表した。それを受けたのが、日本語に借用されたアダであり、平安朝の人が唐代の軟文学から借用したものであるという。
③「モッタイナイ」は、「物体(または物態)なし」という漢語から来たもので、もとは「物のあるべき姿もない、さまにならない」という意味である。「そうなっては惜しい」と、いうことから、日本で意味をずらせたものである。
④「ケッタイなこと」は、漢語の怪態(呉音でケタイ)から来たものである。
(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、259頁~260頁)。
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漢字の話〈下〉 (朝日選書)
呉音と漢音について―その2―
日本語の漢字の読みの難しさは、「沈丁花」一つとってみてもよくわかる。これは難読漢字の部類に属するようである。正しくは「じんちょうげ」であり、「沈没」「沈黙」のように「沈」を「ちん」と読んで、「ちんちょうげ」と読むのは誤りである。
こともあろうに、ユーミンがこの誤読をやってしまった。わが尊敬すべき“ニューミュージックの女王”が“弘法にも筆の誤り”のような間違いをしてしまった。しかもあの名曲「春よ、来い」の中で、「ちんちょうげ」と歌詞で使っている。これも、漢音「ちん」と呉音「じん」の違いから生じた誤読である。
日本の風土と勘違いの歌詞について
ともあれ、ユーミンの「春よ、来い」は文語調で日本の情緒を描き出した名曲であるが、日本的情緒を歌った名曲として、山口百恵の「いい日旅立ち」という、アリスの谷村新司の作詞・作曲の歌がある。
「雪解け 間近の 北の空に向い
過ぎ去りし日々の夢を 叫ぶ時」という歌いだしである。この名曲も「過ぎ去りし日々」と文語調の歌詞を用いている。
それはそれとしても、歌詞の内容を吟味してみると、疑問に思える点がある。それは2番の歌詞の「いい日旅立ち 羊雲(ひつじぐも)をさがしに 父が教えてくれた 歌を道連れに」という部分である。
この部分は1番の歌詞の「いい日旅立ち 夕焼けをさがしに 母の背中で聞いた 歌を道連れに」の部分に対応し、いわば対句的に綴られている箇所である。この2番の歌詞のどこが疑問かといえば、「羊雲をさがしに」という部分である。
作詞した谷村新司は羊雲の天候的予兆について果たして知っていたのであろうかという疑問がわく。つまり羊雲は、高積雲の別名で、一つ一つの雲が牧場で群れる羊のように見える雲のことで、「羊雲が出ると翌日は雨」ということわざがある。わざわざ雨が降るような地方を探し求めて、一人の女性が旅をするのであろうか。もちろん、雨の風情が似合う地域もある。たとえば京都や長崎がその代表であろうが、それにしても雨が降ることを期待して、それを探しにゆく旅というのは、どうも腑に落ちない。
ともあれ、百恵ちゃんに教えてあげたい。「羊雲が出ると翌日は雨」ということわざがあり、羊雲は天気が下り坂に向かうことが多いので、旅行には向きませんよと。どうしても旅に出るというのなら、傘を持っていってと。
もっとも、この歌が流行したのは1978年で、今からもう43年も前のことであるが。
漢字の読みや日本語のことを述べているうちに、横道に逸れてしまったので、本題に戻ろう。
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